ユリウスの肖像
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その後、二、三週間しても、レオニードは姿を見せない。警備の責任者がやってきたときに、それとなく彼の様子を聞いた。
「侯爵様は、最近、積極的に社交活動をしておられます。爆弾犯は捕まりましたが、奥さまとご同伴のことも多く、警備にあたる我々も気が抜けません」
「アデール夫人と?」
ユリウスの目の前が真っ暗になった。
カティアに尋ねたところ、警備責任者の話は事実で、別居していた奥方が屋敷に戻り、二人で出かけることも多くなったという。レオニードは大規模な軍の改革を考えているらしく、スムーズに実行するために、奥方と積極的に社交活動を繰り広げているそうだ。
晩餐会のときにかいま見たレオニードは、一段と精悍になっていたし、世間でも、大事故を経験してから一回り人物が大きくなったと評判だった。だから、奥方がいっそうレオニードに惹かれたとしても、不思議ではない。また、彼は後継のことを考えているとも言っていた。考えたくはないが、嫡子をもうけるために奥方とよりをもどしたのかもしれない。
やがて、バーニャや市場でも、ユスーポフ侯爵夫妻の噂を耳にするようになった。よくお似合いの二人だといったものや、夫婦の不仲が解消された、夫婦の間柄というのはわからないものだ、といったものだ。
――レオニード、わたしをどうするつもりなの?
不安がユリウスを襲った。強くて安心できる彼の胸が、ユリウスには必要だった。だが、レオニードのほうは、なぜユリウスを求めたのだろう。彼は、最初は欲望を抑制しようともしていた。
――彼がわたしを求めたのは、きっと寂しかったから。前妻に裏切られた父さまと同じ。もし奥方と打ち解けたとしたら、わたしは?
ユリウスは鍵付きの引き出しを開けて、数々の思い出の品を眺めた。みごとな彫金とエナメルが施された腕輪や、繊細なゴールドチェーンのブレスレット。ルビーやサファイアのブローチや髪留め。真珠のネックレスや、炎の色をしたオパールのペンダント。圧巻は、初めて大胆なドレスをまとったときに贈られた、大粒のルビーがあしらわれた真珠のネックレスだ。
これらの宝飾品には、一つ一つに思い出がある。だからこそ価値があるのだと、ユリウスはいつからか思うようになった。カティアも言っていた。その贈物にのせられた心こそが重要だと。気持ちのこもらない宝石は、それがどんなに高価であっても虚しい、というのがカティアの持論だった。
これらの贅沢な宝飾品を手に入れるのは、彼にとっては、たやすいことかもしれない。でも、誰にでも贈るものでもないはずだ。最後に一目ユリウスの顔が見たいと言ったことも嘘ではないだろう。ただ、とうとうおそれていたことが起こったのだ。
――捨てられた
ユリウスの双眸から涙があふれ出た。
――わたしは、捨てられてばかり
何度も何度も頭を振って、悲しい考えを振り捨てようとした。
やがて、何かを思い立ったように、ブランシュのお気に入りの木箱にかかっている布をとりはらい、ふたを開けた。そのなかに密かに設置した二重底のふたを開けて、布袋を取り出して、その中身を見つめた。
――わたしがしたいこと
しばらく考え込んでから、布袋を木箱に戻して、ずっしりとした宝石もしまった。
*
快気祝いから一か月ほど経過したころになって、やっとレオニードが現れた。ロストフスキー中尉が帰らないところを見ると、このあとも用事があるようだ。ブランシュが、レオニードとロストフスキー中尉のあいだを行ったり来たりしている。
世間の評判どおり、一回り存在感を増し、いっそう魅力的になったレオニードを前にして、ユリウスの胸はときめいた。久しぶりに会える嬉しさに、涙ぐみそうにもなったが、それらをかくすように、ついつい虚勢をはり、不満の言葉を口に出した。
「奥さまとよりを戻して、わたしのことなんか、すっかりお忘れかと思っていました。今ごろ何のご用かしら?」
「渡したいものがあるのだが、時間がない。いやみは別の機会にしてくれ」
「では、時間のあるときにお越しください」
かつてのアデールのように不満を口にするユリウスを、レオニードはうんざりした口調で制止した。
レオニードは、玄関で立ったまま人払いをして、手に持った箱から中身を無造作に取り出した。すばらしく鮮やかな色合いの、おそらく最高級のエメラルドがいくつも輝いている。それぞれ栗ほどの大きさで、ローズカットのダイヤモンドで縁どられた緑の石は、それ自体が光を放っているようだ。ユリウスは見たこともない美しさに息をのんだ。レオニードにしてみれば、このエメラルドを目にすれば、ユリウスの態度も変わると思ったのだろう。
だが、それは、ユリウスが予期し、そして、もっとも恐れていたことだった。財産のある男性が女性と縁を切るときには、禍根を残さないように、それまでの感謝の気持ちとともに豪華な贈物をすると聞いていた。
覚悟はできている。心から求めているものがわかったユリウスは、もう彼に執着しないつもりだった。だが、いざ、そのときがやってくると、胸がしめつけられる。
「付添の礼だ。感謝する」
レオニードがユリウスの体をくるっとまわし、輝く宝石をユリウスの首に巻き、鏡の前に連れていった。そして、うしろから、きれいだ、とささやきかけた。
ユリウスが振り向いた。怒りと悲しみで泣き出しそうな顔をしている。そして、息を吸って、静かに尋ねた。
「あなたを愛しています。あなたは?」
かつて何度か投げかけた問いだ。これが最後だ。今度こそ、なんとしてもユリウスは答えが欲しかった。もし、彼が答えたのなら、彼が望むのなら、と最後の望みをかけ、必死な様相で答えを求めた。
怒りを浮かべた目に、みるみるうちに涙をためていくユリウスに、レオニードはたまらなくなったようだ。激情につき動かされたようにユリウスの唇をとらえ、荒々しくキスを浴びせた。
久しぶりの激しいキスに、ユリウスも、ついつい夢中でこたえ、そして、彼の胸に崩れ落ちた。ほうっと息をすると、かすかに残る葉巻のにおいを感じる。ユリウスの腰にまわされたレオニードの腕に力が入る。
――もっと、もっと、強く抱きしめて
ユリウスは、ぎゅっと抱きしめられながら、レオニードの腕や胸の感触に酔いしれた。ずっとこの感覚を味わっていたい。
「時が止まればいいのに」
かすれた声が、ユリウスの口から、吐息とともにもれた。
「ロストフスキー、一時間弱遅れる。調整してくれ」
レオニードは、中尉に聞こえるように命じると、むさぼるようにユリウスに口付けを始め、そのままユリウスの腰をつかんで歩き出した。二人はお互いに激しく唇を求めあいながら階段をあがった。そして、ユリウスの部屋になだれ込むやいなや、ユリウスは、立ったまま、久々に与えられる喜びに身をゆだねた。
男女の営みが終わり、身なりを整えたレオニードが、また来る、と言ってお別れの軽いキスをした。
「行かないで」
ユリウスは目を開いて、レオニードの目をまっすぐに見つめた。叶えられないことだとわかっていても、言わずにはいられなかった。
「やっぱり無理よね。来てくれてありがとう。さようなら、レオニード」
細い声が口から出ると同時に、ユリウスの両目からは涙がポロポロとこぼれ落ちた。レオニードは、いつもと違うユリウスに引っかかりを感じたものの、重要な所用が迫っていたため、そのまま館を後にした。