身近にいた者が、突然いなくなるというのは辛いものだ。その日から当たり前のことが当たり前でなくなり、思いもよらない日常が現実となる。そしてそれを、受け入れなければならない、嫌でも。その現実から「逃げ出す」ことなんて、出来ない。生きている限り、その者のいない世界は続いていく。止まることなどないのである。「止まってしまっているようだ」なんて、所詮「ようだ」という揶揄でしか無い。
そして、いや、だからこそ、人は足掻いて、受け入れていくのである。その方法は、その受け入れ方は、人によって十人十色、多種多様、千差万別。悲しみ、怒り、悟り、そして諦め。その姿を、見せる者、見せない者、そして
人は様々な形で乗り越える、乗り越えたように見せかける。…だがどうしても後ろ髪を引かれるように後悔が生まれてしまう。
幽霊というのは、そうした後悔が一つの形になったモノなのかもしれない。
十月二十五日 ㏘4:55
「それでは、岡本公也さん。お話をお聞きしましょうか。」
息子と同じ学校の制服を着た少女が、レトロな喫茶店のテーブル越しに向かいあう。この状況に、顔にまで出さないが困惑している。他者から見たら危なくないだろうか?これは。
「あぁ、実はその、私の息子がですね。その、おかしい、というか…。」
説明するのが難しく、語弊を生んでしまうような言い方になる。なってしまう。
「おかしい、ですか。…どんな風に?」
そんな私にも、目の前の彼女は平然と話の続きを促してくる。慣れている、そんな感じで。
「いや、おかしい、なんて息子に言うもんじゃないんですが…。何しろ…。」
─先月亡くなった妻と、同じ料理を作るんです。
十月三日 ㏘7:12
「夕飯、作ったから。」
惣菜が詰まったレジ袋を携えて帰ってきた私に、一人息子の恭弥はそっけなく言い放った。
「……あぁ、そうか。」
「…あと風呂と、洗濯は、まぁ、よろしく。」
「…分かった。」
「…じゃ。」
「…おう。」
そうして、恭弥は自分の部屋へと消えていく。
…驚いた。ダイニングテーブルに置かれたその夕飯を見て、改めて思う。
息子の料理など、初めてだ。…いや、まず恭弥は包丁など握ったことなどあったのだろうか?まず恭弥が家事を手伝っていたところなど見たことがない。…恥ずかしながら、私もまたそうした経験はない。妻に任せっきりだったことを、今更ながら痛感している。
テーブルにはちゃんと立派な夕食と言える料理が並んでいた。…ネットで調べたのだろう。
「なぁ、友里。恭弥が作ったんだって。」
…そう写真に語りかける。位牌が、現実を示すように存在しているのが、今でも信じられない。
このキッチンで先日、妻は倒れていた、急性の心臓発作で。朝の準備のため、私たちよりも早く起きているのが毎日だった。救急搬送された時には、もう手遅れで。後で聞いた話だと、妻の家系が関係しているのではないか、とか言う話も聞いたが…、あの通夜の時など、当てにならないことぐらい分かっている。
「…いただきます。」
それからは、想像もしなかった毎日が待っていた。初めてと言っても過言ではない家事を息子と二人で分担することとなったのだが、思春期真っ只中の息子と上手くコミュニケーションがとれない、そもそも家事の仕方が分からない、生活必需品の補充が把握できない、ないないだらけの日常。食事などままならず、スーパーの惣菜に頼る毎日だったのだ。
そんな惣菜が、袋に入ったまま。息子が作った料理を、口に運んだ。
…期待などしていなかったから、尚更驚いた。口に広がった、その味は。
「………!?」
言葉を失ってしまうほどの驚きとともに、口の中に広がる、まだそれほど経っていないというのに感じてしまう懐かしさ。
息子が作ったというその料理は、まさしく…、
「友里の…、味…!?」
つい最近まで毎日当たり前だった、料理上手が自慢の妻の味そのものだった。
十月四日 ㏂9:27
「なぁ、恭弥。」
翌日は休日で、恭弥は拙くベランダで洗濯物を干していた。
「何、親父。…あ、またズボンにポケットティシュ入ったまんまだった。いい加減にしろよ。」
「あぁ、すまない。」
すると恭弥はムッとしたように。
「何だよ、それ。」
詫びが風のような一言だけだったことに対してのようだった。だが自分でもそれに気づかなかった。それよりも気になって仕方がない、昨日の出来事。
「…あの、よ。」
捨て台詞を吐く息子を、拙く止める。
「なんだよ。」
いかにもバツが悪そうな様子。…やはり私を、避けている。
「昨日の晩飯、本当にお前が作ったのか?」
「…そうだけど、何。」
明らかに不満気だ。
「いや…、その、ほら、美味かったから。」
「…まぁ、適当に作ったから、褒められたようなモンでもないけど。」
「そうなのか?」
…駄目だ。上手く本音を聞き出せない、互いに。私もまた自分が何を知りたいのか、分からない。
「…なぁ、親父。」
次の言葉を出そうとして、恭弥が先に言葉を出す。
「今日からさ、俺が作っていい?」
「…え?」
「…メシ、…ご飯。弁当とか…。全部っていうのは流石に無理かもだけどさ。俺が作っていい?…流石に、惣菜だけってのも、飽きた。」
「…あぁ、うん。まぁ…、わかった。」
自分でも情けなく思ってしまう、この関係。いつからだっただろう?…いや、妻がいたのならこんなことも考えもしなかったのだろう。
思春期だから、仕方ない。だけでは無いのは知っている。だが、それを認めても、もうどうにもならないのだ。
十月六日 ㏘0:00
「岡本課長、また外でランチ行きませんか?」
昼休みのベルが鳴り、部下の桜井みゆきが駆け寄ってまたランチ誘ってきた。妻が亡くなって昼は外食となってしまってから、桜井は私を気にしてくれているのかこうして誘ってくるのがこの頃の毎日となっている。
「…すまんが、今日はコレがあってな。」
と息子から持たされた弁当を取り出して見せる。渡された時、少し驚いてしまった弁当箱を。
「…あ、お弁当箱。それ久しぶりですね。…課長が作ったんですか?」
「いや、息子がな。この前、俺がメシ作るからって急に言い出して。」
「へぇ…、いい息子さんじゃないですか、いいなぁ〜。」
彼女の少し軽い口調が、上司としては心配だ。
「…いや、高校2年になるんで、思春期真っ只中でな、ろくに会話も出来ていない。」
「それはいけませんよ。会話は大事です。特に今は…。っと、すみません。…何事も口に出さないと。伝わることも伝わりませんから。」
桜井の気遣いは、いつも少し遅い。
「…じゃあ口に出して言わせてもらうが、頼んでたメール、ちゃんと送ったか?」
桜井が予想通りのハッとした表情を見せてくる。
「…アハハ…、忘れてました…。」
すぐ送ってきます!とデスクに向かう。仕事は割と真面目に取り組んでいるのに、ここ一番でそそっかしいというのが、桜井である。
弁当箱を開けると、想像以上の弁当に仕上がっていた。カラフルで、バランスの良い弁当。思わず感心してしまっていた。すると。
「…また桜井、なんか忘れたんですか?」
「…またって…。いつもじゃないんだ、そう言ってやるな、浜野。」
もう一人の部下、浜野紘汰。こちらは仕事はきっちりこなす優秀さとともに、いつも仏頂面で社交性に欠ける男。普段の声のトーンが低いこともあり、やる気がなさげのオーラと纏ってしまっているが、本人は至って真面目にやっていることなど、3年も経てばわかる。
「で、課長。それが息子さんが作った弁当ですか。…すごいですね、それ多分冷凍食品一つも使ってませんよ。」
声のトーンのせいでつらつらと聞いていても、耳を疑った。
「え…本当か?」
「冷凍食品だらけ弁当3年の僕ですよ。大体の冷凍食品は網羅してます。それ多分、みんな1から作ってます。」
「待て、確かお前はいつも弁当だったが、あのおかず全部冷凍食品だったのか?」
「…え、気づいてなかったんですか課長?」
「いや、全部作ったものかと…。」
「そんなわけないじゃないですか。僕はよくて米炊いたことぐらいしか料理なんかしたことないんですから。」
─包丁も握ったことないんですよ、僕。
などと言う浜野。なんでもそつなくこなしてしまう彼だからこそ、驚きも大きい。こうした昼休みに浜野の弁当を横目にだが見たことがあり、色とりどりの弁当で感心したものだが。
「この頃の冷凍食品は進化しているもんなんだな…。」
「そうですね。正直レンジくらいしか使わなくて済みますし…。まぁ、手抜きみたいなものですからちょっと罪悪感は拭えないですけどね。」
「そうだよ〜、浜野〜。もうそれは弁当といえるのかなぁ〜?」
いつの間にか浜野の隣には桜井が戻ってきていた。…大丈夫だろうか?
「メールは?」
「送りました!」
ならばいいか。
「いや、桜井。弁当箱に入ってるんだからこれは弁当と言えるだろ。」
「いや〜、愛情ってものがこもってないでしょ、そんなもの。」
「そんなもの?…じゃあなんでお前はいつも外食なんだよ。アレだろ、料理できないからだろ。」
「出来ますよ!なめないでください、今は愛情を向ける相手がいないだけですから!」
愛情、か。
今までの当たり前では、見えなかった発見。興味深さとともに、思うのは、思ってしまうのは、その今までの当たり前が、どれだけ有り難い事実であったこと。
そしてその感謝を、もう伝えることが出来ない。
…いけないいけない。
「…いただきます。」
じゃれ合う二人をおいて、弁当の卵焼きに箸をつける。
…やはり、その味は。
「…え、岡本課長それだったら…、それじゃ私ボッチ飯…。」
桜井はじゃれ合いを急にやめてハッとしたように言う。そういえば桜井は、いつも誰かと昼を食べていた気がする。
「そうなるな。…別にいいんじゃね。ほら、食べに行ったら?」
そして浜野はいつもここで食べている。
「え、ヤだな〜。食事というのは誰かと食べるから楽しいのに…!こうなったらもうここで食べます!ちょっとその辺のコンビニ行って来ます!」
と桜井は駆け足でオフィスから消えていった。
「なんでアイツあんな必死なんでしょうか、課長。」
「…あいつにはあいつなりの理由があるんだろ。」
早く食わないと昼休み終わるぞ。と浜野に言ってやると、そうでした。とすぐそばの自分のデスクに座る。
「しかし、いい息子さんじゃないですか。」
「そうか?」
「いや、弁当を自分以外のために作るなんて、正直すごいですよ。僕なんて自分の分だけでも…、こんな手抜きなのに。」
「…そうか。」
恭弥が今朝早く起きていたのは知っている。あいつの料理を食べなけけば弁当なんて作れるのか、なんて不安をもしかして私は覚えるのかもしれない。しかし、まだ数日経っただけなのにもう私は恭弥の料理に信頼をおいてしまっている。
その信頼は何処からか。…やっぱり、友里からなのだ。
十月六日 ㏘5:19
「おう。…その、大丈夫か、岡本?」
仕事終わりに、同期である谷原が後ろから声をかけてきた。
「…あぁ、うん。そうだな。」
急だったこともあり、ろくな返しができず、自分でも思ってしまうくらい情けない返事になってしまう。
「そんな返事じゃ大丈夫ではなさそうだな。…まぁ、突然だったからなぁ…。」
ため息をつきながら心配をしてくれている。
「すまない、心配させてしまって。」
「何を言うんだ、岡本。心配させてくれ。」
谷原とは付き合いが長く、また友里とも顔見知りだった。私たちの結婚式の際は新郎新婦よりも、その親族よりも泣いてくれた、情に厚い男。だからこそ、こうして私を気にかけてくれている。
「…岡本、何か相談があるなら、不満とか愚痴とか、またとことん付き合ってやるから。」
「…あぁ、ありがとう。」
湿っぽくなる空気を、谷原は苦笑で一蹴する。
「何言ってんだ。長い付き合いなんだだぞ?」
じゃ、また。と谷原は行った。心配されているのは、有り難くても。それを素直に受け取れない。
十月六日 ㏘6:02
「…おかえり。」
その言葉を息子の口から出ることは久しぶりだったような気もする。
「…あぁ、ただいま。」
家に帰ると、恭弥はキッチンに立っていた。顔を動かさず、ぶっきらぼうな言葉だけの出迎え。
「今日、早いな。」
「…あぁ、仕事、早く終わったから。」
夕食を買ってこなくても良かったということもあったが。
「ふーん。」
会話が、続かない。
「あ、これ…。ありがとう。」
空になった弁当箱を取り出す。
「うん、そこ置いといてくれ。後で洗う。」
「おう、その、ありがとうな。」
「…別に。自分の分のついでだし。」
「…そうか。」
しばらくすると、部屋中にタマネギを炒めた香りが漂ってきた。
「…今日は、何作るんだ?」
「…ハンバーグ、挑戦してみようかと思って。」
ハンバーグ、か。私の好物であり、友里の得意料理の一つだった。
「…へぇ…、作り方、ネットで調べたのか…?」
すると恭弥は、少し黙ったあと、
「…まぁ、そんなとこ。」
「…そうか。」
…それ以上、話を広げることが出来ない。
「風呂、入れてきていいか?」
「あ、まだ掃除してない。」
「わかった。」
やっておくよ、と言いいながら、その場から逃げ出す。比喩ではない。実際、私はその空気に耐えられなかった。気まずい、などというレベルじゃない、重苦しい空気。会話という軽くする手段があるのに、使わない、使えない。いや使う度胸がないのか。
ただわかることは、逃げ出せば逃げ出すほどそれほど肩にのしかかる何かが、重たくなるだけことだった。
その後の夕食は無言だった。ハンバーグはやっぱりいつものまま。ただいつもより一人いない、ただそれだけで寂しいと感じてしまう、そんな食卓。
恭弥の食べるペースは、早かった。ぶっきらぼうなごちそうさまとともに食器をそそくさと片付けて、
「後、食器、よろしく。」
と、口に出してリビングから去る。そこには言葉だけだった。会話なんてするつもりがないような言葉。それを咎めることは…、いや、咎める理由が、私には見つからなかった。
ふと時計を見ると、随分と時間が経っていた。…そうか。
「私が食べるのが、遅いだけか…。」
その夜も結局、恭弥は自分の部屋から出ることなく、姿を見せることはなかった。
十月六日 ㏘1:05
私立の高校というのは、個性豊かな生徒が集まるものだと、俺は思っている。
「なぁ、恭弥。それ自分で作ったのか?」
個性豊かな、なんて都合のいい言葉だろう。そんな一人でクラスメイトの中森が、昼休み中に話しかけてきた。
「そうだけど、何だよ。」
「…いや、結構ボリュームっていうか、ちゃんとしてるからよ。」
「…俺が弁当作るのが悪いのか?」
「いやそうは言ってねぇーけどさぁ。意外だったんだよ。お前がそんな弁当作るなんてさぁ。」
意外だった、か。何も知らないくせに。いや、何も知らないからこそ知らないんだろ。
俺は友人と言える存在が少ない。別にそれが不便に思ったことはないし、逆にそのほうが人間関係のしがらみにあまり関わらずに済むので俺は思っている。中森は俺と正反対であり、クラスのムードメーカー、そして一番ウザい奴だ。
中森はいつの間にか俺の前に座っていた。なんでだよ。
「なぁ、そういやお前って、女子とか興味ねぇの?」
「…何だよ、さっきから。」
「いや、岡本とはそんなしゃべったことなかったから、いい機会だからさ。…で、どうなんだよ。」
「…別に。この学校には気になる女子なんていないけど。」
「…なんだよ〜。…え、じゃこの学校にはいないってことはさ、他校にいるってことか?」
重箱の隅をつつくような受け取り方をするな。
「…もういいだろ。」
「その反応はいるってことでいいんだな?そうか〜。いるのか、お前みたいな奴でも〜。」
おめでたい奴。想像力豊かでいいものだ。
「けどな、岡本。この学校、というかこのクラスにもいるぜ?それこそ篠崎恵とか!」
比較的大きい声で中森が言ったその名前は流石に知っていた。
「篠崎…?あの金持ちの?」
何故なら彼女はこの学校ではちょっとした有名人。
「そうそう、毎日高そうな車で登校してくるあの篠崎だよ。あいつはまぁ…、高嶺の花ってことろだけどさ、お前は一度は想像しちまうだろ?」
くだらない。中森が笑われながらも嫌われている理由が良くわかってしまう。
「呼んだ?」
「!」
…流石にビックリしてしまう。中森が想像してしまうその篠崎恵が、いつの間にか中森の後ろにいた。
「あ…、いや、別に?」
中森の声は少し小さくなっていた。流石にご本人登場には威勢もなくなるようだ。
「そう。」
そんな中森に対して特に気にすることもないようで、そう言って彼女は自分の席へと戻っていった。
「…危な…。嫌われるとこだった。」
もうすでに嫌われているぞ、中森。
「けど、やっぱ篠崎って…、なんかオーラがあんだよなぁ。それが一層いいっていうか…。」
「…ごちそうさま。」
そうこうしているうちに弁当箱は空になっていた。
「速っ…。ってかこんな時間!昼食いそびれる…!」
と、中森は席を立って教室から足早に去っていく。いなくなる時でさえも騒がしい奴だ。
「相変わらずうるさい人ですよね、中森君。」
珍しく俺に話しかけてくるクラスメイトがもう一人いた。上林絢、このクラスの委員長だ。毅然としたルックスに、人が集まるのは無理もない。
「なんだよ上林。」
「いや特に用事はないんですけど…。篠崎さんと何か話してましたけど、何を?」
「いや…、別に。中森が篠崎のこと話していたら本人が通りかかっただけだ。」
「そう、ですか。」
委員長は顔を曇らせながら言った。その反応が少し気になって逆に聞いてみる。
「…篠崎になんかあんのかよ?」
すると委員長は曇らせた顔を困ったような顔に寄せつつ言った。
「…篠崎さんが、わからないんです。」
「…わからない?」
意外な返答だった。
「はい、一応こうして学級委員長を任されているので、目にかけていたんですけど…。あまり友達といるところも見たことがないし、部活動にも入っていない。授業が終わると足早にいなくなっていて。みんなが知っているように、車で登校して来るので、好奇心から話しかける生徒がいても、軽くあしらわれてしまう。先生達でさえも、上手く相手ができないそうで…。」
初めて知る情報ばかりた。というより今まで篠崎恵という人物にあまり興味がなかった。当然といえば当然か。
委員長はため息を挟みながら続ける。
「…それだけでも心配しているんだけど…。…一つだけ、気になる噂があって…。」
「噂?」
すると委員長は、俺に顔を近づけて小声で驚くような発言をしてみせた。
「…篠崎さんを、夜の街で見たことがあるっていう、噂。」
まさかの発言は、流石に俺もたじろいでしまう。
「…それって…。」
すると少し前のめりに委員長は俺の言葉を遮った。
「まだ噂だから。噂の出処は不明だし…。…まだわかんない。篠崎さんって、その、近寄りがたいでしょ…?」
「まぁ、そうだな。あんまり自分から話しかけようとは思わないな…。」
まず興味がなかった。
「…ねぇ、篠崎さんとどう接すればいいのかな…?」
そんなことを聞かれても困る。というより何故俺に相談するんだ。人選のミスマッチもいいところである。
心の中で困惑していると、委員長はふと教室の時計を見る。
「…いけない。もうこんな時間。岡本君、次は移動教室だからね。」
その一言で現実に戻された。俺も時計を見るとまだ授業開始のベルまで10分もある。用意周到なことだ。
「分かってるよ。」
半ばおせっかいに近い忠告を受け取る。弁当箱を片付け、次の授業の準備を始めた。
ふと篠崎恵の席をチラ見すると、彼女はいなかった。さっきまではいたはずだ。まるで消えたような、彼女の机と椅子。
まぁ、いいか。気にすることはない。
十月六日 ㏘4:02
今日の授業が終わり、放課後。部活をやっていない俺にとっては、自由であり退屈な時間でもある。この前までは図書館で本を読んでいたが…。今は、出来ていない。
今日も大人しく帰ろうか、なんて心の中で呟きつつ、私立の高校特有の広い正門前。そこに彼女はいた。
篠崎恵。この高校いちのミステリアス。毎日黒塗りの高級車で登下校し、皆が一目置き、だからこそ関わろうとしない、いや、できない。
その篠崎恵が、正門前に立っていた。いつも通り車を待っているのだろうか。腕の時計を確認する動作をとって、こちらに気づかれる。
「…岡本君、だったっけ?」
話しかけられた。思いもよらない事態に、俺は頭の中で少し動揺する。というかクラスメイトも把握してないのか。…俺も同じだが。
「…そうだけど。何だよ。」
「…いや?…お弁当、綺麗だったから。料理とかするの?」
あぁ、そうか。あの時、見られていたのか。
「…まぁ、この頃初めたばっかりだけどな。」
「へぇ…、意外、そうなんだ。…まぁ私には…。」
─とても初心者のお弁当だとは見えなかったけど。
その言葉はどこか挑戦的で、どこか挑発的だった。そしてその言葉は、俺の中を一瞬だけ揺るがした。
車が停まる。やっぱり黒塗りの高級車。篠崎はそれじゃあと一言言い残して後部座席に消えていき、主を乗せた車は走り去る。
「何だよ、あいつ…。」
その言葉を言うまで数秒かかった。ただの一瞬、だけど一瞬。何故かその動揺は、俺の中に残り続けた。
「…買い物、行かなくちゃな。」
それでも、いつもであることは変わりない。毎日であることは変わりないのだ。
十月六日 ㏘4:24
今日もまた、帰り道を利用してスーパーに。今日は気分転換に別のスーパーで。カゴをとって、カートに載せて。さぁ今日は何にしよう?安いのは…。おっ、じゃがいもがお買い得…、なのだろう。まだ数日、金銭感覚までは掴めなていない。
…この時間を、最近楽しみにしまっている俺がいる。
お袋が毎日していた家事。忙しくて面倒だと思うこともあるけど。同時に楽しいな、なんてことも思ってしまう時がある。お袋がしていたことを体験する。…いや違う。実践する。
そういえば醤油がもうなかったな…。調味料売り場にカートを反転させる。と、視界に入ったのはメイド服を着た女性。テレビでしか見たことないその姿にギョッとしてしまう。そんな俺に気付いたその女性は、特に気にすることもなく軽く会釈をするだけ。
─あんなコスプレを堂々とできる人なんているもんなんだ…。
なんて思いながら、ふと自分の姿もまた、周りに比べて異質なことに気付く。制服姿の男子高校生が、今日の晩ご飯は何にしようと考え込む。「何かあったのだろう」、「大変だなぁ」なんて推測されるのだろう。そうだよ、何かあったんだよ。
醤油を求める。あれ…、いつもの醤油はどれだったか?
お袋は凄い。凄かった。この前生前までお袋がやっていた家計簿を開いたら、事細かく記載してあって、文系の俺には目がチカチカした。当たり前だと思ってした日常が、どれだけ有り難いものだったのか。「ありがとう」。なんて言葉が、もう言えない。
…今日はハンバーグにすることにした。気分的に決めてしまって、お袋はなんて言うのだろう?
レジに並んで、気付く。ポイントカードまた忘れた。…と、今日はいつもと違うスーパーだった。
レジ袋は親父が今まで貰ってきていたものを有効活用。全く、今は無料じゃないんだぞ。
スーパーを出て、ようやく帰路につく。お袋は何を思って毎日を過ごしてしたのだろう。…もしかして、何も考えていなかったのかも知れない。日々が忙し過ぎて、そんな余裕もない日々だったのかもしれない。何だか、自分の想像だけでも申し訳なくなってしまう。…やめよう、今更が過ぎる。こんなことを思っても、お袋は戻ってくる訳じゃない。
十月六日 ㏘5:54
そろそろ夕食の準備をしなければ。
キッチンに立つと、不思議な感覚になる。いつもお袋が立っていた場所に、俺が立つと、何故か。
料理をしようと思ったのは、特に理由も無かった。強いて言うならば、親父の買ってくる惣菜に飽きてきた、というのが理由だった。
初めて
まず手を洗わなくては。それから、そうだ。まず冷蔵庫の中身を…。
…何も無い。まずは買い物からか…。
俺の思考がそう働いた。そして適当に買い物をして、キッチンに戻ってくると。
これだったら…、そうだ、アレができる。
自然にメニューが浮かんだ。自然に手が動いていた。自然に手を洗い直して、自然に工程をこなす。
俺は料理なんて家庭科の調理実習でしか経験が無かったはずだった。だけどこうして料理ができる、
あっという間に料理が完成していて。味見をすると、
それから毎日、俺は食事をつくっている。仕方ないから親父の分も。正直言ってどうでもいいと思っているのだが。思っていても。キッチンに立つと、気になってしまう。初めて夕飯を作ったときも二人分をいつの間にかつくっていた。
弁当もまたそうだ。自分で自分だけの分を作ろうと思っていたのに。いつの間にか親父の分も親父の弁当箱に詰めていた。
何故、なんていらない。いつもの食事を、作れるのならば。気にならない。気になんて、なるものか。
十月六日 ㏘6:02
親父は早く帰ってきた。
「…おかえり。」
形ばかりに言ってやった。
「…あぁ、ただいま。」
ちょっと驚いたような顔をしている。何だよ、せっかく言ってやったのに。
「今日、早いな。」
まだ太陽の足跡が残った空色の時間に帰ってきたことを聞いてみる。
「…あぁ、仕事、早く終わったから。」
…まぁ、そうだよな。理由なんてそんなところだろうな。
「ふーん。」
そうとなれば、もうどうでもいい。
「あ、これ…。ありがとう。」
親父が空になった弁当箱を取り出した。机の上に置く音で、空にしてくれたらしい。
「うん、そこに置いといてくれ。後で洗う。」
「おう、その、ありがとうな。」
その感謝は、お袋にしていたものなのだろうか?…聞けない、聞けるわけがない。だって俺もそうだったのだから。
「…別に。自分の分のついでだし。」
適当に返した。
「…そうか。」
しばらくすると、部屋中にタマネギを炒めた香りが漂ってくる。
「…今日は、何作るんだ?」
「…ハンバーグ、挑戦してみようかと思って。」
ハンバーグ。親父の好物であり、お袋の得意料理の一つ。勿論俺も、大好きだった。
「…へぇ…、作り方、ネットで調べたのか…?。」
…何言ってんだよ。お袋の料理が、ネット経由だったとでも言いたいのか。
…でも、仕方ない。根拠のない怒りをぶつけてもただ虚しいだけであることぐらい、分かっている。
「…まぁ、そんなとこ。」
適当に、返すしかない。
「…そうか。」
親父はどうやら、俺と話したいらしい。だが。
「風呂、入れてきていいか?」
「あ、まだ掃除してない。」
「わかった。」
そうやって逃げていることに、自分でも気づかないのだろうか?
結局その日の夕食時のダイニングテーブルも、会話は無く。親父に後始末を任せて自分の部屋に撤収した。
ベッドで横になりながら、言葉が浮かぶ。
─お袋が見たら、なんて言ったんだろうな。
たくさんの会話があったダイニングテーブルは、もう遠い昔のことで。そしてそんなことをふと思い出すと、お袋が会話の中心だったことを、思い知らされる。
─なぁ、お袋。これでいいのかな。
その言葉を向ける相手がすぐ近くにいるはずなのに。もういない相手に向けても意味がないのに。分かっているのに。
結局、その言葉は布団に丸め込んで、俺は部屋の電気を消した。
続く
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はパソコン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。