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紙面から from Asahi Shimbun

【2012年の夏】
壁の向こうに 記者が見た被爆67年:7  (2012年8月6日 朝刊)

写真 「あんたはこれからやけん」という被爆者の中村奈美さん(右)に「ナミちゃんも現役やって」と話す土岐菜夏さん=長崎市の喫茶店、花房吾早子撮影 写真 林田光弘さん

若くたって知りたい語りたい
   長崎で就職した管理栄養士の土岐菜夏さん
   核廃絶を仕事にしたいという林田光弘さん

 「被爆者の話を直接聞ける最後の世代として、世界に伝えたい」。取材で出会う若者に真っすぐな瞳で言われると、つい後ずさりしてしまう記者の私。気持ちは同じだが、正面から口にするのはためらう。
 ゆかりのない私が主張するのはおこがましくないか、と――。

    ■    ■

 「ナミちゃ~ん、会いたかった」「私もよ。ナカちゃん」
 7月25日夜、長崎市の喫茶店。土岐菜夏(ときなか)さん(24)が中村奈美(なかむらなみ)さん(74)に抱きついた。「結婚相手はナミちゃんに見てもらう」という土岐さんに、中村さんは「どんな男かしら」。
 秋田出身の若い管理栄養士と、長崎の被爆者。1カ月前の今頃、2人は見ず知らずの仲だった。
 7月初旬、土岐さんは、ライブ帰りに喫茶店で友達と原発の話をしていた。向かいの席の女性が手招きした。中村さんだった。
 「どこから来たの? 私、被爆者なの」
 体験を聞きながらメモ帳にペンを走らせた。気付けば1時間以上経っていた。
 土岐さんは4月、長崎市に引っ越してきた。大学で発展途上国の飢餓問題を知り、「亡くなる子を放ったまま栄養士になっていいの」と思った。「戦争が飢餓を生む。そうだ、平和だ。広島、長崎だ」。秋田と同じ日本海側に近いと、長崎の診療所に就職した。
 被爆体験記の朗読ボランティア講座に通い始めた。証言ビデオを見たり、爆心の碑が立つ公園を散歩したり。被爆者に会っても当時の体験を想像すると、「聞かせて」と言えなかった。
 そんな頃、たまたま出会ったのが中村さんだ。
 「赤ちゃんを抱いたまま死んでいるお母さんを見た」。中村さんは涙をこらえ、語った。子や孫には伝えていない話。土岐さんを見て「優しい目をしているこの子なら、聞いてくれそう」と直感したという。
 「戦争が憎い」と中村さんが時折悔しそうに言う。
 「おばあちゃんが平和を願う気持ちを私も背負っちゃった」。土岐さんは、地元・東北の子どもたちに被爆体験記を朗読することが、目標になった。

    ■    ■

 6月22日、首相官邸前。原発再稼働反対を訴える人の群れの中で、明治学院大国際学部2年の林田光弘さん(20)は、出身地長崎では見たことがない光景に圧倒された。
 ストリート系デザインの名刺を持つ男性、ハート柄のTシャツにギャルメークの女性。「アーバン(都会的)」な運動が、若者を巻き込んでいた。
 「平和教育のサラブレッド」だと自認してきた。祖父は被爆者、小中学校は爆心地から約1・5キロ。高校2年で核兵器廃絶を願う署名を国連に届ける「高校生平和大使」に。将来は長崎で、核兵器廃絶を一生の仕事にすると決めていた。
 1年半前の上京が転機だった。「平和大使? 何それ」。友達の一言に打ちのめされた。原爆を知らないのは罪で、核兵器廃絶とさえ言えば伝わる。そう信じてきた自分が揺らいだ。
 無関心な人を振り向かせたい。一緒に荷物を背負おうとしてくれる同世代と、手をつなぎたい。思いを確認するように今、官邸前に毎週足を運ぶ。

    ■    ■

 2人と出会い、何かを伝えることに「壁」を作っていた自分に気づいた。知りたいと思った瞬間から、誰でも平和を語れる。たまたま長崎に赴任した私。それだけの縁だけど、それで十分。もっと、被爆地を知りたい。
 (花房吾早子、28歳)

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