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Snowy Forest

6


 翌日まで留守のはずの侯爵と、武装した部下たちが、雪の庭を移動するのを、ユリウスは目の端でとらえた。そこは、ヴェーラが人目を忍んで通る道だ。いやな予感がした。しばらくしてから、ストール、プラトークというらしい、を被ったヴェーラが、いつものように周囲の様子をうかがいながら通るのがみえた。


 何かあったに違いないと直感したユリウスは、外套をつかんで部屋を出た。そして、カティアの部屋のドアをたたいた。

 ユリウスとカティアが庭小屋近くまで来ると、侯爵の詰問する声が聞こえた。

 「ソビエトのスパイ、そうだな?」

 ヴェーラの叫ぶような声が続いた。

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 「エフレム、何か言って。わたしの顔を見て!あなたは、わたしを利用するために偽りの愛を誓ったの?」

 答えは聞こえなかった。

 「エフレム、答えなさい」

 なおも答えはない。

 「ヴェーラを外へ連れ出せ」

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 真っ白な顔をしたヴェーラが、ロストフスキー中尉に連れられて出てきた。


 「ヴェーラ様」

 「ヴェーラ」

 ユリウスたちは小走りしてヴェーラを抱きしめた。中尉とカティアに急かされて、ヴェーラを引きずるようにして、その場を離れた。

​ 背後で数発の銃声が響き、やがて雪にかき消された。

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 自室に戻ったあとも、ヴェーラの悲痛な声と銃声がユリウスの耳にこだまする。

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 ユリウスは、何が起こったのかを理解するために、兄妹の短いやりとりを思い出していた。

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 ソビエトのスパイ。侯爵は、エフレムのことをそう呼んだ。「ソビエト」が何かは、ユリウスにはわからない。しかし、侯爵の容赦ない対応をみれば、エフレムと「ソビエト」が侯爵の敵であることはわかる。

 エフレムは、ヴェーラを愛しているふりをした。その目的は、おそらく、ヴェーラが侯爵から聞いた情報、特に軍の動きに関する情報を得ることだろう。こんな宮殿のような屋敷の主なのだから、侯爵の政治的地位は相当なものであろうし、軍での立場も推して測られよう。したがって、軍の方針や機密を、侯爵が幅広く把握していることは、容易に想像できる。ユリウスの父親のことも知っていたぐらいだ。

​​

 あまり感情をあらわにしないヴェーラが、声を張り上げ、怒り、泣くようすが、ユリウスの頭にこびりついている。

 「許せないよ、あんな」

 ユリウスの胸に、エフレムに対する怒りが込みあげてくる。女性の愛を利用し、傷つけた、血も涙もない男。

 スパイ。

 この言葉が引き金となったのか、侯爵と出会ったときのことが思い出された。

 ユリウスは、自分はスパイではない、と主張したが、説得力はなかった。偽造パスポートを持って、男のなりをして一人で入国した外国人の、しかも弾痕すらある少女を侯爵が不審に思ったのは当然といえるだろう。ユリウスという名も偽名だと思ったに違いない。

 ユリウスがロシアにやってきた理由は、ユリウスにとっての運命の人、クラウスに会いたかったからだ。だが、ロシア人のクラウスが、この広大な国のどこにいるのかすら、ユリウスは知らなかった。

 

 ユリウスが探している人物の名を知った侯爵は、疑念を強めた。ユリウスが探している人物は反逆者だからだ。ユリウスは、音楽学校で出会った彼が反逆者だとは、想像だにしなかったし、彼が反逆者だとしても、そんなことはどうでもいいことだった。

 「アレクセイ・ミハイロフ」

 彼のロシア名をつぶやくと、まるでそれが合図となって、パンドラの箱が開いたかように、悲しみ、苦しみ、怒り、無念、絶望、孤独といった、ありとあらゆるマイナスの感情が噴出し、胸のあたりに渦巻いた。そのときだった。


 「故郷へ帰れ。おれのことは忘れてくれ」

 抜け落ちていた記憶がよみがえった。突然訪れたクラウスとの再会は、喜ぶべきことのはずだった。しかし、思いもよらなかったクラウスの言葉に、ユリウスは動揺した。さらに、追い打ちがかけられた。

 「おまえと一緒にここで捕まるわけにはいかないんだ。あばよ」

 追われていたクラウスは最後にそう言い残し、ユリウスを置き去りにして逃げた。その行動は、彼と再び会うことだけを考えて、それを支えにしてきたユリウスの心を打ちのめした。

 母親が死んでからというもの、次々と明らかになる悲しい出来事や、一人で男として生きていくことへの不安で、ユリウスの精神は持ちこたえられなくなっていた。そんななかで、せめてもう一度クラウスに会うことだけに、希望を見いだし、ロシアまでやってきたのだ。だから、この残酷な再会の結果を受け入れるのを、ユリウスは無意識のうちに拒んだのだろう。再会の記憶は封じ込められていた。

 その記憶が戻ったときに、涙が堰を切ったように流れ始めた。ユリウスは、声をあげて泣いた。これまでに、なかったほどに。

 

 どのくらい泣き続けただろう。ある考えが浮かんだ。

 クラウス、本名アレクセイ・ミハイロフは、侯爵の敵、反逆者だ。

 いつだったか、侯爵に呼び出されたときに、アレクセイ・ミハイロフを逮捕すると伝えられた。しかし、内通者が事前にアレクセイたちに知らせていたため、逮捕はできなかった。その内通者がエフレムだったのだ。

 クラウスが捕まらなかったことに安堵したのだが、それはヴェーラの犠牲のうえに成り立っていたのだ。

 ――クラウス、あなたはエフレムの仲間なの?あなたも非情な反逆者の仲間なの?

 エフレムの非情な行為と、クラウスの情け容赦ない再会のときの態度が重なり合った。

 追われているにしても、ユリウスを連れて逃げることもできたはずだ。けがをしていたクラウスを助けたかったし、けが人の足手まといになるとは、とうてい思えなかった。むしろ役に立ったはずだ。

 ――あなたはわたしを愛してはいなかったの?あの抱擁は何だったの?あのキスは?

 

 「革命の闘士に、恋などなんの価値があるものか」

 いつだったか、侯爵が言っていた。

 ユリウスは、ドイツでも置き去りにされたことと、今回の残酷な再会について考えた。しばらく苦しみ悩んだが、現実を受け入れた。もう流す涙はなくなっていた。

 侯爵が反乱軍の鎮圧のために、モスクワに出発する日がきた。本来ならば、侯爵の所管ではない軍務だったが、政敵の策略により命じられたのだった。しかも率いるのは、彼自身が調練した部隊ではないという。これまでも、不利な条件や環境であっても、侯爵は、立ち向かい、困難な状況を打開してきた。今回もまた、不利な条件と環境のもとで戦うのだ。

​​

 使用人も総出で侯爵を見送りに集まっている。弟のリュドミールが兄にまとわりついているが、妻のアデールと妹のヴェーラの姿はない。

 ユリウスは階段の上から、階下で声援と激励を受けている侯爵のうしろ姿を見ていた。


 侯爵の背中は、これから戦場に向かう緊張感と自信と覇気とで満ちている。同時に、帝国の安定と勝利への期待、指揮官としての責任、数多くの兵士の生死と、その家族たちの生活が彼の肩にのしかかっていることを感じさせる。ニ千人以上の兵士が彼の指揮下で戦うと聞いた。重責を担い、戦場に向かう男の姿を、目が勝手に追ってしまう。がっしりした肩、厚い胸板、すべてが男らしく見える。

 引き込まれるように、ユリウスがその姿を眺めていると、突然侯爵が振り向いて階段を見上げた。そして、階上にいるユリウスと目が合った。ほんの一瞬のことだったが、侯爵の黒い眼に胸を射られたかのようだった。ユリウスの胸が高鳴った。

 ――侯爵って、こんなにハンサムだった?

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