前のエントリではちょっとミル『自由論』の話して、出典の話で終ってしまったのですが、それではあんまりなので論文の内容に少しコメントしておきたいと思います。
私が見るところでは、五野井論文は以下のような構成になっています。
- 不買運動などのボイコット運動は正当な民主主義運動ですし、それはツイッターでのハッシュタグ運動などに発展しています。(前回触れたミル解釈はここで出てくる)
- キャンセルカルチャー=コールアウトカルチャーを説明します。ハッシュタグアクティビズム、ノープラットフォーミングなどを紹介します。その問題点は恣意的になりやすいこと、いつ「キャンセル」が終るかわからないことなどです。
- キャンセルされた有名事例を列挙します。トマス・ポッゲ、ピーター・シンガー、JKローリング、リチャード・ドーキンス、チャールズ・マレー、スティーブン・ピンカー、VSナイポール、小山田啓吾。ここにはキャンセル〔の理由〕のグラデーションがあることが見てとれます。
- キャンセルカルチャーの問題として、キャンセルされた方は悪い思想をもった強者なのに、自分たちをマイノリティだと考えるようになってしまうことがあります(「新たなマイノリティ」妄想)。
- また、キャンセルを恐れてキモくて金のないおっさん(KKO)たちは上辺だけをとりつくろうようになりますが、中身は変わってません。
- キャンセルカルチャーにはそういう問題があるわけですがどうしたらいいでしょうか。リベラルのすてきな代表格オバマさんはキャンセルカルチャーは寛容さに欠けていて、拒絶ばっかりではだめだと言っています。また、リベラルたちが集まって出した、いわゆるハーパースレター、「正義と開かれた討論にかんする公開書簡」はキャンセルカルチャーは民主主義を危うくすると言っています。
- こういう偉いリベラルの人々の意見を聞いてみると、キャンセルカルチャーはたしかに「差別と闘うための最も強力な武器」ですが、なんでもキャンセルするのでは寛容ではないですし民主主義への影響も心配です。それに、キャンセルされるべき者たちの行為や発言の重大さのグラデーションに対応していません。「均衡と善」を考えて、罪の重さに応じてキャンセルを使いわけるようにして、また自分の差別心や罪を反省した人はコールインして再包摂してあげましょう。
以下、順不同で思いつくコメント書いておきます。
まず、キャンセルカルチャーは基本的には「ノープラットフォーム」、つまり自分たちの道徳意識に反するような発言の機会を封じたりするのが中心だと思います。重いものになると、大学教員などの職から追放しようとする文化ですよね。ハーバード学長のローレンス・サマーズも事例にあげるべきだったと思います。
いわゆる「キャンセルカルチャー」と、市民運動の典型である不買運動やボイコットやデモ、それに(五野井先生は指摘してないけど)市民的不服従運動や集団的器物損壊(ボストン茶会事件みたいなの)などの関係はけっこう微妙であると思います。でも政治学者の先生がそのあいだに密接な関係があるというならそうだと思います。
一律に「キャンセルのグラデーション」という表現が使われているけど、キャンセルの「理由」のグラデーションとキャンセルの罰の「重さ」のグラデーションの対比はっきり表現してほしかった。悪しき発言やその理由の重さと、罰の重さが見当ってるべきだ、という全体の論旨のはずなので、これははっきり書かないと不慣れな読者にはわからない。
「キャンセルのグラデーション」は次のようなものです。
- 明らかな法的問題が認められるもの(ポッゲのセクハラ)
- 明示的な性差別や人種・宗教差別が認められるもの(ドーキンス、マレー、ナイポール)
- 学問的・客観的主張の体裁をとった黙示的差別意識が認められるもの(シンガー、ローリング、ピンカー)
- 本人は問題性に気が付いていない善意有過失な無意識の差別が認められるもの(ローリングがそうかもしれない)
- 曲解されて炎上した冤罪(小山田さん)
「グラデーション」と言いながら、「冤罪」でキャンセルされた小山田啓吾さんとか、発言じゃなくて実際におこなったセクハラでキャンセルされトマスポッゲさんがその両極にいるのは奇妙な感じがしました。小山田さんが曲解による冤罪ならばそれはキャンセルされるべきではなかったでしょうから、グラデーションに入れるべきじゃないと思う。質の違うものを入れちゃうと、そもそもグラデーションってなんだ、って話になっちゃいます。ポッゲさんは#MeToo運動のもりあがりをきっかけに悪事が露呈したのかもしれませんが、これは自分の職場内部での不法行為をとがめられているわけだから「キャンセルカルチャー」の話にいれるのは微妙だと思います。ポッゲは(そしてジョン・サールさんも)、その組織の内部の規律にしたがって処分されたのであり、ネットの声に押されてキャンセルされたのではないはずです。
ドーキンス、マレー、ナイポールの事例については、「明示的な性差別や人種・宗教差別」とかそんなに簡単に判断してよろしいのですか?いったいどういう権限があってそんなに簡単に明示的な差別だって言えるのか私には疑問です。(そういう主張をする人がいてもよいが、それが明示的な差別だということは五野井先生自身が主張するべきだと思う)
「黙示的差別」についても同様で、なぜそんなに簡単に言えるのかわからない。「〜と主張している人々がいる」ぐらいの話ではないのですか。また、ローリングさんが「本人は善意だけど問題を理解してないけど無意識に差別」みたいに判断するのも理解に苦しみます。明らかに一流の知性であるローリングさんを馬鹿にしてませんか?
さて、キャンセルカルチャーで気になることとして、以下のような問いがあると思います。
- その人物は本当に差別的な人物なのか?それは本当に(非難されるべき)差別的な発言なのか?
- 仮に差別的な含みのある発言であるとして、発言の機会を奪ったり、失職させたりすることは正当か?
- そして誰かが発言機会を奪われ失職することを見て、他の人々が発言を控えたり、あるいはキャンセルする気のある人々に迎合した発言をするようになることは望ましいか?
五野井先生の論文を読んで違和感があるのは、まずは上の1の問題がなにも議論されていないことです。シンガーやドーキンスやピンカーやローリングやマレーが非難と懲罰に値するほど差別的であることが自明のものとしてあつかわれている。もしそれが間違っていたらどうするつもりなんでしょうか。そうした人々が差別的であり差別的発言をおこなっているということを、無謬の真理のように扱っているように見えます。
ここでおなじみのミルの『自由論』にもどると、ミルは言論の自由は絶対的に保障されるべき理由として大きく四つあげています。
- 自分たちには誤っているように見える意見を封じこめることは、 自分たちの無謬性を想定することである 。しかしその意見は本当は正しいものかもしれない。これはあたりまえですね。地球はそれでも回ってるんだから。
- もしその誤っているように見える意見が実際に誤っているとしても、それは 多くの部分的真理を含んでいる ことが普通である。最初っから最後まで全部まちがっている意見というのは誰も読んだり聞いたりする気にはならないもので、誤っている意見もいろいろ有益な知見を含んでいることが普通です。特に変わった意見を言うひとというのは、他の人が気づかない気づいていたり、他の人が言いたがらない真理を知っていたりするものです。私たちの知識は常に不完全で完全とはほど遠いものなので、知識の全体を補完するためには、全体として誤っている意見からでも部分的真理を拾いあげて補完に使いたい、というわけです。
- もしその誤っているように見える意見が実際に誤っているとして、さらに、価値のある新鮮な部分的真理をもたいして含んでいないとしても自由な討論には価値がある。なぜなら、 誤っている意見のどこがどういう理由で誤っているかを正しい側が指摘できないならば、正しい側も自分たちの根拠をよくわかっていない、ということになるから です。私たちは正しい意見をもとうとするときに、正しい意見の結論だけでなく、その根拠をも同時に知っていることが望ましい。自分たちに反対するような意見がなくなると、自分たちがもっている意見がなぜ正しいのか根拠を考えることがなくなってしまうのです。だから、ときどき対立する人々の意見を検討して、自分たちが正しい根拠を確認する必要がある。自由な討論がないと、そうした機会が失なわれてしまいます。
- そして、そうして自分たちの信じている正しい意見の根拠を考えることがなくなると、その 正しい意見を自分たちの生活のなかで生かそうとする動機も失なわれる のです。いろんな対立のなかで自分の意見をもつひとは、それを自分の生活に実際に反映しようという動機をもつ。たとえば昔「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽往生できると主張していた人々は、別の宗派(たとえば御題目を唱える人々や座禅組まないとだめだと考える人々)との対立のなで、なぜそうなのかを考えて、生活でも気合(感謝?)をこめて念仏を唱えたでしょうが、対立がなくなると南無阿弥陀仏はたんなる「お念仏」になっちゃう、そういうことですよね。あと当然、「圧政に抵抗するために自由な言論が必要だ」みたいな理由はありますが、それは置いといて。
上の四番目のはなかなか心理学的な話で微妙なところはありますが、けっこういいところをついていると思う。まあやはり大事なのは2と3で(1は誰でも当然だと思うはずです)、結局自由な言論と討論がないと、大事なことが我々の生活と社会から失なわれるんですよ。ナチズムが正しいと主張したい奴らがいたら、なぜナチズムは邪悪なのかをちゃんと考えて反駁しなければならないし、そうやって反駁しようとするときに我々はナチズムの邪悪さを本当の意味で理解することになるわけです。こういうのは論敵との討論なしには不可能だとミルは考えています(私もそう考えています)。論敵を研究する必要があるのです。それが「最善の相」とかいうネットジャーゴンの基本的な考えかたでもある。
五野井先生は、 あやまった意見を封じこめることしか考えていない ように見える。そして、意見の邪悪さ、不正さに見あった罰を与えることで封じこめようとしている。そんなのはリベラルな社会、リベラルな理想に基づく民主主義的な社会とはまったく異なったものです。むしろある種の宗教的不寛容や政治的全体主義の匂いさえする。もっとも、先生は「均衡と善」によって、つまり悪行にはそれに見合った制裁をあたえればそれで十分であり、過剰な制裁はよくない、ということを言いたいように見えますが、あやまった意見の表明に関して必要なのは制裁や罰ではなく、(最大限好意的に解釈したうえでの)徹底的な反駁なのです。それがリベラルな社会、リベラルな理想というものだと思います。五野井先生は自分たち(キャンセルを試みる人々)の可謬性さえ想定していないように見える。なんでそんなに自信があるのですか。シンガーの出典もちゃんとつけられないのに。
何度か読みなおす上でたいへんショックだった個所があります。
なんですかこれは。 キモくて金のないオッサンを自認した中年男性が、なぜそうした表現が出て来ざるをえないのかを理解してない とは。キモくて金のないオッサンはキモいからだ、ということですか?正気ですか?
そして、そうした「ミソジニー」をこじらせた人々を単に謝罪させだけではすまない。「 徹底的に フェミニズム規範を 身体動作も含めて刻みつけ 、男性目線を改め〔させ?〕なければ」ならないとは。つまり、なにか差別的な言動をおこなったときに、単なる謝罪ですませずに、その身体動作も内心の自由をも奪い、フェミニズム規範を身に付けさせなければならない、ということですわよね。キャンセルカルチャーとはこれほどまでに内心の自由に抵触するものだとは思っていませんでした。いったいどこがリベラルなんですか。
五野井先生は「寛容」や「均衡と善」や「コールイン」「再包摂」を説く。しかしそれはつまり、自分たちの正統性にはまったく疑問を抱くことなく、言動に問題のある奴がいた場合は、その言動の悪さの程度に応じて制裁を与え、もしそいつが心の奥底から改心したと判断できたなら、キャンセルを解いてもういちど仲間にいれてやろう、ということでしかないのです。実際そもそも「寛容」というのはそういうものです。自分たちが正しいのがわかっているから「寛容」が説かれる。こういうもののどこがリベラルなのか(最大限好意的に読んだつもりですが)私は理解できませんでした。そして「(キャンセルを通して)徹底的に〜規範を身体動作を含めて刻みつけさせろ」にその恐しさにふるえあがりました。岩波書店と『世界』もそうした考えなのでしょうか。私は怖いです。
そして、誰かが吊しあげられ「キャンセル」された結果、(私のように)まわりのもっと勇気のない人々は発言を控えるようになるでしょう。その結果生じることが、自由な討論を基盤にしてしか成立しない民主主義を窒息させるのはあたりまえじゃないですか。そしてそうしたことはすでにSNSですら起きているように私には見えています(私自身もよっぽどのことがないと、SNSでももうすこしアカデミックな文章では危険なネタについては発言を控えています)。
ずっと読んでみて、これは『世界』という雑誌の読者の大部分を占めるキャンセルカルチャーに同調的な人々に向けて書かれたものだということにやっと思いあたりました。五野井先生は、キャンセルしたい人々に向けて寛容と「均衡と善」を説いている。キャンセル自体が不正だと考えている人のことはなにも頭にないようです。『世界』のような「総合雑誌」はめったに読まないので、執筆者と読者たちがそうした狭い世界に住んでいるとは思いもよらなかったのです。
まあそれでも、この論文を読むことでキャンセルカルチャーを擁護する人々の一部の人々の考え方を理解することができました。やはり言論の自由・自由な討論はいいですね!五野井先生にも岩波書店にも感謝感謝!
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