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 侯爵は、書斎で椅子の背もたれに深くもたれかかり、葉巻から立ちのぼる煙を見ていた。

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 夜更けに、書斎に夜着でやってきたユリウスに対して、男としての欲情をかろうじてコントロールしたものの、理性を失いかけるとは、侯爵には、おおよそ考えられなかったことだ。


 ここ最近、ユリウスは、不安定さを見せるようになり、亡霊でも見たかのように侯爵にすがりついてくる。今回で二度目だ。それが、彼女を守ってやらなければという騎士道精神を刺激する。女や子どもを守るのは男の義務だ。


 ――彼女を恐怖にかり立てているのは雪だ。過去二回、彼女が不安定になったときは、いずれも吹雪いていた。庭で倒れていたときも、雪の日だった。

 ユリウスの瞳には、初めて会ったときから、不安や恐怖の色が浮かんでいた。しかし、そこには微々とした光も見いだせた。まるで追い詰められた手負いの獲物が、まだ逃げる希望を捨てていないかのようだった。


 そのかすかな光さえも消えたのは、憲兵隊に連行されたあとだ。帰路の馬車のなかでは、以前と態度は変わらなかった。暴動に巻き込まれ、意識不明の状態で発見されたのだが、二、三日後に意識を取り戻したときには、まともな精神状態ではなかった。生気のない目をして、彼女にしか見えない何かと、ろれつの回らない言葉で話しているだけで、一切のこの世の物や音が、見えも聞こえもしない様子だった。したがって、行方不明になってから意識不明になるまでの間に、何事かがあったのだろう、と侯爵は考えていた。


 しかし、その日には降雪はなかったことを考えると、吹雪の日に取り乱すのは、別の理由がありそうだ。彼女の過去、おそらくロシアに来る以前の出来事に関係がある、と侯爵は結論付けた。


 雪の庭からユリウスを救出した翌日に、ロドニナが、そのユリウスの話し相手、あるいは教育係として務めたい、と侯爵に申し出た。率直なところ、ユリウスの扱いに苦慮していた侯爵にとっては、その申し出は都合がよかった。


「慣れない異国での生活が、負担になっているとも考えられますが、年頃の娘が男のように振る舞ってきたことが、不自然で、大きな足枷となり、おそらくそれが彼女を追い詰めたのではないでしょうか。もし、そうであるならば、娘らしく振る舞ったほうが彼女のためになるでしょう。そのために、何かできることがあると思います。もちろん彼女が望まなければ、無理強いをするつもりはありません」


 侯爵としても、皇帝陛下にユリウスのことを、記憶喪失の「少女」と説明した以上、ユリウスが女性として振る舞ったほうが都合がいい。だが、ロドニナの言葉の奥にはまだ何かがある、と侯爵は認識している。


 カティア・ロドニナは、ロドニンと結婚する前はカティア・マカロワといった。この侯爵家に代々忠誠心をもって仕えてきた、マカロフ家の者だ。ユスーポフ家が代々ロマノフ家に忠誠を誓ってきたように、ユスーポフ家に忠誠を尽くし、表に出ることなく影で支えてきた一族だ。過去数百年にわたるマカロフ家の貢献があればこそ、現在のユスーポフ家があるといえる。


 なかでもロドニナは、侯爵の祖父の信頼が厚く、彼女に任せておけば、マカロフ家のことは心配ないと言わせたほどだ。言いかえれば、階下で働く使用人たちのことについては、ロドニナがうまく采配してくれるということだ。今ではユスーポフ家の正式な使用人でこそないが、カティアが事実上マカロフ家の家長だ。弟のオレグ・マカロフは、仕事熱心で気が利き、律儀で、彼もまたユスーポフ家を第一に考える忠実な人物だが、カティアの見識には及ばない。侯爵個人に並みならぬ忠誠心を示しているロストフスキーもまた、母親がマカロフ家の出身である。


 そのカティアから、先日のボリス・マカロフの結婚祝賀パーティーで踊ったときに言われたことだ。


 「侯爵様、ユリウスもアンナと同じ年頃ですし、結婚について何かお考えがあるのでしたら、ぜひ協力させていただきたいと存じます」


 つまるところユリウスの結婚をどうするのか、と尋ねてきたのだ。


 ロドニナには、侯爵家にはユリウスを保護する義務がある、とだけ伝えてある。ユリウスにまつわる皇室の秘密や皇帝の保護命令などは、彼女が知るべきことではない。年頃の娘を「保護する」ということは、結婚の世話をすることまで含まれると解釈できる。それゆえ、自らの使命感から、思っていることを口に出したのだろう。


  適齢期の男女が結婚するのは、ごく普通のことである。だが、ユリウスの結婚と聞いたとたんに、侯爵は苛立ちを覚えた。 

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 これまでもユリウスには、腹立たしく思ったものだ。帝国の安泰に身を捧げる侯爵にとっては、革命家と名乗る反逆者など、許すべからず存在である。彼女が反逆者への思慕をあらわにするたびに、正義感に駆られ、侯爵の胸に小さな怒りの火がともされるのだった。義憤。侯爵はそのように理解していた。


 ところが、ボリス・マカロフの祝賀会で、彼女が他の男と踊っているのが視界に入ると、チリチリと胸が焼かれるような感覚をおぼえ、その男から引き離したい衝動に駆られた。つまり、ミハイロフであれ、誰であれ、彼女の視線が他の男に向けられていることが、許しがたかったのだ。ユリウスのこととなると、自分でも気付かなかった感情が動き出す。


 これはユスーポフ侯爵が持つべき感情ではない。確かに、反逆者に熱をあげる女など許しがたい。だが、これは私憤だ。嫉妬という私情が混在していたのだ。ユスーポフ侯爵たるもの、個人的な感情に振り回されることがあってはならない。自分自身を完全に統御しなければ、些末なことで足をすくわれ、狡猾で強欲な者たちの餌食になりかねないのだ。そのために祖父から厳しく鍛えられたのだ。自分自身を完全に理性の支配下においていないのは、自分が未熟だからだ、と侯爵は自らを戒めた。


 ――私にそんな弱さがあろうとはな

  

 ロドニナはユリウスとうまくやっているようだ。ユリウスは、すっかりと年頃の娘らしくなった。ロシア語もすばらしく上達した。


 しかし、誤算もあった。以前は、逃げ場のない手負いの獲物が、力をふり絞るように侯爵をにらみつけたものだ。しかし、その不安と緊張感に満ちた、追いつめられた瞳に変化が見られたのだ。何かを吹き切ったような、透明感のある穏やかな瞳に取ってかわられた。そのまなざしは、まるで渇きを癒す一服の清涼剤、静謐な泉のようだった。


 モスクワの反乱分子鎮圧のために出発する際には、どういう風の吹き回しか、そのユリウスが見送りに来ていた。階段の上に一人立つ姿が、清々しく光り輝き、その他のすべてがかすんで見えた。これまでに目にしてきたどんな女性よりも美しく見えたのだ。彼女の澄んだ青い瞳と目があったときには、あたかも勝利の女神の祝福を受けているかのように、かつてないほどの力と自信がみなぎってきた。彼女一人がいれば、どのような相手であろうとも戦えるとさえ思われたほどだ。たとえ千人の敵に囲まれようとも、ひるまないだろう。


 侯爵は葉巻を灰皿において、腕を組んだ。


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