第50話 「舟《NOAH》」


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第50話 「NOAH




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「よーし、解散だ。掃けた掃けた」


 重い空気から一転、非常に軽い言葉で集まっていた幹部たちは部屋を後にした。一人、気さくな金髪の男にはよろしくな、と声をかけられたものの、大半はまるで興味がないと宣言せんばかりに気にも留めず去っていった。

 積極的に話したいわけでもないが、これはこれで思うところがある。


 広い会議室(それっぽい)にはふんぞり帰った団長殿とその側近、未だにきまりが悪そうな姉さんと、オレたちのみ。


「ん? どうした、もう行っていいぞ」


「いいぞと言われても困るな。自分たちはまたあの部屋か?」


 レインが説明を求めようとしたが、


「無礼だぞ、口を慎め」


 と、冷徹な声が飛ぶ。

 緑髪の側近女が凄まじい形相でレインを睨みつけていた。


「特例で栄誉ある統合機士団の懐に招かれてはいるが、貴様らは『訓練兵』でしかない身だ。いいか、新兵ですらないのだぞ。組織に属する以上、上官への礼儀を尽くせ」


 さっきまでの慇懃な口調が掻き消えていてビビったが、ごもっともな意見だった。そも単純な身内パーティーと違って、上下関係は絶対だ。認識がいきなり甘かったか。


「失礼致しました。……ローザ様」


 即座に言い直したレインが、深く頭を下げた。こーいうのは慣れてるって感じだぜ。流れでオレも頭を下げる。


「アーベライン大佐だ。基本、上官に対しては階級で呼ぶので、自分の身分とともに心に刻みつけておけ」


「了解です、大佐」


「了解です」


「まあいいじゃないか、ローザ。今は私たちしかいないから、そう固くならなくても良い」揃って畏まるオレたちに、団長が笑って口を挟んで、「ああ……そうだ、先ほどの『私が王家の血筋である』という話、トップシークレットだからくれぐれもくれよ」


「はい……、あれ、ってことは、みんな王女様のこと知らないんですか?」


 その割にはすごくあっさり教えてくれたけど。


「ああ、いや。少し言葉を誤った。統合機士団以外には、だ。人類統合軍も一枚岩ではない故、知られると都合の悪いことがある。面倒くさいだろう?」


「そう、ですね」


 派閥争いってやつだろうか。

 それだけである意味、組織の規模がとてつもないことが窺える。


「どのみち、この部屋での話が機密であることに変わりはない。くれぐれも友人だからといって吹聴してくれるなよ? ……なあ、シルヴァレン?」


 突如として、姐さんへ向けて放たれた挑発には、


「馬鹿にしないでよ。それくらい弁えてる」


 短く、そっけない答えが返された。


「どうにも余裕がないな、今のお前は」


「そりゃあね」姉さんは小さく頭を抱えてから、「もうごちゃごちゃとは言わないわ。改めてよろしく頼むわよ、二人とも」


 差し出された言葉にオレとレインは頷く。

 初めから「仲間」であることには変わらない。ただちょっと、組織図変わっただけだ。


「……じゃあ、とりあえず出るわよ。しょうがないからあたしが案内してあげる」


 流れに身を任せるように、姉さんの後へと続く。

 元きた順路を通って未来的な昇降機へ乗り、司令室へ。職員たちは相も変わらずカタカタと忙しそうに画面へと向き合っていた。


 司令室から出て左右、鉄仮面を貼り付けた護衛たちがお出迎えしてくれたが、彼らに向かい合う形で見慣れた顔が腕組みをしていた。


「お勤めご苦労様だぜ」


 アッシュ・グラハムは、澄ました顔でそう言う。

 奴はいつものラフな格好と違って、職員と同じかっちりとした制服……じゃなくて軍服を着こなしている。姉さんがいつもと同じ格好なのを見るに、ある程度の地位であれば服装に自由がきくというところだろうか。


「なんか久々に会った気がするぜ」


「そうか? オレはお前の情けなく凍った顔、たんまり見せてもらったもんだからそんなにだ」


「こいつ……」


 それこそアッシュにも聞くべきことがたくさんあるのだろうが、最初に交わした会話がこれだ。いつも通りすぎて逆におかしい。


「ちょうどよかった……ってより、待っててくれたのよね?」


 姉さんはやっぱりねという顔で微笑んでいた。


「幹部がいきなり集められたんですから、予想もつきますよ。ヒロとレインちゃんの顔を見るに、『案内』が必要ですよね?」


「『紹介』も、ね。あたしはやることいっぱいだし、『ノア』の説明はアッシュに任せるわ」


「了解ですっ」アッシュが軽く、敬礼する。


「そういうことだからあんたたち、『今日のこと』はアッシュに聞きなさい。『明日について』はまた夜にでも連絡するから」


 ひらひら〜と手を振って、白いドレスを翻しながら姉さんは去っていった。


「さて……任されたとは言ったものの、何から説明するかね?」


 と、アッシュが小首を傾げていたが、


「……そもそも今、何時だよ」


 懐中時計など高級品すぎて持ってるわけないので、通常、陽の光や公共の時計で時刻を確認するのだが、 いかんせん無機質な通路。知る術がない。


「今はだいたい昼前だな。さっそく飯にするか……と行きたいところだけど、ここが二人とも聞いてる?」


 アッシュの問いに、当然オレたちは首を振る。


「流れで司令室まで連れ回されたけど、そういや何も聞いてねえ」


「何か巨大な乗り物だというのはわかっている。ただ、船の揺れにしては穏やかすぎるような気がするが」


 ……なに、オレは船だと思ってた。乗ったことないからむしろそうかと。


「お、レインちゃん鋭い! 半分正解。んじゃ最初は答え合わせといきましょうか」



 アッシュの案内に従って、曲がりくねった通路を進む。

 合間合間に軍服を着た若い男女とすれ違った際には物珍しそうに見られて落ち着かなかった。


「着いたぜ」


 幅の広い大階段を登って、一つの扉にたどり着く。

扉上部にある丸い窓から薄暗い「中」へと光が差し込んでおり、眩しい。


「この外から見りゃあ、一発でわかる」


 言って、アッシュは鉄の扉を一気に引いた。轟! と突風が吹き込んでくる。

 心地よい風をもろに受けつつ、オレたち三人は「外」へと躍り出る。


 ——視界いっぱいには空が広がっていた。


 一面、だ。

 広がる青は濃い海の色ではなく、薄い空の色。

 オレたちが立つのは甲板。ただし、船ではなく、空の舟だった。


「あんまり端に行くなよ。落っこちても助けらんねーぞ」


 心の赴くままに甲板を進むオレに、後ろから声が飛ぶ。そんなことするわけないが、それはそうとして絶景に見惚れてしまう。


「これは……どういう原理で動いている」


 感動をよそに現実的な発言をするレイン。そこかよって突っ込みたくなるが、レインはあれでいて技術屋気質なところもある。思い入れの問題か。


「そりゃあブラックボックスってやつだな。シーナさんは開発に携わったって豪語してたが……詳しくは幹部すら知らねえと思うぜ」


「うぅん。もしこれが魔法だけを動力としているなら、シーナの協力は不可欠だろうな」


 たしかに。姉さんに披露してもらった魔法は常人のそれとは比べ物にならなかったもんな。


「少し、散策してきてもいいか?」レインが半分だけ振り返って言う。


「いいぜ。ただ他の軍人に話しかけられたらちゃんと『今の身分』を答えてね。たぶん通じるはずだから」


「わかった」


 レインは恐れることなく甲板の淵へと歩んでいった……。


 おっかねえ……、とオレは思いつつ、


「なあ、アッシュ。そういやこの舟って、今どこを飛んでんだ?」


「…………これを自分で言うのもおかしいのかもしれねえけどよ、他に聞きたいことはねえの?」


 どうにもアッシュはバツが悪そうな顔をしていた。

「なんだよ、今更なんで黙ってたんだとか、そんな話になるとでも?」


「気にはなってるだろ?」


「そりゃあな。でもそーいう面倒な話はさっき散々してきたから、もういいかな」


 どっちみち決めたことだし。


「そっか」


「そうだ。……で、どこを飛んでるんだ? それも言えない系か?」


「いーや、今は『本部』に帰る道中だから『南』に向かって飛んでるんだが……アドベント南南東にガンテン山ってあるだろ。あそこを超えたくらいじゃねえかな」


 ああ、メルバ山の次の山か。冒険者があそこまで行くにはしっかりとした旅支度が要る。日帰りがモットーだったオレたちには縁がない場所だったが、そうか、あっさり越えちまった。


「本部、ね。まあ組織だって動いてるんなら拠点は絶対必要あるだろうな。今までアドベントに見つかってないってことは、地下にでもあんの? もしくは海を越えてめちゃくちゃ遠いとか?」


 あれだけ反逆者狩りに躍起になってる彼の国が、影も形も捉えられないという話は聞いてる。


「我らが本部に地形とか距離とか、重要じゃねえんだ。場所にあるから」


「……? そんなのでたどり着けんのかよ」


「時期が来ればわかるって先輩ぶりたいけど、俺もペーペーだからなぁ。ま、とりあえず訓練兵を卒業しろ。お前にはハードな訓練かもしれんがなんとかなる、と思う」


「結局、思わせぶりかよ。とにかくその訓練は本部とやらでやるとして、夜まで放置なんだよな。のんびり『観光』しちゃってるけど、ほんとに大丈夫なのか……?」


「わかってないね、ヒロ。猶予なんだよ」チッチッチとアッシュは指を振って、「男ってのは、……まぁ女もだが、英雄に憧れる。誰しもが熱に浮かされるもんさ。そういう奴らが人類統合軍の門を叩く。お前らみたいに選択を迫られたわけじゃなくて、自ら、な」


 腐った国を変えたい、化物を駆逐したい、理想を描いても一人で為せることには限りがある。そんな奴らにも門戸を開いてるってわけか。


「さて……どうにかこうにか英雄への道へと漕ぎ着けたまでいいが、そこは間違いなく修羅の道。実戦の空気に当てられちまって、腰を抜かす奴もいる。訓練が始まってそんなのがわんさか出ても困るだろ? 『最後の一日』、考え直す時間が必要ってわけだ」


「なるほどな。ようやく腑に落ちたぜ」


 実際、冒険者になる時だって、口を酸っぱくして命懸けの職業であることを伝えられた。それでもまだ冒険者は、無茶をしなければ——いざという時に逃げれば死ぬ確率は低い。

 大抵の冒険者の死因は、欲をかいて(ランクアップだったり、戦利品ルートだったり)異形ヴァリアと戦ったことによるものだ。


 しかし、軍人は違う。

 違うはずだ。自らの命を差し出すことが使命。それは何より「過去のオレ」が証明している。


「いくら流れによって決まったとしても、その時どれだけ覚悟があっても、『本当』はわからねえ」


 機会ってのは平等に与えられるべきなのさ、とアッシュは言った。


「んじゃ、いよいよ昼飯へ……って、今度こそは行きたかったんだけど、これどういう状況なのレインちゃん?」


 甲板を散策しに行ったレインを連れてくるべく探していると、何やら泣きそうな女の声が聞こえてきた。嫌な予感がした俺たちが向かうと、何やら「幸の薄そうな」美人から、猛烈な勢いで謝られていた。


「ふぅむ。こちらの女性が甲板から転落しそうになっていたところを助けたのだが……不覚にも衣服を引っ掛けってしまった」


「すっ、すみません、ほんと! 申し訳ないです私のせいで! べ、弁償させていただきますっ! 足りないようでしたら体でもなんでもお支払いしますっ‼︎」


 終始落ち着かない様子でめちゃくちゃなことを言いながら、ぺこぺこと頭を上下させている女性。理知的でシャープな眼鏡をかけて、清楚なワンピースに包まれる様は「理想のオトナ」といった感じ、なのだが。

 ……いかんせん振る舞いが追いついてない。


「あーっと……ウォーカー大佐? とりあえず一度落ち着かれてください」


「はいっ! わかりました! ……、………。……。ありがとうございます、ちょっとだけ冷静になれました」


 女性——大佐はわかりやすく深呼吸してから、あ、とアッシュの顔を見て反応する。


「……あなたはたしか.シルヴァレンさんと一緒にいた……アシュさん!」


「はは、可愛らしい響きですのでそうお呼びくださっても構いませんが、一応、私はアッシュ。アッシュ・グラハム上等兵です」


「あっ、また私……ごめんなさいっ!」


「お気になさらず、大佐。それよりもお怪我はありませんか?」


 相手が年上であることを加味しても、アッシュが明確な上下関係を築いているところは新鮮に映る。先ほどの会議室のやりとり以上に「階級」を意識させられるというか。

 もっとも、その中でも妙に慣れた言い回しで接しているのはさすがだが。


「この方がすごい力で引き上げてくださったので、擦り傷一つなく……」大佐は改めてレインの方を見やって、「本当にありがとうございます。あなたこそ大丈夫でしたか?」


「問題ありません。こちらこそ訓練兵ですらない身分でありながら、上官殿に失礼な態度を取ってしまい申し訳ありません。この処分はいかようにも」


「とっ、とんでもないです! 私だって研究職で剣一つ持てないくせに醜い脂肪いっぱいの太った体で、おまけに鈍臭いですし……いつも迷惑かけてばかりで」


 ……? 彼女が太っているなんて冗談。

 大人しげな雰囲気補正だけでは隠しきれようはずがない、メリハリの効いたプロポーションは決してレインや姉さんに負けてない(オレの知ってるアッシュなら、こうだ。「新たな扉がまた一つ開いちまったな。時代は巨乳眼鏡だと思わねえ?」)。


「太った」の意がもし、……もし仮にその凶悪な胸部のことを指しているのであれば、「スレンダー」と呼ばれるお姉さん方にそれこそタコ殴りにされるような発言だなと思うが、うん。わざわざ口には出すまい。


「せめて何かお礼をして差し上げたいのですが……、その、将校より下の階級の方へは武器や道具を提供することができませんので……。うぅ、やっぱり体でお支払いするしか!」


「お気持ちはありがたいのですが、大佐殿はもう少しご自身の体を大事にされた方がよいかと」


 涙を孕んだ声にレインは涼しい顔で応答する。


「彼女の言う通り、ウォーカー大佐はご自身を安売りしすぎですよ」一方でまた、苦笑いしたアッシュが、「ちょうど一つ、大佐の力をお借りしたいことを思いつきました」


 オレにウインクしながら言った。




「剣を直してほしい、ですか」


 甲板から大佐殿を案内してきた先は、オレが呑気に丸一日以上眠りこけていた部屋だった。


「はい」アッシュは頷いてから、「ほら、レインちゃん、ずっと気にしてただろ」


「……ああ、なるほど」


 吹き飛ばされた鉄製の扉を越えて、レインは壁端に立て掛けられている布に包まれた棒状の物体を手に取る。くるみを取るとそれは……先の戦闘でレインに貸した「銀の剣しろがねのけん」だった。


「ヒロ、すまない。無茶な使い方をしすぎた。一度、ちゃんとした鍛治師に見てもらおうと思っていたのだけど……」


「今さら気にしねえよ」


 むしろ気になるのは、


「その、大佐殿が直してくださる……のですか?」


「ええ。大抵のものならお安い御用です」大佐は柔和に微笑んで、「レインさん、見せていただけますか?」


「どうぞ」


 レインが剣を渡す。

 言っちゃなんだがこのお人、休日の昼間に図書館で本でも読んでそうなおっとりした女性だ。さらに偏見だが非常に不器用そう。

 けれど第一印象に反して彼女は、手慣れた様子で鞘から剣を抜く。


「おお……かなり派手に斬りまくりましたね。剣身が悲鳴をあげてます」


 優しく剣を撫でるその様は、まさに美しき剣匠。不思議と武器を持っただけで、抱く印象が正反対に変貌しつつあった。


「レイラ・ウォーカー大佐は、この空中戦艦における『技術者』のトップだ。疑っちゃバチが当たるってもんだぜ、ヒロよ」


「とにかくすげえ人だってことは理解したぜ」


 この謎の空飛ぶ舟の技術職なんて絶対ただもんじゃねえからな。まあ、ならなおさら警備というか護衛しっかりしとけって話だが。


「少しだけ机をお借りしてもいいですか?」


「もちろん、ご自由にお使いください」アッシュが満面の笑顔で言う。


「……え、ここでやるんですか?」


 あまりにも自然に腰をかけるものだからスルーしていたが、ちょっと遠目で見ただけでも銀の剣しろがねのけんは相当なダメージを負っていた。

 本格的な道具を使って研いでいく必要があると思うのだけれど、この殺風景な囚人部屋にそんなものあろうはずがない


「はい。すぐに終わらしますので、くつろいで待っていてくださいね」


 と、しかし。ウォーカー大佐殿の右手にはいつのまにか小槌が握られていた。すでに机にはいくつかの砥石が。

 パチパチ。

 瞬きしていると、さらには手入れ用の油まで並んであった。


「……いつの間に道具を?」


 そのつもりはなかったが、あまりの「マジック」に声が漏れ出る。


「ああ、これらはいついかなる時でもお役に立てるよう持ち歩いているんです。剣でも、銃でも、大砲でも。それが後方支援の努めです」


 半身になった彼女は淑やかに、されど力強く答えてくれたわけなのだが。


「…………どこから取り出したんですか?」


「……トップ機密です」


「はい?」


「トップ機密、です」


 声色は変わらないし、笑顔も変わらない。

 でも、何か妙な圧がある。

 アッシュに関しては、口の形だけで「聞くな馬鹿」と言っていた。


「せ、詮索が過ぎました」


「いえ、こちらこそすみません。不思議は不思議としておくのが幸せに生きるコツですよ」


 至極名言っぽいことを言って、大佐殿は作業を開始する。


 くつろいでいていいとは言われたものの、遥か上の上官様を働かせておいて歓談などできようはずもない。

 なんとも言えない空気のまま、オレたち三人は鋼が研ぎ澄まされていく音を聴き入っていた。



 きっと一〇分ほどに過ぎないであろう一時間を堪能しているところで、やっと大佐殿は立ち上がる。


「お待たせしました」


 彼女の細腕には剣身を艶々に輝かせた銀の剣しろがねのけん。慌てて駆け寄ってオレは受け取る。


「感謝します、ウォーカー……大佐」


 言い慣れない階級に若干どもりつつも丁重に受け取る。なんとなくはわかるけど後でアッシュにレクチャーしてもらわねえとな。


「とんでもないです。これで許していただけるのが申し訳ないくらいですし……」実際にまだ心苦しそうな顔をしている大佐だったが、「でも……良い剣を使っておられますね。善も悪も人も物も、さまざまな斬った証がありました」


「……やっぱり、わかるものなんですか」


「経験則ですけどね。ただ、手入れもきちんと行き届いていて、あなたの想いもはっきりと刻み込まれていましたから。あなたは立派な剣士さんだと思います。……よろしければお名前をお聞きしても?」


 柔らかな口調にもちろん断るわけもなく。


「キサラギ・ヒロです」


「キサラギさん、ですね。あなたに、そしてレインさんに、幸運があることを願っています」


 それでは失礼しますね、とそう言って彼女は、丁重な会釈して部屋を去っていった。責任者だというからには、それはそれはやることもたくさんあるのだろう。

 小走りでかけていく様を見るに、本当に義理だけでオレたちと関わっていたに違いない。

 冷たい連中の集まりだなぁなんて思っていたけどとんでもない。良心はそこに必ずあった。


「結局あの人、オレたちが何者なんだとか一切聞かなかったな」


「良い意味で、人に興味がないんだろうさ。俺も多くを知ってるわけじゃねえが、あの人は武器や道具を通して人を『視る』そうだ。なんかすげー人に誉められたって思ってりゃいいんじゃねえの」なんかそれっぽいことをアッシュは言って、「それよりさすがに腹減ったぞ、おい。お腹と背中がくっつきそうだ」


「そう言われればオレも……」


 未知の不安がだんだん取り除かれていくと、体は正直になっていくものだ。つい数十分前までは感じなかった空腹感が、アッシュの言葉を切り口にどばどばと溢れ出してくる。


「レインちゃんも腹減ったろ? 上の連中ケチだからパンと水だけで十分だとか言ってロクな食糧渡してくれなかったみたいだし」


「自分は全く問題ない。けど、ヒロが腹を空かせているというなら付き合おう。むしろヒロはもっと食べるべき」


「たしかに! 背、ちょっと伸びたとはいえまだまだ細すぎるかんな、お前」


 アッシュがガシッと手を肩にかけてきて。


「うるせぇ、余計なお世話。んじゃ、とりあえず食堂でもなんでも案内してくれよ」


「へいへい」


 そうしてオレたちも部屋を後にしようとしたのだが——、

 ビリッ。

 そんな、布が裂ける音を聞く。


 反射的に音の方角を向くと…………レインのブラウスが見事なまでに、破け落ちていた。



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