ユリウスの肖像
19
春の陽光が気持ちいい。
バーニャというロシアの蒸し風呂を初めて体験したユリウスは、晴れ晴れとした気持ちで馬車に揺られていた。蒸気浴をしながら白樺の枝の束で体を叩き、最後にきれいな水で流すと、体だけでなく、鬱々した心まで洗い流されたようだ。蒸気浴にはあまり関心がなかったユリウスだったが、今回、カティアにぜひにと強く勧められて、富裕層が密かに通うバーニャに案内してもらったのだった。
それまでのユリウスの胸のうちは灰色だった。
レオニードに大切にされているのは頭では理解しているが、高価な贈物だけでなく、もっと彼にそばにいて欲しいし、もっと彼のそばにいたいと思っていた。ユリウスの心は、もっともっと愛されたいという思いがくすぶっていた。彼から、「愛している」という言葉を聞いたことがなかった。けれども、思えば、ユリウスもまた、「愛している」と彼に伝えてこなかったことに気付いた。ユリウスは自問した。
――わたしは、彼を愛しているの?それとも、これは単にみだらな欲望なの?
「侯爵様とのことでお悩みですか」
沈鬱な様子のユリウスを見て、カティアが単刀直入に切り込んできた。
カティアは、レオニードとの関係に気付いていた。カティアとのお茶の時間にレオニードが現れ、ユリウスを抱きしめ頬にキスをするのを見られていたし、もとより、カンのいいカティアに隠しとおせるとは思っていなかった。それでも、カティアは、二人が関係を持ったことに嫌悪感を抱いたりはしていないようだ。
「一方的に多くの贈物をもらうだけの関係で、対等ではないのが苦しいんです」
本当のところは、肉体関係の対価として贈物をもらっているように感じて、ユリウスの良心がとがめるのだ。だが、たとえカティアであっても、人前で自分自身を娼婦扱いして、自己の尊厳を貶めることはしたくなかった。
「きっと、あなたが驚いて喜ぶ顔が見たいんですよ。あなたの花の咲いたような笑顔を見ると、わたしも嬉しくなりますもの。あなたも、ブランシュが喜んでいるのを見ると、幸せな気持ちになるでしょう?」
すっきりしない表情のユリウスに、カティアは、気分転換をすることを提案した。そこで、勧められたのがバーニャだったのだ。
カティアからは、ユリウスの顔が赤らむような男女のことについても聞いた。
「寝室の外では従順で貞淑に、寝室では情熱的に激しく」。ある貴族の娘が結婚の際に母親から伝えられた言葉だそうだ。情熱が夫婦の問題を解決するし、また、情熱的でなければ、別の女に夫を取られてしまうのだという。最も顔を赤くしたのは、「男はプライドの生きもの。そのプライドを立ててあげなければ」の続きだった。
きわどい話でありながら明快に語り、いやらしさを感じさせない話術には驚くばかりだ。
*
馬車が玄関の前に到着すると、警備の者が扉を開けた。警備の者は侯爵邸から交代で遣わされてくる。礼儀正しく感じのいい者たちがほとんどなのだが、その日の担当者は下卑た目でユリウスを見ていた。ベールで顔を隠していなければ、さらに不快に感じただろう。ユリウスは、このシロコフには好感がもてなかった。家政婦のペトロワも、同様に感じているようだ。
だが、いったん館のなかに入り、飛び出してきたブランシュの楽しそうな顔を見ると、感じの悪い警備のことなど、どうでもよくなってしまう。こんなふうに歓迎されると、嬉しいし自分が唯一無二の存在だと思えてくる。ブランシュは、侯爵邸にいたときから一貫してそれを実感させてくれた。
バーニャで体も心もすっかり軽くなっていたユリウスは、飛び跳ねて喜んでいるブランシュの前足をつかんで、いっしょになって飛び跳ねた。微笑んで帰るカティアと入れ替わりに、ペトロワが笑いをこらえるように、小さく咳払いをしながら現れた。レオニードが居間で待っているという。
開け放たれたままの居間のドアの向こうに、レオニードが目を閉じたまま、深くソファにもたれかかっているのが見えた。眠っているのだろうか。ユリウスは、ブランシュに向かって、しいっと口に人差し指をあてた。
「ブランシュ、いい子だから、ここで待っていてね」
と言って、嬉しそうにしているブランシュの目の前で静かにドアを閉めた。
ユリウスはそろりと足音をしのばせてソファに近付いた。こうやって目を閉じているレオニードを改めて見ると、端正な顔をしていると思う。ユリウスは彼が眠っている姿は見たことがなかった。厳格で隙を見せることのない彼は、人前で眠ることなどしないのだろう。足元にブランシュの白い毛が落ちていた。
いつも落ち着き払っているレオニードが驚く様子を見てみたい。そう思う一方で、こんなふうに微動だにせずに眠っている彼を前にすると、愛しさがこみあげてきて、そのまま休ませてあげたいとも思う。
ユリウスは、レオニードが目を覚まさないように、そっと腰をかがめてベール越しに頬にキスをしようとした。もし目を覚ましたら、ベールをかぶった相手にとまどうに違いない。それは、それで愉快だ。もし、ユリウスだと認識されなかったら、突き飛ばされるかもしれないが。
結局、突き飛ばされこそしなかったが、ユリウスは驚いて悲鳴をあげることになった。
途端に、ユリウスの腕と腰がつかまれて、彼の膝のうえに崩れ落ちてしまったのだ。とっさに目を瞑ったユリウスが目を開けると、黒いベールの向こうに黒い瞳が見えた。
「眠っていなか」
ユリウスが言いかけたときに、ベールと帽子が払いのけられ、ゆるく結われた髪が、ばさりとなだれ落ちた。そして、あっという間に唇がふさがれた。レオニードはキスをしながら、ユリウスをバランスよく膝のうえに抱き直した。
唇が離れると、ユリウスはレオニードを潤んだ瞳で見上げた。
「眠っていなかったのね。すっかり騙されてしまったわ」
今度はユリウスからキスをしかけた。