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号泣奇病ブルー症候群 - インドの大運動会/ドスベロの小説 - pixiv
号泣奇病ブルー症候群 - インドの大運動会/ドスベロの小説 - pixiv
44,502文字
号泣奇病ブルー症候群
一度罹るとメンタルが暴落して号泣が止まらなくなる奇病がNRCで爆発的に流行り、監督生がグチャグチャになったNRC生を看病する話。

捏造、モブ、なんでもあり。
監督生の名前はユウで固定してます

the夢小説っぽい夢小説落書きしました
楽しかった〜
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2023年2月26日 15:02



「ッ、」

ルークに花瓶を投げられた。
それは壁にぶつかって床に落ちたが、案外頑丈で割れなかった。
ゴツンと重たい音が鳴っただけだ。

「………っ」

ルークはキリリと赤くなった唇を曲げている。
監督生はそれを見て、ただ彼の美しさに見惚れていた。
昼の金色の光が満ちる、全ての壁に細い窓が埋め込まれている六角形の部屋。
大理石の床、靡く白いカーテン。
その中で、ルークは寝起きみたいに金色の髪を崩していた。彼はズボンしか履いていなくて、目も鼻の先も唇も薄い桜色に染めている。
細い眉がクッと寄せられていて、切実な大人の顔にも…玩具を買ってもらえないと知って泣くのを決めた子供の顔にも見えた。
悔しそうな顔だ。

花瓶から落ちて散ったピンクローズが水と一緒にキラキラ光っている。
ルークはそのままジッと監督生を悔しそうな目で見つめてから、スン、と一度鼻を啜るような音を出して。

「、…」

ずんずんとこちらへ大股で歩いてくるのだ。
監督生は一瞬身を縮めた。
するとルークは彼女の体を軽く押して、部屋から廊下へ追い出すと。
バタン。と、少々雑にドアを閉めた。
けんもほろろという具合。
ルークは怒っていた。怒っていたというより、悲しんでいた。

「……やっぱりかかったのね」

しかも、彼は〝キラー〟だ。
彼女は閉じられた目の前の真っ白な扉を見つめて、ちまこくポチンと呟いた。
それからフム…という、どこか納得した顔をして、全く気にせずにもう一度その白いドアを勝手に開けるのだった。

「サンドイッチ、置いておきますよ。寮生の方がこさえてくれたんです。ちゃんと食べてくださいね」

そう言って扉近くの小さなテーブルにお皿を置いた。
ルークはこちらに背中を向けて立っていて、一切反応しない。これを、大人しいのは良いことだと彼女は判断する。

「おじゃましました」

頭を下げてドアを閉める。
そして「ふう」と溜息をついてから…。

次はレオナさんをお風呂に入れなきゃなと思う。
レオナは多分今頃無気力に窓の外を見ているか、泣いているかのどちらかだろう。
彼の相手はルークよりも比較的に楽だ、と思って歩き出した。



【以下、解説】


「アレっすよ。ブルー病っスよォ」
「ブルー…」
「名前どぉ〜〜りの病気ッスね。最低1週間は治んないス」

ラギーはマンドラゴラを揚げたものにソースをかけ、ザクザクはふはふ食べながら言った。
それは物凄く美味しいらしい。
彼女は「ブルー」ともう一度繰り返した。
ワンダーランドで昔から流行っている伝染病の名前であり、先日レオナが罹ったものでもある。

どういう病気かといえば、基本的な症状は風邪と変わらない。頭痛や咳、吐き気や節々の痛み、高熱など当たり前のものばかりだ。
がしかしブルーの大きな特徴は、とにかく気分が落ち込むというもの。その落ち込みたるや尋常でなく、家族やら恋人やらが一気に目の前で殺されただとか、苛烈な拷問と監禁の中唯一縋っていた希望を破壊されたであるとか、それ程の〝ブルー〟が突然襲ってくる。

罹患した者は頭の中に突然降ってきた…そんな言葉にし難い/理由のないブルーに耐えられない。
マ自殺者がいないことが唯一の救いである。
自殺する気力もないし、ブルーにかかるとまずは絶対に自殺防止の魔法薬を飲まされるから。
特効薬はない。
有効なワクチンもない。
処方されるのは熱冷ましと、自殺防止の薬だけ。
昔はメランコリック病とも呼ばれていたらしい。
かかった人間から白百合の花の香りがするのも大きな特徴。
そして感染力が非常に強いらしく、マァインフルエンザみたいなものだ。

「レオナさん、どこで拾ってきたんだか昨日からブルーになっちゃって。みんな絶対うつりたくないんでレオナさんの部屋ごとレオナさんを焼いて菌を全部無くそうって話も出たんスけど」
「誰がそんなことを…」
「オレすね」
「ラギーさんが…」
「でもマァ部屋に閉じ込めときゃ勝手に治るっちゃ治るっすからねぇ。問題はちゃんと本人が薬飲めるかどうかなんスけど。アレ一応飲んでないとヤバいんで…や、…マジで…美味いなマンドラゴラ…」
「一つくださいな」
「ダメ。オレの。ンで思ったんスけど、監督生くん魔力ないヒューマンじゃないスか。この病気って魔力なければ罹らないんで、監督生くん看病してくれないスかね。薬飲んでるかの確認だけで大丈夫なんすけど、バイトみたいな感じで。これバイト代ッス」
「え。こんなにたくさん。ラギーさんが?」
「オレじゃないっすね」
「ラギーさん以外が…」
「お願いできます?」

ラギーは口の中のものを口の端っこに寄せて言った。フォークを握った右手をグーにして、唇に添えて。

そういうわけで彼女はレオナの看病をすることになった。
彼は寮長室、部屋にいるそうなので…。
部屋の掃除と、おじやを作る準備と、冷えピタやらスポーツドリンクやらを持って向かったのである。
基本的には風邪らしいから。
あとは薬が飲めるようにおくすりのめたねも買ったから、問題なかろうと。

「レオナさん、失礼します」

レオナとはそこまで仲が良いわけでもない。
時折機会があって多少話す程度で、近しい人間ではなかった。いつも距離感を測りかねる、ちょっと怖くて偉い先輩というイメージである。
そんな彼であるので多少緊張した。
緊張したのだが。

「げほっ。ゴホッ、うっ、う"…ッ。ヒグッ、オエ"ッ!」
「な、泣きすぎて咽せてる…!」

泣き過ぎて咽せていた。
どうせ部屋に行っても、「そらご苦労なこったな。お優しくて涙が出るぜ…」と適当にあしらわれると思っていたのだが。
レオナはベッドに寝転がってコチラに背中を向け、泣き過ぎて咽せていた。
床には大量の酒瓶が転がっているが、窓は開けっぱなしなのでさして酒臭くはない。
多分、ブルーに耐えかねて大酒を飲み下したのだろう。
ブルー中は酔えないと知っていても。
レオナからは、聞いた通り白百合の香りがした。

「れ。レオナさん、看病に参りましたよ。ユウです、分かりますか」
「っ、っ、っ、」
「それどころじゃないですよね…」

レオナは息を詰め、引き笑いをするみたいに喉のあたりを大きく痙攣させて声を出すのをやめた。
けれど泣き止めないらしく、こちらに背中を向けたまま更に丸くなる。
しかしテーブルの上にある鏡で彼の顔が見えた。
レオナは目を閉じていて、目の周りが赤い。
暫く泣いていたのがよく分かる。
ダランと伸ばした腕は無気力で、尻尾も足も伸ばしっぱなし。体は力が入らずに動かないのだろう。
強い自殺願望と哀しみのドン底、彼はずっとそうしていたのだ。
成程、〝敵〟は思うより余程手強い様子。
あのレオナがここまでになるのだ。
元来心の弱い者がかかってしまえば一体どうなることか。

「…失礼致しますね」

乙女は随分躊躇ってから、レオナの額にソッと手を乗せた。
高熱であれば熱冷ましを飲ませなければならないから確認する必要があったのだ。
しかしレオナの体は冷たいように感じた。
測定器も標準より少し高いくらいという微熱を出したため、風邪の症状は落ち着いている。
彼を襲っているのは理由のない暴力的な不幸のみだ。

「………」

焦ってはいけない、と思った。
こういう場合は同情心に引きずられず機械的に対応しなくてはいつまで経っても終わらない。
終わらないということは患者も辛いということだ。
彼女はリドルにやるべきことをリスト化して貰っていたので、それを見てまずはベッドを清潔することにした。
その為にはレオナを退かさなければいけない。
彼は発汗がひどいようだから、コレも洗い流さなければ。きっと2日は風呂に入れていない。

「レオナさん。レオナさん、シーツを変えます。服も濡れて気持ち悪いでしょう。お風呂に入りましょうね」
「…っ、…っ、ズッ、」
「お辛いでしょう。お風呂の支度をして参りますから、もう少し辛抱してくださいな」

彼女はコレだけ伝えて、スグに風呂場へ入った。バスタブにぬるい湯を溜めて、シャンプーとボディソープを用意する。
臭いがないものが良いらしいので、獣人用の無香料のものを用意した。

「レオナさん、お風呂入りましょう。さっぱりしますから…」
「…ゲホッ。……」
「起き上がりましょうね。触りますよ」
「……殺してくれ…」
「お風呂にね、入りましょうね」

レオナはよわよわと、今際の際みたいに言った。
今までずっと雨の中を野晒しにされていたみたいな声だ。彼はゴザの上に横たわっているコジキみたいな無気力な目でか弱い咳をしている。
咳のし過ぎて腹筋が筋肉痛なのだろう。

「よいしょ、」

小エビはそんな彼の脇の間に自分の腕を突っ込んで、グググ…と懸命に持ち上げる。
汗でぐっしょり濡れた彼のズボンとTシャツから、百合の花の香りがした。
成程ブルーとは、汗の香りが変わるらしい。
レオナはされるがままだった。抵抗する気力も話す気力もないらしい。
ただ持続的に、微弱な電気みたいにずっと続く哀しみと、突然やってくるイナズマのような心理的ショックにより泣いているという具合だ。
時限爆弾が頭の中にいくつもあるのだろう。
だから啜り泣いていたかと思えば、突然泣きじゃくる。それが疲れたら無気力に窓の方を見て、死ねることを願っている。
その繰り返しだ。

ただ罹って2日でここまで泣けるということは、余程体力があるのだろう。普通ならもう泣き疲れて眠っているはずなのに。

「…お一人でお風呂浸かれますか?」
「…………」

レオナはやっと泣き止んだ。
泣き止んだが、右斜め下を見て黙り込んでいる。
胸の中の倦怠感で身動きもできないようだ。
泣きアトが痛々しく、ボサボサになった髪のせいでいつもより痩せて見える。
喋りたくもないようだし、立っているのがやっとという感じ。
彼女は自分と彼の心の間に厚い壁があるのだと分かった。抵抗しないのは、もう何だっていいからだ。

「…脱ぐの手伝いますね」

致し方ない。
このまま風呂に入らず冷えた汗を放置していれば悪化してしまう。
よって彼女は、背伸びをしてまずTシャツを脱がせた。
レオナは耳を限界まで下げて、虚な目でされるがままだ。バスタブの前で立ち尽くして遠い床を見つめている。

「片足あげて下さい、ズボンをね、脱ぎましょうね」

一生懸命に言って、彼の前にしゃがんでズボンを脱がした。パンツを脱がさないように慎重に。
しかしレオナは全く動かないので、片足を無理やりちょっと上げて引き抜かなければならなかった。重たくて大きな男相手には重労働である。

「下着はお一人で脱げますか?脱いだらお湯に浸かってください。終わったらこのベルを鳴らして頂ければ、お着替えを手伝いますから…」
「……っふ、…グ」
「あ!あっ」

レオナはそれをボーッと幽霊みたいに聞いていたかと思えば。
突然咳みたいに、フッ、と軽く息を吐いた。
腹をグッと押されたみたいな、生理的な息の吐き方だ。それから突然ボロボロボロ!と大粒の涙が出て、緑の瞳が揺れる。
喉仏が上下して、彼はグシャ!と眉を寄せて片手で顔を隠した。

「ゔ。……」

そして臓物を引き摺り出されるような声を出す。
腹を刺されないと出ないような低い音だ。
頭の中の時限爆弾が爆発したのである。

「あっ。あ、そ、そうよね、パンツ脱ぐの難しいですよね。分かりました、えっと、…これセクハラになったりするのかな…。…あの、見ません。見ないようにしますので、お手伝いしますね。ね、」

彼女は大慌てになって、もう仕方なく最後まですることにした。
大の男に泣かれると太刀打ちできない。
それもあのレオナが泣いているのだ。見た感じほとんど発作に近いが、相当の苦しみであろう。
彼は今大人でも子供でもレオナ・キングスカラーでもなく、単なる肉の塊になってしまったような表情でいた。

「ご。ごめんなさい。南無三っ」

彼女は目を閉じて顔を背け、気を入れるために「南無三」と下着を下ろした。
それから見ないように見ないように努めて彼の腕を引いてお湯に浸からせる。
レオナが浸かれば中のお湯がザバザバ溢れて床に落ちるのを、足の感覚だけで感じた彼女はやっと目を開けることができた。

見ていないし触ってもいないし事務的にできたはず。
後から怒られるかも知れないが…感染の恐れのため助けも呼べないのが辛いところだった。
彼女はそれからチマチマ声をかけつつ髪の毛を洗ってやり、体は流石に洗えないので首の辺りを多少洗ってやることしかできなかった。

あと4日も経てばレオナの体など無心で丸洗いにできるようになるが、初日はこんなものである。
それから彼女は彼がお湯に浸かっている間に部屋を片付け、シーツを変えて布団も干した。
なるべく清潔を保ち、彼が上がれば薄目で体を拭いてやり、着替えを手伝ってアイスを握らせる。
そして冷えピタを貼ってやり、なんとか薬を飲ませてやり…布団を被せてひとまず完了。
あとは送られてきた食事を食べさせてやり、彼が泣き疲れて眠るまで一応そばにいた。

邪魔かも知れないと思って一度部屋を出掛けたが、そうするとレオナが喉を引き攣らせてしまったのでそばに居たのだ。
他人が隣に居るというのは、案外安心するらしい。


「………」

彼女は眠ったレオナの肩に布団を掛け直してやりながら、星を見るような目でその顔を見つめていた。
レオナは寝ながらも時折涙を溢す。
死体みたいに動かず、束になったブラウンのまつ毛を時折震わせるだけだ。

薄暗い部屋で検索して調べ続けていれば、これがブルー病の基本らしい。
コレでもレオナは〝軽症〟なのだそうだ。
というより初期症状に近い。このまま何事もなく治れば良いが、拗らせると凄まじいようである。
クシクシ泣いているだけならお利口な患者のうち。

軽症のレオナに何が起こっているかといえば、悲しみの感情だけしか脳が反応できないようになっているらしい。
そのひとつの感情にしかなれないのだ。
脳がうまく働かないので思考もできない。
よって病で強制的に作り上げられた濁流のような哀しみが常に飛沫を上げて全身を支配し続け、正気に戻れない。
だから何も自分でできなくなるのだ。
病に侵された体に閉じ込められて指先一つ動かしたくなくなる。
この哀型(あいがた)ブルーは、スタンダードと呼ぶらしい。

「…明日も参りますね」

彼女はソッと囁いて、レオナの肩を優しく撫でてから部屋を出た。そして別室で体をリドルに言われた通り消毒し、隔離されている廊下から出る。
コレで今日の仕事は終わりだ。
そう思ったのだが、…。


「監督生。監督生ッ。ケイト先輩がブルーだ。種類は〝ナイト〟ッ。ハーツラビュルにもブルーが出た!」


隔離区域の入り口で彼女を待っていたらしいエースが、スグに彼女へ飛び付いて言った。
彼は真っ青で、「やばい、レオナ先輩もでしょ?これ流行るかも」と泡を食っている。

「ヤダーッ。オレ〝夜型〟感染りたくない。あれ地獄なんだよ!」

どうやら。
ブルーには他にも様々な種類があるらしい。
ブルー・ネバーランド型(幻覚/幻聴)
ブルー・ナイト型(恐怖)
ブルー・フランケン型(脱力、自分の意思で一切動けない。死体と同義)
アリス・ブルー型(妄言/妄想)
レオナはスタンダード・ブルーだ。
とマァ並べ始めたらキリがないそうで。
彼女はサッとそれを調べてから、一瞬目を閉じた。
罹る人間の魔力に応じてブルーは様々な症状を出すのだそうで、無数に存在するのだ。

「エース、案内して」
「頼むよ、ほんと、」

レオナを始めとして、NRC内で大流行し始めてしまったらしい。
唯一感染らない彼女だけが看病に走り回ることになるのである。

「監督生。ケイトが終わったらこっち頼む。フロイドがネバーランドだ!」

タオルと着替えを担いでエースと走る彼女へ、オクタヴィネルの男が叫んだ。
彼女はそれを聞いて、「今夜は寝れないわね」とひとつ思うのであった。





さて、一人の生徒ならまだしも大流行ともなれば当然職員も動く。
外部から魔力を持たない看護の人間を呼び、直ちに対応して貰った。

しかし数が多くて手は回らず…看護の人間は基本的に薬の手配や症状の進行具合、パニック状態を起こした患者を拘束するか否かの判断、怪我をした際の応急処置など…。
患者のケアというより、専門でできることをするという感じで基本的に病人は放置だった。
人が足りればケアもできるのだが、とにかく人手不足。
24時間体制というわけにもいかず、彼らは緊急の時以外夕方には引き上げてしまう。
なのでせめてもの処置として彼女には〝比較的おとなしい〟患者を振り当てられた。
教師は当然無理をするなと言ったのだが、あんまり心配でそうもいかない。

『好きでやっておりますから』

そう笑って隔離区域へパタパタ走って行くという具合であった。
今彼女が受け持っているのはケイト、フロイド、レオナである。

レオナは「スタンダード・ブルー」。
ケイトは「ブルー・ナイト」。
フロイドは「ネバーランド・ナイトブルー」であった。

まずはケイトから説明していくことにする。
彼女はエースに呼ばれて換えのシーツやら食事やらを抱えてケイトの部屋へと行った。

ケイトの部屋の周囲はkeep outの黄色いテープが張り巡らされており、隔離状態がすでに保たれている。
そして不思議であったのは、彼の部屋の周囲の廊下の電気が全て破られていた。
ランプが破られて、ガラス片が床に飛び散っていたのである。

「ケイト先輩、今明かりが怖いんだ」

ハーツラビュルの一年生が心配そうにソッと言った。
彼女はとにかく頷いて、「お邪魔します。入りますよ」と言ってケイトの部屋に入り…。

「……、…」

まず、部屋の中がゾッとするほど暗くて寒いことに異様さを感じた。
窓からの光さえ無く、物の輪郭が何も見えないほど暗いのだ。
ドアを閉めると視界が真っ黒になり、一寸先も見えない。

「…ケイトさん?」

患者はこの部屋にいる。
しかし不気味なまでに物音がしない。
なにとなく人がいるような気配もするが、息を押し殺して隠れている子供のような感じだ。

「ひゅ、」
「!…」

息を発作的に吸い込む音が聞こえた。
それは多分ベッドの方向から聞こえたので、彼女はその方向へヨタヨタ手探りで近づいて行く。

「ケイトさん。看病に参りましたよ」

なるべく優しくて小さな声で言って、寝台に触れる。
布の感触がして、しっとり汗で濡れたシーツが肌に触れる。それからベッドに上がり、あちこちに手を伸ばしていると。

「…あ」
「っ、」

指先が汗でヌルついた素肌に触れた。
多分胸板の下あたり。
鳥肌の立った体だった。

「す。すいません」

触った途端ビク!と跳ねたのを感じて、スグに手を引っ込めた。
白百合の香りがして…しかし引っ込めた手を大きな手で握られる。
ケイトの大きな手は指輪がはめられていて、その指輪が食い込んで少し痛い。思うよりも巨大な手は震えている。

「か。かん。…かんと、」
「監督生です。ユウですよ」
「ユウちゃん───……」

声は信じられないくらい震えていた。
彼は何かに凄まじく怯えていて、汗ばかりをかいている。
多分唇も震えていた。
これがブルー・ナイトの大きな特徴だ。
理由のない恐怖に飲み込まれ、常に何かに怯え続ける。全てが怖くて泣き続けるのだ。
スタンダードブルーは悲しくて泣く。
ブルーナイトは怖くて泣く。

彼女は手を物凄く強い力で握られたまま、暗闇の中でケイトの顔があるであろう場所を見つめた。
そしてブルー症候群の患者への接し方を思い出す。
この部屋に入る前、彼女は患者へどのように接するのがベストであるのか調べ直したのだ。
物の本によれば、幼稚園児に話しかけるように対応すべしと。
とにかく刺激をしないよう、まるきり子供扱いをして途方もなく優しくしなければならないのだそう。
些細なことでパニックになるのでこれが有効らしい。
よって彼女は、息を吸い込んでから。

「ケイトさん。汗たくさんかいて気持ち悪いでしょう。お風呂入って汗バイバイしましょうね」
「ぅ、……、」
「ね。お着替えして、おくすり飲んでねんねよ。一緒に頑張りましょうね」

勤めて優しい声で言った。
闇の中でケイトはキョドキョド目を動かし、手を震わせたまま黙っている。
彼の目の動きは水中の魚みたいに唐突で、定まらなかった。

「お湯を溜めきます。…明かりはこあい?」
「…こ。…怖い。こわい、しにたい。死にたい…」
「電気がこあい?」
「、…。怖い」
「ろうそくはこあいかな」
「ろうそく……」

彼は何度か「ろうそく」と繰り返してから、「こ。こわく、ない」と小さな声で言う。

「火は、音がするから、こわくない、かも」

と、訳の分からないことを言って毛布を握りしめるのだった。
彼女は頷き、持ってきた蝋燭を取り出した。それを手燭に固定し、マッチを持つ。

「じゃあ、蝋燭を付けてお風呂入ろうね。だいじぶ(大丈夫)よ」

囁くように言って、何度も確認してからマッチをすった。ボッ、と音がして、周囲が一気に明るくなり、それから少し火の勢いが痩せていく。
キラめく火を蝋燭にうつせば、ケイトの姿が見えた。

彼は足を開いた体育座りをしている。
ジーンズを履いていて、ボタンとチャックは外れて下着のラベルが見えていた。
上には何も着ていない。
汗で気持ち悪くて脱いだが上に何も着れないまま…シャツを探す気力もなく、ずっとこうしていたのだろう。
オレンジの髪はボサボサになっていて、唇にカールした毛束がくっ付いている。
それがスモーキーな美貌を際立たせていてセクシーで…ひどく病的だった。
ケイトは俯いていて、首の後ろの骨が尖って見えた。呆然として見える表情は汗でびっしり覆われている。
滲んだアイラインが黒い涙に変わって、頬に黒い筋を残していた。
ネックレスとピアスがキラキラ反射する。
目の下のスートが、汗で崩れて滲んで返り血のようになっている。

会話ができるということは、今は症状が落ち着いているということ。
落ち着いていてこれなのだからピークは凄まじいことだろう。なんでも電気の灯りが少しでも目に入ると絶叫していたらしいから。

「行きましょう。こあくないのよ、だいじぶよ」

必死に言い続ければ、やっとケイトは動いた。
見ていてイライラするくらい遅い動きだったが、なんとか少しずつ。だから監督生は彼の手を繋いだまま、「よいしょ、よいしょ」と声をかけて一緒に同じペースで歩いてあげた。

暖かい湯船へ誘導し、「お着替えできる?」と聞いたが。ケイトはただ呆然と立ち尽くし、右斜め下を見てジッと固まっているばかりだった。
暗い山道を裸足で立っているような顔で、つまり途方に暮れている。

「、」

そこで全身をしっかり見ることができた彼女は、やっとケイトが左手に包丁を持っていることに気がついた。
ケイトはジーンズ一枚、裸足で死神みたいに立って、無気力に包丁を持っているのだった。
だから監督生はゴクッと唾を飲んでから、

「…包丁持ってきちゃったの。あぶないからね、ないないしようね」

優しく言って、優しく包丁を彼からソッと取った。
ケイトは無抵抗である。
「あ、」と心細そうな声を出しただけで、オレンジの髪の隙間からこちらを見詰めるだけ。
震える手はそのままだ。

「おふろはいろうね」

仕方がないので、汗でベタつくジーンズを脱がせ…やっぱり目を閉じて下着を脱がせ、バスタブに彼を入れる。
ケイトはお湯の中でジッと座り、レオナよりも利口だった。ただし「今は」であるし、「この時間帯に限り」であるが。

さて頭を洗ってやり、アクセサリーを外してやる。
顔も洗ってやり、シーツを変えて下着とジーンズを回収した。
見ないようにして体も柔らかいスポンジでシャクシャク洗ってやり、髪もタオルでなるべく乾かした。ドライヤーが怖いらしいので電気は使えない。これは仕方のないことだ。ドライヤーは電源を付けるとONのライトが微量に点くから…。

「死にたい。しにたい…」

さっぱりしたケイトは、しかし顔を覆ってガタガタ震える声でずっとそう言っていた。
いつも明るくて格好良かったお兄さんが大きな体を丸めている。
彼女は心の底から心配だったが、ずっとそばにいて慰めるわけにはいかない。次はフロイド…新たな患者が待っているからだ。

「だいじぶ、だいじぶよ」

時間の許す限りはそう言って、背中をさすった。
ケイトは大きな背中を丸めて唇を震わせており、理由のない強烈な自殺願望と恐怖の衝撃に耐えている。

これがナイト・ブルーの症状。
レオナのスタンダード・ブルーよりも強い自殺願望があり、対象のない恐怖を闇の中でジッと感じている。
処方されるのは睡眠薬と風邪薬のみで、患者は明るい朝を過剰に恐れて発作を起こす。
他の患者に比べて随分攻撃的な性格になってしまうそうだ。
暴れるようであれば患者の安全を第一に考え、拘束も許可されている。
監督生にも手錠を支給されたが、夜は比較的大人しいので使用しなかった。否、ケイトが暴れれば押さえつける自信もない。
地方によってはヴァンパイアブルーとも言うらしい。


次にミックス型、ネバーランドナイト型。
監督生が最もゾッとした現場である。
これにはフロイド・リーチが該当した。
人魚は陸の病気に耐性が無いために症状が悪化しやすいのだ。

「───……」

フロイドの部屋の窓やら壁やらは、全てアルミホイルで覆われていた。
ともすればテントの中のようで、チープなSF映画の宇宙船の中のようでもあった。
明かりは吊るされた暗い電球ひとつ。
床には無数の…ゴキブリや毒蜘蛛などの害虫を捕まえるキットが散らばっていた。

たった1日手が回らずに放置した結果である。
フロイドはその部屋の中、ベッドにうつ伏せに寝転がっていた。顔を横向きにして、鼻血を垂らしている。
服はラウンジの制服のまま。
ハットだけをかぶっていなくて、白い手袋もストールもそのままである。
部屋の中には爆音のジャズが掛かっていた。
ベッドから右腕がダランと投げ出されて指先が床に触れている。
その近くに睡眠薬が散らばっていた。
転がったゴミ箱には吐瀉物、虚に開いたままの目。
彼の瞳はうっすら白く濁っていた。

彼女はまず部屋の異様さにゾッとしてから、うつ伏せに横たわって身動き一つしないフロイドの姿を見て…一瞬もう死体になってしまったのかと思った。
けれどフロイドは生きていた。
時折ゆっくりとしたまばたきをするから、生きている。

「…フロイドさん」

大きな声で声をかけた。
ジャズが煩くて声を張らなければ自分の声も聞こえない有様だったから。
しかしフロイドは全く反応せず、部屋のどこも見ていない。彼女も見ていないし、シーツも見ていなくて…濁った目をどこにも向けていなかった。
強烈な百合の香りに彼女はマスクを付け、話しかけても無駄だと思う。音楽を止めなければ…と思って、とにかくレコードの針を上げた。
部屋はこれにより静まり返り、床に敷かれたアルミホイルを自分が踏むガサガサした音しか聞こえなくなる。

「フロイドさん、聞こえますか」
「───ウ」

フロイドがやっと反応した。
けれどその反応の仕方は、色濃い怯えである。
彼は突然に耳を塞いで、「う、ぅ」と物凄く小さくて低い声で呻いてから。

「う。ア。ア"ーーーーッッ。ウーーーッッ。ウ"ーーーーッッ」
「っ、!」

白い手袋で耳を力の限り塞いで、突然発作を起こしてパニックになった。

「ふ、フロイドさ、」
「ウァアアアァッ。ああああっ」

…男の本気の大絶叫というのは、流石に凄まじいものである。彼女はこの危機迫る様子に恐怖を感じないではいられなかった。
大きな男が不機嫌になっただけで怖いというのに、絶叫して取り乱す様子など…密室では大迫力の恐怖に決まっている。
彼女はビク!として一歩下がり…。
それから…。…〝患者〟を見つめ…。

これがネバーランドか、と思う。
彼の罹ったネバーランド/ナイトブルーは、妄想、幻聴、幻覚、恐怖である。
恐ろしい妄想に取り憑かれ、その妄想が幻聴や幻覚によって現実感を増し、恐怖に取り憑かれて正気を失う。
恐怖による涙が止まらず、激しいパニックに陥るものだ。それによる失禁や嘔吐、妄言なども酷く…マァつまり、重病患者である。

フロイドが恐れているのは虫であった。
床に散らばったキットを見れば分かる。
彼には大量の虫が見えていて、大量の虫の足音や羽音が聞こえる。それをジャズでかき消していたのだろう。
最初は駆除しようとしたみたいだが…。
このアルミホイルもきっと、虫の居場所がいつでも分かるように、カサカサ歩く音がわかるように張ったのだ。
そうして一人でずっと膝を抱え、存在もしない大量の虫に耐えていた。
…元来彼は虫に怯える男ではない。ラウンジに出た時も全く動じずに捕まえて捨てていたし、誰よりも冷静に対処できていた。
がしかしブルーのせいでやってきた幻覚、恐怖に押し倒されてこれ程までに怯えている。

彼女はこれを全て理解し切ったわけではないが、慌てて音楽を再びかけた。するとフロイドは暫く発作を起こして悲鳴を上げていたが…だんだんと落ち着いてきて、荒い息を吐くだけになっていく。
…かと思えば。

「ごぼ、」
「ぁ、」

彼はシーツを握り締め、胃液を吐いた。
もう吐けるものが胃の中にないため、胃液だけを出して嘔吐反射で涙を流す。
彼女はスグに大きな背中を摩ってやり、「すいません、ビックリしましたよね。ごめんなさい…」と何度も言ってフロイドへ声をかけた。
彼に言葉は通じていないようだった…。


「…フライズワイドも、アリスタイドも…ハイドも、アークロイドも、みんなオレが殺しちゃった。誰も抵抗しないで、死体になるのを喜んでるみたいだった。死ぬのが気持ちいいみたいに目を閉じて、包丁が体に刺さるのが幸せみたいでさぁ…」
「うん」
「死体…が…片づけらんなくて、さぁ。オレ今、風邪?引いてるから。怠くてぇ、死体、放置しちゃって。虫湧いちゃって…。…部屋、汚くてごめんねぇ…片付けたいんだけど、捨てても捨てても死体が帰ってくる…」
「うん、私が片付けておきますね」
「ほんと?…でもぉ…おんなのこに、そんなことさせらんないよぉ…」


2時間後のことである。
やっとの思いでフロイドを落ち着かせ、宥めて宥めて薬を飲ませ…風呂に入れることができた。
すると彼は突然そうやって流暢に話し始めたのである。
目を閉じてハラハラ涙をこぼしながら、とっくの昔に死んだ兄弟たちの話をした。
彼女は何が彼の地雷なのか分からないので、ただ同調するだけだ。それで良いらしい。
フロイドは風呂場では誰よりも従順で、優しくて、言っていること以外はまともに見えた。
どうやら風呂場は怖い場所ではないらしい。
ベッドにいない時はずっと風呂場にこもっていたみたいだし。
ただし排水口を異様に嫌がるので、彼の前では常に栓をしていないといけないが。
慣れてきた彼女は、着替えも案外スムーズに手伝えた。
フロイドは中でも体が巨大なので、背伸びが辛かったが…マァなんとか、やわらかいズボンもTシャツも着せることができた。
酷い汗をずっと放置していたので、顎の下あたりに痛そうなニキビができていた。
彼女はこれにも薬を塗ってやり、保護して、泣くフロイドへ「いたいね、なおそうね」と優しく言ってやる。

「…………」

さっきまで喋っていたフロイドは、その時点になるとまた自分の妄想の世界に閉じこもり…彼女の二の腕をガリガリ引っ掻きながらブツブツブツブツ何かを呟いていた。
そのせいで彼女の腕には引っ掻き傷ができて血が出たが、痛みは感じない。
それどころではなかったからだ。

「髪の毛ね、拭こうね。終わったらご飯食べ…れるかしら…」

聞いてみたけれど反応はない。
だから髪をワシワシ拭いてやってから、届けられた食事を口の前に持っていった。
フロイドは案外無抵抗に三口食べて、それ以上は食べようとしない。
なので点滴を他の人に打ってもらわなきゃと判断し、清潔にした布団で彼を包む。
吐瀉物も掃除したので、あとはアルミホイルを一部分張り替えるだけだった。
アルミホイル自体は大量に購入した跡があり、新品がたくさんあったので問題なかった。
大変だったのは、フロイドの涙が落下した途端真珠に変わることだ。
美しい人魚の涙は宝石に変わる。
よって彼女はこれを踏んで転んだりしないよう拾い集めることに多大な労力を費やしたのであった。

「…音楽は付けっぱなしの方がいいですよね。…一人で寝れる?」
「……………」
「ねむれる薬のむ?」
「……………」
「飲もっか。あったかいお湯でね、飲もうね」

処方された薬があったので、それをなんとか飲んでもらう。

「冷えピタ貼ろうね。ちべたくて気持ちいいのよ」
「…………」

張ってやり、電気を消す。
フロイドは闇の中でも目を開いたままだったが、取り敢えず体と布団は清潔になったので何とかよし。
不気味なまでにおとなしくなったフロイドは何を考えているのかは分からない。
ずっと死にたいと繰り返すケイトより、常に涙を流し続けて苦しんで眠れないレオナよりもこの辺は楽だった。
ナイト型なので夜は大人しいのだ。

「おやすみね。また明日も来ますから」

約束をして、暫く手を繋いでいたが。
やがてフロイドは目を閉じることができたので、彼女もソーッと部屋を出る。
ドアを閉めても、音楽が遠ざかることはないほど…爆音が暗い廊下に響いていた。


とマァこういう具合に、順番に回って風呂に入らせ、寝具を整え、食事を与えて寝かせるというのを夜のうちはやっておく。
ブルー症候群が発症した人間は発汗がひどく、それにより風邪の症状が悪化するのだ。
よってこまめに体を清潔にしてやらなければならない。
そして普通の風邪と違うのは、とにかくカロリー量の多い食事を摂らせるという点である。
病院食のような味の薄いものではなく、患者がリラックスできることが一番なのだそうなので…。
本人の好きな食べ物、揚げ物でも炭酸でも良いから胃の中が空っぽという状況を避けねばならないらしいのだ。
体重が減ると酷く悪化し、病が長引くのだ。
というわけで。


「───ズビッ…」
「焼きおにぎりおいしいね」
「…………」

レオナはバターを乗っけた焼きおにぎりを食べさせられていた。彼女が焼きおにぎりをほぐし、ちょっとずつスプーンで与えているのだ。
レオナの利口なところは、口の前に持ってこられたものをちゃんと食べられること。そして結構な量を消化できることであった。
監督生は彼が好きそうなものを…というか、男子高校生が好きそうなものをたくさんこさえ、目の前に並べてみたのだ。
今まで支給された食事は味気ないものばかりだったから、大盤振る舞いをしてみた。
その中でも反応があったものを食べさせているのだ。

レオナは無気力にベッドに座り、足を伸ばして壁に寄りかかっていた。
朝の光の中、彼はボーッとした目で遠くを見ている。
今は泣いていないので、この時間帯は落ち着いているのだろう。それか泣き過ぎて疲れ切っているのだ。

「ハンバーグと酢豚は、好んでよく食べる…」

彼女はそんな彼にちょっとずつ食事を与えながら、ちまこいメモ帳に彼の特徴を記録した。
そして咀嚼中は頭を撫でてあげた。
失礼かなと思ってしていなかったが、患者にはこういったスキンシップが有効なのだそう。
合間を縫ってこの病気について勉強をしていたので、この辺はキチンとできた。

「レオナさんはおにいさんだからたくさん食べれましたね。カッコいい」
「………」
「まだ食べれそう?」
「…っ、ふ」
「あ!…あっ。ピーマン嫌いよね。ごめんね。いやなきもちになりましたね…」
「…ぐ。……うっ、ウ」

マしかし。
いくら落ち着いているからと言って、いつ爆弾が爆発するかは分からない。
レオナは酢豚の玉ねぎとピーマンの部分を大人しく食べていたかと思えば、突然ジワ…と目尻に涙が浮かび…。フッ、とまた腹を押されたみたいに生理的な息を吐いてから、ボロボロ大粒の涙をこぼし始めたのである。

「おにく。おにくの部分食べようね」
「う。グルルっ、ぐ、」
「ごめんね、びっくりしたね。口の中苦いね」

ケホッ、と静かな咳の後、レオナは口を開けたまま俯いた。そのせいでボタッ、と口の端からピーマンの切れ端が落ちる。
彼女はそれを膝に落ちる寸前で手で受け止め、ウェットティッシュで拭ってから背中をさすった。
レオナは「はっ、はっ、」と息を吐き、目を片手で覆って呼吸だけをしている。
ボロボロ落ちる涙は朝日に光り、彼の履いているブラウンのズボンを汚した。
別に彼は野菜を食べたから泣いたわけではない。単なる発作である。

「おふとん入りましょうか。ね。足が…冷えてるから、靴下履きましょう」
「、っ、グズっ、オェッ、」
「かなしいね…。ごめんね…」

食事はもうだめだ。
大人しいからと言って油断した。
彼女は持ってきていたカバンの中からなるべくあったかいメンズ用の靴下を出し、レオナの投げ出された足に優しくそれを履かせた。
「アンパンマンのくつしたよ。うれしいね。くつしたのおともだちそろえようね」と優しく声をかけて。
がしかし。

「死ね!」
「わ」

レオナは突然、アンパンマンの靴下を自ら脱いで床にぶん投げた。そしてずるずる寝転がり、号泣し始めるのである。
彼女は一瞬キョトンとしてから…。

「あ、そ、そうですよね。アンパンマンはヒーローですもんね。いやよね。えっと…わるものの靴下あるかな…」

ヒーローの靴下を履くのは病気の時でも嫌らしい。
NRC生は正義アレルギーなのだ。
初めてここにきてレオナの能動的な行動を見て、彼女は流石に慌てた。
一人で食事もできないし着替えもできないのに、靴下を投げ捨てるくらいだ。よほど嫌なのだろう。

「な、なにかな…。…ヘルレイザーの靴下とかあるかな…。フレディとか…」

困った。
悪者の靴下を持っていなかったので。
なので仕方なく、彼女は白い靴下にバイキンマンの絵を描いてレオナに履かせた。
すると今度は靴下を脱ぎ捨てることなく/大人しく横たわるままだ。
多分これでよかったらしい。
ホッとして…布団を肩まで掛け、なるべくそばに座って頭を撫でた。
するとレオナは彼女の腰に抱き付いて、咽せながら声を出さずに号泣する。凄まじい腕力であったため、彼女は1時間拘束されてしまった。

「……おやすみね」

背中はレオナの涙でぐちゃぐちゃに濡れた。
マしかしそんなことは些事であったので、むしろやっと寝れたことに安心し…彼女はゆっくり離れて食事を下げ、レオナの朝のケアを終えることができた。
彼の良いところはよく眠るところでもあるのだ。

さて彼が終われば、次はフロイド。
日のあるうちはケイトの元に行くことは禁止されている。
朝昼のケイトは非常に攻撃性が高いので、怪我を負う可能性を考えて彼女以外の人間が担当することになっているのだ。

なので負担はそこまで掛からなかった。
慣れれば何とかなるだろうという具合であり、完治まで付き合えるだろうと思っていた。
ルーク・ハントがキラー・ブルーになるまでは。



【徐々に凶暴性を増す患者】


「チャミスもブルーだってさ」
「ポムフィももうダメか…あと無事な寮どこだよ」
「イグニハイド?」
「イグニ全員引きこもりだから感染もクソもねぇしな」
「確かにセルフロックダウン寮。ありゃ鎖国か?」
「ペストが流行っても安心」
「な」

学園の廊下。
当然学内はブルーの話題で持ちきりであった。

共通しているのはインフルエンザと違い、誰も罹りたがらないということ。
学生というのは学校をサボりたい一心で風邪に掛かろうとしたり、学級閉鎖を狙って流行させようとするものだが…。
ブルーの場合はそれが一切なかった。
とにかく自分が罹らず、早くこの爆発的な流行が治れば良いと願っている。
よって皆キチンと手洗いうがいをする、清潔を保って消毒をするとの徹底ぶりだった。

「あ。九条さん(監督生の名字)だ」
「ほんとだ。今日も全部かわいい」

廊下でぼんやり友人と話していたタトゥーだらけのイグニハイドのお兄さんは、前から歩いてくる一際ちまい乙女を見て目を細めた。
スカートを揺らして歩く姿は赤い椿のようで、杜若のようでもある。
見れて嬉しいな…と2人は前髪越しに、丸いサングラス越しにそれを見ていたのだが。

「え。なんか…絡まれてね?」
「マジじゃん」

しかし2人はピタと歩を止める。
というのも、なにだかイライラした様子…に見えるルーク・ハントが監督生との通り過ぎざまに立ち止まり、なにごとか剣呑に話していた。

…監督生は皆大好きルークさんに話しかけただけだ。
「こんにちは、お天気ですね」と、ニコニコペカペカ笑って。ルークはいつもなら「Bonjour!まばゆい午後だね。普段より美しく感じるのはキミのおかげかな」とハットを軽く脱いでキュンとするような挨拶を返してくれる。
彼女はこれに対し、もじもじ照れ照れしながら…「そ、そう。わたしのおかげ…」と態度とは裏腹に全く謙遜せず、恥ずかしそうに髪をいじりつつ返答する…(この女は自分に自信がある)というのが日常であったのだが。

「…?」

ルークは「こんにちは」とニコニコ声をかけられたというのに。一拍置いて…というより一瞬無視をしてから。
ハットも上げず、物凄く冷たい目で彼女を見下ろした。
…いつもと雰囲気が全く違う。
彼女はビク、としてから…「機嫌が悪かったかも」と思い、スグに謝って頭を下げて立ち去ろうとしたのだが。

「…Bonjour.」

…ニコ。
と、ポケットから取り出したような笑顔で返された。それは頭を押さえつけるような/威圧的な不可侵の笑みである。
流石にこれには監督性も気圧され、それ以上話しかけようとは思わなかったが…。

「!…」

フと彼から香ったのは、嗅ぎ慣れた白百合の香りであったのだ。

「…あ。あの。…ルークさん。百合の香りがします」

嗅覚の鋭い獣人より早く彼女が気付けたのは、日常的に嗅ぐ機会が多かったから。
感染者の周囲に近寄ることは固く禁じられているため、その実獣人達はこの病人の匂いを知らんのだ。
だから彼女だけが気付いた。
ルークは黙って、ただ彼女を見下ろしていた。

「もしかしてルークさん、ブルーなのじゃ。あの、最近誰かの悩み事を聞いたりとか…ブルーになった人と話したりしましたか?」

スイッチの入った小エビはスグにこれらを聞いた。
ルークは「…失礼だよ。私はこの通り、健康だ」と異常者が普通を装っているような発音で返す。
彼女はますます嫌な予感がして、しつっこく聞いていると…。

「ッ、ゴ」

ルークが突然、彼女の胸ぐらを掴んで…。
ダン!と壁に押し付けた。
物凄い音が鳴って、つまり本気だと分かる。
小エビは強く背中を打ったために空気の塊を吐いて目を見開いた。頭を打たなかったのが不幸中の幸いである。

「ぅぶ、」

車に轢かれたような衝撃に目の前が白くなり、息ができなくなった。胸を殴られたようなものだ。
ルークの第二関節が胸に食い込んでいるのが物凄く苦しくて、ぶつかった衝撃の次に胸が爆発的に痛む。
事実このせいで彼女の背中と胸には見るのも耐え難いほどの大あざができた。

「………」

ルークはあまりの苛立ちに、最早声すら出ない。
眩暈がするほどの突発的な怒りだ。
一切冷静になれなかったし、胸の倦怠感が凄まじい。今はもう目の前の女を一体どうやって傷付けてやろうかということしか考えられない。
視界が物凄く狭くなって体が攻撃のためにしか使えないのだ。
時限爆弾が、爆発してしまったのである。

「ギャン!」

しかしギリギリのところで理性があったのか、なんなのか。
それだけはまずいと体が反射的にブレーキを踏んだのか、ルークは彼女を拳で殴ることはしなかった。
平手では叩いたけど…。

バチンと破裂音が鳴って、耐えられず彼女は床に崩れ落ちた。右の鼓膜が破れる音だった。
叩かれたのだと分かったのは、脳みそが揺れて痛みに体の芯が痺れた後だ。
目の前にルークの靴がある。
それが怖くて体が固まった。

叩かれた場所に心臓が移ったみたいにドクンドクンと鼓動がするようで、頭がボーッとした。
口が閉まらなくなる。

「チーターーーッッ!!」

廊下にいた男が叫んだ。
見ていた男達である。
彼らはルークが彼女の胸ぐらを掴んだ瞬間、ルークがブルーだと確信。
ということは彼を取り押さえれば集団感染になりかねない。よって医療従事者を呼んで来いということで、この中で最も足の速いチーターの獣人に頼んだのである。
チーターは叫ばれた瞬間、弾かれたように窓から飛び降り、ピュイッと指笛を吹いて箒を呼び出した。
地面に着地する前に速く、箒が彼のスニーカーの下に滑り込む。

「っラァ"!」

ダァン!と着地したチーターは、そのまま目も開けらない程のスピードで助けを呼びに行った。
さて周囲にいた男達は、大慌てで監督生へ保護魔法をかけるしかない。
しかしそれはスグに剛腕のルークに破られ、…。
ルークと監督生の距離がゼロになる。

「は。…は、はっ、」

ルークの息が荒くなっていった。
些細なことがきっかけで発作が起き、そこから本格的な発症を見せたのだ。
涙がボロボロ出てきて、怒りの涙に飲み込まれ、だんだん動けなくなっていく。
ルークはカクンと座り込み、彼女の肩を強く掴んだまま不規則で荒い呼吸を繰り返した。
痛みの中、彼女はそんな彼をぼんやりした目で見て…。

「…だいじぶ。だいじぶよ」

震える手で太ももをさすった。
それから肩をさすったり、背中を摩ったりする。
とにかく目の前の患者を何とかしなければと、できることは少ないが摩ってやるのである。
ルークは苦しそうに体を前後に少しずつゆらゆら揺れながら、ハーッ、ハーッ、と息をした。
強い力で肩を掴んでいたが、だんだん手が下がっていき、彼女の服の裾をガッチリ握るだけになる。
が。

「あう"っ。あーーッ」

首をガブ!と齧られた。
この病の厄介なところは、潜伏期間が5日あり、自覚症状がないことだ。
なんだか気分が晴れないな、なんだか哀しいな。
イライラするな、気持ち悪い気がする。
低気圧のせい?カノジョから返信が来ないから?
ちゃんと寝てないからかも。
そんな風に思って過ごしていると、ある日突然発作が起きて…それからずっとブルーになる。
アレ?オレ、ブルーかも…とは気付けないのだ。

よってルークは気付けず、この発作は今日で初めて起こったことだ。
発作が起きた本人は感情の濁流にパニックになって、叫んだり暴れたり崩れ落ちて泣いたりとさまざま。

ルークの罹った病はキラー・ブルー。
ブルーの患者の中でも非常に凶暴性が高く、拘束しておかなければ人を殺す。
他のブルーでは強い自殺願望があるのに対し、キラー・ブルーは強烈な殺人衝動に飲み込まれてしまうのだ。
理由のない怒りにより理性を失い、ただ何もかもを破壊できればそれでいい。
ヒステリック・ブルーとも言うそうだ。
ルークに力いっぱい噛まれた監督生は目をバッテンにして、「あーっ」と顔をシワクチャにしてもがく。
幸いにもルークは力が抜けていたので、食いちぎられることはなかったが血が出てしまった。
脂汗が出るほどだ。

「ッァ"テメェ"ふざけんじゃねーーッッ」

そうしてルークを押し除けようとジタジタしていたところ。

「ガッ、」

ルークに電気魔法が落とされた。
手を出したくても出せなかった生徒の1人がとうとうキレたのである。勿論彼女には防護魔法をかけたので感電はしていない。
ルークは当然これのせいで気絶した。
気絶した瞬間。
息を乱してやっと駆け付けたハンマーとジェット…ピンクの長い三つ編みのツインテールをした全く同じ顔をした男2人が、ルークの腹を蹴って吹っ飛ばし、監督生の噛まれた箇所をスグに包帯で抑えた。

「無事か、スクラップ」
「遅くなった、オレの頭陀袋(ずたぶくろ」
「可哀想なクズ鉄」
「愛しいガラクタ」
「痛むか?クリームパフ」
「痛いだろバニーレーク」
「泣くなよユウ」
「辛いだろユウ」
「ジッとしてろロリポップ」
「スグに治そうハニーパイ」

ハンマーとジェットは矢継ぎ早にそう言った。
この男達2人は何故か彼女をお菓子の名前で呼んだり、クズ鉄やガラクタと呼んだりする。
しかし大層この娘を可愛がっており、何かがあればスグに駆け付けるのだ。
顔は全く同じだが、兄弟ではない。
仲も全く良くなく、2人で会話をすることはない。
2人はドッペルゲンガーなのだ。

「へ、平気です。ちょっと、抑えておけば…」

彼女はふうふう言いながら、ゆっくり目を閉じた。
すると連れて来られた教師と医療従事者がやって来て、ルークは自室へ搬送。
彼女もまた、教師の指示によりハンマーとジェットが抱っこにおんぶを重ねてイグニハイドへ連れて行かれた。
あそこは闇医者が多いのだ。

NRCに保健室は無いものとして扱われている。
治療と称して変な薬を投与され、悪化させられた挙句治療費をぼったくられるから。






…完全には治っていないが、押したら少し痛いくらいには回復した。
見た目の痛々しさばかりはどうにもならないので、これは自然治癒しかないだろう。

魔法薬を飲んだらとにかく寝て治さなければいけないので、彼女が起きたのは次の日の夜だった。
睡眠薬が効き過ぎてここまで眠ってしまったのだ。
ワンダーランドでは普通の薬だが、異世界人の彼女には効果がどうしても強くなってしまう。

「……ぉむ…」

夜、オンボロ寮。
やっと起きて体を起こせば、体の上にクルーウェルのコートがかけられていた。
ベッドの下にはたくさんのジャケットが散らばっている。
ヴィルのものから、マレウスのものまで。
とにかく大量である。
多分、見舞いに来てジャケットを彼女にかけて行ってくれたのだろう。そしてそんな風に積もり積もったジャケットをクルーウェルが全部床に落として自分のコートをかけて行ったのだ。

ベッドの周囲にはたくさんの見舞い品が積んである。それはお菓子からジュースから花から様々で、まるで事故現場みたいになっていた。
中には財布ごと置いていった者までいる。
「ユウちゃん、はやく元気になってね」「取り敢えずポムフィオーレは革命を起こすので、ルーク・ハントは副寮長の任から引き摺り落とします」「結婚してください」などと汚い字で書いた置き手紙がたくさんあった。
自分がバンザイをして眠っている間に、たくさんの人が心配して来てくれたらしい。
「オレ達のかわゆい大和撫子が危篤」と聞いて、お兄さん達が駆けつけてくれたのだ。

「ん。起きたか」
「お…」

オンボロ寮談話室。
リビングで牛乳を飲もうと降りて行った先、ソファにクルーウェルが座って本を読んでいた。
彼女はビックリした顔で彼を見て、それからよくわからないまま真隣に座った。

「隣に来るのか」

てっきり向かい側に来るか、立ったまま話しかけてくるかと思っていたクルーウェルは思わず微笑しつつ驚いた。
マァ良い、懐かれているらしいので。
そう思ってまだぼんやりした顔の彼女を向き、「熱は?」と聞く。

「熱はないです」
「そうか。背中と胸は痛むか?」
「さほど…」
「ウン。頭は?」

額にソッと触れられ、看病される側になってしまったなと思う。彼女は取り敢えず「平気です」と一生懸命言っておいた。

「…お前は気苦労が絶えない癖にスグ平気だと言うな。何故だ?民族柄か」
「ええと、たくさん寝て元気だからです。ほんとに体調は良いんです」
「しかし、怖かったろ。別に看病などしなくて良い。治らなかったら最悪オレが殺しておくから」
「最悪殺されちゃうなら看病します…」
「比喩だ」
「比喩じゃない…」
「ああ、今のは建前だ。…しかし、どうしたものか。お前は溜め込むなと言っても溜め込む。限界が来たら察せと言うのは勘弁してくれよ。オレは気が利かないから言われなければ分からない」

クルーウェルは彼女のおでこに手のひらを乗せ、熱を測りながら言った。
平熱で問題ないようなので、ひとまずは安心する。

「が、言われたら必ず叶えてやる」
「かならず?」
「男だからな」

おでこから手を退けて、サッサと髪を手櫛で整えられた。彼女はフム…と思い、それから。
自分がここ数日立ったまま食事を済ませて走り回っていたことを思い出した。
好きなものも食べられていない。
なので。

「シチュー…食べたいなと思いました」
「Good girl. その調子だ」

クルーウェルは髪を耳にかけて立ち上がった。
ワイシャツの袖をまくり、「借りるぞ」と言ってキッチンへ歩いていく。
どうやらシチューを作ってくれるらしい。
甘えさせてくれるらしい。
それが分かった彼女は、疲労でぼんやりした頭で彼の後ろ姿を眺め…。

「stay stay stay stay邪魔邪魔邪魔邪魔」

全力で邪魔をした。
クルーウェルのことをお父さんか何かだと思っているのである。
というわけで長い足の間をくぐったりワイシャツを全力で引っ張ったり、捕まえられそうになると全力で逃げたりなどしてここ連日のストレスを発散する。
病人の背中を摩るばかりの生活をここで晴らそうとしているのだ。

「やめろやめろやめ、引っ張るな。No!お座り!お前のシチューを作ってるんだぞ!…な…。何故そうもピンときていない顔ができる…?10分前の記憶もないのか…?」

10分前の記憶もない。
彼女はクルーウェルに叱られてもキョトン…!とした顔をして見事切り抜け、好きなだけ甘えて好きなだけシチューを食べてヘソを出して眠ることができた。
ボロボロになったクルーウェルはそれを見ながら、「マァ…満足したなら良いか…」とひとまず安心。
監督生に片想いしている男ならば血の涙を流してクルーウェルを嫉妬でくびり殺したいほど羨ましい状況下、彼は溜息をついて小エビを布団の中にしまってやるのだった。

さてこのようにして心も体も回復した彼女は、次の夜から元気よく看病に行くことができた。
できたのだが、実はここから彼女の夜が激化していくのだ。


まず彼女はいつも通り、レオナの部屋に行った。
レオナは夜になると症状がひどい。
まずは風呂に入れて酷い汗を流してやるところから始める。発汗は酷く、朝に変えてもらったらしいのにシーツはもうぐっしょり濡れていた。
昼の間、誰も変えてくれなくて辛かったことだろう。ズボンも脱ぎたかったはずだ。
服も着替えられないのは本当に可哀想で、できることなら付きっきりで看病してやりたかった。

「ごめんね、スグ終わるからね。見ないからね」

この頃になると、彼女は彼の体をオドオドせず綺麗に洗ってやることができた。
最早男の裸を見慣れてしまったのだ。
なるべく彼の意思を尊重して見ないようにはしているが…むしろここで半端に洗えば不衛生だし…何より可哀想だと思ったのだ。
患者はいつも「それどころではない」。
だから体の不快感だけでも取り除いてやりたかった。
彼女は下着だけになって、レオナを泡泡にしてシャクシャク洗ってやる。
レオナはただ呆然とし、傷のある目から涙を時折ドロッと落とすばかりだった。たまにうわ言で「もうころして、くれ、」と辿々しく言うだけだ。

そのたびに「つらいね。はやくなおそうね」と抱きしめれば、レオナは次第に力なく頷くようになった。
言葉が通じるようになってきたようで、これは回復の兆しだった。

「ふっ、…う。うう"ぅ"あ、」

髪の毛も乾かし終わり。
ベッドまで行くはずが、レオナはベッドの寸前で床に座り込んでしまった。
顔を片手で覆って肩を振るわせたと思えば、ゆっくりとしゃがみ…膝をゆっくりと床につけ、そのまま。
レオナはベッドに座った彼女の膝の上に顎を乗せて暫く泣き続けた。自分が何故泣いているのかももう分からないはずで、思考もできていないはずだ。
ただよく分からないながら目の前の人間に縋っている。
ブルー病にかかった患者にとって最も恐ろしいものは孤独なのだそうだ…。

「かなしいね、はやく…。はやく、なおそうね」

彼女は繰り返して、彼の頭をなるべく優しく撫で続けた。
同調が1番の薬らしいので、彼の心とシンクロした。落ち着くまでそばに居たのだ。
レオナは少ししてから、花が閉じるようにゆっくり眠ってくれた。
安心した彼女は、彼に布団をかけて、はやく治りますようにと心から思う。

医者によればあと4日で治るから問題ないとのことだが…本人にとって4日は非常に長いはずだ。
だから彼女は「あと4日で終わりますからね。すぐですよ」とは言わなかった。「あと4日も苦しむのか」と思わせないために。



「…小エビちゃん。これ、誰にやられたの」

レオナの次、フロイド。
彼は発作があまりに酷いので緊急性が高いと判断され、鎮静剤を打たれたらしい。
なので今はかなり落ち着いてきたらしく、ぼんやりとした眠そうな目を彼女の大怪我に向けて言った。
そして彼女の服をベロッと勝手にめくって、「なに、これ」と低い声で言う。

アルミホイルで覆われた天井からは、無数の虫除けとハエ取りがぶら下がっている。それがゆらゆら揺れる…暗いランプだけの部屋の中。
フロイドの声は黒い蜘蛛のようだった。
怖くて、何をするか分からなくて、気持ち悪かった。末期患者のしわがれたドス黒い声だ。

「誰?やったの」
「…あ。これ。…えと、これね、事故なんです。今日体育でドジしちゃって…。見た目は酷いけど大したことないんですよ。触ってもそんなに痛くないの」
「誰?やったの」
「自分で…ドジしたから…」
「誰?やったの」
「…事故です」
「誰?やったの」
「だ、誰でもないの」
「誰?やったの」

フロイドはグ、グ、グ、とゆっくり起き上がり、左手も彼女の肩に置いた。両肩に手を置き、床に座る彼女へ覆い被さるように前のめりになる。
黒い大きな影が、目の前を黒くする。

「誰?やったの」

ベッドに座ったフロイドの開いた両足と手に挟まれた彼女は、ビクッとしてから…。

「事故です」

…今度はハッキリ言った。
フロイドのキラキラ光る恐ろしい目を突っぱねたのだ。
フロイドはそれを聞いて、…静かに、ゆっくりと目を細め。

「…よかったぁ。誰かに、殺されちゃうのかと、思った。怖かったぁ」

至極安心した顔で、項垂れて言うのだった。
普段のフロイドならば彼女の嘘を間髪入れず見破っただろう。「それは暴力でしかつかない怪我だ」と一瞬でダウトを言いつけるはずだ。しかし病で朦朧としている彼は、彼女の嘘を飲みこんで信じる。

「ヒューマンは、すぐ、死ぬからさぁ。死ぬときは言うんだよ。おれが、たすけてあげる。助けられなかったら、すぐ楽にしてあげるから」
「ありがとうございます。小エビは大丈夫よ」
「ほんとぉ?よかったぁ。オレはもう死んじゃってこの世にいないけど、小エビちゃんはさ、生きてんだからさ。いっぱい楽しく心臓動かしてから、死になね」
「…はい。ありがとうございます」
「うん。じゃあ、おれ、また死ぬから」
「え」
「さよなら〜」

そう言ってフロイドは全く脈絡なくガクン!と電気を流されたみたいに気を失った。
彼女はこれにゾッとしたが、彼は単に眠っただけである。彼女の肩に頭を乗せてイビキをかいていた。

「……おやすみなさい」

今日の彼は自分が死んだと錯覚していたようだ。
何にせよ、辛い中でも眠れてよかった。
そう思って頭を撫で、重たい彼をベッドに戻す。
そうして明かりを消してソッと部屋を出るのであった。



「……?」

彼女の夜が激化すると言ったが、これはつまりケイト・ダイヤモンドの病が悪化したということである。
ケイトの部屋の前の廊下は電球が破られていて真っ暗だ。keep outのテープの向こうは酷く薄暗い。
彼女は慣れた様子でそのテープを跨いで中に入ろうと、鞄を持って歩いていたのだが。

「………」

そんな闇の向こうに人影があった。
ポツンと暗い影は幽霊のようで、まっすぐ立って俯いている。
それは異様な光景だった。
「幽霊」はガラス片が飛び散った床の上に裸足で立っている。
それも廊下のど真ん中に立っていた。
ケイトの部屋は角部屋。
なので壁の真ん中と言っても良い。

…普通の人間は廊下の真ん中に立ち尽くすことなどまずしない。
大抵は通行の邪魔になるだろうから、もしくは寄りかかっていた方が楽だからという理由で壁際に立つものだ。
しかしその幽霊はど真ん中に立ち、右手にナタを持っている。ナタがキラキラ光っているのだ。

幽霊はケイトだった。
彼が闇の中からジッとこちらを俯いて、髪の隙間から見つめている。

「監督生ちゃん」
「、」

彼は震える声で喋った。
異様な光景に飲まれていた彼女は、流石にビクッとして…keep outのテープの前で後ずさった。
ケイトはジッとこちらを見つめながら、少しも動かない。

「…なんで、昨日。こなかったの」
「…え」
「一昨日も、こなかった。なんで?」

彼は明かりが怖いはずだ。
彼の周囲は暗いと言っても、彼女の背中側は明るい。廊下の全部の電気が消えているわけじゃないから。
けれどケイトはシッカリ立っており、怯える様子もなかった。

「なんで。オレのところ来ないんだよ」

井戸の底から聞こえるような声である。
この時のケイトはフロイドよりも恐ろしかった。
だから声を出せず固まって、心臓をドクドクさせることしかできない。

「2日も、来なかった。ふつかも。来ねぇ…」

オレンジの髪はボサボサだった。
肌は凄く白く見えた。
ケイトは黙って一歩を踏み出す。
彼女は声を出すこともできなかった。
ただジッと立ちすくみ、ケイトが一歩一歩ガラス片を踏みながら歩いてくるのを見つめるだけだ。
彼の足の裏は血まみれだった。

「、……」

右手の小指が不自然に痙攣した。
ケイトはもう既に目の前に立っていて、彼女を見下ろしている。
髪の毛の下の表情が見えた。
その顔はモノクロの無表情だった。
2人の間には、keep outのテープ以外に阻むものはない。
ドン。と心臓が鳴った。
ドン、ドン、ドン、と鳴り止まなかった。
胸の中を誰かが叩いているみたいだった。

「裏切り者。」

ケイトが言った。
彼女はその瞬間悲鳴を上げたかったのに、喉がカスカスになってどうやっても声が出ない。

「ぁ。」

出たのは「は」と「あ」の混じった、小音の息の塊だけだった。
ケイトは彼女の右腕を掴んで、keep outのテープをナタでバチン!と斬った。
テープは弾けるようにして切れ、縮んで床に落ちる。
…自殺防止のために刃物は全て回収されているはずなのに、何故ケイトがこれを持っているのかは分からない。

「………」
「ぁっ。あ、っ」

腕を引っ張って、真っ暗な部屋の中に引き摺り込まれる。足を踏ん張って抵抗したが無駄だった。
全身での抵抗は腕一本でねじ伏せられてしまったのだ。
そのまま彼女はクローゼットに押し込められ、耐え切れずに怖くて涙が出てしまった瞬間、ケイトも当たり前にクローゼットの中に入ってきた。
そしてバタンとドアが閉まる。
暗くて狭いクローゼットの中、吊るされたコート達の真下。
ケイトがいつも付けている格好いい匂いのする香水が満ちる箱の中、黙って抱きしめられた。
光が一切入らないここで、朝に看護師が来るまでそのままだった。

彼女は「こ、殺さりる…!」と思って1時間くらいモゴモゴもがいていたが、次第に落ち着いてしまった。
それは彼女が暴れない限り、ケイトも動かないからだ。身動ぎしなげれば彼も石のようになってただ抱きつくだけ。
よって別に、楽な体制を取って仕舞えばケイトは単なる温かで少し硬いだけの安楽椅子だった。

「───……」

不思議な心地である。
高校一年生にとって高校3年というのは非常に大人っぽく見えるものだし、特に男子であれば尚更だ。
本当に年上のお兄さんに見える。
いつも余裕に見えるしうんと格好よく見えるものだ。ケイトは副寮長トレイ/寮長リドルと対等に話せる位置に座しているから、偉いし、会う時は少し背筋が伸びる。
そんな彼のおしゃれな服が詰まったクローゼット。
最早闇に抱き締められているような感覚。
オレンジの跳ねた髪が頬にチクチク刺さり、唇にくっつく感触。
肩と首のあたりに感じるケイトの不規則な呼吸が実に不思議であった。
彼が泣く所なんて想像もつかなかったのに。

「…ズッ。……ぐずっ、」

3時間を越し、小エビがウトウトし始めた頃。
泣く声がして目が覚める。
震える呼吸音と抱きつく力が強くなっていく感覚。

「う"。ううううぅ。う"、ウ」

とうとう苦しげな声が混じる。
彼女はパチ、と闇の中で目を開けた。

「…だいじぶ」
「う、づ。グズっ、う。ゔ、」
「…だいじぶよ。あしたもくるからね」
「うううううぅ、」

ケイトは袖を引っ張って、それで涙を乱暴に拭う。けれど際限がなくて結局彼女の肩に顔を埋めてびちょびちょにした。
小エビの腰はレオナの、肩はケイトの涙でびちゃびちゃになった。マァもうこれは仕方がないことなので、骨でボコボコした背中をさすった。
背中は泣くに合わせて痙攣している。

昔お茶会にお呼ばれした時。
ドキドキしながら席に座った瞬間遠くにいたケイトがこちらにやって来て、「はい」と膝掛けをくれた。

『緊張する?』

ケイトは2人で話しているときはスローテンポで話してくれるのだ。
ゆっくり歩幅を合わせるみたいに話してくれる。
なんだか眠そうなトロッとした目をして、「うん、ん、そっかぁ」と優しい声で。
分厚いブラウンのまつ毛が上下する様を覚えている。

『ちょっと、緊張してます』
『ん、緊張するよね〜。ケーくんにくっついとけば良いよ。なんか困ったらこっち見て。助けるよ』

彼は優しかった。
何か困ってケイトの方を見れば、本当に助けてくれた。
それから彼は格好良くて凄くモテるお兄さんというイメージだ。
このイメージが付いているから、ここまで意外性があるんだろう。
しかし抱きつかれて泣かれているこの状況は、なにだか彼女にとって透明感のある時間でもあった。

「ずっ。グズっ、」
「…あったか牛乳のむ?」

聞いてみた。
無反応で泣いているので、彼女はソッと腕を抜け出してあったかい牛乳を飲ませてみる。
しかしケイトはマグカップを持つだけで全く動かないので、大きな木のスプーンでちょっとずつケイトの口に流し込んでやった。
ケイトはヒックヒック泣きながら無抵抗でスプーンから牛乳を飲む。
弱った子猫にミルクをやるのと同じ要領だ。
格好いいお兄さんにこれをやるのは何だか不思議な心地だが、「あっちくないかな」「おいしいね」などと優しく言ってちまちま飲ませてやった。

「おなかあったかくなったね。うれしいね」

でこぼこの腹筋を撫でてやって、オレンジの髪を耳にかけてやる。まだ泣いていたし手は震えていたが、少し落ち着いたように見えた。

「刃物あぶないからね。ないないしようね。足も包帯巻こうね」

こういうものは全て回収されているはずだが、一体どこから持ってくるのだか。
そんな風に刃物を回収したところだった。
看護師が「おはようございます」とやって来て、もう朝なのだとわかる。
彼女は結局眠れなかったが、朝は朝の看病があるので…あとのことは男性の看護師に任せて、別の部屋に行こうと思う。

「夜にまたくるね。約束よ」

ちゃんと今日は約束しておく。
ケイトはボロボロ涙を流し、震えながらこちらを見つめるだけだった。怖くて寂しくて仕方がないのだろう。
彼にとっては、これから長くて怖い昼がくる。
でも声も出せないから、いつまでも彼女がくれたマグカップを両手でギュッと握って静かにこちらを見つめるばかりだった。

「ごめんね。夜になったら、いっしょにあったか牛乳のもうね」

抱きしめて約束をして、ゆっくり離れる。
ケイトは頷かずに目を閉じた。
諦めたのか、絶望したのかは分からなかった。
ただ彼は彼女がくれたマグカップを、いつまでもいつまでも両手で握りしめていたのである。





「ッ……」

レオナは大人しく飲んでいたシェイクを床に落としてしまった。
彼はそれだけでジワジワ涙が盛り上がり、最終的には立ったまま無音でドッと涙を溢してしまう。
因みに本人はもう既にまともな思考が多少はできる程度には回復しており、泣く回数も少し減った。
だがいまだに…こういう本当に些細なことでこの世の終わりみたいに傷付くのは変わらないのである。

(…食いもん落としただけだぜ?)

レオナは喉に物凄く力を込めて声を出さないように努めながら、自分に絶望した。
泣くことじゃない。分かってる。
食い物を落としただけ。普段なら「あーやっちまった」で片付けられること。落ち着け、落ち着け。
畜生、どうしたってんだよ。
もう治ったんじゃないのか?
それともオレのメンタルってここまで弱かったのかよ。

彼はグルグル考え、自分が泣いていることにもショックを受けて泣いて、こんなことで泣き止めない自分にプライドを傷つけられて泣いて、とうとう理由もなく壁に寄りかかって立ったまま顔を覆ってサメザメ無音で泣いた。

「あ…落としちゃったのね。びっくりしたね。だいじぶよ。新しいの持ってくるから…」
「……ッ、…っ、」
「落としたのはないないしますね」

レオナは彼女に声をかけられてビク!と肩を震わせてから、もっと泣いた。
本気で死にたかった。
病は治りつつあるので、今彼は自分の現状がきちんと自覚できる状態である。
つまりちまこい、うんと歳下の女子の後輩に世界で一番格好悪い姿を見られていると分かっている。
適度にバカにして適度に可愛がっていた後輩。
彼女ができないことはレオナには全部できて、全て教えてやる立場だった。
恥ずかしい、情けねえ、マジで嫌。
世話をされるのは慣れているが、ちまい間抜けな後輩に赤ちゃん扱いされるのは慣れていない。

全てやらせることで立場やプライドを満たされる世話もあれば、全てやられることで立場やプライドを傷つけられる世話もある。
今は後者だ。
だからレオナは申し訳ないやら恥ずかしいやらカッコ悪いやらでメンタルもグズグズであり…更に分かっているのに全く体と脳が言うことを聞かずに泣いてしまうのが嫌で仕方なかった。
堂々巡りに陥った彼は、ゆっ…くり座り、ゆっくり床にあぐらをかいて俯き。

「…ワリ…」

震える声を出したくなくて、物凄く小さな声で謝った。
こんな社会の何たるかも、男の何たるかも知らぬメスに体を洗わせたことも、腰に抱きついて号泣していつまでも離さなかったことも。
赤ん坊みたいにモノを食わせさせたことも、靴下すら自分で履けなかったことも。
そんな過去の恥ずかしい記憶がドワッと押し寄せる。
普段ならば「いいから構うな」「どっか行け」と突っぱねられるが。それか皮肉に笑って「今なら殺せるぜフロイライン」と鼻を鳴らして見せることだってできるのだが。

病のせいで自己肯定感がどん底まで落ちたレオナは、咄嗟に「…悪い…」「すまん…」しか言えなかった。
どれだけ自分が悪くてもごめんなさいできない男が小さな声で謝るのである。
しかし監督生は全く気にしていないので、「チョコのね、シェイク持ってきましたよ。カップにバイキンマン書いたからね。うれしいね」と優しい声で言う。
黒いTシャツを着たレオナは、涙をTシャツの裾を捲って拭きながら、無言でシェイクを受け取った。
そしてハラハラ涙を落としながらボーッとそれを飲む。

監督生側から見ると、レオナはいつもとそんなに変わらない。たくさん喋るわけでもないので、まさか頭の中は意外と冷静に自分の現状を把握できているとは知らなかった。
なので黙って飲み始めた彼の頭を横に座って撫で、「ひとりで飲めたね。もうお兄さんだもんね」といつも通り声をかける。
重病だった頃のレオナはこれで喜んでいたから。
今となっては逆効果であることを知らず、一生懸命に優しく撫でるのであった。


此処はオンボロ寮。
病人たちは彼女が看病しやすいよう/病人が暴れて他の寮生に感染しないように移動となったのだ。
空き部屋は大量にあるし、改装工事によりもう既に隙間風は吹かない立派な建物となったし。
仮の病院となったここは、ブルー病に苦しむ男たちが詰め込まれるかわゆい家畜小屋と変わったわけである。

因みに此処にはイデアも移送された。
イデアはめっちゃマトモだし風邪を引いただけなのだが、信じられないくらいネガティブな発言をするし情緒と自律神経は狂っているし自分の持っている膨大な知識を誹謗中傷の為だけに使うタイプの狂人なので、ブルー病と勘違いされてここに閉じ込められている。…のだが、マァそれはさておき。

外部からやって来た看護師の男も此処に出勤するようになったので、無駄な移動が省かれて便利だった。

故に先ほどのレオナは彼女がベッドを用意するのを、シェイクを持たされて飲みながら壁際でぼんやり見ていたというわけである。

とにかく簡易的な病院ができて、整いつつある。
マァ普通は保健室が機能していて、こういう伝染病が流行った場合の対策などは学校側でマニュアルを作っているはずだが…。
学校のマニュアルには「ペストが出たら寮ごと焼いて滅菌しましょう」「それでもダメなら転職しましょう」くらいしか書いていないので仕方がないのである。
やりながらマニュアルを作っていくしかないのだ。

「ケイトさん、どうしても縛っておかなきゃダメですか?」

看病の休憩中。
監督生はオンボロ寮談話室のソファに腰掛けてホットチョコレートジュースを飲みながら言った。
因みにレオナはあれから結局泣き止めなくて、彼女の背中に抱きついてずっと泣いている。自分の意思や理性では優しい彼女から離れられなくなってしまったのだ。

「あ、はい。ダメすね」

向かい側のソファに座った若い看護師、ドロシーハウアー・ペリックはハブ酒を呑みながら頷く。
ドロシーハウアーさんは上下白のナースウェアを着ていて、半袖から出ている腕と首の全てにタトゥーが入っていた。
首に入ったタトゥーは、たくさんの指輪がついた華奢な女の手が首を絞めるように彫られたデザインだった。喉仏のあたりで親指がクロスしている。
それが特徴的なので彼女はドロシーハウアーを一目見ただけでしっかりと覚えた。

「ダイヤモンドくん縛ってる間は大人しいけど、アレ従順に見せてるだけで外したらスグ大暴れするんよ。なんも考えてないように見えるだけなんで」
「…従順に見せてるだけ?」
「すね笑」

ドロシーハウアーさんはソファに胡座をかき、物凄い猫背になってガラムタバコを吸っていた。
毛先が金色で、白髪のマッシュヘアは前髪で目が隠れている。少し透けて見える程度で常に無表情でボソボソ喋る、ドライな男だった。
信じられないくらいドライだからこそ、この現場にはよく合っている。
この間も刃物を持って蹲って叫ぶフロイドを見て、「やば笑」としか言わずにシーツ交換をしていた。

「マァ油断しない方がいいよ。意外と向こうも色々考えてるし」

ケイトはあれから夜も拘束された。
窓には鉄格子がはめられ、ドアは硬く施錠されている。
真っ暗な部屋の中、手錠と足枷をはめられてチェーンで繋がれた彼はいつもグッタリ項垂れているか泣いていた。
食事を与えに行く時…なにだか彼女は彼を監禁しているような気分になってしまう。可哀想で仕方なかったのだ。
この簡易隔離病棟で拘束されているのはケイトとルークの2人。フロイドは時折拘束されるが、比較的大人しいので自由にはされている。

「ブルー病って男女関わらず看病してくれる人にめちゃくちゃ依存しちゃうんですよ。キングスカラーくんもそれで離れられないっつか。なんか、例えば、めちゃくちゃ大好きでラブラブに付き合ってたのに急にフッてきたカノジョみたいに見えるんすよね。だからそんなんなってるんよ」
「そ、そんなことに…」
「ね笑」

ドロシーハウアーさんは吐息だけでしか笑わない。
口角を上げているところを見たことがない。

彼女はレオナをチラッと見て、そんな心理状態だからくっ付いて離れないのかと思う。
レオナは彼女に依存していた。
他の重病人たちも彼女へ同じように依存している。治れば立ち直るが、それまではこの世で最も愛した女だと錯覚しているのだ。
彼女はレオナの厚過ぎる胸板にみちみちに抱かれつつ…なるほど、なれば仕方がないのかと納得した。

「一緒になおそうね」

声をかけた途端、レオナの肩が震えた。
彼はまたも花がほどけるように泣いてしまった。唇に髪がくっ付いていて、今日の朝6時からずっと震えている。
病により彼女が唯一の心の頼りとなったがために、彼は彼女といつまでも白い部屋で沈黙していたい。
床に座って壁に寄りかかって、砂嵐のテレビを見ていたいのだ。

それは他の患者たちも同じことだった。
フロイドは一番辛い時に一番優しくしてくれたこの女と霧の降る森の中で寄り添っていたくて、ケイトは憎くてかわゆい彼女を暗い場所でいつまでも痛め付けてやりたい。
綺麗なジュエリーボックスの中に閉じ込めて、いじめる時だけそこから出したいのだ。
ルークは彼女を殺して彼女の身につけているアクセサリーを食べたかった。
死んだ彼女の肉をバラバラにして生まれたばかりの美しい子犬に食わせて、その犬を生涯大事に飼っていたかった。
彼らにとって彼女は月のお姫様なのだ。

「小エビちゃぁん」
「あ。はぁい。今すぐ」
「小エビちゃん」
「あら」

そうしてドロシーハウアーさんと話していると、遠くからフロイドの声がして。
返事をすればヒョコ、と彼が談話室に顔を出した。
親戚の子供みたいに柱に半分体を隠すように寄り掛かり、「爪切って、」と半端な笑顔で言う。
それは疲れ切った人間が気を使って見せるような笑顔で…つまり彼はヨレヨレだった。

「はい、爪切りましょうね。お部屋に伺います」
「ここがいいなぁ。あったけーから…」
「じゃあこちらで…動かなくてへいきですよ」
「うん」

柱の近くにクッションを置いて座らせる。
あぐらをかいた彼に膝掛けをかけてやり、向かい側に座った。
彼の爪は確かに伸びていて、かけている爪もある。

「バイキン入っちゃうとばっちぃからね。きれいにしようね」
「うん…」
「バッチンするよ」
「ウン、ありがと。こえびちゃん」

フロイドは死に際みたいに穏やかで、ずっと緩やかにニコニコしていた。
ぱち、ぱち、とちょっとずつ丁寧に切られていくのを見つめながら嬉しそうだ。
今日は機嫌がいいらしい。というより、オンボロ寮に移送になったのが彼にとっては良かったようだ。
身近に人の気配がする方が安心するらしい。
だから彼は発作の時以外、ニコニコ穏やかにしている。
レオナは爪切りの間、ソファに1人で座れているので多少放置して良いだろう。

「ヤスリかけようね」
「うん。えへ…」

フロイドは柱に背中をよりかけて、ジッと自分の手を見つめていた。
そして、ニコニコ俯いて、ニコニコして…。

「ふ。あは。…ふふ…」
「お?」

ガクン、と顔が見えなくなるまで俯いて、彼は突然彼女の胸ぐらを掴んだ。そして思い切りバツン!とワイシャツを引き裂いたのである。

「っ、」

ボタンが弾ける。
彼女は中に着ていたキャミソールごと単なる腕力だけで引き裂かれ、ブラジャーとスカートだけになってしまった。
カツン、カン、カン、とボタンが床に飛び散った。

「ぇ、ぁ」

驚いた彼女が声を出さなかったので、異常はドロシーハウアーさんに伝わらなかった。
2人は柱で隠れていたし、ドロシーハウアーは今玄関でタバコを吸っている。

「、…ん、…ハハ、…は…」

フロイドは喉の奥を引っ掻くように俯いたまま笑っていた。彼女のスカートも壊すように脱がせて、ブラジャーも剥ぎ取った。

「っ、あ、…」

咄嗟の恐怖に声が出ない。
ショーツもズリ下げられ、傷だらけの体が晒された。フロイドは肩を震わせて低くて小さな音で「んくく、」と喉の深いところで笑ってから、彼女の後頭部…髪を引っ張ってグイ!と立たせる。
その時初めて「キャアッ」と乙女の悲鳴が上がった。

「〜♪」

フロイドはゆるいボサノバを鼻歌で歌いながら、俯いてヘラヘラ笑って裸の彼女を引きずった。
彼女は髪を掴む太い彼の腕を掴むことしかできず、「ひっ、」とか「ぃ」とか…断片的な悲鳴を上げるばかりである。
多分彼が歌っているのはイパネマの娘だった。
ソファに座ってぼんやりとこちらを見ているレオナだけが曲名を知っていた。

「ヒッ、や、」
「〜♪」

キッチンに連れてかれた彼女は、シンクに顔を押し付けられた。フロイドの瞳は夢を見ていた。
上機嫌な彼はミキサーを棚から取り出し、それをシンクにドン!と置く。
それから、ミキサーに彼女の右手を無理矢理入れて、…

「〜♪」
「あっ。あっ、…あ、やだ。いや!誰か!」

フロイドは目を閉じて鼻歌を歌い、ミキサーのコンセントを差し込む。彼女は暴れたけれど、フロイドの腕一本で簡単に逃げられなくなっていた。
右足は大きな左足で強く踏まれて固定されているので、暴れることもうまくできない。

「誰か。誰か!!」

フロイドは躊躇いなくスイッチを押した。
けれど上手く作動しなかった。
コンセントをキチンと差し込んでないからだ。
彼は「ん?」「あれ…」と眠たそうな目をパチパチさせて、何度もガチガチスイッチを押す。
彼女はいつミキサーが作動するか分からなくて本気の悲鳴を上げていた。
…すると。
ソファでそれをボーッと見ていたレオナが。
老人か酔っ払いみたいに、ドン、ドス、と。
足音を鳴らしてフラフラやってきた。
体に力が入らないからどうしても足音が大きくなってしまうのだ。
俯いたレオナは壁に体を擦るようにして寄りかかりながらこちらにやってきて…叫ぶ彼女の視界に入った。

「レオ、たすけ、」

途切れ途切れに、彼女は顔を上げて泣きながら言った。レオナはボーッとした目のまま、キッチンの手近にあったオタマを持つ。
包丁やナイフはキッチンにない。
万が一でも患者に持ち出されては困るからだ。
しかしフライパンだってあるのに…レオナはその中で最も使えなさそうな金属製のオタマを持つ。
もう判断力もフライパンを持つ筋力も無くなってしまっているのだ…と彼女は哀しく思い、諦めて涙をひとつ落とした時。

「ッガ」

振りかぶって、フロイドの側頭部がオタマで殴られた。カァーン、と良い音が鳴って…。
フロイドは白目を向いてから、ズダン!と座り込んだのである。

「え、」

たかがオタマで。
フロイドは座り込んでそこを抑え、気絶しかけている。脳みそが揺れているみたいに立てなくなって、シンクを片手で掴んだまま目をヂカヂカさせていた。
どうやら物凄く良い場所に当たったらしい。
良い当て方をされたらしい。

…そうだ。
思い出した。
ライオンの攻撃は確か、一撃必殺だ。

「…………」

レオナはボーッと真下を見ていた。
それからボロッとまたひとつ涙を落とし、彼女に抱きついて全身の体重をのし掛ける。
監督生は素裸のまま、レオナの厚過ぎる胸筋に押し潰されつつ腰を抜かして座り込んでしまった。
フロイドに意識はあった。
ぼんやりとして、床に座り込んでいるばかりだ。
けれど、突然フとこちらを見て。

「あれ?…ごめん、聞いてなかった。なんか話してた?」

と、あどけない顔をして言うのだ。

「オレ最近さぁ、体ダルくないんだぁ。咳も出ねーし。多分、もうスグ治るよねぇ?」

そう言って穏やかに笑うのだ。
小エビはレオナの腕を掴みながら、ほろほろ涙を落としつつ…。

「う。…うん。…すぐ、なおるよ」

と優しい声で言う。
フロイドは嬉しそうに「よかったぁ」と優しく言う。
…しかし残念ながら、彼も四六時中拘束されるのが決まってしまったのであった。

フロイドは、自分の右手の指を切り落として、それに彼女の血をつけて食いたかったのだそうだ。
愛撫をするように殺したいと。



「ルークさん、リゾットよ。やわこいからね、食べやすいのよ」
「………」
「や?」
「………」
「やかな…」

一番危険なルークは全身を拘束されて横たわっている。
ヒステリック・ブルーは何よりも注意すべき存在であり、どんな大事件を起こした殺人鬼よりも厳重な監視が必要となる。
しかしルークは彼女の前だと大人しくなるのだ。
最近では、近寄っても甘噛みしかしてこなくなった。演技ではない。
ヒステリックブルーに罹って芝居を打てるような人間はまずいないからだ。

「あう」

口元にスプーンを持って行くと、アグ、と指を噛まれた。虚ろな目をして、静かにアニアニ優しい力で噛むばかりだ。

「腕の外側ならね、噛んでいいのよ。内側は血管が沢山あって危ないから、ダメなんですって…」
「………」
「うん、外側だけね。かんでね」

ルークは上に何も着ていなかった。
汗をかくから破いて脱いでしまうらしい。ジーンズは流石に破けなかったみたいなのでそのままだ。
胸の辺りは鼻血が出たらしく、赤く汚れていた。首から下がったネックレスがキラキラ光っている。
後ろ手にキツく拘束具で縛られた彼は非常に大人しく見え、攻撃性はまるでないように見えた。
傷を負った野生動物みたいに見える。
危ないので当然そばには寄らないが…。

「く。…くすぐったい…かも。あ、ううん。いいのよ」

髪はチョンと縛っている。
金色の前髪がところどころ散らばっていて、いつものルークとはまるで見た目が違って見えた。
体育の時にしか見ない乱れ姿だ。
星色の睫毛が輝いていて、彼はベッドに腰掛けたままザリッと彼女の親指の付け根を舐めて、はむ。
なにだかルークにこういうことをされるのは不思議な気分だったので、ジッとしつつも恥ずかしく思った。

「お肉たべたいのかな」
「………」
「お肉かな。ステーキこさえて持ってきますね」
「……、」
「ギャン!」

いつもやわこく噛む彼が、立ちあがろうとした途端ガッ、と犬歯を突き立てる。
行くなという意味だろう。

「ち、違ったね。ごめんね」
「…………わたしは」
「!う。うん」
「わたしは、好きでここにいるのではない」
「そ。そうよね…」
「…今がわずかばかりの安寧だ。取り上げないでおくれ」
「…うん、わかた…」

初めて彼が流暢に話した。
いつも縛られたままボーッと横たわっていて、近付くとやわこく噛むだけなのに。
だから彼女の体は今怪我と、ルークの噛み跡でいっぱいだ。
あんまり付けられるとフロイドが「痛そう。かわいそう」と毛布に包みながら物凄く悲しむので、なるべくやめて欲しくはあったが仕方ない。

首をグーッと噛まれながら、彼女は顔をシワクチャにして耐えた。
ちょっと痛いけど、ルークはスグ離れるから。
そしてガブガブやった後は、眠っている赤ん坊を起こさないように気遣っている老犬みたいにジッと動かず寄り添うのだ。
今日もいつものように、彼はスグに辞めて彼女の膝に頭を乗せて目を閉じる。

「…かみちぎったり、しないでね」

一応言ってみる。
ルークは目を開け、どこも見ずに少し微笑んだ。

「ノン。口で殺したりしない。…野生的でナンセンスだね。私は可憐なキミを手で殺したいんだ」
「…そなの?」
「マドモアゼル」
「やめてね」
「そうか。残念だよ」
「うん…」

よく喋る。
昨日まで少しの呻き声しか上げられなかったのに。
まるで病気が演技だったみたいに彼は突然流暢になり、目もマトモになっている。
ということは。

「あ、ハントくんだいぶ治ってきてるスね。いつでもユウちゃん呼べる距離だからメンタル安定したぽい。この療法向いてんな」

ドロシーハウアーさんはルークを診て、納得したように言った。ルークはドロシーハウアーに触られるのを心の底から癒そうにして、隙あらば脳をかち割らんという具合の剣呑さだった。

「…拘束を外してくれムッシュー」
「あ無理すね。点滴打ちまーす」
「ウ」
「ウて笑 いや草」

ドロシーハウアーは患者全員から嫌われていた。
食事を届けにくる時も、点滴を打ちにくる時も採血の時も…いつも炭交換に来た水煙草屋の店員くらい愛想がないからだ。
親身さのかけらもないのである。
ドロシーハウアー曰く「ブルー病患者の言うことは信じるな」だ。
悪魔憑きみたいなものだから患者とほとんど会話をしてはいけない。
幼く見えたりかわゆく見えたりするが、いつ牙を向くかわからないのだ。先日のフロイドみたいに。
つまり彼のこの対応は合っている。
患者のためにはならないが。

真っ白な拘束具をつけられて、白いシーツに横たわるルークは夢に見るほど強烈な印象だった。
けれどここの患者は、もうほとんどその格好だ。

「あぁユウちゃん、言うの忘れてた。新入りのブルー入ってきたスよ。部屋の準備手伝ってくれる?」
「!え。どなたが…」
「どなたがって言うか笑 えーっと」

ドロシーハウアーはリストを見て、前髪を軽くかきあげながら「や、多いね。軽症者ばっかだからビミョいけど…」といつも通りダルそうに発音した。

「えー…シャネル・エドガール、オドロアン・チカチーロ、呂・香霧、リドル・ローズハート、トレイ・クローバーの5名ですね。えっと上からネバーランドヒステリック・ブルー、ダヴィンチ・ブルー…ダヴィンチは徘徊グセあるから注意して…あー、次はスタンダード・ブルー、バグ・ブルー、最後がバビロン・ブラック…あ、ブラックか。ブラックはうちで扱えんから専門機関に回すとして…計4名ね。多過ぎて草」
「よ、よんめい」
「忙しくなんね。応援呼ぶからマァ対応はできるけど。ユウちゃん暫く実家とか帰ってていいよ」
「じ、実家ないです…」
「ガチか笑 じゃあしんどかったらオレん家とか避難していいすよ。一人暮らしだし。オレ泊まり込みでこの寮いるからホテルみたいな感じで使っちゃって」

チャリン、と鍵を渡された。
ドロシーハウアーさんはカリカリ頭をかきながら、「今日寝れねー…」と歩いて行く。
彼女はその鍵をまじまじ眺めてから、「あ。あの、ドロシーハウアーさん」と細い声を出した。

「私でお役に立てるのであれば、こちらでお手伝い致します。ご厄介でなければですが…」
「マジ?笑 あ、じゃあガチめにキツくなったらマジ言って。夜中でも全然。オレ対応しますんで。オネシャス」
「は、はい!お心遣いありがとうございます」
「あす。マジ無理せんでね〜。てかドロシーくんで良いて🤚笑」

彼女は病人たちの辛いことを知っている。
何度も危ない状況にもなったが、それは自分の落ち度の問題だ。同じ失敗は繰り返していない。
彼女は気合を入れ直し、ドロシーハウアーの背中について行った。
自分のできることを全部したかったのだ。



「……………」

レオナは今半笑いでオンボロ寮の天井を眺めており、ベッドから全く起き上がらない。

彼は治った。
否、治ってしまったのだ。

気分は悪くない。
感動的な映画を観て散々泣いた後みたいにスッキリしていて、体も生まれ変わったみたいに軽かった。
が、レオナは全て覚えているのだ。
病に侵されている間自分が何をしていたのか。
後輩の間抜けなもちもちの娘に一体何を強いていたのか。

…彼女は、敬語を使うとレオナが泣くので、ずっと幼稚園児を相手にしているような言葉で看病してくれた。
否、させた。
風呂にも1人で入れないので、服も全て脱がせ、嫁入り前の娘に大の男の素裸を見せた。
否、洗わせた。
トイレの前で途方に暮れていれば、ドロシーハウアーを呼んで対処してくれたり…間に合わなさそうであれば目を閉じてズボンと下着を下ろして座らせてドアを閉めさせた。
食事も全て雛鳥のように与えられ、嫌いなものがあれば泣き、食べさせてもらえないともっと泣いた。
それどころか抱きついて一晩中離さないこともあって、彼女の服を涙で濡らした。

最終的には絵本の読み聞かせをしてもらえないとパニックになって寝れず、発作が立て続けに起こって心から困らせた。
子供より厄介な存在であったろう。
子供ならば適当なことを言って騙すことも、振り解くこともできようが…ライオンの腕力で振り回されたのだ。

「…………」

ルークは開いた窓枠に腰掛け、春の訪れを感じながら半笑いで風に吹かれていた。
ルークは完治した。
完治してしまったのだ。

彼もまた全てを覚えていた。
何度も反芻したが、これは自分の罪と記憶に間違いなかった。
幾度となく彼女をぶち、嫁入り前の乙女に酷いアザと噛み跡を残させて恐怖を与えたことを。
拘束を外して寝込みを襲い、首を絞めて殺そうとしたことも。
手に残る感触と血の香りが忘れさせないのだ。
乙女とは花であり、乱暴に触ればスグに散ってしまう儚くも愛しい存在であると教わった。
だからルークはいつも注意と敬意を込めて彼女と接していたというのに…。

「…………」

ケイトは真っ白な顔で床に座り込み、半笑いで自分の爪を見ていた。
完治してしまったのでずっとこの通り半笑いだ。
彼はこの中で最も自分が迷惑をかけた自信がある。
病は激化していき、彼女が側に居ないだけで錯乱状態になり…拘束具を力任せに外して風呂場にいた彼女にそれを付けた。
そしてまだ体に泡が残っている裸の彼女を部屋に入れて丸一日クローゼットの中に隠していたのだ。
誰にも取られたくなかったから必死だった。
彼女が居ないと不安で涙と震えが止まらず、つまり彼女が居ないのが悪くて、彼女が悪かった。
だから許せなかった。
愛憎で脳がボキボキ音を立てて割れていくのだ。
他のヤツにも優しくしていて、他のヤツも彼女の愛を簡単に得ているのが耐えられなかった。
自分が彼女のコレクションの一部にでもなったような気分で、気まぐれに優しくて気持ち良くなる用のセックストイにでもなった気分だ。

自分は特別な存在でもなんでもなくて、時間が経てばたまに思い出すくらいの観葉植物だった。
こちらは息をするだけでも哀しいのに、毎日動けないくらい心が重たくて涙もうまく出ないほどなのに。
だから全てを彼女にぶつけていた。
好意で世話をしてくれている彼女をせめて物理的に側に縛りつけて泣いていた。…

「…………」

フロイドは頭の後ろで手を組み、壁に寄りかかって半笑いで窓の外を見ていた。
彼は完治してしまったわけだが、他の3人と違って何にも覚えていなかった。
なにも、である。
多分…というか絶対自分は何かしでかしただろう。
ネバーランドナイトブルーだ。
何もしないわけがない。
だが記憶はベッドでぼんやりとしていた時くらいである。よって今は怖くて仕方がなかった。
自分の罪すら把握できないというのは非常に恐ろしいことである。酒に酔った記憶のない朝ほど怖いものはない。
小エビは可愛い後輩だ。
ちまくて弱くて、間抜けでかわゆいメス。
なのでみんなで寄ってたかって守らねばならぬやわこいもちもちであり、傷など付けようものならお嫁に行けなくなってしまう。
強い人魚のオスにとって、メスに傷をつけることは大罪であるのだ。つまり…ヱ、つまり…。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「いやまず謝罪しろし〜?」

4人分の沈黙が満ちる中、ソファに寝っ転がったイデアが言った。
彼はブルー病でもなんでもないので、単純に高熱にうなされてサッパリ治った。故に他の男たちより余程冷静で、全てを把握していたのである。
4人は最後の検温でここにいるわけだが、誰1人もう口もきけない程のダメージを受けていた。

が、それをイデアが許さないのである。
何故なら彼は性格が悪いし、その上風邪を引いている間ゲームができなかったので冗談で片付けられないくらい機嫌が悪い。

「いや、マァ、謝罪って加害者の娯楽だし、ごめんなさいって誰にでも発音できる世界一簡単な6文字だから謝っても意味ないけどさ。脳みそがあるなら分かると思うんだけど、もう償いようがないレベルで監督生さんのこと傷付けたわけ」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「キミ達は体に残る怪我をさせたことばっかり悔やんでるけど、一番は4人のガタイの良い男に暴力を振るわれたトラウマでしょ。彼女、これが怖くて結婚できないかもね。男に暴力を振るわれたらどんなに怖いか知っちゃったわけでしょ?それに彼女は暴力も、無理矢理服を脱がされたことも責められない。だって彼女は好きで看病して、病気だから仕方ないって諦めてたわけだから。でも監督生さんは看病するしかないでしょ立場的に。オンボロ寮以外に行く場所ないし、キミ達にもし恨まれたら怖いしね。見捨てられたって逆恨みされたらどうしよう?とか考えるだろ。彼女は怖いけど看病するしかなかったんだよ」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「男性不審になるくらいのトラウマ、体に傷が残るほどの暴力、無理矢理服を脱がされた性犯罪、男の裸を何回も見なきゃいけない精神的苦痛、看病での疲労、僅かな休憩時間も発作で奪われるし。謝罪とか慰謝料で補えるわけなくて草。じゃあどうする?好きなだけ殴って良いとでも提案します?マァそれも困らせるだけだろうね。貢ぎ物も嫌がる性格だし、成すすべないね。可哀想に!彼女に残ったのは体の傷とトラウマだけ!」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「ほんと可哀想だったよ連日。ボク39度熱出てたけど彼女それどころじゃないくらいグッタリしてたからボクが夜ご飯作ってあげてたし。食べながら泣いてたよ。39度出てる人間より動けないって過労で倒れる一歩手前やが〜??」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」

イデアはソファで仰向けになって、自分の頭を撫でるみたいに手のひらで前髪を撫で上げ続けながらズケズケズケズケ4人をイジメた。
ストレス発散である。
迫害され続けたオタクの逆襲だった。

雨にも負け、承認欲求にも負け、文化祭や体育祭にも負ける貧弱な体を持ち、欲と驕りに負けていつも静かに誹謗中傷をしている。
魔剤と少しのジャンクフードを食べ、あらゆることに被害妄想を向け、傾いた目で全てを分かった気になり自分が受けた精神的苦痛だけを忘れず、親に買ってもらったマンションの一室に居て、東に折れそうな心があれば行って木っ端微塵にし、西にバカッターがいれば集団ネットリンチで人生を終わらせ、港区にパパ活女子が居れば行ってリプ欄を荒らし、北に喧嘩や訴訟があれば「待wっwてwまwしwたw」と囃し立て、1人の時は自堕落な生活を送り、イベント会場でのみキビキビ歩き、皆にキモオタ根暗と呼ばれ、褒められもせず、苦にされる。
そういうモノではなく、私は異世界でチート勇者になりたい。

という具合のカスの宮沢賢治を地で行くイデア・シュラウドは今が楽しくて仕方がなかったのである。
大嫌いな陽キャ達を言葉のナイフで鬼退治だ、これ以上ない最高のイベントであろう。
よってイデアは誰の目も見ないまま、あらゆる知識とあらゆる語彙を使って4人を滅多刺しにし続けた。
「自分にされて嫌なことは他人にはするけど自分はされたくない」というのがイデアのモットーなので。
だからこの男は高学歴高身長高収入(が約束されている)ハイスペック美男子だというのにカノジョが居ないのだ。

「これからどうするの人間失格四天王。未だに過去の自分を自分で強姦して自罰オナニーに耽って被害者になんの償いもせずにいるつもり?ひとところに4つも脳みそがあるのに解決案がまだ1つも話し合われてないって此処はボクの気付かないうちにバベルの塔にでもなったワケ?もしかしてボクとキミ達の知能の間にベルリンの壁でもある?おーい聞いてる?Guten Morgen!西ドイツ諸君!ボクしか喋ってないゾ〜w 何これ?無能ってタイトルの現代アート?…

(中略)

…別にムカつくんなら殴っても構わんが?ボカァ今日限りだけど暴力肯定派になるよ。しょうがないって、ギリギリ生命体として認められる程度の量しか脳がない人間を目の前にしてるんだもの、初めての経験だから何が起こるか分からないし、社会勉強とか成長痛として受け入れるつもり。ドラム缶の中に8年入れられて目に電気流される拷問を毎日9時間受け続けた人間でももっとまともな思考と行動取るでしょ。だから何も期待してないし、動物園の檻の中にいると思ってるから何があっても良いよ。寧ろ特等席で見れて良かったとすら思うしね。エサでもあげようか?何が良い?干し草?生肉?赤土?待って検索するから。野蛮人 主食 検索 っと…」

暴言のスポッチャである。
全自動人格否定マシーンのイデア・シュラウドにボロカスにされた4人は声も出せなくなった。
こんなに酷いことを言わなくたって良いのに、どうしてこの男はこうもスラスラと致死量のチクチク言葉を言えるんだろうか。
が、しかし。
ここにも白衣の天使は現れる。
地獄に仏とはこのことであった。

「これっ(こらっ)!イデアさん、いじめちゃダメでしょ」

4人の検温に来た監督生である。
彼女は彼らのために4人分のオムライスたちを作ってやって来たのだが、なにやらイデアがズケズケズケズケと天の彼方に龍が登るか如くの人格否定をしていたので、ドアを開けるなり怒ったのだ。

「みんな病み上がりなんですよ。悪口言っちゃいけないと思いました」
「ぁっ。アッ、ごっ、ごごご、ごめん。あ、す、そ、その、あぅ、キ、キミが、傷付いてたから。ぼ、ボクなりにその、言おうと思って…。ご、ごめん…今日からこの世で一番汚い公衆便所に住んで水死体しか口に入れずに生きるから嫌いにならないで…」
「まったくも…」
「ご。ごめんね。怒った?もうイデアさんって呼んでくれない?じ、人格が破綻してるのは自覚してるけど、せめて迫害だけはしないでほしい…」
「イデアさん、リビングに行っててくださいな。今から皆さんの検温をしますから」
「ぇ、あ、検温ならボク手伝うよ。キミは座ってて。疲れてるだろ」
「いけません。イデアさんやなこと言うでしょう」
「あぅ、あ、で。でも、キミには言わないよ。キミには思ったことないし、その、ヤなこともう言わないから…」

イデアは先程のことが遠い夢であったかのように突然ビクビクオドオドし始めた。
一生懸命監督生のことを上目遣いで見て、心の底から謝りながら「でも、」だの「あの、」だの言って彼女の気を引こうとする。
しかし本格的に背中を押されて部屋を追い出されてしまったので、「にゃーん…」と一言廊下で呟くばかりであった。

一方、4人の男達はズン…と俯いたまま顔を上げられないでいる。
イデアが来なければ4人で並んで土下座をしたところだが、謝ると言うのが如何に自分勝手かというのをイデアに散々言われた後だったため…。
もう何を言えばいいのか、何すればいいのかも分からず、全員石のように固まることしかできなかったのである。

「レオナさん、検温しましょうね。これをね、脇に挟んでピピッて鳴るまで待ってくださいね」
「…ッス…」
「フロイドさんもどうぞ」
「……アッ…。…す…」

全員「あ」と「す」しか言えなかった。
罪悪感に脳を締め上げられて何ひとつ出来なかった。
検温の結果、全員微熱も引いて平熱の健康体。
完全に治ったのだと分かる嬉しい知らせ…であった。一応は。

「良かった、治って」

小エビはホッとした顔をして、ニコニコペカペカ笑って「もう外に出て大丈夫ですよ」と優しい声を出す。

「私も安心しました。退院おめでとうございます」

心から彼女はそう言った。
言ってから、フと…何だか憑き物が落ちたように無表情になって…。

「…小エビちゃん?」

異変を感じたフロイドが思わず声をかけた。
彼の違和感は間違っていなかった。
何故って彼女はそれを言ったきり、突然グルッと白目をむいて…。

「オイ!」

ドタン!と。
床に倒れてしまったのである。
レオナは慌てて彼女を起こして体に触れ、それから「…ヒューマンのメスの体温ってこんなに熱かったか?」と一つ思う。
それくらい乙女の体は燃えるように熱く、見れば顔色も真っ青なのであった。

「えっ、え?え?え?なに、どゆこと。監督生ちゃん、」
「オイ看護師呼べ。ヤベェぞ今の倒れ方」
「すぐに呼んでくるよ、待ってておくれ、」
「小エビちゃん。小エ…ヤベェこれ熱何度?やばいって!」

過労ではない。
医学の心得がなくとも、緊急性が高いことは見てとれた。ルークがドロシーハウアーを引っ張ってきてくれて、ひとまず彼らは少し後ろに下がったが…心臓が嫌な音を立てて跳ねるのは抑えられなかった。
彼らは人間が簡単に死ぬことを知っているからだ。
まさか、過労死。
高熱って、ただの風邪?
それとも深刻な病気?
と、嫌な想像が駆け巡り、唇が渇いた。
ルークは自分の小指が不自然に痙攣しているのがわかり、不安に喉が張りつめていく。
ドロシーハウアーは現場を見た瞬間フッと顔色を変え、患者のユウの体をあちこち触って現状を確認し…。


「あ、ダメだ。これブルー病感染してるわ」


と、ポツッと言ったのだ。





…何故感染してしまったのか。
原因は彼女の部屋に行けば分かった。
とにかく寝かせるためにベッドへ運んだのだが、ドアを開けてゾッとした。
部屋の中にあったのは大量のエナジードリンクであったのだ。
床やらテーブルやらに何本もそれが転がっていて、片付ける余裕もなかったと見える。

ワンダーランドのエナジードリンクというのは、微量な魔力が入った軽い魔法薬だ。
飲めば体の中に微量な魔力が入り込み、元気の前借りができる。つまり全く魔力のなかった小エビの体に、いつも少しばかりの魔力が蓄積されていたというわけだ。
よって、感染した。
彼女はきっとそれを知らなかったのだろう。
元の世界のエナジードリンクと同じだと思って飲んでいたのかもしれない。

そのせいで…他の男達よりも当然症状は軽いが、スタンダードブルーになってしまったのである。
因みにこんな微量な魔力しか食っていない貧弱なウィルスなど抗体ができた彼らには全く害をなさないため、彼らに感染することはまずあり得ない。

ストレスと過労で痩せ、体は傷だらけになったエビは。
しかしてこの貧弱なウィルスに耐え切れず…。

「おおおお…」

目覚めてすぐ、泣いてしまった。
何が悲しいのか分からないけれどとにかく哀しくて、布団を頭からかぶって顔だけ出し、体育座りをしてシワクチャに泣くのである。
「おおお…」となんだか特殊な泣き声を出しながら。

え、つまり。
完治した男達は目を合わせた。
重傷を負わせたばかりか、何よりも辛い病気をうつしてしまったということになる。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………」

4人は白い顔をお互いに向けて、静まり返ってしまったのであった。












っていう、レオナさんとケイトとフロイドとルークさんとかいう何の接点もない4人が青ざめてユウちゃんの看病をして我儘を全力で聞くっていう展開にするために書いた冒頭

今これね、起承転結の〝起〟のとこ笑
無茶言うな バカが

号泣奇病ブルー症候群
一度罹るとメンタルが暴落して号泣が止まらなくなる奇病がNRCで爆発的に流行り、監督生がグチャグチャになったNRC生を看病する話。

捏造、モブ、なんでもあり。
監督生の名前はユウで固定してます

the夢小説っぽい夢小説落書きしました
楽しかった〜
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2023年2月26日 15:02
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