<R15>15歳未満の方はすぐに移動してください。
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短編小説です。気軽にどうぞ。
雑踏を押しのけ、排他的勢力から逃れるようにして路地裏を往来し、稀に掃き溜めに放置されていた雑誌を見つけては、断絶された世を知り、現状の不甲斐なさに消魂していたかつての歌舞伎町は、もはや見る影すらなかった。
うるさく点滅する発光色は、灰に覆われているかのように真っ暗で、周囲の店の鉄戸は固く重く閉じられており、人の気配はなく、暫く歩みを進めてみると、大地を寝そべっている屍烏の姿がある。男は溜息をつきながら、星空を眺めた。男の不浄に染まった心は血みどろで、全体に膿が広がっている。醜悪でおぞましいものからは、純白で高潔な精神は生まれない。目の前の現実から背け続けた彼には無数の星々も、ただの塵に過ぎないのだ。
解雇を受けてかれこれ二年半。妙な自尊感情のせいで、再職の機を逃した男は、あてもなく彷徨う亡霊の如く浮浪している。「俺は他の奴らとは違う、今に見てろよ」と意気込んでみるものの、足はこれっぽちも動かず、ただ脳内で何度も妄想するのみ。知らず知らずのうちに俗世間を逸脱する彼に、輝かしい未来など当然訪れるはずもなく、待っているのは錆び付いて拭うことの出来ない「孤独」だけである。親の反対を無理矢理押し切って上京した行動力は認めるが、先を見据える洞察力と、謙虚な姿勢を保つ自省力は完全に欠如していた。
そんな男がどうして歌舞伎町に魅入られたのか。理由は不明だが、男は賑わう街並みに嫉妬することで、どこか安心感を覚えていたのかもしれない。しかし、感染症によって殺風景に成り果てた現在の歌舞伎町は、彼にとって地獄そのものであった。栄枯盛衰を突き付けられ、自身の置かれている立場を悟った男は自害しようとした。
その時、彼は軽快な音楽を耳にした。自然と気分が高揚するような、かつての活気溢れる町を想起させるような、素晴らしい音色の響き。男は真夜中であるという違和感に全く気付くことなく、音の鳴る方へ、吸い込まれるように向かった。
風俗店の角を右に曲がって、ちょいと先に見える家屋の裏手から、そのまま住宅街の路地をひたすら歩き続けると、公園のような広い土地が出現した。そこには音源と思しきラジカセと、金色の朱雀が刺繍された着物を羽織った女がいた。
踊る、踊る。女は舞う。腰を低くし、重心を下に固定したまま器用に一回転すると、手のひらを翻し、一切無駄のない摺り足を披露する。男は我を忘れ、女に没頭した。程なくして女が男の気配を察したのか突然踊りを止めて、彼を一瞥すると、淡い紅色に塗られた口から雪白の歯を出した。
「あら、珍しいこと。久々のお客様ですから、つい嬉しくなった次第です。お時間よろしいでしょうか」
細々とした声ではあるが、不思議と妖艶さを醸し出していた。故に男は頬を緩め、警戒心を解いて、見ず知らずの人間に話しかけてしまった。
「ええ、それはもう。貴女のような麗人に会ったのはこれが初めてです」
「まあ、それは嬉しいですね」
愛くるしく微笑む姿に興奮した男は、そっと右手を差し出して、彼女の顔の輪郭をなぞった。すると、女はその手を握り返し「どうされたのですか。私の顔に何か虫などついておられましたか」と返事をした。焦った男はすぐさま手を振りほどき、謝罪した。
「すまなかった、つい出来心で。最近生きることにひどく億劫になっていたんだ。それで首を吊る場所を探していたら、偶然音が聞こえてきて……」
「そう、色々と苦労されてきたんですね」
「ああ、そうだ。どいつもこいつも俺のことを木偶の坊扱いしやがって」
誰かに縋る様な血相で、男は情けなく膝をついて号泣した。しかし、こんな醜態を晒してもなお、女は彼の手を再び取って、透き通った繊細な声でこう告げた。
「ならば、ともに踊りましょう。この愉快な音楽に合わせて踊れば、きっと全てを忘れて楽になれます。さあ、踊りましょう」
暗い地の果てで這いつくばって、人と同じ生き方をするよりかは幾分かマシだと感じ、相手にされることなく、常に遠目に見られてきた男にとって、別段断る理由もなかった。最初は女のなすがままに、見様見真似でぎこちない踊りをしていたが、次第に楽しくなってきたのか男は急に高笑いをし、自由奔放に奇怪な踊りを始めたため、女もつられて吹き出した。その様子を見た男は急に羞恥心に悶え、耳まで真っ赤に染め上げた。
「こういった遊戯は慣れていないもので。お恥ずかしい限りです」
「いいえ、構いませんわ。楽しければそれで十分なのです。むしろ、私の方が興を削ぐようなことをして申し訳ございません。さあ、夜はまだまだ続きます。一緒に踊り合いましょう」
カタカタと軋みながら、休むことなく旋律を奏でるラジカセにつられるようにして、二人はひたすら踊り続けた。やがて暁の空が目を覚ました頃、酷く疲弊した男は呼吸困難に陥り、女の行方を知ることなく気絶した。
鳴声に反応して起き上がった男は、気怠さはあったが嫌悪感は全くと言っていいほど感じられなかった。周囲を見渡すも既に日は沈みかけており、女の姿は影の中を潜るかのように、跡形もなく消えていた。男は何度も自分の髪をかきむしる。この世の者とは思えないほど美しい踊り子と邂逅し、朝になるまで踊ったあの夜がどうしても忘れられないのだ。ふけが肩にのしかかり、もとより汚らしい服装がさらに汚くなっていく。近くを通りかかった住民は彼を見るなり顔をしかめて「こっちに寄るな」と言わんばかりの素振りを示していた。だが、男はそんな輩には目もくれず発狂して、その場を離れた。
「会いたい、早く会いたい。どうして夜にならないんだ。くそっ、こんな時でも腹が減るなんて。その辺に何か落ちてねえか」
ゴミ山から誰かが捨てた賞味期限切れの加工食品や、まだ可食部分が残っている動物の餌を、必死になって漁る男の仕草はまさしく野良猫のようだった。結局四時間余り探すも、これといって空腹を満たす物は見当たらず、諦めてあの場所に戻って帳を待とうとした刹那、かつての同僚に遭遇した。相変わらず素朴な顔立ちで、鈍感な性格だった彼は男を居酒屋に招いた。「いいよ、奢ってやるよ。色々と困ってるみたいだし」と気前のいい同僚に男は一週間ぶりにまともな料理が食える喜びと、踊り子に会えないかもしれない不安との葛藤に苛まれていた。
外見は壁が所々剥げてきており、入り口付近の雑草などが無防備に生え散らかっている状況にあったが、内装は想像よりも遥かに綺麗で、隅々まで掃除が行き届いていた。同僚は席に着くや否や元気よく「生二つ」と発声した。男は机に置いてあった品書きをちらっと拝見して背筋が凍った。流石は歌舞伎町といったところか、値は相当張るらしい。
「はは、何だよ。びびってんのか。そう言えば、毎回こういう飲み会は断ってたもんなお前。実際に体験してみると分かるだろう。少しの酒とつまみで軽く諭吉が飛ぶ」
「俺はどこで道を外しちまったんだろうな。妻子には逃げられ、金が底を尽き、家を手放す羽目になった。おかげで今は
「そうか……、まあとにかくこうして再び会えたのも何かの縁だ。遠慮しないで沢山飲んで食ってくれ。俺にとってお前は唯一の同僚なんだしさ。もし、これからも悩んでいることがあったら相談してくれないか?」
「ありがとう。その気持ちはとても嬉しいよ」
男と同僚は乾杯をして、互いがあっという間に飲み干すと、続けて生ビールと焼酎を、唐揚げを四つ、焼き鳥を五本注文し、それらも瞬く間に平らげた。体内に程よくアルコールが浸透してきて、腹も満たされ、同僚との無駄話に花を咲かせていたのも相まってか、かなり気分が向上していた男ではあったが、その実どこかやりきれない気持ちも残っていた。それは、あの踊り子との夜の方が現状よりも心地良かったからである。脳みそをぐちゃぐちゃに弄繰り回され、体を支配されてまるで操り人形のように踊らされる感覚は何物にも代えがたい「幸福」であった。一時的な快楽ではもう満足できない身体になっていた男は、唐突に青ざめた表情をした。
「おいおい、急にどうしたんだよ。もう酔っぱらってきたのか?」
「いや、もういいやって。なんか冷めてきちゃった。悪いけど帰るわ」
男は立ち上がって店の扉へ向かおうした時、同僚は彼の異変を察したのか「帰るってどこにだよ」と怪訝な表情を浮かべた。すると男は気色悪い笑みを溢して「帰る場所ならある」と言い放ち、そしてあの夜の出来事を包み隠さず同僚に話した。
「どうだ、羨ましいだろう。何ならお前も今夜一緒に来るか? こんなションベン臭い水よりもよっぽどハイになれるぜ」
「……噂で聞いたことがある。そういうのに詳しい知人がいるんだ。真夜中なのに踊りをする女がいて、その姿を見たものはあまりの美しさについ魅了されて、気が付けばそのまま女と永遠に踊らされ続け、二度と現実世界に帰ってこられなくなるという歌舞伎町の都市伝説。ああ本当にあったんだ、おい、しっかりしろ。今ならまだ引き返せる」
同僚は一心不乱になって男を説得しようと試みた。本来ならば、男に情など一切不要で、あっさり切り捨てても良いはずだ。しかし、この感情はある種の「哀れみ」なのかもしれない。一度関係を持ってしまえば最後、人間が人間たらしめる存在証明を、赤の他人に希求する行為の代償は重くのしかかってしまう。
「確かに随分と生き辛い世の中になっちまったかもしれない。どこもかしこも自粛自粛ってな。でもよ、苦しいのはきっと今だけなんだ。ここを乗り越えたらいいことが沢山あるに違いねえ。だから、もうあの場所には近づくな。お前が勘違いしている女は、人の弱みに付け込む得体の知れない化け物だぞ」
「うるせえな! てめえに何が分かるんだよ、綺麗ごとばっか並べやがって」
罵声を浴びせた男は勢い余って同僚を張り倒し、店を飛び出した。
幕引きには常に道化が愚者を演じるが、この男に至っては愚者そのものである。時計の針は午前二時を回っており、男がかつての星屑に価値を見出すようになった心境の変化は、真夜中の踊り子への執着からであった。心が浄化され、体中の血液が歓喜する雑音が再び聞こえてきて、男は震え上がった。幽遠の土地にはかの女が月光に晒されており、怪異の存在を強調させる。
「あらあら、何だか不思議な気分ですこと。貴方ともう一度会える気がしました」
女は男を抱き寄せた。ほのかに甘い香りが充満し、彼をより一層刺激させる。男はこの身を捧げてもいいと自制を止め、あろうことか着装していた衣類を全て脱ぎ捨てた。女は面白がって下品に手を叩き、好奇心旺盛な態度で眺めていた。
「満月は時に人間を狂わせる道具になることを貴方は知っておられますか? 特に宴の際にはこうした大胆な行動をとる輩が多くなると留意しています。私は風情があって大変よろしいことかと思われますが、ご時世的にはそういったことに敏感であるのは承知しています。したがって何分つまらなくなったと日々感じるのであります」
理想と現実の狭間に苦しみもがいてきた男にとって、自分が何者であるのかを考える度に戸惑い焦って、勝手に傷つき、絶望の沼にはまってゆく。そんな時に運命の出会いを果たした男は最期に「俺を許してくれるのか、愛してくれるのか」と消え入りそうな声で問うた。女は「ええ、勿論。貴方が朽ち果てるまで許し、愛してみせます。さあ、永遠に踊り狂いましょう」と即答した。
男女は交じり合いながら踊り狂った。何度も何度も、喘ぎ声を引き下げながら腰を揺らし合い、人生を犠牲にして快楽の絶頂に達した。その後、男の姿を見たものは誰もいない。
夜の女って色々と怖いですよね。
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