第46話 「急襲《raid》」


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第46話 「急襲raid




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 宴も終わりを迎えて、各自解散の流れとなって。

 オレとレインは人の気配が消えつつあった迷宮街を抜けて丘の麓を歩いていた。


「すげー、スースーする」


 オレはいま、あのふざけた下着の上にシャツとマントを羽織っているだけだ。一歩間違えて守護者アテネポリスに声をかけられようものなら、手錠をはめることになりかねないだろう。事案ってやつだ。

 なので帰り際に着替えようとしたのだが、あいにく周りはそれを許すような連中ではない。


「ふぅむ。どうしてもいうならそこいらで着替えてきたらどうだ? 待っているぞ」


「今更だからもういいよ。とにかく風呂に入りてぇ」


 こーいう時、自動で沸かしておいてくれる装置などないのだろうか。第零都区の富裕層は召使いが全部やってるくれてるんだろうけれど。


 主に愚痴を吐きながら丘を登り、落ち着ける寝ぐらへと到着。今すぐソファへともたれかかりたい気持ちを自制して、風呂場へと向かう。昨日の残り湯がまだ残っているので適当なサイズの魔炎石を放り込むだけで済むが、沸くのにはやはり一〇分はかかる。


 ログハウスの中に入ると、ニアが水を汲んでいた。一杯くれよ。そう言いつつ、結局ソファへと倒れ込んだ。手持ち無沙汰になったカタナは無造作に立てかけてしまう。

 手入れしなきゃいけねえのに、動く気しねー。一日終わりの日課ですら億劫になるほど疲れているのだ、要は。


「風呂は、先にどちらから入る」レインはちゃんとオレの分の水も持ってきてくれて、「ヒロがいいなら闘拳で決めても構わないが」


「はっ、冗談キツイぜ。オレの弱さはさっきしさんざん見せつけてやったろ」


「言うまでもなく冗談だ。今日はヒロから入るといい。普段の一番風呂は頂いているからな」


「助かるぜ」


 その優しさが心身に染みる。

 ここで寝ちまってはまずいと、L字型ソファ前のテーブルに置かれた水で眠気を覚まそうとして、


 ————ゾクッ!

 体に冷気が走るような感覚がした。


 眠気なんか一瞬で吹っ飛び思わず剣を掴む。レインに関してはオレの数倍は早く、周囲を見渡して「剣気」を放っていた。……このわけのわからない寒気がする状況の中でも、彼女の「力」を如実に物語っている。

 複数いやがるな。まさか、クラム屋敷急襲作戦の報復? 正体が割れちまったっていうのか⁉︎


 外から音は聞こえない。よりそれが、不気味。

 だけど間違いない。

 オレたちは確実に囲まれて——。


「剣、貸りる」


 と、隣でそう聞こえたと同時、強く突き飛ばされ地面に突っ伏す。

 瞬間、耳をつんざく七色の銃声音。

 地面に転がっているオレの頭上を鉛玉が乱舞し始めた。


「は……、今日はほんと、クソ最悪の日だな」


 立て続けの試練に可笑しくなって、つい笑いが込み上げる。

 そんな最中にレインは、天井のライトにしがみつきぶら下がっており、一度体を大きく揺すったかと思うと飛び上がる。


「ヒロ、伏せて!」


 粉砕した窓を華麗にくぐり抜けていくあまりにも身のこなしが軽いレインを、先ほどまで給仕の仕事をしている女だったとは到底思えない。

 再び瞬く大量の火花。レインの安否と同時、本能的な恐怖が脳を支配する。

 かといってオレも、怖いし、伏せていろと言われたからなんて宣えるような奴でもない。

 手の中に余ったもう一つの得物、「大地ノ剣だいちのつるぎ」を持って、レインの後に続いた。

 硝煙立ち上るログハウス前には、銃火器を構えた黒フードの連中がゾロゾロといる。その内何人かは地面に這いつくばっていて……鮮血を垂れ流しにしていた。

 この一瞬でレインが殺ったのか⁉︎

 オレたち家を一瞬で蜂の巣にしてくれやがった奴らの武器は連射式の銃(レインが前、機関銃って言ってたか?)。先ほどの発砲音を鑑みるに、あの弾丸の雨を掻い潜ってを殺したということになる。

 現に、圧倒的に優位な状況であるはずの黒フードたちが、銃を構えたまま固まっているという状況が異様さを物語っている。

 ……と、一人が一歩、前に出る。

 派手な格好だ。全身を白銀の鎧で覆い、身の丈ほどもある長剣をひけらかしている。

 フード連中を率いるにはいささか大仰すぎる装備と言える。まるでどっかの騎士団、みたいな。


「さすがは『死神』、といったところです」


 声と足取りに動揺の色は見慣れない。

 わかりやすい出立ち、そしてその行動を咎められないことからも、リーダー格だと察せられる。


「おまえたちは何者だ。守護者アテネポリスでももう少し慎重に行動するはずだけれど?」


「我々の目的は、あくまで貴女にあります。大人しく同行するのならば、ボロ小屋をこれ以上壊さずに済み、後ろの男も殺さずに済みます」


 いくら頭の回転が早くないオレでも、死神の名を呼んだことや、オレたちの生活を知っていることから、巨大な組織が奴らの裏についていることが察せられる。


「では先ほどの先制攻撃はどう説明する? あれで殺すつもりはなかったというのなら、冗談としてはそこそこ面白いが」


「貴女こそ冗談を言わないでください。あの程度の攻撃で死ぬような人間ではないでしょう」


「自分はいい。数多の業を背負う身だ。命や肉体を狙われることも甘んじて受け入れよう。だが、ヒロは関係ない。自分が目的というのならなおのことだ」


「ですから、その男は初めから関係ないと言っているではないですか。いてもいなくても、どちらだっていいんです。貴女が来てくれさえすれば」


 その「女」の声は凍てつくように冷たい。それに言葉通り、鎧越しでも一切のの興味をオレに抱いてないのがわかる。


「自分以外には、価値がないと」


「ええ。でも、よかったではないですか。運良く生きているのだから——」



「もういい。——斬るから」



 刹那、突風が吹き荒れた。レインが踏み込んだのだと気づいた時には、「銀の剣しろがねの剣」の切っ先が鎧の女の寸前まで迫っている。


 いった。

 オレがそう確信した直後、鎧の女の姿が陽炎のようにゆらめいて消える。

 それがわかっていたかのようにレインが方向転換し、虚空を斬る。

 ギャリイィイイイイン‼︎ と不快な金属音が響いた。


「私の動きに着いて来られるのですね」


「着いてきてほしいと言ったのはおまえの方だろう」


 風に乗って聞こえてきたレインの声には、どこか怒りが満ちている。

 鎧女は再び瞬間移動にも等しい動きでバックステップするが——レインも同じ動作をした。なぜか元いた位置に……いや、オレを庇うような位置に戻ってくる。


「レイン……」


「聞いて。あの鎧の奴は時間がかかりそうだから、ヒロは安全な場所まで逃げて。あのフードたちだけならおまえでも問題ない」


 振り向かずに早口で、オレの言葉に被せるレイン。


「待てよ。オレが何のために、」


「ヒロの気持ちは嬉しいけど、今は綺麗事を言っている状況ではない」


 最後まで言い終わらないうちに、レインは再び駆け出していった。


 クソ。何でこんな呆気なく、クソ。

 オレは。

 。きっと、また。守られるのか。


 劣等感に全身を支配されると同時に、オレも振り返って走る。ここで追随するほど自分の力に理解がなかったら。ああ、どれだけ良いことか。置物になっていたフードたちがこちらに銃口を構えるのを感じるも、遅い。

 家の中へと転がり込み、比較的強度がありそうなキッチンまで前進。

 武器は相棒カタナ一本だけ、反対側にはおよそ一〇人の銃器持ち。よし、なんとかいけるか。

 そう考えたと同時、激しい銃撃音。こちらへ向けてではない。おそらくレインに向けてだが、不思議と心配にはならない。そりゃそうだ。オレで問題ないのだから。

 彼女は強いのだ。わかってる。

 オレじゃまだ、彼女を守りきれない。

 でも、剣は振らせたくなかった。できるだけ。

 銃は、まだよくて。

 だけど剣を握るその姿は美しいと同時に、とても哀しく思えるから。

 ……と、いい加減考えるのをやめて、動き出そうとした時。

 キッチン横の棚の上に、正方形のガジェットを見つける。携帯念話へと。シーナ・シルヴァレンに、この国の第二位へ繋がる道具!

 今はオレじゃなくても、代わりでもいいから、誰か彼女から剣を取り上げてほしい。

 オレは中央のボタンを押して合言葉を唱える。


「『お姉ちゃん助けて』」


 なるほどよく考えられた合言葉だ。

 本当に助けてほしいという時にしか使わないものだ、こういう道具は。

 ツー、と奇妙な音が鳴る。とりあえず動作はしたようだがちゃんと届いているのだろうか?

 待つほかない。

 ……って、チンタラやってる場合じゃねえな。

 そろーっと、窓から敵の出方を見る。オレが顔を覗かせてすぐに、タタンッと銃声がつんざく。ちくしょう、やっぱ殺す気満々じゃねえか。

 ニアやレインほど人間をやめていないオレでは、複数の射線を切ることは難しい。予定通り煙幕を張って突破するか。

 備えあれば憂いなし。ニアお墨付きの煙幕弾を二発、後ろ手に放って。


抗えリバース


 限界を超えて。窓を飛び出そうとして、

 重量感のある球体が逆に入り込んでくる。

 見るからに詰まってるのは……火薬——!

 オレはとっさにキッチンから飛び跳ねて、ソファの裏へ転がる。

 直後、想像以上の爆風がオレを襲った。


「——がッ‼︎」


 ソファごと吹っ飛んだオレはログハウスの壁を突き破り、レインが戦っている方向へと転がる。


「ヒロ!」


 逆さまになった頭に、レインの焦った声が届く。

 クソ、あいつら無茶苦茶しやがって。体のところどころが痛いが、致命傷はないのが救いか。


「大丈夫、無事だ……」


 言って、すぐさま起き上がる。が——、

 ガクン!

 崩れる左膝。

 恐る恐る目をやると、木の破片がふくらはぎを貫いていた。


「——ッ」


 動けないわけではない。ただ、反応が大きく鈍る。

 ザッザッザッザッ。フード連中が回り込んでくる足音が、苛烈な金属音の合間に聞こえる。

 まずい。ねえ。

 なりふり構っていられなくなった……なのに、オレは踏み出すことをわずかに迷っていた。

 覚悟は、覚悟を。

 だが、その逡巡をオレはすぐに後悔する。

 ……至極当然の話なのだが、レインは強い。一国の一万の兵士を一人で相手どれるほど、強い。

 いくら平穏のぬるま湯に浸かっていたとしても、死神の鎌が錆び付いているはずがないのだ。

 ……しかし、それは、あくまで己の戦い。

 彼女は、人を守ることに慣れていない。

 だからこそオレのピンチに、なりふり構わず向かってきてしまう——。

 彼女の背後にはこれを待っていたかのように襲いかかる鎧女。オレの背後からも、死の気配が這い寄る。

 その極限の中で巻き起こる、引き延ばされた思考。

 殺らなきゃ、死ぬ。

 その考えだけが脳を支配する。

 殺れ。殺るんだ。このままじゃどちらかが死ぬ。

 ——殺れ!



「うあああああああああああぁ‼︎」



 レインと目線がすれ違う。直後、振り向いて駆け出す。

 彼女は驚いていたが……不安の表情は掻き消えていたのも見えた。

 一秒でも早く、前へ。敵の銃口が捉える前に、剣を。

 嫌というほど伝わってくる殺意に、手加減をする余裕などあろうはずがない。一番近くにいた敵を袈裟斬りにする。人間の血肉に対する不快感を味合う間もなく、戦いは続いた。


 斬って、斬って、斬った後。

 その場に立っているのは三人だけだった。


 本来であれば穏やかな時間が流れていたはずの緑の丘は、凄惨な戦場跡と化している。レインとオレでフード連中は一人も動かなくなっていた。


「…………はっきり言って、想定外です。その男まで戦えるとは思いませんでした」


 鎧の女は剣を地面に突き立てて、余裕綽々な声を上げる。


「ヒロ、怪我はないか?」


 それを無視してレインは、首を傾けずに語りかけてくる。


「怪我はねえ、けど……」


 殺されかけたとはいえ、オレは人を……。

 胃の奥から急速な嫌悪感が込み上げてくる。


「うっ……げぇ」


 吐いた。

 さっきまで上等なご馳走を食べていたので出てくる出てくる。脂っぽくギトギトしたものをオレはそこらにぶちまけた。


「……もしあそこでヒロが動いてくれなかったら、自分はやられていた。おまえは間違ってない」


 もどかしそうにレインは言う。

 敵から視線を離せないのだ。それは奇しくもさっき、オレも痛感している。


「とはいえ、困りましたね。人質作戦は失敗……。連れてきた者たちは全滅してしまいましたし、私の腕では貴女を無力化できない」


「状況が理解できたなら選べ。ここから去るか、自分に斬られるか。二つに一つだ」


「三つ目もあります。例えば貴女の働き先、『冒険者の墓場』へ赴いてみる、とか」


「「……ッ⁉︎」」


 こいつ、何を言って、


「おまえたち、彼らに何かしたのか」


 一見、平坦な声であるが、言葉の端が震えているのがオレにはわかる。


「まだ何もしていませんよ。ただ、そういったやり方もできるというだけです。貴女の周りを徹底的に。そこまでしなければ、貴女は振り向いてくれませんか?」


 感傷に浸る暇もない、敵の宣戦。

「脅迫しているのか」


「ええ。その男だけではない、貴女に関わる全てが人質です」


「自分が従わなければ?」


「はい。——殺します。いくら貴女が強くとも、一人では守りきれないでしょう」


 それは本当に、最強の少女の唯一の弱点なのだろう。守るものが多ければ多いほど、彼女の二つしかない手の中からそれらは溢れ出ていく。

 残酷だけどひどく正しい、現実。

 なんて効果的な脅しだろうか。普通の人は、他人の命を簡単に切り捨てられない。


「……そうしたくば、すればいい」


 ああ、でも。

 レインは普通じゃないんだ。


「自分の中で、とうに命の優先順位は決まっている。残念ながら一番は彼らではないし、一番を譲る気もない」


 故にその脅迫は無駄だ、とレインは言った。


「ほう。揺るぎない意志を持っているのですね、貴女は。それほど『彼』が大事なのですね」


「…………」


 レインは答えない。



 鎧女が地面から剣を抜く。

 レインがしなやかに腰を低くする、が、

 奴は静かに得物を鞘へと収めた。


「私の『力量』では交渉は難しいようです。それでは、来ます」


 なんの躊躇もなく身を翻して、フルプレートとは思えない身軽な動きで闇夜へと消えていく「敵」。

 レインは一歩、追おうとするが……彼女もやがて剣を収めた。


「……とりあえずは、終わったようだ」


 脅威は、去った。

 へたり込んだままのオレに、レインは手を差し伸べてくる。


「悪い……。足手まといでしかなくて」


「気にするな、とは言わない。だが、おまえが戦うことを選んでくれたから、自分たち二人は今、ここに無事にいる」


「ああ……わかってる、つもりだ」


 奴ら間違いなくオレを殺す気だった。むしろあの人数に奇襲されて大きな怪我すらないのが奇跡とすら言える。

 だけど、素直に喜べないのはオレに覚悟が足りないからだろうか。ニアを救う時、決めた覚悟は偽物だった? 流されただけ?


「……言い方を変えよう」レインはオレの手を強く握りしめて、「今から、自分は残酷なことをおまえに言う。こういう言い方しかできない自分を許してほしい」


 彼女は小さく息を吸って、言った。


「——ヒロの手は、とっくの昔に汚れている。おまえがノールエストで『兵士』になった瞬間、おまえは誰かの命を奪った。そこに善悪など存在しない。その価値観を説いたのは自分で、諭してくれたのはおまえだ。

 ——受け入れてくれ」


「……知ってるよ。…………知ってるさ」


 オレは、心を絞る。絞って言う。


「肉の感触が、手に残ってるんだよ。それこそ頭じゃなく、己の手にな。思い出したぜ。異形ヴァリアの肉と違って、もっと柔らけえよなって、そう、思ったよ」


 懐かしい、と。

 不快で気持ち悪くて虫唾が走って気分が害される、とてつもなく醜い感触だけれど。

 鋼で肉を斬り裂くのは、こんな感じだったと、手に。


 ——そうだ。やっぱり、オレは過去、人を斬っているんだ。

 命を。



 オレは遅すぎる涙を流した。



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 一方のレインは、早計だったかと考えていた。

 ヒロが「殺し」に向き合える人間であることは重々知っていたが、いかんせん「直後」だ。人間とは慣れる生き物。「以前」の自分ではなく、「以後」の自分として、慣らしてから、ようやく冷静に考えることができる。


「…………元より壊れている自分と同じ物差しではかるのは間違っていた。すまない、ヒロ。先程の発言は忘れてくれ」


 難しい。失われた記憶とは、かくも大切なものだった。

 ともあれ、いま彼に必要なのは十分な安息と休養だ、と、


「立てるか、ヒロ。これからシーナを呼んで保護してもらう。今はとりあえずゆっくり休もう」


「……一人で、立てる」


 振り払う、わけではなかったけれど。ヒロは不確かな足取りで立ち上がる。


「そうか」


 だがあえてレインも、無理に手を貸しはしなかった。

 男の矜持というものは、わずかばかりは理解しているつもりだ。


「違うぞ」


「は?」


「お前は壊れてなんかねえよ。オレが甘ったれてただけで、今日はそれを認識する最高の機会だった」拳を握ってヒロは、強く言葉を紡いでいく。「あいつらが何者かは知らねえが、目的はレインなんだ。なら、覚悟決めねえとダメだろ」


 それはどこか、今まさに自分に言い聞かせているかのような言葉で。


「……ヒロは、


 頭ではなく、心に。

 悩んで悔やんで擦り切った痛みは、全て彼の心に刻まれているから。

 だから。きっとこうして、前を向ける。



「オレは失わないために剣を握ったんだから、迷ってられない——次からは普通に斬る」



 ……なるべく殺したくはねえけど、とヒロは気丈に笑ってみせて。


「自分は……おまえの器用じゃない優しさが気に入っている」


「臆病なだけだよ。自覚ある」


「違う、おまえは優しい」


「……そうかよ」


 押し問答に意味はない。

 ただ、言っておきたかっただけ。


「では、シーナへ連絡を取ろう。銃撃で壊れてないといいが……」


「あの人へはもう知らせたよ。どれくらいで駆けつけてくれんのかね」


「仕事が早いな。…………ふぅむ。ただ待つというのも暇だが、風呂に入るというのも何か違うような気がする。どうしようか」


 半壊した自宅の前に放り出されているという、割とどうしようもない状態なのだ、今は。


「どの道、風呂桶はバラバラになってたから無理だ。それよりあのボタンの合言葉、どうにかならなかったのかよ。緊急事態なのにちょっと言うの恥ずかしかったぞ」


「どうにもも何も、彼女が決めたのだ。仕方ないだろう」


「ったく、……姐さんも露骨だな……」


「お姉ちゃん、ではなかったのか?」


「うるせえ、こっちの方がしっくり来るんだよ」


 ようやく。

 死線を乗り越えた二人の間に笑顔が戻りつつあった。

 お互いがお互いに気を遣いつつも、なるべく自然な振る舞いで。そうして不安を誤魔化しているだけで、心は安定する。


 だけど、それらは天秤が強風にさらされた状態と同じ。

 いつ大きく傾くか、わからない——。


「——だから初めからオレ様がやればよかったんだ」


 安堵は恐怖へと、急転した。



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