ユリウスの肖像
10
数日後には、モスクワ蜂起鎮圧の功績をたたえる侯爵主催の祝賀慰労会が控えていた。
からっきし侯爵家に寄り付かなくなっていた侯爵夫人のかわりに、パーティーの準備に、カティアが忙しそうに立ち回っていた。カティアは、パリで素晴らしいパーティーを開催することで評判の屋敷にいたことがある。そこで、侯爵から直々に依頼されたのだった。
ユリウスは、目の回りそうな彼女の手伝いを申し出た。
カティアは、出席者たちの気持ちを考えながら、準備することが何よりも大切だと言う。彼らはどんな思いで戦地に赴き戦ったのだろうか。ご家族はどんな気持ちで彼らを見送り、出迎えたのだろうか、無事に帰ることのできなかった兵士もいるはずだ。彼らのことを想像すると、引き出物の準備や、会場の飾りつけにも、熱がこもってくる。そんな作業をしていると、誰よりも侯爵のことが、ユリウスの頭に浮かんでくるのだった。
そんななかでユリウスは、侯爵に呼び出された。数段と魅力を増した侯爵を前に、落ち着かないユリウスに対し、侯爵は悔しいほど冷静さを保っていた。
「反乱軍に加わっていたアレクセイ・ミハイロフが捕まった。終身シベリア流刑になるだろう」
ユリウスはとんでもなく驚いた顔をしていたのだろう。珍しく侯爵が満足げな表情を浮かべた。
「ついては、約束してあったアレクセイ・ミハイロフとの対面をさせてやろう」
――約束?何のこと?
ややあってユリウスは心のなかで、あっと叫んだ。反逆者アレクセイ・ミハイロフを探しているユリウスに、この屋敷にいれば再会できるだろう、と侯爵が言っていたのを思い出したのだ。
――わたしのせい?
ユリウスは心のなかでつぶやいた。もしユリウスがクラウスを追ってロシアに来なければ、アレクセイ・ミハイロフの帰国が侯爵に知られることもなく、捕まることもなかっただろう。そう思うと心が傷んで、涙ぐんでしまった。一方で、別の感情がもたげてきた。
――ヴェーラを利用したエフレムの仲間。そしてあんな形で、わたしを置き去りにした・・・。でも、それは過去のこと
罪悪感と、非情な反逆者を咎める思いとで頭のなかがかき乱される。ユリウスは、揺れ動く考えを落ち着かせようとした。
紫煙をくゆらせながらユリウスの反応をみていた侯爵に、ユリウスはすうっと軽く息を吸って、姿勢を正してから言った。
「せっかくですが、もういいのです。過去は忘れることにしたんです。彼のことも思い出さないようにしているのです。それに、彼が捕まったのは、わたしにも責任があると思っています。ですが、わたしには彼を助けることはできませんし、彼にあわせる顔もないのですから」
「ほう?アレクセイ・ミハイロフに会うために、リスクを承知でこの国まで来たのではなかったのか?それとも、奴か、奴の仲間と既に会っているのか」
後半の侯爵のことばにユリウスは動揺した。侯爵の目が鋭くなった。クラウスと会ったことが知られれば、話が複雑になるだけだ。言葉を慎重に選ばなければ、と思ったユリウスは再び息を吸った。
「冬になってからいろいろな出来事があって、それで考えたんです。彼はエフレムの仲間なんでしょう?」
侯爵の目が続けろといっていた。
「革命の闘士に恋などなんの価値があるものかと、いつかおっしゃいましたが、エフレムの行動が、あなたが正しいと証明しました。あなたのおっしゃるとおり、彼らが恋に報いてくれることはないでしょうから、会っても、つらいだけだと思うようになったのです」
納得しかねる侯爵を前に、大丈夫、嘘は言っていない、とユリウスは自分に言い聞かせた。
「それで、過去を忘れて、おまえは今後どうするつもりだ?ロシアに来た目的がなくなったことになるが、ドイツに帰りたいか?」
ドイツに帰るという言葉に、ユリウスの背筋が凍り付いた。それは、身の破滅を意味する。
「いいえ!ドイツには帰りたくありません。ドイツに、わたしの帰るところはありませんから」
青ざめたユリウスは叫ぶように言った。たとえどんな結果になろうとも、この白い大地の国で朽ち果てることを覚悟してやって来たのだから。
少しの間ユリウスの様子を観察した侯爵は、書斎机から何かを取り出して、ユリウスの前の机のうえに置いた。
「これは?」
「おまえの身分証だ。外出するときは身分証を携行する必要がある。当分外出することはないが、持っていなさい」
ユリウスは、そこに記載されている名を読み上げた。
「ユリア・スミルノワ」
ユリア・スミルノワは貿易業を営む実業家の娘で15歳までドイツのフランクフルトで過ごした。両親の死後、理由があって侯爵家で保護しているという筋書きだった。
「どうして、身分証を?」
「ひとつは、憲兵隊に連行されたときのような、不測の事態が起きないとも限らないからだ。ふたつめは、別の人間になってもらうためだ。ユリウス・レオンハルト・フォン・アーレンスマイヤと名乗る少年を、『記憶喪失の少女』と説明して、おまえの自白を無効にしたのだからな。望みどおり過去は忘れてもらおう」
ドイツに強制的に送還されることはなさそうだとわかって、ユリウスは胸をなでおろした。
「確かに、私は女性なので、そのような名前は知らない、と答えた覚えがあります」
侯爵の表情が再び険しくなった。
「ほう、思い出したのか。では、あの男に何を聞かれたのだ?」
――あの男?
ユリウスの顔が青ざめていく。声が出ないユリウスに侯爵が問い直す。
「僧侶に会ったはずだ」
クラウスのことではないと知って、ほっとしたのも、つかの間で、すぐさま別の恐怖におそわれた。僧侶には会ったが、何が起こったのか記憶がない。僧侶に対して「どうするつもりだ」と叫んだことと、そのときに感じた恐怖だけが思い出されるだけだ。
「僧侶の前に連れて行かれて、意識が遠のいていって。どこまで、どこまで、しゃべらされたの?」
張り子の虎のような落ち着きが消え、ユリウスは、わなわなと震えながら手を見つめた。
そうか、と侯爵は反応しただけで、続けて帰途に暴徒に襲われたあとのことを尋ねた。
「おまえを発見した憲兵は、不審な男を追っていたそうだ。おまえは何かを叫びながら建物から落下したと証言したが、落下する前に、その男と会っているはずだ。その男について覚えているか?」
今度こそ、ユリウスは答えに窮した。残酷な形で終わった再会。心に苦味が走った。けれども、もういいのだ。実際のところ、目の前にいる人物に胸がときめくようになってからは、彼のことを思い出さなくなっていた。だが、事実を話して疑惑を持たれたくもない。
ユリウスは押し黙ったままでいた。予想に反して、侯爵はそれ以上追求することもなく、書斎まで出向いたことに謝意を述べ、ユリウスを部屋に帰した。
「過去は忘れる、か」
ユリウスが退出したあと、侯爵はつぶやいた。皇帝陛下の御前では、ユリウスのことを「記憶喪失の少女」と説明した。ユリウスが過去を忘れるというのなら、それこそ都合がいい。
――忘れてしまえ。アレクセイ・ミハイロフという男のことも、過去はすべて
侯爵の口から笑いがもれた。