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Teddy Bear

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 ユリウスの変化に最もとまどっていたのは、侯爵の弟のリュドミールだったかもしれない。リュドミールにとって、ユリウスはかっこうの遊び相手だった。


 不思議な窓の話、そこで出会った男女が恋に落ち、そして悲恋に終わるという話を、うんざりするほど聞かされたが、末っ子のリュドミールにとっての楽しみは、別のところにあった。ユリウスのロシア語の間違いを正すことだ。いつもは兄や姉、教師に自分のロシア語の間違いを正される立場だが、外国人のユリウスに対しては自分が正す立場になれる。弟か妹ができたようで、優越感にひたれた。もっとも、幼いリュドミールの言葉が必ずしも正しいとは限らず、加えて、いたずら心で、おかしなロシア語を教えたりすることもあった。そのため、ユリウスに間違ったロシア語を教えないように、と姉から小言をくらうこともあった。


 ユリウスはピアノも弾いた。目が回りそうなほどの速さでユリウスの指が動くのを、初めのうちこそ感心して見ていた。だが、幼いリュドミールの集中力は続かなかった。あるとき、演奏中にそっと後ろに忍び寄って、目隠しをしてみたこともある。気配がばれていたのだろう。邪魔をしないで、と平然と言いながら、ユリウスは鍵盤の上の指をそのまま動かしていた。それ以外にも、ことあるごとに、ユリウスの演奏の邪魔をしたものだ。


 廊下を走ったり滑ったりする競争や、チャンバラやプロレスごっこなど、リュドミールとの取っ組み合いの相手もした。そんなときは不在がちの兄の代わりだった。


 そういうわけでリュドミールにとってユリウスは、年上と年下、兄と弟の両方の役目を備えた稀有な存在だった。



 ところが、ある日、兄の侯爵の不在中に憲兵たちがやってきて、そのユリウスをどこかに連れていってしまった。もう会えないかと思うと、おもしろくもない不思議な窓の話や、ユリウスの弾くピアノが無性に聞きたくなったものだった。

 兄に頼んだら連れ戻してきてくれた。 


 けれども、帰ってきたユリウスはひどく痩せてしまっていた。憲兵に引っ張っていかれてから、食事もまともにとっていなかったのだろう。顔は青白く、その青い瞳からは光が消えていた。まるで魂が抜かれたかのようだった。ヴェーラやリュドミールが話しかけても、まったく聞こえていない様子だった。まともな状態ではないことはリュドミールにもわかった。

 「何か大きなショックがあったのだろう」


 と兄は言っていたが、リュドミールには意味が分からなかった。


 「すごくすごく怖い目にあったのかもしれないわね」

 とヴェーラは言った。

 

 使用人たちは、狂ってしまったのだと言っていた。

 大雪になりそうな寒い日だった。


 いつの間にかユリウスが自室を抜け出して、行方不明になった。


 夕方に帰宅し、邸内の騒動をまだ知らない侯爵は、たまたま自ら馬を厩舎に連れていった。普段は玄関のところで使用人に預けるのだが、大雪の前に馬たちの様子が気になったのだ。ここにいる馬たちは、侯爵家の所有する馬の牧場から選りすぐった馬たちだ。厩務員のオレグに馬を預け、馬たちに声をかけながら、首筋を軽くたたいたり、撫でたりした。どの馬も良好な状態であることに満足し、オレグと簡単な言葉を交わしていると、少し離れたところから白い野良犬が二人に向かって吠えた。二、三回吠えると、くるりと向きを変えて走り始めた。しかし、人間たちが動く気配がないとわかると、また二人に向かって吠え、向きを変えて、を繰り返した。


 「まるで、来いと合図しているようだな」


 「犬のことですんで、どうせくだらないことだと思いますが、まんいち何かあっても困りますんで、いちおう見てまいります」


 律儀なオレグが犬の走っていく方向に向かった。しばらくしてから、オレグの侯爵を呼ぶ声が聞こえた。侯爵がかけつけると、犬のそばに人が倒れていた。松明の光に金髪が反射した。

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 「ユリウスか⁈」


 ユリウスのからだは、少し冷たくなっていたが、脈もあり息もしていた。侯爵がからだをゆすって、声をかけてみたが、反応はなかった。侯爵はユリウスの雪をはらい、自分の外套で薄着のユリウスをくるんだ。


 その晩、運悪く侯爵家に常駐している医者が不在だったうえに、ますます雪が激しくなったために、他から医者を呼ぶこともできなかった。


 侯爵は人払いをして一晩中ユリウスに付き添った。



 ユリウスが変わってしまったのは、そのあとだった。男のなりをしていたユリウスが、女の子の服を着るようになり、年配の女性といっしょにいることが多くなった。


 リュドミールも、ユリウスが本当は女の子だと知っていたが、男の子扱いできたからこそ、遊び仲間と認定していたのだ。ユリウスが正気に戻ったのはうれしいが、日に日に女の子らしく、しかもきれいになっていくユリウスに、リュドミールはどう対応したらいいのかわからずにいた。





 ユリウスが元気になったら、今度は姉のヴェーラが部屋に閉じこもってしまった。リュドミールは寂しさが募ったあまり、ユリウスに、今度は姉の代わりを求めたのかもしれない。


 ユリウスとカティアが居間で縫物をしているときに、リュドミールが、トルストイの子どものための本を手に持って、読んでほしいと言ってきた。毎晩寝る前にヴェーラが少しずつ読んでくれていたのだという。



 「ロシア語の勉強もかねて、引き受ければいいわ」


 カティアは簡単に言う。何事も経験しておくと必ずあとで役に立つとも付け加えた。


 確かに、これまでの経験、たとえばヒロインを演じたことは、役に立っている。



 リュドミールに揶揄されるのはごめんだ、とばかりに、ユリウスは昼間にカティアのアドバイスを受けながら、その夜に読む部分を繰り返し練習した。


 演劇の経験があるユリウスにとって、顔に表情をつけて、情緒豊かに読めるようになるのに時間はかからなかった。しだいに、リュドミールもユリウスの朗読に引き込まれるようになった。

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