ユリウスの肖像
2
北の都の初冬の太陽は弱々しく、雲の多いどんよりとした日々が続いていたが、その日は明るい光が窓から射し込んでいた。空気は澄んでいて、カーテンのすき間から見える空は、やわらかな色合いで美しい。
眠りから覚めたユリウスは、心に羽がはえたように軽やかな気分だった。背負っていた重たいものが落ちて、長い間見ていた悪い夢から解放されたようだ。
よく覚えていないが、とても幸福な夢をみたような気がする。
視界に入る世界は美しく、部屋の古い壁や床でさえ目に入るものすべてが、輝いているように見えた。
男と偽って生きてきたユリウスが、いつの日だったか、女の子として生きることを母親とともに決意したときも、皆にキスしてまわりたいほど、未来への期待で心がおどったものだ。そのとき以上に心は晴れやかだ。
「生きていてよかった」
そんな言葉が口からもれた。何かが変わる予感がした。
ふと部屋を見やると、見慣れない白いドレスが椅子にかけてあった。ユリウスは、小声で歓声をあげて、ベッドからとびおりた。さっそく着てみたが、ぶかぶかだった。むりもない。しばらくの間、まともに食事をしていなかったせいで、もともと細身のからだが、さらに細くなっていたのだ。お腹がぺこぺこだった。
ぎいっ、と部屋のドアが開く音がした。
「お目覚めになっていたんですね」
お仕着せを着た小間使いが、ユリウスの様子を見にきたのだが、まだ眠っていると思って、許可を得ないで入室したことを詫びた。何か軽い食事をすぐに用意する、と言ってすぐに退出した。
食事を待っている間、ユリウスは、サイズが合わないドレスのすそを持ち上げ、くるっと回ってみた。鏡に映った白いドレスのすそが、花が咲いたように広がり、そしてしぼみ、また広がった。ユリウスは、まるで小さな子どもが特別な服を着たときのように、ドレスのすそがおどるのを楽しんだ。
サイズの合わないドレスを着て、はしゃいでいるときに、食事が運ばれてきた。そんな様子を見られたユリウスは恥ずかしさを感じたが、小間使いは何ごともなかったかのように配膳をして、ごゆっくりどうぞ、とおきまりの言葉をかけて退出したのだった。
――蕎麦粥って、こんなにおいしかった?
運ばれてきた蕎麦粥が、思わず叫んでしまうほどおいしく感じられる。一口ごとに、身体のすみずみにエネルギーが行きわたっていくようだ。思い返せば、この一、二年間、食事をしてはいたが、そのおいしさを味わってはいなかった。
お腹が満たされると、からだがぽかぽかし始め、やがて眠気におそわれ、再びベッドに横たわった。
それから二、三日の間、ユリウスは食べては眠り、食べては眠りを繰り返して過ごした。
*
「はじめまして、お嬢様」
ユリウスの部屋に品の良い女性が笑顔で現れた。亜麻色の髪を、ロシアの女性がよくやっているように編み込んでいる。年のころは、ユリウスの母親よりも上だろう。けれども、年齢を感じさせないきれいな人だった。背筋はまっすぐ伸び、スタイルもよく、うしろ姿を見れば二十歳代に間違えられてもおかしくないほどだ。お仕着せを着ていないので、小間使いではないことはわかる。
――「お嬢様」だって、このぼくが?
ユリウスは内心くすっと笑った。
――「お嬢様」と呼ばれるのも悪くない
カティア・ロドニナと名乗るその女性は、ユリウスの話し相手をしながら、ロシア語や、状況に応じて、その他必要なことを教えるように、ユリウスが滞在している侯爵家から依頼されたそうだ。夫は法律家で、侯爵家の管財の手伝いをしているという。
ロドニナはさっそくユリウスを鏡台の前に座らせた。
食べては眠る暮らしをしたおかげで、体重は少し戻したようだが、ユリウスの体型はまだ標準以下らしい。
「お嬢様のおからだは、これから大人の女性になる大切なおからだです。ゆくゆくは、結婚して、子どもを産んで、幸せな家庭を築くためにも、きちんと栄養を取らなくてはね」
「大人の女性」、「結婚」、「子どもを産む」、「幸せな家庭」という、これまで無縁だった言葉に、ユリウスは、はっとした。
女の子は、十代半ばから、急速に輝いていく。故郷にいたときも、女の子たちは出会うたびにきれいになっていった。あとほんのわずかな時間で、大人の女性の仲間入りをするのだ。すてきな男性との出会い、幸せな結婚、その先に、子どもがいる幸せな家庭を夢見ている。夢と将来への期待であふれている年頃だ。
ユリウスは、そんな普通のことを、これまで夢見なかったわけではないが、自分に与えられた運命を思うとつらくなったし、特に成長期になってからは、男の子たちとは違う身体の発達の仕方に苦しみ、男と偽るのに必死になっていた。だから、そんなことを夢見る余裕など、ユリウスにはなかった。
これまで我慢し、自分を抑えつけてきたことや、何か大切なものが与えられなかったことに、胸がつまって涙が出そうになった。同時に、普通の女の子としての幸せを求めたいという気持ちが、このときユリウスに芽生えた。
そんなことをユリウスが思っているうちに、ロドニナが、ユリウスのサイドの髪を手際よく編み込んで、後ろにまとめていた。鏡に映った金髪はつややかに輝いている。こけた頬がやや強調されていたが、髪型ひとつでぐっと女の子らしくみえる。顔つきまで変わったようにみえる。
サイドの髪をひっぱったおかげで、目が少し吊り上がったが、何よりも瞳がきらきらしているのが自分でもわかった。
――これが ぼく?
ロドニナが次に取り出したのは、色とりどりの布地の見本だった。
次から次へと色や質感の違う布地をあて、鏡の中のユリウスに、好きな色や似あうと思う色を聞いていった。
「お嬢様に似合う色は、ごく淡い控えめな色ですね。特にピンクや水色は、グレーやベージュがかかった色など幅広く似合いますし、ネイビーもいいですね。淡い紫陽花の色、それから赤みのかかったプラムの色も、お似合いですよ。生地はどっしりした重いものではなく、シフォンのような軽やかな生地がいいでしょう。もっともペテルスブルクの冬は、シフォンだけでは乗り切れませんけれども」
ユリウスがこれまで着たことのないような色や、自分ひとりだったら決して選ばなかったような色が含まれていたが、それらすべてがユリウスに似合っていた。ロドニナは、まるでおとぎ話の魔法使いのようだった。
「明日は縫物をしながら、お話をしませんか」