さようなら、というのは、「そうでございますれば」という意味だろうか。
お名残惜しゅうございますが、わたくしはここで失礼いたします。
と述べて、横浜で、鎌倉まで行く友人達に別れのあいさつを述べる老女は、日本語が本来、長くて、省略を許さない言語表現をもっていたことをおもいださせる。
せっかちな日本語を指して、まるで車夫のような喋り方をする、と述べている人の言葉を読んだことがあったが、他のたいていの言語とおなじで、日本語もまた、そういうことに興味があれば、かつて階級社会であった日本の、労働者階級の言語に集約されてきた、ということなのでしょう。
ロンドンにいて最も楽しいのは、例えば骨董時計店に勤める友人をたずねて、よもやま話をするときの英語の美しさで、ひとつひとつのシラブルが精確に、正しく発音され、機知が織り込まれ、音楽のように発声される英語は、心地よい、という言葉は、こういうことのためにあるのだ、という気分にさせられます。
美しい英語は、階級制度が廃止されて75年が経ついまの日本の人にとっては、幸福なことに、正しく理解できない語彙になって、階層も階級も一緒くたになってしまうらしい階級という、人間が人間を不幸にするために拵えた化け物のような制度と同様に、恐龍で、すでに亡びつつあるのは、東山千栄子や久我美子たちの日本語が、いまの日本の人には話すことはおろか、聴いてもわからないものになっているのと、案外、軌を一にしているのかもしれません。
Decline and Fallという愉快な小説を書いたイーヴリン・ウォーがウィンストン・チャーチルに「きみが書く英語はどんどん古くなるね」と言われて、相好を崩して、終生、自分の小説に対する最大の褒め言葉として、好んで他人に語ったのは、言語というものの、そういう、のっぴきならない事情を反映している。
言語は、通常、普段に使い慣れている人間が印象しているよりも、ずっと恐ろしいもので、コミュニケーションや思考の道具として使っているつもりで、実際には、使っている人間の手をむんずとつかんで、予期しない方向へ連れていってしまう。
異なる角度からいえば、アンドレ・ブルトンたちが実験してみせた自動筆記は、普段は隠匿されている言語の知力を含む心理を支配する力をunleashしてみせた試みで、現実には、自分が主体となって考えているつもりでも、言語が物理装置としての大脳を間借りして、自律的に思考をすすめて、脳のほうは、体面上、まるで自分が言語を支配しているかのように意識に対して装っている、ということでしょう。
こんなことをいうとブルトンたちが腐りそうだが、ほら、「こっくりさん」というのがあるでしょう?
あれは実は参加者の自律言語を呼び出しているわけで、その結果が恐ろしいことになりやすいのは、自律言語のちからを完全に解き放って、制御できないものにすると、どういうことになるか、ということを暗示している。
古代の人間は、そうした機微をよく知っていて、言語を必要以上に簡略にすることを許さず、考えるためには、性急に考えたり、まして結論をだすことを許さず、ゆったりして、動かしがたい時間を言語に与えることによって自律言語が暴走することを防いでいた。
例えば翻訳でもかまわないので、カエサルの「ガリア戦記」やプルタークの対比列伝を読めば、そうした言語特有の事情は、一も二もなくわかります。
何度も書いたように、日本語にとっての生命力が湧出する泉は翻訳で、世界中の普遍言語のなかでただひとつ、世界への注釈語として生命をたもってきた。
本来、日本語に移植できない思考と言語表現を、大笑いに陥りそうなタイトロープを伝って、原義の深刻な表現をなんとか伝える不可能作業の過程で生まれた表現や、ある場合には造語が、日本語という言語をここまで生きた言語として生きながらえさせて来たのだとおもっています。
言語として、注釈語という不思議な渡世を可能にしてきたのは、もともとの出自が漢文の読み下し文という外国語の注釈そのものであったことの結果でしょう。
幸運なことに注釈語としての本流に、無意識の反発を感じた日本人が反作用として行ったことは日記と手紙と詩によって、「注釈されない自己」を表現することだった。
まるで鏡のない部屋で永遠に独語するひとのように孤独な心象を綴ってきた。
和泉式部日記や、和歌によって、日本人は精神の、ひいては文明としての、平衡をたもった。
いまを生きている日本の人も、文字通り昼食代ていどの価格を支払えば、文庫本という形で、その事実を実際に視認できます。
俳句という注釈語による詩の試みが芭蕉によって大成したのも、もちろん、この注釈語と「注釈されない自己」の統合があって、初めて可能なことだった。
そうして、和歌であるよりも俳句の成功の歴史的な時間の流れのなかで、西洋語の翻訳という例の言語生命の泉のなかから戦後現代詩が生まれて、日本語の生命を支えていく。
日本語は表層で起きたことだけを述べれば、テレビと商業コピーによって破壊されました。
最近は、このブログを書き始めたころには「なにを言ってるんだ、このひとは?」であったことが、だんだん社会のなかで常識になって、糸井重里、というような名前が(サラリーマン言葉でいえば)「戦犯」のようにして語られるようになったが、糸井重里というひとにおかしなところがあるとすれば、自分がコピーライターであることを否定しはじめて、吉本隆明だのなんだのと言いだしたことのほうで、コピーライターはなにしろ言語という、もともと自分の生命力をもったものをマーケティングの道具に使うという商売なので、そんな職業の人に節操がないというようなお説教じみた非難をしても、単に褒め言葉にすぎない。
問題は文学の役割をテレビと商業コピーに求めてしまった受け手のほうで、マーケティングの言葉を真実の言葉に置き換えてしまうことによって、日本の社会は思考能力そのものを失っていきます。
その政治世界における表現が、外から見れば軽薄としか言いようがない麻生政権であり安倍政権で、野田政権なのであるとおもう。
そういう日本の頽廃の仕組みは、たとえば百田尚樹のような小説家としては箸にも棒にもかからない低劣粗雑な三流作家が国営放送NHKの報道全体におおきな影響をもってしまうような現象によく顕れている。
新しい語彙の寿命が極端に短くなって、次々に死語になって、
一方では、映画を「鑑賞する」と言わざるをえないような、すでに現実を表現するちからを失った表現が、淘汰もされずに残っている。
言えないことがたくさん出来てしまって、しかも敬語の崩壊によって、いったいなにをいいたいのかさっぱりわからない、ぐずぐずして用をなさない表現がレストランのような場所でも繰り返されている。
日本語はすでに死語の体系になっているとみなすことが出来て、ちょうど糖尿病患者の足指が炭化して壊死するように、言語体系の隅っこのほうから言語全体の死語化がすすんでいる。
日本語の二倍くらいの言語規模で、普遍度がおなじくらいだとおもわれるベンガル語に較べても、いまの日本語の零落は急で、そろそろ意識的に再生させなければ、いずれは公用語として英語にとってかわられるか、言語というものの性質上、国民全体として痴愚化するか、どちらかになるしかない。
ひとりの日本ファンとして、それではならじ、と思っています。
「蟷螂の斧」だけどね
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