ユリウスの肖像
17
もこもこした白い毛でできた雲が、おもしろいほど大きくなっていく。ブランシュをブラッシングし始めたら、驚くほど次から次へと毛が抜ける。ますます大きくなる白い雲から、ブランシュがもう一匹つくれそうだ。
床に寝かされたブランシュのほうは、抜けていく自分の毛を、前足で捕まえようとしたり、口でぱくっととらえようとしたりしていた。そのブランシュが、突然むくっと立ち上がり、ぶるぶるっと体を震わせて、走り出した。そのせいで白い毛が宙に舞っている。ユリウスはため息をついて、散らかった毛を集め始めた。
しばらくしてから、ブランシュの足音が近付いてきた。言葉が通じない相手だと分かっているが、言わずにはいられない。
「ブランシュ、せっかく集めた毛が散らかってしまったじゃないの。白い毛があちらこちらに落ちているから、ブラッシングしていたのに」
言いかけたところで、振り向いたユリウスは、あっと驚いた。会いたかった人が、こちらに向かってくるのが見えたのだ。
「レオニード!」
一週間ぶりだ。ユリウスの胸に嬉しさがこみ上げてくる。がっしりとした体に抱きついて、ほのかにする葉巻のにおいと、そのぬくもりをかみしめた。この一週間がどんなに長く感じられたことか。
ユリウスのあとについてきたブランシュは、抱擁している人間たちを、ほんのしばらく見上げていたが、自分も仲間だと思ったらしい。なんと、後ろ足で立って、大きな体を伸ばし、二人の腕や肩に横から前足をかけたのだ。そのため、二人と一匹で抱き合う形になった。これにはユリウスも、弾けるように笑い出した。
「ブランシュってば!」
レオニードの目も笑っている。レオニードは、ブランシュの頭に片手をやりながら、もう片手でユリウスのあごを持ち上げて、唇をふさいで彼女の笑いを封じ込めた。
見ると、レオニードの軍服に白い毛がくっついている。
「ブランシュ、おまえのおかげで、わたしたちまで毛まみれじゃない?」
ユリウスが犬をにらみつけたが、声は弾んだままだ。ブランシュも、嬉しそうな笑顔のままだ。
「換毛期だ。やむをえないだろう」
と落ち着いて言うレオニードの目元にも、軽い笑み浮かべられていた。
*
ブランシュがどういうわけかレオニードになついている。ベッドで横になったまま、ユリウスが疑問を口にした。
「倒れていたおまえをブランシュが発見して以来、厩舎に行くと必ずいたからな。サモエド犬の性質だろう。特になつかれているとは思わないが」
「わたしを見つけたのは、あなたではなく、ブランシュだったの?」
ユリウスは、普段ぼんやりしていることの多い、おっとりとしたあのブランシュに助けられたことに、目を丸くした。さらに、レオニードから経緯を聞くうちに、いくつもの偶然が重なっていることを知って、ユリウスは言葉を失った。
ブランシュが雪の庭でユリウスを発見したのは、偶然のことだ。その場にレオニードがいあわせたのも偶然だ。もし、ブランシュが、雪の庭で何をしていたのかわからないが、ユリウスに気付かなかったら、あるいは、気付いても何もしなかったら、どうなっていただろうか。ブランシュは、のんきな犬なのだ。また、そのとき、その場所に、レオニードたちがいなかったら、さらには、オレグがブランシュのあとを追わなかったら、どうなっていただろう。
これらのうちの一つでも欠けていたら、現在のユリウスはない。まるで作り話のように偶然が重なった結果、いま、命があり、レオニードのあたたかい胸のなかにいられるのだ。奇跡というのは、こういうことなのかもしれない。カティアから聞いていた、人生のめぐりあわせのさまざまな話とあいまって、ユリウスは偶然の連鎖に感じ入っていた。そこには何か未知の力が働いているようにさえ感じられる。
「オレグによると、ブランシュは、おまえを助けた私に、一目置いているらしい。ブランシュにとっては、おまえは守るべき妹のような存在だと言っていたな」
レオニードが珍しく軽口をたたいた。ユリウスがどんな反応をするか楽しんでいるようだ。彼の思惑どおり、ユリウスには、ちょっと衝撃的だった。
「ブランシュは、わたしより上だと思っている、ということ?」
「オレグによると、だ」
レオニードは、口をとがらせたユリウスをなだめるように付け加えた。
動物好きのオレグは、それぞれの動物の性質などを見抜くのがうまいらしい。こと馬にかけては、屋敷では彼の右に出る者はいないという。
「そのあと、あなたが一晩中わたしにつきっきりだったそうだけれども、わたしはどんな状態だったの?」
「体温が下がっていた」
いつものように簡潔な答えだ。普通の人なら、自分の手柄は誇張して相手に伝えるところなのに、彼は自らの手柄自慢には消極的だ。
「そのあと、お医者様がいなかったのに、どうやって対処したの?」
レオニードはユリウスの髪をなでるだけで答えない。ユリウスが再び尋ねると、軽く抱き寄せられた。レオニードの体温が伝わってくる。
そのときに、「白いドレス」、とユリウスがうわ言で繰り返していたことも聞いた。白いドレスが元凶なのか、白いドレスが必要なのか、判断に迷ったが、目が覚めたときに気付くように、白いドレスを用意させたという。ユリウスは、めぐりあわせの妙に再び感じ入った。ユリウスの考え方が変わり、行動が変わり、人生の歯車の向きが変わったのは、その白いドレスを着てからなのだ。
こんな会話をレオニードとするのは初めてだ。リュドミールに見せるような、おだやかな表情がユリウスに向けられている。
ユリウスは、レオニードの気持ちを確かめたくなった。
「わたしを助けたのは、皇帝陛下の保護命令のためでしょう?」
「ああ、それもある」
「命令がなければ?」
「人としての義務だ。ましてや我が家の庭で凍死は歓迎できない」
レオニードは目線をユリウスから天井に移した。珍しくレオニードの言動が安定していない。ユリウスは、心のなかで微笑んだ。義務感だけから助けられたとは思いたくなかったし、思えかった。
前回、初めてレオニードがここに来たときのことだ。
「おまえが処女だとは思わなかった。奪ったことを、すまないと思っている」
世間では道義をわきまえない貴族や富豪が横行し、むりやり純潔を奪っても良心の痛まない輩も多いが、彼は違っていた。
それに、強く求めたのはユリウスのほうだ。レオニードの頬にキスをして、そのことを彼に伝えてから尋ねた。
「どうしてわたしが処女ではないと思っていたの?」
答えが返ってくるまでに少し間があった。
「女が危険をおかして追ってきた男と、何もなかったとは考えにくい」
そして、声を落として続けた。
「さらに、おまえの様子がおかしくなったのは、憲兵隊に連行されたあとだ。もしや、と思ったのだ」
つまり、暴行を受けた可能性も考えていたのだ。以前、そのときのことを尋ねられたとき、ユリウスは沈黙してしまった。それ以上追求しなかったのは、彼なりに案じていたのだ。ユリウスは、レオニードの胸に顔をうずめた。
彼にずっとそばにいてほしいと思う。彼の大きな体のぬくもりに包まれるときの、心地良さを味わいたいし、何よりも、自分が求められ、大切にされているのを実感したいからだ。たとえ、男女のことにまだ十分に慣れないユリウスの体が、少し無理をしていたとしても。