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 さわやかな朝の陽射しが窓から差し込んでいる。

 

 空腹とともに目覚めたユリウスは、いつになく窮屈に感じた。狭いベッドの隣には、レオニードのあらわになった厚い胸が呼吸に合わせて上下しているのが見えた。ユリウスが彼の寝顔を見るのは初めてだ。そのハンサムで穏やかな寝顔に思わず見入ってしまった。

 

 前日は、ずいぶんと泣いた。おなかの子どものことがきっかけだったが、一人暮らしや妊娠の不安や心細さなど、これまで泣くのをこらえてきたことも一気に噴出したようだった。泣き疲れたユリウスは、安心感も手伝って強烈な眠気におそわれ、そのまま横になろうとした。だが、レオニードに何か食べるように言われて、パンとチーズを口に入れてからベッドに倒れ込んだ。そして、ふにゃふにゃした声で、レオニードもいっしょに、と言い残し、すうっと寝入ってしまったのだ。

 

 レオニードは、狭苦しいベッドのうえでユリウスの寝息を聞きながら男の欲望と闘っていたに違いない。そんなことを想像していると、ブランシュがいつものようにユリウスの顔に片方の前足をのせて、起きて起きてと催促してきた。ユリウスもいつもどおりブランシュと握手をして起きた。一仕事終えたブランシュは、次にはレオニードの顔に足をのせ始めた。

 

 レオニードが薄目を開けて、勘弁してくれ、というようにブランシュの無邪気な攻撃をかわそうと顔を左右に動かしたが、ブランシュは左右の前足をかわるがわる顔にのせ続ける。レオニードが上半身を起こしても、ブランシュは彼との握手をあきらめない。そんな様子を、ユリウスはくすくすと笑いながら見ていた。レオニードがユリウスの言われたとおりに握手をしてやると、ようやくブランシュは満足した。

 

 これが朝の習慣か、とこぼすレオニードにユリウスは、そうだよ、と微笑んで彼の頬にキスをした。すると、次の瞬間には、ユリウスは彼のひざのうえで激しいキスを受けていた。やがてレオニードの手がユリウスの胸をつかみ、唇がユリウスの首筋を這い始めた。ユリウスは彼の感触にうっとりした。しばらくすると彼の動きが止まり、ユリウスはぎゅっと抱きしめられた。拷問に等しいな、とつぶやくレオニードは、男の欲望を必死に抑えているようだった。

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 お茶をいれ、二人でパンの残りとチーズだけの朝食をとった。ユリウスにとっては、フランクフルトで母親と暮らしていたときと同じようなものだが、何一つ不自由なく育ったであろうレオニードが、こんな質素な食事に驚きもせず不平も言わないのにユリウスは感心した。レオニードは、子どものころに祖父から鍛えられたからな、と言って小さく笑った。

 

 人間たちの慎ましやかな食事とは対照的に、犬のブランシュはごちそうにありついていた。前日にレオニードがブランシュを手なずけようと骨を与えていたのだ。

 

 もちろんレオニードはユリウスにもささやかな手土産を用意していた。ユスーポフ家自慢の焼き菓子だ。口にふくむと、自家製の発酵バターの芳醇な香りとジャムの甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。ユリウスはよほど嬉しそうな顔をしていたに違いない。

 

 「宝石よりも菓子のほうが喜ばれるとはな」

 

 満足そうに焼き菓子をほおばるユリウスの頬を、レオニードがからかうようにつついた。こんな菓子を持ってくるとは、レオニードもなかなかの策士かもしれない。

 

 

 

 

 アパートの管理人や会社にユリウスがあいさつに行くと、驚くことに、すでに話がついていた。その後、二人でクレムリン周辺を軽く散策し、ペテルスブルク行きの夜行列車に乗りこんだ。

 

 ユリウスたちが乗った特別車両は一車両がまるまる二人の専用で、ソファやダイニングテーブル、デスク、広々としたベッドがトルクメンの絨毯のうえに置かれ、なんと犬用の寝床まで用意されていた。加えて、ユスーポフ邸の使用人たち数人が、別の専用車両で待機していた。二人に料理を提供するためだけに、ユスーポフ邸の料理人助手も乗りこんでおり、すばらしい夕食を出してくれた。

 

 ユリウスがデザートをたいらげ、くつろいだころを見計らったように、思いもよらないことをレオニードが尋ねた。ユリウスの男装の理由やアーレンスマイヤ家の不幸な出来事などについてだ。

 

 ユリウスの目に驚愕の色が浮かび、顔色がさっと変わった。ついさきほどまで機嫌がよかったのに、貝のように口を閉ざしてしまった。

 

 「ユリウス、私はおまえを守りたいのだ。だから、包みかくさず真実を話してくれ」

 

 レオニードはアーレンスマイヤ家の数々の不幸は偶然ではないと考えていた。ユリウスを守るためには事実を把握する必要がある。

 

 しばらくしてから、ユリウスは決心したようだ。

 

 「母さまが財産を手に入れるためだったの」

 

 ユリウスは、男として育てられた経緯をぽつぽつと話し出した。次に、レオニードがアーレンスマイヤ家の不幸について尋ねると、とたんにユリウスの表情がかたくなった。

 

 「あの悪魔が、ゲルトルートを殺して、母さままで…」

 

 ユリウスが思いつくまま脈絡もなく話すので、的確な報告に慣れたレオニードには混乱する箇所もあった。特に、なんとかという窓の話がからむと、よけいに煩雑になった。だが、レオニードは簡単な質問をする以外は黙って耳を傾けた。悪魔とはユリウスの異母姉のことで、主に彼女が数々の厄災をもたらしたようだ。

 

  「それで、彼女が毒入りの紅茶を飲んだあと、わたしは家を出たのです」

 

 レオニードは、血のつながった身内さえ手にかけた異母姉の所業について、にわかには信じられなかったが、その話が真実ならば、ユリウスは結果的にその女から財産を守ったことになる。だが、その女の遺体はなかったはずだ。

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 ユリウスを苦しめた出来事はほぼ分かったが、レオニードにはまだ疑問が残っていた。

 

 「雪の日に何があった?以前は雪におびえていたが」

 

 その瞬間、ユリウスの顔がひきつり、席を立って離れようとしたが、レオニードがとっさにその手をつかまえた。動く車内に逃げ場はない。

 

 レオニードは、いやいやと頭をふるユリウスを抱きしめて、背中をやさしくなでながらソファに座らせた。そして、彼もまたその隣に腰かけ、彼女の肩をそっと抱き手を握った。

 

 「おまえを守るためだ。信じてほしい」

 

 レオニードは、むせび泣くユリウスに繰り返し言った。ユリウスは、とうとう告白した。

 

 「雪の日、あの男が、母さまに乱暴しようとしたから、殺して、埋めた…」

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 嗚咽し震えながら話すユリウスの手を握りながら、レオニードは詳細を促した。

 

 あの男とはヤーンというニセ医者で、ユリウスの母親をそそのかして、ユリウスを男に仕立てさせた男だ。その男が母親に乱暴しようとしたので、ペーパーナイフで後ろから突いたところ急所に命中したらしい。ユリウスは、そのときの殺人のショックと罪悪感に苛まれていた。

 

 「母親が襲われているのに、黙って見ている息子がいるものか。そんな者は男ではない。私がおまえの立場でも同じことをしただろう」

 

 ユリウスは思わず顔をあげて、レオニードを見つめた。

 

 「死んだのは事故だ。おまえは、あたりまえのことをしたのだ」

 

 きっぱりと断言するレオニードに、ユリウスはしばらく声もなかった。

 

  「よく話してくれた。もう安心して眠りなさい」

 

 レオニードはそう言うと、使用人を呼んでユリウスを着替えさせ、最後におやすみのキスをした。

 

 事態は想像していたよりも複雑だ。いくぶんかしてから、レオニードも寝支度をして、寝息をたてているユリウスの隣に横になった。

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