スポンサーリンク
ーーーー「学校が嫌い」そんな落合さんが編集者という仕事に出会い、人生の軸を見つけるまでーーーー
ゲストプロフィール
落合加依子(オチアイカヨコ)
愛知県名古屋市生まれ。中学受験を経て椙山女学園高等学校に入学し、大学までをその学校で過ごす。卒業後、童話作家を目指して上京するが、そのなかで編集者という仕事に目覚め、現在まで編集者としてのキャリアを歩む。それと並行して、地域に開かれたシェアハウスである「コトナハウス」をつくり、現在は本屋も併設する出版社兼編集プロダクション「小鳥書房」を設立してその店主として活躍している。
ーー中学校に入学するまでについて教えてください。
夏目漱石の『坊ちゃん』の冒頭に「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」という一節がありますよね。まさにそんな子どもでした。学校に楽しさを見出せなかったので、幼稚園生のときに泣きながら登園拒否をしたのを皮きりに、中学のときには学校の塀を乗り越えて脱走するなんてこともありましたよ(笑)当時、家にも学校にも居場所がないというような気持ちを抱いていたんです。そうした気持ちがあったので、人のために何かができるなら、という思いで、あるときから社会科見学をきっかけにしてデイサービスセンターでボランティアをはじめました。高齢の方の話し相手になったり、将棋の相手をしたりしていましたね。あまり子どもが来ることがないためか、小学生の自分が来ると喜ばれたことを覚えています。かなり通いつめていましたね。
中学生になってからは、アルバイトや、先のボランティアに明け暮れました。また、この頃は勉強が割とよくできた方で、数学は苦手でしたが国語はほぼ満点でした(物心ついてからずっと国語は得意でした!)。でも、学校に居場所がないなと感じるにつれ、次第に勉強嫌いになってしまいましたね。学校の成績も振るわず、後ろから2番目だと思っていたら最下位の子が留学していたなんてこともありました。
ーーその後の学生生活はどうでしたか?
高校では、やはりボランティアに力をいれていたのですが、学校の勉強はしなくなってしまいました。勉強した先に何があるかわからなくなったというのがその大きな理由です。
その後、大学も同じ学校に進学しました。当初は文化情報学部で勉強をしていたのですが、入って2か月くらいで「人とかかわる仕事をしなければ」と思い、表現文化学部に転学部することを決意しました。転学後で特に印象に残っているのはエッセイを書く授業ですね。作家の先生がそのエッセイを朗読してくれるのですが、それを聴いてクラスのみんなが涙を流してくれたんです。自分の書いた文章で人の心を動かすことができたということがとても印象に残っています。また、4年生のときに学内で写真のコンクールがあったのですが、グランプリと優秀賞を自分が全てとってしまったことがありました。
大学も、学校が嫌いだったのでまともに行っていなくて、卒業する年になって後2単位残してしまったんですよ。でも当時の学校の先生が「この子は卒業してからのびる子だから」と単位を落とした先生に頼み込んでくれて、その先生の授業の特別課題をこなして無事卒業、なんてこともありました。
当時もアルバイトに注力していて、特に塾でのアルバイトが印象に残っています。そこでは国語を教えていたのですが、なかには外で遊ぶのは大好きだけど文章を読むのが嫌いな子どもたちも少なからずいました。その子たちにどうしたら国語を好きになってもらえるかを考え、リレー小説をはじめたんですよね。自分の言葉で世界を生み出していけるということを感じてもらうことで、国語を好きになってもらえないかと思ったんです。そうすると、その子たちも文章を読むのが楽しくなったようで、国語を好きになってもらえました。国語ができるようになって、それをきっかけに他の教科もできるようになっていく子どもたちを見て、とても嬉しかったです。こうした経験がきっかけになって、自分が人生をかけるのは言葉で子どもたちの表現を引き出すことや、教育に関わることだと思うようになりました。そこで上京して、日本児童教育専門学校に進学したんです。その学校で勉強をして、童話作家を目指すことにしました。
しかし、学校に通うなかで、やっぱり私は学校が嫌いだということに気付きました。大学時代、アルバイトはいくつ掛け持ちしていても苦にならないくらいだったのですが、やはり学校は好きになれなかったようで…。そうして、タバコやお酒、ギャンブルにわかりやすく逃げてしまったんです。その結果、タバコの吸いすぎで声が出なくなり、入院することになってしまいました。やはり学校は向いていないと思い、辞めるという決断をしました。
ーーその後はどのようなキャリアを歩んでこられたのですか?
まず、童話作家の裏方の仕事をしてみようと思ったんです。片っ端からライターや編集の仕事に応募したのですが、ほとんど落ちてしまいました。結果としてニシ工芸という神田の編集プロダクションに拾ってもらって、そこで働き始めることになりました。しかし、中途採用だったため同期がいなくて、何もわからないままでしたが即戦力として働かせてもらいました。そんな状況だったので失敗も多く、大きい出版社から「担当を変えてくれ」と言われたこともあります。自分の不甲斐なさに涙を流すこともしばしばありましたが、仕事自体はとても楽しかったです。
そうしてまがりなりにも編集者として働くなかで、それまでは童話作家になりたかったのですが、「編集者の仕事はなんて楽しいんだ」と気付いたんです。童話作家だと1年に1冊くらいしか本をつくれませんが、編集者であれば年に10冊近くの本に携わることができる。しかも、誰かの想いを形にできるうえ、それを応援できるんです。そうして、これからの人生を編集者として生きていくことを決めました。
ただ、編集プロダクションの仕事は、出版社の仕事の中の編集の部分を担当するのですが、私は「本が生まれてから死ぬまで全責任を持ちたい」と思ったので出版社に行こうと思ったんですよ。そうして転職活動をして、セブン&アイ出版に入社することになりました。始めは料理本を中心につくっていて、その後はビジネス書や動物のノンフィクション、ファッションの本など、さまざまなジャンルの本をつくらせてもらいました。
そうしたなかで、これまで自分にできると思っていたことが、ことごとく通用しないということに気付きました。そこからはただひたすら必死に試行錯誤する毎日でした。セブン&アイ出版での仕事を通して、自分が「良い」と思った人の本を形にできたり、本ができた後、本を書いた人と伴走して本を売っていき、本を伝えていけたりする編集者としての喜びを味わえました。
ーーシェアハウスであるコトナハウスをつくった経緯を教えてください。
26歳のころだったでしょうか。それまで自分の軸は子どもの感性を育むことだと思って生きてきたのですが、出版社の仕事ではそれはできないと思ったんですね。そこで、子どもたちが自由に学べるあったかいおうちをつくりたいと思い、もともと税理士事務所だった場所を改装して、仲間たちと一緒にコトナハウスをオープンしました。当時働いていたセブン&アイ出版は副業禁止だったのですが、「これが私の生き方だ」という感じでシェアハウスを始めると快く応援してくださいました。コトナハウスのオープンの日に同じ部署の上司たちがみんなで来てくれたり、座布団を寄付してくれたりしましたよ。そこで、それ以降会社での仕事とコトナハウスを両立して生きていこうと決めました。
スポンサーリンク
コトナハウスの入り口。vol.50でインタビューした西加さんの子ども食堂のチラシが貼ってあります。
コトナハウスのなかの様子。この空間は「チャノマ」と呼ばれています。
ーーなぜ小鳥書房を設立するにいたったのですか?
その時期、たくさん地域の人との出会いがあったんです。そうして、しばしばお客さんから「本を書きたい」というような要望をお聞きすることがありました。しかし、会社で働いているかぎり、その1人のお客さんのために本を出版することはできなくて…。だけど、編集者としてこの企画は本にすべきだと思うものもあったんですね。そうして、「たったひとりの誰かが心から喜んでくれる」本づくりをテーマに、小鳥書房という出版社兼編集プロダクションを設立しました。
そうするうちに、もともと働いていたセブン&アイ出版との契約が切れるときがきました。上司には「正社員になったほうがいいよ」と言われたのですが、退職することに決め、フリーランスでセブン&アイ出版の仕事を受けながら小鳥書房での仕事をするようになりました。そこでは、これまで『ちゃんと食べとる?』、『モノポの巣』などを出版しているほか、多くの書籍を編集してきました。現在では、出版社と併設して本屋もやっています。
同時に小鳥書房では、全国からインターンを受け入れていて、年間60人ほどが各地から来てくれています。インターンの受け入れをしているのも、自分の軸が「教育」や「学び」にあるからです。
ーー将来の夢はありますか?また、これからどんな人生にしていきたいですか?
将来の夢は3つあります。1つめは、現在スタッフが2人いるのですが、その2人を大切にしたいなと思っています。2人は「小鳥書房にずっといたい」と言ってくれているんです。こんなふうに言ってくれる人には人生でそうそう出会えないですし、本当に大切にしなければなと思っています。2つめは、この小鳥書房を50年先も続く店にすることです。小鳥書房はダイヤ街商店街というところにあって、そこには昔から続いているお店がたくさんあるんです。今までいろいろな仕事をつくってきましたが、そうしたお店のように「続ける」ということが一番難しいことだと感じるので、小鳥書房をこれから50年先も続く出版社と本屋にできればと思います。3つめの夢は、地域で子育てをしたいということです。
ダイヤ街商店街の様子。左手にコトナハウスがあり、右手に小鳥書房があります。正面の公園からは、子どもたちが遊ぶ元気な声が聞こえてきます。
ーー仕事をするなかで何か大切にしていることはありますか?
小鳥書房の本づくりについて言えば、著者と向きあうこと、デザイナーと向きあうこと、読者と向きあうこと、1人1人と向きあうことを大事にしていきたいと思っています。大きな出版社ではたくさんの人に届くことや売れることをまず考えなければならないのですが、小鳥書房では「たったひとりの人が涙を流してくれるような本づくり」をしたいです。それは目の前の人に丁寧に向きあうことの先にあるので、「向きあう」ということを大切にしていければと思っています。
小鳥書房の店内。この日はお客さんとお話をしていました。
ーー今までの人生を振り返って、やってよかったこと、やっておけばよかったこと、そして読者に向けてアドバイスはありますか?
やってきて良かったなと思うことは、アルバイトですね。経験でしか学べないことがあると思うのですが、これは学校の机の上だけではできません。私は学校での勉強を積極的にはしてこなかったのですが、その代わりに目で見て、手で触って、心で感じる経験を積み重ねてきました。これまで40ものアルバイトをしてきましたが、その全てが自分の糧になっていると感じます。
やっておけばよかったことは、勉強でしょうか。頑張り方や学び方を知れるという意味では、いくつになっても強みになることだと思うんですよね。アドバイスとしては、「好きなことと得意なことの中間にその人が続けられる仕事がある」ということです。あと、編集者は0から1をつくる仕事なのですが、働くうえで、そのような考え方ができる人は多くないと感じています。自分もずっとそうありたいと思うと同時に、みなさんもそうしたことを意識した働き方をしてみるのも良いのではないでしょうか。
ーーでは、落合さんにとって大学とはどのような場所でしたか?
大学を卒業すると、就職・進学が待っています。どちらにしても、自分の軸さえ見つければ生きることがだいぶ楽ですよね。しかし、多くの大学生は自分の軸を見つけることができずに悩んでいるように感じています。私は、大学は自分の軸を見つける時間を与えてくれる場所だったのではないかと思っています。多くの人と出会って、いろいろな経験を積み、たくさんの本を読んで、みなさんの大学生活が自分の軸を見つける時間になったらいいですね。
ーー最後に、落合さんにとって人生とは?
「冒険」ですね。誰と出会って、何を見つけていくかは、その人次第ですよね。それを探す冒険なのではないかと思います。
みなさんは、この記事を読んで何を感じましたか?
学校が肌にあわない人にとって、落合さんのように学校を卒業してから社会で活躍するという方の存在は励みになりますね。学校だけでは身につかない価値を手に、人生という「冒険」を楽しんでみてはどうでしょうか?
コメントする