犬猫の擬人化

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犬猫のYouTubeを見ていて気になるのは、犬猫を擬人化して台詞を付けている人が多いことである。死んだ犬猫が虹の橋で飼い主を待っているという幻想も、擬人化から生み出されるものなのであろう。人間と人間が愛を語り合うとなるとなかなかできないが、犬猫だと、理想の恋人と語り合うような夢の世界を簡単に作れる。普通の人間関係だと、憎悪や嫌悪だけでなく、好かれたら困るとか、ストーカーだと誤解されたら困るなどの理由でよそよそしくする必要があったり、なかなか親しくはなれないが、犬猫だとその心配もない。腹話術の人形みたいなものだから、自分の分身なのである。犬猫に言葉が通じているわけがないのに話しかけて、それで言葉が通じていると思い込むのは、犬猫の基本的な役割なのかもしれないが、そうやって自己愛を守ってくれるイエスマンというか、それがゆえに愛護するというのは、自己弁護や自己保身でもある。架空の自分を作り上げているだけだ。とはいえ、腹が減ったとか暑い寒いとか、動物的な状況は共通の理解が可能であろうし、人間はそれに名前をつける能力があるだけとも言える。だからただのぬいぐるみではないし、犬猫は動物としての察しはいろいろと付いているであろう。文明は理解できないであろうし、猫に「車に気をつけろ」と言っても轢き殺されるし、やはりわかってないので、原始人と接しているようなものである。では文明的な人間同士なら言葉が通じるから快適かというと、そうでもない。言葉があるがゆえの苦しみ、もしくは、「あえて言わない」ことは多々ある。理由をきちんと説明してから嫌がらせをする人はあまりいないし、なにかしら恥の観念から、人間は理由を言わずに他人を攻撃したりするが、なぜ嫌がらせを受けているのか、それは嫌がらせを受けている人が自分で考えることになるし、想像力で他人に字幕をつけるしかない。つまり、人間なら言葉で詳細に説明してくれるとは限らないし、あまり立ち入ったことは話していない。相手が人間であれ、犬猫であれ、その心情は想像するしかなく、こちらが字幕を付けている。相手が話していないことについても、たぶんこうなのだろうなと字幕をつけざるを得ないのがわれわれの習慣ではある。だから相手が人間でも犬猫でも同じと言えるが、人間相手だと神経を擦り減らすのに対し、犬猫だと字幕をつけるのが快楽なのであろう。
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