幽霊とは、なんだろう?
幽霊。それは死んだ者が幽体というものになってしまう正体不明原理不明動機不明の摩訶不思議の現象である。
…まるで答えになっていない。バツ印を超えて呆れられる。
幽霊は都市伝説だ。そして本来存在しない。が、今や存在してしまう現象だ。
そして存在
五月四日(五か月前) ㏘7:51
私が死んで、一ヶ月は経っただろうか。いやもう分からない。時間という存在が私にとってどうでもよくなってきている。暗いだけの夜に、どこだか分からない町を彷徨う。
もう考えるのが面倒になった。いや、最早全てが面倒だ。どうでもいい。
早く成仏してくれないか、私。
暇なのだ。退屈なのだ。手持ち無沙汰なのだ。なのに、
何も出来ない。ただ意識が在るだけ。
何も話せないとは、こんなにも辛いのか。悲しみに暮れる家族を慰めることも出来ず。顔見知りが喪服姿で現れても、思い出話に浸ることも出来ず、悲しみの会場の佇むことしか出来ない。
何も触れないとは、こんなにも辛いのか。混乱する自分の会社で、部下のミスに気付いても、指摘してやることも出来ず、手直ししてやるこのも出来ず。私が築いたモノが、崩れていくことを呆然と佇むことしか出来ない。
身体が無いとは、こんなにも辛いのか。食べることが出来ず、眠ることも出来ず、足が存在しないからまともに歩けないし足を交互の前に出して移動しても実感が湧かない。おまけに疲労も感じない。
ポジティブに不思議な体験をしたと考えついても、虚しくなるのに時間はかからなかった。
意識だけある状態というのは、こんなにも辛いのだ。いっそ一思いに殺して欲しい。もう死んでいるが。
疲れた。もう休みたい。
もう嫌だ。消えたい。
もう嫌だ。消えたい。
もう嫌だ。消えたい。
もう嫌だ。消えたい。
もういやだ。消えたい。
もういやだ。きえたい。
もういやだ。きエたい。
モうイやだ。キえたい。
モウイヤダ。キエタイ。
ダレカ、タスケテ…。
「こんばんわ。良い夜ですね。」
女の子の、声?
「あ、いまあなたに話しかけているんですが。分かります?」
話し、かけられた?私に?
「そんな顔しないでください。視えてますよ、ちゃんと。」
「み…え…………る、わ……た……し…が。」
長らく言葉を口にしなかったからか、上手く声を紡げない。
「えぇ、視えます、あなたの姿が。聞こえます、あなたの声が。そしてあなたを」
──消せます。
私の意識に、初めて“希望”という二文字が、浮かび上がった。
十月十七日 ㏘4:32
「あの、また手帳、見せてくれませんか?」
平日午後の篠崎邸にて、私は恵に手帳の開示を求めていた。
「いいよ。ハイ。」
…自分の心の中だけとはいえ、開示なんて言葉、使わない方が良かっただろうか。そんな唯一無二のモノが書かれた手帳を放り投げるな。そしてその手帳、高いんだそ?興味本位で同じものをネットで調べたら君は手帳かね?と問いかけてしまう程の値段だったんだぞ?
そんな手帳を受け取る。前回はパラパラと眺めるだけだったので、今回は詳しく拝見することにした。気づいたことが二つ。まず彼女は字が綺麗だ。17歳の女の子が書く字ではない。丁寧に書かれているということは前に思っていたが、この字もまた、丁寧ということに拍車をかけていた。そして、
「やっぱり高齢者が多いんですね。」
「そりゃあね。元々の割合が多いから。」
様々な故人が、列挙する。たまに年若い者もいる。大抵は、事故か何かだ。
「そういや見たよ、あの記事。」
彼女は、手帳を見る私を少しおかしそうに見ながら、話題を私の書いた記事に変えた。
「あぁ、アレですか…。」
「うん、いいんじゃない?雑誌自体も含めての曖昧さが中々の味を出してて。」
曖昧、って…。それは決して褒め言葉ではなかった。
あの後、彼女のネタを売り込んだら、一つの雑誌が興味を示して、何とか掲載までこぎつけた。…まぁ、三流の表紙が見るからに怪しいオカルト雑誌なのだが。
本当に良かったかと思い、彼女に質問を投げかけた。
「けど、いいんですか?あなた曰く言霊の力が幽霊を生み出しているって話なのに。」
すると彼女は質問の本質を捉えることが出来なかったらしく、
「だから?」
と疑問を返された。
「いや、こんなを記事にしてしまうともっとそんな幽霊が出てくるんじゃないかと。」
記事にするとき、それが気がかりで少し気が引けたのだ。だがそんな心配を吹き飛ばすかのように彼女は噴き出して笑ってみせた。
「心配しないで、
何気に傷つく言葉だった。そこで、
「…いつもこれ、つけてるんですか?」
手元にある手帳に強引に話を変えてやった。…いや戻してやったのか?彼女は特段気にすることも無く答えた。
「まぁ、そうだね。自我がある限りは、ね。」
「そうだ、その自我って…。」
前回気になったハテナを、恵にぶつけてみる。
「…幽霊になるとね、何にも出来ないの。前にも言ったように他人と会話することも、物を触ることも出来ない。そして感覚も無くなるの。」
「感覚が、無くなる?」
「そう。例えば足が
「感じ…ない。」
「そうだ、いい例があるね。その手帳の…たしか23ページ、開いて。」
恵の言う通り、23ページ目を開いてみる。
3月8日
ヤマシタレン 享年十八
死因 白血病
家族構成 両親、妹共に健在。
十歳の時に白血病と診断され、それから闘病生活に。
八年間闘い続けたが、ドナーが見つからず、三日前に病院にて死亡。
闘病の末、亡くなった少年。手帳の23ページには、誰もが眉をへにゃりと曲げる青年が書かれたページがいた。
「亡くなって三日後に私と出遭ったから、運がいいほうなの。…生前はともかくとしてね。」
恵は淡々と彼のことを語り始める。
私は話を相手の話を聞いて、それを書き留めて、そして
「心を、失う。」
うん。虚ろな目で話しかけても何も反応しないし、何も喋らない。
ただ存在するだけ、なんて実際に会社などで言われたら間違いなくモラハラ発言だね。
「なんか、可哀想ですね。」
そんな人は、仕方ないからすぐ消してる。なにも話さないし、話せないから、手帳にページが存在しないの。
「じゃあ、この手帳以上に、恵が消してる幽霊は…。」
かなり多いよ。というかその3倍はいるかな。大体まず、死んですぐ逢える人の方が珍しいから。
「そうなんですか…。」
死んで大分時間がかかってしまった人は私が視えて話せる人間だと分かると、必死で…いやもう死んでるか…まぁそんな感じで私に詰め寄ってくる。そしてその私が自分の存在自体を消せる人間だと分かると安堵したような顔をするの。
──私の気持ちも知らないで、ね。
「? 何か言いました?」
ううん。何でも。話を戻そうか。
そのヤマシタ君は私が消えることを勧めても、嫌だって言ったの。
「嫌、ですか。」
うん。彼は十歳の頃から闘病生活を送っていて、外の世界を見たい知りたいと思ってた。病気から解放された今、こうして動けるようになったから、もうちょっとこの世界にいたいってね。少なくとも一年は、とかも言ってたね。
「そうして、どうしたんですか?」
どうしたって?もちろんどうもしなかったよ。どうぞお好きなように、ってね。私には止める権利もないし、消えたくなったらいつでも私の前に現れてとか言ってね。
「じゃあ今も彼は…。」
──いないよ。その一か月後くらいに私が消したから。
「えっ…?」
なに?その豆鉄砲喰らった顔。
「いやだってさっき彼は一年はいたいって。」
そう、彼は確かに後一年はって言っていた。だけどその一か月後、私の前に現れたの。
「消して、欲しい…。」
彼は私と会ってから、様々な場所を訪れたそうなの。絶景、建造物…彼が生前行きたくても行けなかった場所に、いくつもね。だけど満足することはなかった。
「えっ?どういうことですか?」
…ここであなたに聞くけど、あなたは感動した時、あなたはどうなる?
「どう、なる?」
そう、あなたは感動したらどうなるの?
「それは、涙を流したり体の奥から何かジーンとくるというか…。」
そう、
「…というと…。」
彼にはもうその
よくあるフィクションでは、幽霊は魂だけの状態ってことが定説だよね。現実的にもそうなの。幽霊は身体から分離して魂だけの状態、残酷な程にね。この前にも言ったけど、幽霊っていうのは言霊によって具現化した都市伝説よ。世間一般の通説がそのまま現実に現れちゃってる。普通の人には見えないし言葉も聞こえなくて、ものを触れなくて、もう死んでしまっていて魂だけの状態。
だから身体が亡い。火葬されて、埋葬されて、その上には墓石が建っている。…日本の場合ね。土葬でも特に変わりはないけど。身体が亡いって、何もないのということと同じなの。
身体が亡いから、感覚が無い。人間の体に纏わりついていた神経も無い。暑さ寒さを感じることがないし、睡眠も無いし疲労も感じない、
だから彼は、感動することができなかった。身体が
だから、もう消してくれって。これ以上ここにいても意味ないからって。
──だから消したの、お望み通りに。
恵は呟くようにその言葉を言い放ってみせた。事情の知らない他人が聞けば
…本当に彼女は、17歳なのだろうか?目の前にいる彼女を私は、そう一瞬疑ってしまった。大人びている、という表現は似合わない。貫禄とはまた違う重みが彼女には纏わりついていた。
「うん、どうしたの?」
「いや、別に…。」
映画のようなセリフですね、なんて言えるはずもなく、愛想笑いを返す。そんな私に、恵はさっきの続きをするように補足を付け足す。
「けど、これがまた不思議なことがあってね。私が視る限り幽霊は表情を変えるの。笑ったりするし、怒ったり、顔をクシャクシャにしたりね。勿論顔の筋肉は亡いからはずだから、表情を変えられるというのはおかしいよね。」
──どうしてだと思う?
面白がっているようだ。…正直面倒だ。なので。
「…さぁ、どうしてですか?」
「…もうちょっと考えてみようよ。一応クイズだよ?」
いつからクイズになったんだ。
「一応取材なんで。」
ちょっと真面目そうに返してみると、恵は少し笑い、
「思い出したように態度が固くなったなぁ。まぁ別にどうでもいいけど。」
今までの流れを折った。
結局なんなんだ、とツッコミたくなる口を頭から信号を送って抑える、その頭も不服そうであるが。
そんな私をよそに、恵はクイズの答えを発表する。
「なぜ表情は出せるのか。それは幽霊はそうあるべきだから。」
予想外の曖昧な答え。少し顔をしかめてしまった、かもしれない。
「そう、あるべき?」
恵はうなづき、答えの解説をし始める。
「前にも言ったように、幽霊っていうのは世界一ポピュラーな都市伝説。その噂の囁き、それを基にしたフィクションに過ぎない作り話を信じた人々の言葉の力、言霊によって今の幽霊現象が存在する。そうなると、その人々が思い描き、作り上げた
?マークを返されて、返答に困った。確かに幽霊とはなんて聞かれて、思い浮かべるのは死んでしまった人が魂だけの状態で…。普通の人には見えない、その声は聞こえない。見えても半透明…、くらいのものだ。
恵は続ける。
「そこに“どうして”はない。人々はそこまで考えないから。原理なんて教科書にも参考書にも載ってないし、載ってるはずも無い。だっているかどうかも分からないけど誰でも知ってるポピュラーな噂話に過ぎないから。だけど幽霊とは?と訊かれて
なるほど、つまり幽霊はいるかどうか分からない、そのあやふやな存在から人に恐怖を抱かせる。だが実際は人によって作られ、ゆがめられた存在だという訳だ。
「あ、これじゃクイズの答えになってないじゃん。私も原理は知らないわけだから。」
それは正直どうでもいい。
ふと手にある手帳に視線を向けた。几帳面に書かれた幽霊たち。彼女の話と聞いているうち、ズラリと並べたそのプロフィールたちが被害者リストに見えてきた。人々の噂による力に巻き込まれ、死してなお彷徨い続けることになってしまった亡者たち。彼女が来るまで、どんな毎日を過ごしてきたのだろう。
「あの、あなたはいつも相手から話を聞いていますよね。」
「そうだけど、何?」
「その、良かったら一人くらいどんな人がいたのか教えてほしいなと…。」
恵は少し間をあけて、口を開いた。
「…いいよ。あなたと喋るのも少し面白くなってきたし。」
そうだね…、と呟きながら目を閉じてゆっくりと開く。
「25ページ、開いて。」
恵はその25ページの人物をゆっくりと語り始める。
スズキユタカさん。享年41歳。死因は急性心筋梗塞だって。俗に言う急死ね。若い頃に企業して、苦労してやっと会社を軌道に乗せたばかりのところで。
私と出遭ったのは夜の公園。殆ど自我を失っていたけれど、私が話しかけたら反応してくれた。話すことも久しぶりみたいで、片言の会話だったけど。
大分長い間幽霊だったみたいで、私が自分の存在を消すことができる存在だと分かった瞬間、消してくれと懇願してきたの。
じゃあどうするかって?決まってるじゃない。
だけどこの人の場合、ちょっと面倒だったの。
五月四日(五か月前) ㏘7:55
話を、聞かせろ?
「冗談…、じゃ…、ない…!」
私はいつの間にか真夜中の公園にいたらしい。そこで出遭った…死んでから初めて会話ができた人間と私は会話している。出来ている。そしてその人間は、その制服姿の少女は私を消せるらしい。
ならばお願いだ、早く消してくれ。もううんざりなんだ、この世界に。
「そんな焦らずともいいんじゃないですか。聞きたいんです、あなたの話を。」
「…ふざけ…るな!」
片言の罵声。こんな少女に浴びせるなんて年甲斐もない。
「……。」
彼女は黙る。……黙らないでくれ、希望が何も言ってくれないのは困る。
「分かりました、じゃあ…。」
ようやく消してくれるのか…!
「これで失礼します。」
彼女は私に背中を向けた。
「…!」
一体何を言い出すんだ!悪かった!罵声で唯一の希望が消えてしまうのはあまりにも残酷じゃないか!
「待って…くれ…!」
慌てて彼女を引き留める。彼女は振り返り、言い放つ。
「私もタダで消すわけにもいきませんから。何もないあなたにとっては
「何故…何故…そんなに…。」
私の話など聞きたいんだ?
「何故?…あなたの今までを、無駄にしないために。」
「…!」
今まで、を?
「あなたは死んでから今までだれにも気づかれる事なく彷徨ってきた。その事実を、なかったことになんてしたくないんです。」
──あなたのことを、消してしまう前に。あなたが
「何を…言っている…んだ、君…は。」
「あなたは今までこうして存在してきたのは、運命のいたずら、なんてものじゃなくて
理由などない。…そうなのか。私がこうなった理由などないのか。少しショックだ。何かをしなければならない理由でもあるのかと思っていた時期があったので尚更だ。
「だからこそ、あなたをただの巻き込まれた不特定多数、なんてものにはしたくないんです。」
そうして彼女は微笑む。さっきから彼女の声には、暖かさが宿っていた。こんな制服姿の少女に、何故か感じた暖かさ。
「分かった…、何を、話せば、いい…。」
どうせ消えてしまうのならば、いいか。
それから彼女に全てを話した。自分の生い立ち、仕事、結婚、家庭…。そして死ぬまで。上手く説明できていたかは分からない。だが彼女は私の話を静かに聞いて、それをとてもその歳では似合いそうにもない手帳に書き留めていた。彼女曰く、いつもこうして書き留めているらしい。
話しているうち、喋ることにもようやく慣れてきた。…情けない。
「死んだ時は、よく覚えていない。」
「そう、ですか。」
「死んでから、自分の死因を聞かされたよ、自分の葬式で。急性心筋梗塞だったと。本当に不幸だったよ、死んでからもな。」
苦し紛れのような皮肉が情けなかった。
「…。」
彼女は私の自分に対する皮肉を聞き流した。そして、
「そう、ですか。……ありがとうございました。では聞きます。」
──もうこの世に、未練はありませんか?
あぁ、ようやく。……未練、か。
「ない、な。ない。もうこの世界には飽き飽きだ。」
「…本当に?」
彼女は念をおしてきた。
「あぁ、早く頼む。」
私の言葉に、彼女は黙った。…何だ、その目は。
「どうした、早くしてくれないか。」
彼女は静かに口を開いた。
「……あなたが私に仕事のことを話してくれていたとき、あなたの言葉か活気がありました。」
「…何を言っている。」
「あなたが結婚の話をしたとき、あなたの言葉は少し熱かった。」
「……もういい。」
「あなたが家庭の話をしたとき、あなたの言葉は暖かった。」
「やめろ!」
「あなたは、このままでいいんですか?本当に、もう消えちゃっていいんですか?」
「もういいんだよ!私は、私はもう消えたいんだ!早く、消して…!」
「…未練のあるあなたを、私は消すことなんてできません。」
「未練なんてもう、無い!無いんだ!」
「……。」
必死になる私に対して彼女は黙っていた。…私が根負けすることを待っている。
「だから、もう!もう…、もういいんだ…!」
あぁ、駄目だ。やっぱり彼女の言う通りだ。そして彼女のせいだ。
「…畜生…、駄目だ。」
会いたい。私のせいで滅茶苦茶になってしまったのだけれど。迷惑をかけてしまったけれど。こうして一度忘れて、忘れかけてしまった存在に。
「お前の、せいだ…。」
恨み言を、吐いてみせた。だが彼女はそれも受け流した。
「えぇ、何とでも言ってください。どうせ今は私にしか聞こえませんから。」
自然と感情がこみ上げてきた。不思議な気分だ。もう身体はないというのに。
泣いて、しまっているのか?悲しい、のか?そうか、寂しいんだ。そうか…。
うなだれてしまった私に、彼女は言った。
「…今日はもう暗いですし、今日は退散します。また明日、ここに来ますから。」
そう言って立ち去った。私を消さずに。話だけを聞いて。こうして大の大人を泣かして。
五月五日(五か月前) ㏂11:37
「本当に、来たんだな。」
それも日中に。太陽が真上にある時間帯に、彼女は来た。昨日と同じ制服姿で。後ろにはメイドが、え?メイド?…金持ちだったのか…。
「そりゃ来ますよ。まだあなたを消せていませんし。」
至極当然のように答える彼女。
「そうか、それなんだが…。」
「まだ、消えたくないんですね。」
私の本音など彼女は見透かしていた。
「…あぁ。だから…。」
「そう言うと思いました。それじゃあ、行きましょうか。」
「は?」
行きましょう?どこに?
「あなたの、行きたい場所へ。車用意してますから。」
──満足するまで、付き合いますよ。
彼女の笑顔は、どこか爽やかさを感じた。
五月五日(五か月前) ㏘5:21
「ありがとう。」
その日の夕方、ユタカさんは笑顔だった。忘れかけていた存在をもう一度その存在しない眼で見れたことが、余程嬉しかったらしい。
今日一日をかけて、ユタカさんの会社や自宅を回った。少し遠かったので葵には迷惑をかけてしまったが。葵の小言はまた後で聞いてあげよう。
「いえ、殆ど自我を失っていたあなたには場所が分からなかったでしょうから。」
「そうだな、一か月の間にあそこまで歩いていたとは…。」
ユタカさんの会社は、その後傾きかけたが何とか持ち直したらしい。未だ混乱はあるようだが、この笑顔を見る限り、大丈夫そうだ。
「君にはもう感謝しかない。…もう何も返せないから、こうして礼しか言えないのが残念だ。」
流石は社長だったことはある。そんな気遣いは不要だというのに。
「…私はまだ未練のある人を、消したくなかった。それだけです。」
正直な言葉だ。嘘をつく理由が、どこにあるのだろう?
…さぁ、もういいだろう。
「もう一度、聞きます。…もう未練は、ありませんね。」
「…あぁ。もういい。…ありがとう。」
二度目のありがとうを聞いた後、私は静かに指を構えた。
「分かりました。では…。」
──お疲れ様でした。さようなら。
私の指が、鳴って。その音と同時に目の前に視えていた男性が消えて。声が消えて。気配が消えて。…何度やっても、この後に来る嫌な気持ちには慣れない。慣れることはない。…慣れてたまるもんか。
十月十七日 ㏘5:01
「そうしてユタカさんは消えた。私の手によってね。」
まるで黒幕が証拠隠滅の際に使うようなセリフ。恵はやはりサラッと言ってのける。
「あの、なんでこうして、覚えてるんですか?」
今手帳は私の手にある。彼女今手帳の中をそらんじてみせた。この前もそうだった。
「いつも覚えてるわけでじゃないけど。…だけどね。」
──自分の消した幽霊は、いつも私の脳裏に刻まれる。刻まれてしまう。だから、思い出してしまう。それだけの話。
彼女は少し虚しそうに呟く。
「そろそろ手帳、返して、死者とはいえ、それ
「あ…。」
そう言われればそうである。私は丁寧に彼女に返した。…危ない、スマホで写真を撮るところだった。
そういえば一つ、気になったことがあった。
「いつも話のように、未練を無くしていってるんですか?」
すると彼女は、少し口角を釣り上げていった。
「いや?…いつもってことはないよ。それにどうにもならないだってある、できる範囲でね。自我を失っていたら話しかけも無駄だし…。まぁ、ユタカさんはギリギリだったけど。それに、特別気になったから。…だって、ユタカさん、私が話しかけるとき、」
──泣いていたから。
涙する社長 了
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