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 「もしかして、以前どこかでお会いしませんでしたか」

 

 そう言って、ユリウスに言い寄ってくる男もいるが、確かにどこかで見たことのある顔だった。三十歳代のまじめな感じの軍人で、いつものように軽くあしらっていい相手ではなさそうだ。

 

 お互いに首をひねっていると、その男性が明るい声を出した。

 

 「ユスーポフ侯爵殿の付添をされていた方ではありませんか。きれいな方だったので、印象に残っていたんですよ」

 

 レオニードの見舞いにやってきた、あの豪快な中将に従っていた士官だった。

 

 休暇でモスクワにいる両親に会いに来ており、その日は妻への贈物を求めに来店したのだという。あのユスーポフ侯爵の付添をしていた女性が、香水の売り子をしているのを不思議に思ったらしい。ユリウスに質問を浴びせようとしたが、ユリウスは、結婚のためにモスクワに来たと話しただけだ。嘘ではないが、それ以上は口をつぐんでしまった。

 

 

 

 このころ、このまま結婚していいのかユリウスは迷いのなかにいた。

 

 おなかのなかの生命を感じるたびに、愛情が増してくる。この子には、いい人生を歩んでほしいと切に思う。そのためには父親が必要だ。だが、根が正直なユリウスは、自分がしていることに罪悪感を覚えている。隠すことと嘘をつくことは別だ、とユリウスは自分に言い聞かせたが、世間を欺いて生きていたころの苦しみが思い出された。

 

 ――それに、もし自分の子ではないことが、相手に知られたら?

 

 良心との葛藤のすえに勇気をもって事情を求婚者に話した。もしかしたら、というわずかな期待がかなうこともなく、予想どおり相手は怒りだして破談になったが、困っているユリウスが正直に話したことに配慮して、口外しないでくれるという。

 

 

 

 

 幸いにも後遺症もなく回復し軍務に戻ったレオニードは、難攻不落とさえ思われる旧態依然とした軍の改革に着手した。改革のために会議という会議には出席し、話題作りのために夫人同伴のパーティーにも積極的に出席するなどしていた。そのうえ、夜のパーティーから帰ったら、アデールの相手をすることになっている。

 

 アデールとは互いの義務について話し合った。アデールのほうも、両親から日頃の行動をたしなめられており、結婚した女性の義務を果たしてから自由を得ようと考えたようだ。

 

 アデールのほうは、ときには舌鋒鋭く相手をやりこめていた夫が泰然と構えるようになったのを、好ましく思っていた。取り巻きの男たちのように、アデールの美しさを礼賛したり、気の利いたお世辞を言ったりすることこそないが、辛辣な物言いを慎むようになったので、安心してレオニードに同伴できるようになった。

 

 こうして軍制改革のために奔走していたレオニードには、ユリウスと会う時間は十分になかった。だが、ユリウスのことは常に気にかけていたので、先日は過密な日程をやりくりして会いに行ったのだ。ユリウスが姿を消したという知らせが入ったのは、その日から数日後のことだった。

 

 レオニードは、急遽予定していた外出を取りやめて、財務大臣を訪問し、ロストフスキーにはユリウスの捜索を最優先にするように命じた。随行や軍制改革は他の士官でも対応できるからだ。

 

 ユリウスが療養中のレオニードに献身的だったからといって、油断したつもりはない。警備や家政婦、料理人からは問題ないと報告を受けていた。

 

 レオニードは馬車のなかで、最後に会ったときのユリウスの様子を思い起こし、彼女の言葉を頭のなかで反芻した。

 

 「あなたを愛しています。あなたは?」

 

 久しぶりに会ったユリウスのひたむきな態度に、レオニードは自らを抑えられなくなり、その後の予定を変更してまで彼女に付きあったのだ。レオニードにしてみれば、それがユリウスの問いに対する答えだった。それにしても、愛していると言っておきながら、自ら離れていくのは、理にかなっていない。

 

 「行かないで」

 

 そう言った彼女は何を訴えたかったのか。もし行かなかったのならば、別れの言葉はなかったのだろうか。しかし、行かないわけには、いかない。ユリウスもそのくらいのことは理解しているはずだ。レオニードにはユリウスの言葉と行動は不可解だった。

 

 帰宅してから間髪入れずにロドニン夫人を呼んだ。ロドニン夫人もユリウスの失踪については心外だったようだ。

 

 ロドニン夫人は神妙な顔つきでレオニードと向き合ったが、意外な話題をふられて驚いたようだった。だが、数時間後、話が終わるころには、これまでにないほど緊張感に満ちた面持ちになっていた。

 

 レオニードは、最後にユリウスの行動についての疑念をロドニン夫人に尋ねた。

 

 「ご自身で直接お尋ねになるのが、最善の方法だと思います」

 

 

 

 ユリウスの捜索は難航した。

 

 警備担当のシロコフは酔っ払っていて、ユリウスが館から抜け出したことに気付かなかったそうだ。シロコフについては、ペトロワだけでなく料理人からも不満があがっていた。料理用の酒まで盗み飲みしたことがあったという。こともあろうか、ユリウスはそれを大目に見ていた。つまり、シロコフの習性を利用した計画的な逃亡だといえる。

 

 ユリウスは普段と変わりなく夕食をすませ、皆が寝静まったころに館を出たようだ。ユリウスだけでなく、犬まで外に出たことに誰も気付かなかった。もともとあの犬は、やたらと動き回るが、むやみに吠えたりはしないのだ。

 

 移動には身分証が必要となる。以前渡したユリア・スミルノワの身分証を使用しているだろう。加えて、身なりのいい若い女性一人と犬一匹で行動すれば目立つはずだ。しかし、ペテルスブルク市内では、ユリア・スミルノワの身分証が使われた形跡もなく、目撃情報もなかった。ロストフスキーがストラーホフ夫人の周辺も何度も洗い直したが、手掛かりは得られなかった。

 

 シベリア商人や魚売り、行きつけのバーニャの管理人のところへ、料理人やペトロワをともなってロストフスキーが訪れたが、シベリア商人はシベリアに戻っており、バーニャの管理人も辞めていた。そこで、シベリア商人の本拠地や、バーニャの管理人の出身地まで部下を派遣した。

 

 男を追って単身でロシアに来たユリウスのことだ。シベリア流刑になったその男を探している可能性もある。その男の収監先までは知らないはずだが、牢獄付近の地域にも人員を派遣した。

 

 ユリウスに与えた宝石類が持ち出されていたことから、これらを生活の糧に変えるであろうと見て、ペテルスブルクやモスクワの質屋や宝石店をあたらせたが、これも手ごたえがなかった。

 

 

 ユリウスが失踪して三か月経過したころ、アデールが、夫が一人の女性を執拗に探していることを突き止めた。突然、楽しみにしていた外出をキャンセルされ、不審に思ったのがきっかけだった。それ以来、夫とその腹心の部下の様子を探らせていたようだ。彼女の侍女の偵察能力には驚くばかりだ。

 

 御用達の宝飾店にレオニードが発注した特別仕様のネックレスが、夫人に贈られなかったことが発覚し、プライドを傷つけられたアデールは、恥をかかされたとヒステリックに騒いだ。

 

 「あなたが愛人をかこうのなら、わたくしも自由にしてもいいのではなくて?」

 

 夫に愛人がいる妻と、妻を寝取られた夫とでは、どちらが世間の物笑いになるかは明白だ。しかも、正妻にしかできないことがある。だが、アデールはその義務を再び放棄した。

 

 

 失踪から四か月が経過し、捜索が手詰まりになっていたときだった。サハロフ中将との打ち合わせが終わったときに、ロストフスキーが待機中に中将付の士官から聞いた話を耳打ちした。

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