第27話 ドナー隊の人肉食事件

 大西洋を渡って東海岸からアメリカ大陸に上陸した開拓者たちは、天候に恵まれた西海岸に入植するためには何千kmもの旅をしなければならなかった。

 長い旅路には様々な障碍が待ち受ける。ネイティブ・アメリカンの襲撃。無法者たちの略奪。

 西部開拓地にはまだ連邦警察の力が及んでいないため、何が起こるかわからない。

 なかでもそびえ立つシエラネバダ山脈は最大の難関であった。

 山を越せるのは雪の溶けた夏だけだ。

 そのためシーズンともなれば移住者を満載した馬車が列をなす。

 ジョージ・ドナー率いる総勢87名のドナー隊も「約束の地」カリフォルニア目指して旅立った。しかし、彼らは季節を間違えた。出発するのが遅すぎたのだ。


 1846年8月、ドナー隊はイリノイ州を後にした。

 ただでさえ遅い出発であったにも拘わらず、彼らの馬車を牽くのは馬ではなく牛である。

 ノロノロとした砂漠の旅は困難を極め、ユタやネバタの砂漠を横断する過程で、既に5人が事故や病気で命を落とした。


 ようやく山々が見え始めたのは10月下旬のことである。冬はもうそこにまで来ている。

 この時期の山越えは自殺行為だ。しかし、砂漠とシエラネバダに挟まれて進退極まったドナーは敢えて山越えを選ぶ。この山さえ越えれば、そこはもう「約束の地」だからである。


 10月30日、案の定、ドナー隊は遭難した。

 場所は標高2千メートルのトラッキー湖畔。吹雪が凄まじく、馬車は雪に埋まり、もうこれ以上先に進むことが出来なくなったのである。やむなく、隊はここで冬を越す羽目となる。

 住居の心配はない。丸太小屋の材料はまわりにいくらでもある。問題は食料だ。果たして吹雪が止むまで、貧弱な牛の肉だけで間に合うだろうか?

 間に合う筈はなかった。食料の消耗は思いのほか早く、このままでは隊の全滅は必至と誰もが考えた。

 捨て身の救援隊が組織され、危険を承知で吹雪の中を旅立つ。しかし、二度に渡る救援隊は、遂に帰ってこなかった。


 12月16日、最後の救援隊が山越えに挑んだ。しかし、幸先はよくない。2日目に怖じ気づいた2名がキャンプに引き返してしまう。そして、クリスマスの夜、さらに荒れ狂う吹雪が彼らを襲った。

「もう食べるものは何もない。彼以外には…」

 そう云って、エディはドランを指差す。ドランは昨日から昏睡状態だった。

「なんてことを云うんだ、お前は」

 そう云いながらも一行は、いざドランが死ぬと、これを平らげてしまった。

 その後吹雪の中で5名が死に、その死体は生存者の胃の中に納まった。


 明けて1847年1月1日、誰も死なないので、一行は困ってしまった。

「駄目だ。もう我慢できない」。

 大食いのフォスターは、先達を務める2人のネイティブ・アメリカンを調理することを密かに提案する。これにゾッとしたエディが彼らに忠告したため、新鮮な食材は慌てて逃げ出した。

 それに激怒したフォスターはエディの横っつらを張り倒し、ライフル片手に雪原を走る。

 逃げる彼らに追いついたフォスターは躊躇することなく脳天を撃ち抜いた。

 この事件を機に救援隊はフォスター組とエディ組に分裂する。しかし、皮肉なことに、生き残ったのは2人を食べて体力をつけたフォスター組であった。


 1月11日、フォスターたちはなんとか山を越え、よろめきながらサクラメントのジョンソン牧場に辿り着く。彼らは半裸の上に顔は血まみれ、人を喰って生き存えていたことは誰の眼からも明らかだった。

 フォスターたちの報告を受けて、直ちに救助隊が組織された。しかし、冬の真っ只中。無事に全員を救出できる保証はなかった。



 2月18日、救助隊はトラッキー湖畔に到着した。キャンプ地ではまだカニバリズムは行われていなかった。

 しかし、状況は惨澹たるもので、いくつもの死体が野ざらしにされていた。衰弱した生存者たちには死者を埋葬するだけの体力が残っていなかったのだ。

 不幸なことに、救助隊の食料も底を尽き始めていた。木乃伊取りが木乃伊になるわけにはいかない。とりあえず自力で山越えができる者だけを救出することにした。

 選ばれた24名は半死半生でサクラメントに辿り着いた(うちの2名が途中で死亡)。しかし、残された32名の運命はより悲劇的なものとなった。救助隊は彼らに食料を残していくことが出来なかったのである。


 3月1日、第2救助隊が到達した。恐れていたことが現実のものとなっていた。救助隊がまず見たものは雪原に横たわる骨格標本。救助隊に近づく男は、悪びれるでもなく誰かさんの脚を腰からぶら下げていた。

 この脚のかつての持ち主はジョージ・ドナーの弟、ジェイコブ・ドナー。夫人は夫を食べることを拒否したが、子供たちには切り分けて食べさせていた。


 救助隊の食料不足は前回と同様だった。救出できたのは女子供を含めた14名だけだ。約半数である。しかし、彼らも救出されたと喜んではいられない。激しい吹雪が襲い、食料はあっと云う間に底を尽いた。

 7歳になるメリー・ドナーが無邪気に云ったという。

「また死んだ人を食べなくちゃね」

 1時間もしないうちにグレーブス夫人が跡形もなくなった。彼女はその乳飲み子が寝かされた横で解体された。結局、11名が救助されたが、ショックのあまり自らの体験を語ることは出来なかった。


 一方、トラッキー湖畔のキャンプでは、ジョージ・ドナーの家族を中心とする十数名が3回目の救助隊を待っていた。

 さて、ここでルイス・ケスバーグが登場する。彼は極限状態で完全に狂っていた。

 しかし、ジョージ・ドナーが凍傷で死にかけている今となっては、ケスバーグが事実上のリーダーである。次の救助の到着まで、彼らは嫌でもケスバーグの指示に従わなければならなかった。

 或る日、ケスバーグは4歳のジョージ・フォスターを自分の横に寝かせた。

 翌朝、ジョージは冷たくなっていた。誰もが殺人を疑ったが、ケスバーグは自然死だと云い張った。

 その後もケスバーグの隣で眠る者は、翌朝には冷たくなっているのが続いた。



 3月13日、第3救助隊が到着した。生存者のほぼ半分が食べられていた。

 ドナー夫人は重体の夫を残していくことを拒んだ。結局、雪解けまでこの地に留まることになった。夫人一人では心配だからと、ルイス・ケスバーグも残ることとなった。

 彼を残すことが一番心配だったのだが、今回は食料を十分に残しておくことができたので、よもやそんなことはあるまいと救助隊もたかを括っていた。


 4月17日、最後の救助隊がこの呪われた地を訪れた。生存者はケスバーグ一人だった。

「ドナー夫人は何処だ?」

「そこにある」

 見ると、そこには大きな鍋二つに波々と血が満たされ、切り取ったばかりの肝臓がフライパンの上で調理されていた。

「残りは喰っちまった。これまで喰った中で、彼女が一番旨かった」

 ケスバーグの小屋を捜索すると、なんと、牛の肉も見つかった。前回の救助隊が置いていった干し肉だ。ケスバーグは極限状態で夫人を喰ったわけではなかったのだ。

「どうもこの干し肉はパサパサで、俺の口には合わないんだ。人の肝臓の方がよっぽど旨い。それに脳味噌ときたら、そりゃあもう、スープにすると最高だぜ」

 呆れた救助隊はケスバーグを拷問にかける。しかし、彼はとうとう夫人の殺害を認めなかった。


 その後のケスバーグは、あのドナー隊の最も血塗られた生き残りとして、カリフォルニアの名物男となった。彼は酔うと決まってドナー夫人のノロケ話を始めた。

「柔らかい、いい女だったあ。俺はあの女から4ポンドもの脂肪を煮出したものさあ」


 1850年代初め、ルイス・ケスバーグはステーキハウスを開店した。宣伝文句に曰く、

「最上の柔らかい肉しか扱いません」


 もっとも悪名高い彼のその後の人生はみじめなもので、商売は失敗し日々の食物にも困る有様であったという。

 だが、彼はいくら困窮しても殺人を犯して飢えを満たすことはなかった。

 やはり遭難中の極限状態が彼の理性を狂わせていたということではないだろうか。

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