ユリウスの肖像
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厨房にユリウスが姿をみせると、料理人助手が心得たように、食材の残りを出してくれた。少し前から、オレグの口利きで、ブランシュのために、厨房から残りの食材などが、もらえるようになったのだ。
今日はブランシュの大好物の豚の骨だった。ブランシュの喜ぶ様子が目に浮かんだユリウスの顔が、おのずと笑顔になる。
料理人助手にお礼を言って、庭に出た。雪が踏み固められたところが、滑りやすくなっている。そろり、そろりと注意しながら歩き、厩舎の近くまで来ると、思ったとおり、ブランシュが飛び出してきた。犬は滑らないのがうらやましい。尻尾をはちきれんばかりに振って、飛び跳ねながら、ユリウスにまとわりつく。ユリウスがかがむと、顔中を勢いよくペロペロ舐め始めた。
「くすぐったいよ、ブランシュ」
ユリウスは顔をくしゃくしゃにして、ブランシュのあごや背をなでる。モフモフした豊かな毛がなんとも気持ちがいい。
こうやって、ブランシュは、いつも無条件にユリウスを歓迎してくれる。ユリウスの過去や、そのときの気分などにはおかまいなしだ。
「おまえは、いつも喜んでわたしのところに来てくれるね」
食べ物を持っている手に、ブランシュが鼻先をくっつけてきた。さっそく好物のにおいを嗅ぎつけたらしい。
「わたしではなくて、こっちがお目当てなの?」
たとえ手ぶらでも、ブランシュがかけ寄ってくることを知っているユリウスは、笑いながら言った。犬を行儀よく座らせてから、ゆっくりお食べ、と言って、ごちそうを差し出すと、ユリウスの思ったとおり、夢中になって食いついた。かゆい歯が、何かを噛みたくてしかたないようだ。かじることにかかり切りになって、ユリウスなど眼中になくなるほどだ。そんなブランシュの様子を見ていると、心が和む。
ユリウスは足取りも軽く、厨房に隣接した使用人用の食堂へと向かった。そこは、手の空いた者たちが休憩に集まる場所だ。ユスーポフ家の人びとが顔を出すこともないし、客が足を運ぶこともないエリアだが、オレグが案内してくれた。それ以来、ユリウスは、犬に餌をあげた帰りには、そのお礼に立ち寄ることにしていた。
ここでは、使用人たちが、由緒ある一家に奉仕することを名誉に思い、誇りをもって仕事に臨んでいることが伝わってくる。
たとえば、料理人たちは高い意識をもち、料理の腕を常に磨きながらも、一家の健康にも細心の注意を払っていること、また、驚くべきことに、ユリウスの食事にさえも同様に気を配っていることを、この部屋で聞いた。料理人が手が空いたときには、助手に教えるついでに、ユリウスにも、食事と体調の関係をあれこれと聞かせてくれる。料理人たちの配慮のおかげか、近ごろは女性特有の痛みも少なく、体調がいい。
侯爵家の一面を知ることもできた。大貴族としての体裁を保ちつつ、新しいことも積極的に取り入れる一方で、日常生活では、過度な虚飾を戒め、無駄は省いている。食事を引き合いに出すと、普段の食事は健康管理が第一で、指折りの貴族にしては慎ましやかなものだ。
その結果、侯爵の妻のアデールは、料理人が提示するメニューに、ことごとく不満を示すことになった。センスのいい彼女の自己主張は、カーテンなどの室内装飾にも及んだ。機能性と美を絶妙なバランスで調和させていたものが、繊細で華美なものに取り換えられた。そうして、侯爵の母親が残した佇まいが屋敷から消えていったという。
侯爵の母親は、ユスーポフ家の継嗣で、ロシア有数の家柄ゆえの責任感をもって、行動していたそうだ。家族との時間を大切にし、家族の文化を子どもたちに伝え、時間があれば慈善事業にも精を出していたらしい。使用人たちに対しても公平で、屋敷内のことにもよく目を配っていたとのことだ。責任感や公平さは、歴代の侯爵に受け継がれているものだ。もちろん現侯爵にも。
現侯爵に関していえば、執事や家政婦に大まかな方針を出したら、あとは使用人たちに任せてくれるため、仕事がやりやすいという。さらに、莫大な動産や不動産の管理においても、理解が早く、迅速に適切な判断をくだすという評判だった。その能力に彼らは感嘆していた。加えて、軍人として数々の戦功を挙げるものだから、彼らの尊敬を十分過ぎるほど得ていた。
その日は、新年やクリスマスの行事、それに続いたモスクワ蜂起鎮圧の慰労祝賀会と、そのあとの片付けも終わっていたので、皆リラックスしていた。そんな彼らの前で、若い男女が宣言した。ボリスとアンナだ。
「私たち結婚することにしました」
すぐに、どよめきと拍手がわきおこり、婚約した幸せそうな二人を祝福したり、冷やかしたりと、大騒ぎになった。幸せいっぱいの二人と同じ空間に居合わせたユリウスは、その周囲を巻き込む二人の幸福感を感じ取っていた。
結婚式は、一週間後に侯爵家の敷地内の教会で執り行われ、ユリウスはカティアとともに出席した。侯爵と弟のリュドミール、そしてヴェーラも参列していた。もっともヴェーラは、式が終わると再び部屋に閉じこもってしまった。
――わたしも、いつかこんなふうに結婚するのかしら
自分と同じ年頃の花嫁のアンナを見ながら、ユリウスはそんなことを思っていた。外出の自由がなく、それゆえ、出会いが限られているユリウスにとっては、非現実的な考えだったが、ひょっとしたら、とも思う。人生何が起こるか分からない、そんな話を実に多く聞いていたからだ。
――侯爵の結婚式は、どうだったのだろう
ユリウスの胸がちくりとする。それでも、式典のあいだ、ついつい侯爵のことを考えてしまう。
教会での結婚式が終わると、祝宴の会場に特別にあてられた広間で、パンと塩の儀礼が行われた。続いて、新郎新婦による長い長いキス。そして、ロシアの特有の音楽が流れ、食事とダンスが始まった。
ユリウスは、ピアニストとして演奏に加わった。この日のために、バラライカという楽器を演奏する人たちといっしょに練習もしたのだ。ピアノの出番がないときは、オレグや、花婿のボリス、その友人たちと踊った。
パーティーにも侯爵は姿を見せた。聞けば、当主はよほどのことがない限り、使用人の慶弔時には出席するらしい。
侯爵は、何人かの女性と踊った。花嫁のアンナとも踊った。女性たちのほぼ全員が、この屋敷の若き主の動きを見つめている。侯爵は圧倒的な存在感を放っていた。ユリウスも、貴公子然と踊る侯爵の姿に、目が離せなかった。侯爵と最後に踊ったのはカティアだった。カティアは、どこか洗練されている。侯爵と踊った女性の中では、花嫁の次に目立っていたかもしれない。
一時間ほどで侯爵が退出すると、あとは、使用人たちだけの気楽なパーティーになった。花嫁も花婿も、オレグも、料理人たちも、皆、ユリウスに気さくに声をかけた。ユリウスもまた使用人たちのなかに入って、新婚の二人のために、リクエストに応じてさまざまな曲をピアノで弾いたり、皆とともに歌ったり、踊りの輪に入ったりしたのだった。