ヤマハRD250。
高校時代、このマシンにはある
種の憧憬があった。
私はカワサキ好きだが、S特進
のクラスメートの同級生が駆る
このソノートカラーのRZがばか
っぱやだったからだ。
勿論、根本は腕なのだが。
全学年の二輪乗り全体でそいつ
が一番速く、二番目が私だった。
ほんの僅差なのだが、奴のほう
が速い。
マシンの違いではないのだが、
この車は乗らせて貰うと本当に
出来が良かったし、うまくセッ
トアップしていた。
このRDの発展完成形がRZ350
だった。
RZというのは日本だけのネーム
で、海外ではRDのコードネーム
のままだった。
クラスメートのRD乗りと私は、
今のバトルオブツインや筑波
フェスティバルの大元を作った
都内の同じヤマハ系レーシング
チームに属したが、奴はその後、
国際A級になりマン島を走った。
奴は進学を選ばず、レースに
絞り込んだ。
私は大学進学の為にレース活動
は「停止」した。
RZ350は1981年に出て即買った。
買ってからレースを続ける奴の
家に行ったら奴は言う。
「おめぇ、RZ350なんて、出世
したじゃねぇか」
「なに言ってやがる」
「今度乗らせろよ」
「おまえはレーサーだけ乗って
ろ」
「なんだそれ。ざけんなよ」
という会話だった。
その足で昔のチーム仲間の先輩
の家に二人で行った。
奴はカワサキに乗ってやがった(笑
先輩の部屋にはRS125レーサー
があった。
まだヤマハはワークス以外に
125レーサーを復活させていな
かったので、ヤマハ系ライダー
もやむなくホンダに乗っていた
時代だ。
RZの動体能力は、高校の時の
ホンダレーサーのMT125(のち
のRS125)に似ていた。感触が。
ただ公道車のRZはフロントフォ
ークが弱く、フルブレーキング
しながらコーナーに突っ込むと
ヨレヨレのヨレだった。何?これ?
という程に。
フロントフォークが細すぎる為
だった。
そして、乗り方もあり、ステア
をこじる乗り方は×。ヤマハの
乗り方をしないとならなかった。
極端なハングフォームよりも
中心線に軸線を残す乗り方の
ほうが速く走らせられた。
こういう事はマシンによる。
車によっては極端なフォーム
やインへの軸線の移動をさせ
た方がよく曲がる車もある。
車によりけりだ。どれも一辺
倒ではなく、その車なりの走
らせ方がある。
RZのフロントの脆弱性の対処
では、大抵は左右フォークを
連結させるスタビライザープ
レートを誰もが個人カスタム
で装着させていたが、ただ固
めるだけではセッティングが
出にくかったようだ。
私は疑問があったのでやらな
かった。
それよりもブレーキそのもの
とタイヤにこだわった。
その後のRZRになってからは
ノーマルで完璧なフロントセット
となり、時を一にして「ハンド
リングのヤマハ」と言われる時
代になっていた。
それ以前のヤマハは実はホンダ
以上にハンドリングがひどいも
のだった。
ミドルレーサーで神マシンの
ように完璧さを持っていたのは、
70年代末期〜80年代初期にお
いてはカワサキのワークスマシ
ンだった。
そして、多くの人が歴史を誤認
しているが、日本二輪史で「レ
ーサーレプリカ」として一番最初
にこの世に登場した公道モデル
は、ワークスマシンKRをイメージ
したAR50だった。
RDよりもRZのほうが車として
は優れている。
さらに、RZよりもRZRのほう
が優れている。
そんなことは分かっている。
だが、カワサキKHよりも断然に
それ以前のマッハSSがいいよう
に、RZよりもRDにある種の思い
入れがある。
TZにしても85TZよりも83TZの
ほうが良い車である、というよ
うなものとは別な車体能力とは
別次元の感情移入として。
ただ、一つ確かな定理は存在する。
これは現代にも通じるものとして。
「最新の物が最良である」と思い
込むのは、それはあまりにもクル
マの事を知らなすぎる、という
真実の定理だ。
最新物が何でも良いならば、最新
型はすべて「名車」になってしま
う。
だが、現実はそうではない。