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B'zは鎧、自分は普通、他人に嫉妬することもある――デビュー35周年、本人が語る「人間・稲葉浩志」

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デビュー35周年を迎えるB'zのフロントマンにして、ソロとしても活動する稲葉浩志。作詞して世に送りだしてきた楽曲は、約500曲に及ぶ。しかし、稲葉は自身の学生時代について「ずば抜けて何かができたわけじゃなかった」、B'zの結成も「劇的じゃない」と振り返る。パブリックイメージの「ロックスター・稲葉浩志」とは違う、ひとりの人間としての稲葉浩志の実像に迫った。(撮影:平野タカシ/Yahoo!ニュース オリジナル RED Chair編集部)

普通に人をうらやましがったりもする

B'zのシンガー、という肩書を外したとき、稲葉浩志とは何者なのだろうか? その問いに稲葉は「普通」とだけ答えた。B'zで激しく歌いあげるパブリックイメージとは真逆のものだ。

「普通に人をうらやましがったり、喜んだり、喜怒哀楽があって。歌でもそうですけども、自分に持ってないものを持っている人に対して、やっぱり大なり小なり嫉妬というのはいつもあるなって思います」

嫉妬は、テレビを見ていても、ライブを見ていても、他の歌手に対して抱くという。

「たとえばMr.Childrenのコンサートに行ったときに、コンサートも非常に素晴らしかったし、桜井(和寿)さんの歌も突き抜けてきていましたし。昔はロッド・スチュワートの声に憧れて、ああいうふうに歌いたいと思っても、なかなかならないとか。だから、人の歌に憧れても、自分の声質や今の喉の状態で、どういうふうにできるのかな、みたいな考え方をするほうが多くなりましたね」

B'zについては「鎧」と表現する。

「B'zで歌っている自分というのは、何か強力な鎧をまとって歌っている『何とかマン』みたいなイメージがありますね」

自分は「とんがり」がない人間だと思っていた

故郷は岡山県津山市。そこで高校卒業までの日々を過ごした。幼少期は目立つこともない子どもだったという。

「友達もそこそこいて、先頭に立って悪さをするわけでもなく、友達の様子もうかがったりしながらで、リーダー的な感じでもなかったです」

家族は、両親と4歳上の兄。近所の人からもかわいがられる子どもだった。

「うちは化粧品を売っている小売店なんです。だから、しょっちゅう近所の人が出入りしていて、基本的にはずっとオープンになっている家なんです。同級生から、おじさんやおばさんまでコミュニケーションをとっていました」

その一方で、特に積極的な子どもではなかったという。

「今もそうですけど、夢とかを聞かれて答えるのがわりと苦手で。卒業文集で『将来の夢は』というのが定番であるじゃないですか。そこに何か書かなきゃいけないので、小学校のときは『カーレーサーになりたい』って書きましたけど、言うほど思ってなかったんです。そういう漫画がはやっていたんですね。そこで『これでいいかな』って。本当に消極的というか」 その稲葉も、中学に入ると夢中になるものを見つける。音楽だ。兄の影響で聴きはじめ、初めて買ったアルバムはキッスの『ラヴ・ガン』。そして高校に進学すると、学園祭で初めてバンドのボーカルを体験する。

「同じ軟式テニス部の友達のギターがとても上手で、文化祭に彼を出してあげたいと友達とも話して、寄せ集めのメンバーでバンドを組んだんです。そのときのボーカルに、たまたま僕がなったんです。みんなで一曲を練習して演奏して合わせることが、すごく楽しかったですね。文化祭では、僕が練習しすぎで声が全然出なくて、悔しい思いをしたんです。でもやっぱり、バンドが楽しかったので、そこからは趣味じゃないですけど、バンドは何かしらやっていましたね」

優等生として過ごした学生時代。そこにコンプレックスを抱えていた部分もあるという。

「ずば抜けて何かができたわけじゃなかったんです。特に学生時代だと、そこそこなんでもできる子より、ちょっと突っ張っている子とか、やんちゃな子とかが人気があるじゃないですか。そういう人たちのほうが目立っていたし、何か悪さをしているような友達が先生に気に入られたりするのも見ていたし。だから、そういう『とんがり』がない人間だなって、ずっと自分で思っていました」

教師にならなかった自分に親は泣いていたと思う

高校卒業後は、横浜国立大学に進学。教育学部で教師を目指したが、実際に大学生になってみると、稲葉に変化が起こった。

「髪がむちゃくちゃ伸びました。おしゃれな美容院が多すぎて、店に入るのを躊躇して髪が切れなかったんです。それで最初に帰省したときには、もう親から悲鳴が聞こえましたね」

大学時代もバンドを同郷の友人たちと結成。そして、教育実習にも行くなかで、進路について葛藤が生まれた。

「素直な気持ちとしては、やっぱりバンドが楽しかったんです。自分の歌に対しての周りの評価も良かったし、多少の自信がついてきたと思うんですよね。そういうこともあって、当初の自分の目標が揺らぎはじめて、たぶんずっと自問自答している日々だったと思います。『おまえが本当に好きなのはどっちなんだよ』って。教育実習を途中でやめてしまったことで、自分で歌のほうへ傾けていったんじゃないかと思うんです」 大学は卒業したものの、アルバイトで食いつなぐ日々。大学時代からの家庭教師のアルバイトを続けつつ、洋服店でも働いた。優等生だった息子の変化に、両親は驚いていただろうと振り返る。

「泣いていたと思いますね、たぶん。教員免許を持って地元に帰る人が多かったので、自分の親も、当然地元に帰ってきて先生をやるんだと思っていたと思うんです。うちの親も強く言うタイプではないので、だいぶ我慢していたと思います。手紙が来ても、『帰ってきて就職しなさい』とははっきり書いてなくて、『田舎ではこんなことが起きて、あなたの知ってるおじさんがこの間、死にました』とか。親にあまり迷惑もかけない子どもだったと思うので、『最後の最後にこいつやりやがったな』っていう感じだったんじゃないですかね(笑)」

B'z結成は劇的じゃなかった

親からの手紙に返事を出すことはなく、稲葉は音楽の仕事を始めていく。そして、ある人物に出会う。

「LOUDNESSというバンドがすごく好きだったんですけど、そのバンドのマネジメントをしている会社がやっているボーカルスクールの宣伝を音楽雑誌で見て、行ってみたいなと思って。通っていくなかで、コーラスのアルバイトの仕事をもらったりしているうちに、事務所で松本(孝弘)さんを紹介されたんです。松本さんが自分のバンドを作りたくて、そのボーカリストを探しているので、話をしたいと。松本さんは、確固たるビジョンがありましたね」

B'zは、1988年のデビュー後、1990年には『太陽のKomachi Angel』で初のオリコン1位を獲得。1998年のベスト盤『B'z The Best "Pleasure"』と『B'z The Best "Treasure"』は、合わせて約1000万枚のセールスを記録した。B'zはJ-POPシーンに君臨し続けているが、その始動はドラマチックなものではなかったという。

「正直に言って、『よしこれで行こうぜ』っていうのは、お互いになかったと思うんですよ。後から聞いた話になりますけど、松本さんも『あそこで決めないと、俺にはもう時間がない』みたいな状況だったらしいし、僕は僕で、ちょっと流されているというか。だから、本当に劇的じゃないんです。『ちょっとスタジオ入って、何かやってみますか』みたいに音を出し始めてスタートして、本番のレコーディングも始まって、ダーッとやって、35年経ったという感じです。今、話していて、自分でも思うんですが、本当にパッションに欠ける感じでしたね」 結成当初は、レコーディング、そして次々と松本から渡されるメロディーに歌詞をつける作業に追われ、不安を感じる暇すらなかった。しかし、稲葉が作詞した歌詞は、スタッフからの厳しい意見を浴びることになる。

「いやもう、全然書けなかったんですよ、笑っちゃうぐらい。『一行で言えるような内容を、薄めて薄めて薄めて、一曲分にしたみたいな歌詞だね』って言われたりするような状態だったので。シンプルに『つまんないんだけど』って言われることが多かったですね。歌詞を書くテクニックや語彙力も大事だったと思うんですけど、一番大事な、自分の歌いたいことや、歌って誰かに伝えたいことが欠落していたせいだと思います」 しかし、ライブを経験してファンの反応を受け取ることで、稲葉は急速に歌詞の表現の幅を広げていく。さらに、1997年には初のソロアルバム『マグマ』をリリース。オリコン初登場1位を獲得し、ミリオンセラーを記録した。ソロでは、自身で作詞作曲を担当。歌詞の姿勢もB'zとは異なる部分があるという。

「さっき鎧っていう言葉を使いましたけど、ソロは鎧がない感じです。等身大というか、あけすけな姿で、いろんな表現形態にチャレンジしていけるのがソロだと思うんです」

極端なことをしなかった人間がこういう仕事をしている

今年、稲葉がリリースしたシングル『BANTAM』には、「この身の丈で戦う/損してるなんて もう思いません」という意外な歌詞が出てくる。

「そのような内容の歌詞は、昔から手を替え品を替え、書いてはいると思うんですけど、そういうふうに思っている強さは、今のほうが強いかもしれないです。『BANTAM』は、本当に自分の今の気持ちや感覚が、一番強く出ているかなと思います」

「敵わぬ才能/指咥えて見てる/隠しきれぬ苛立ち」という歌詞も出てくる。嫉妬すらも歌詞に昇華する稲葉の姿もまた、「ロックスター・稲葉浩志」のパブリックイメージとはかなり異なる。

「歌っている楽曲はハードなものが多いので、そういうふうに思われているだろうなと思うんです。こういうインタビューで話をしているときに、そういうギャップを感じられますね。地元の人たちも意外でしょうね、僕以外にロックスター的な人間はいっぱいいたので。だから、何か極端なことをしなかった人間が、こういう仕事を長くしているというのは、不思議な感じがするのかもしれないですね」

自身を「普通」と語る稲葉が、スイッチを入れるきっかけとなるのは、やはり音楽だ。

「音楽を媒介にして、ステージ上では、ある意味、傲慢になっていると思うんですよ。傲慢というか、自信がある自分に変わっていく。声を出して歌うことで、そういう自分に変わっちゃうんでしょうね」

デビューから35年、最前線を走り続けてきた。

「一生歌えるわけじゃないので、今できることは、なるべく思いついたときにやりたいって、以前より強く思っています。声帯は自分の体の一部なので、どんどん変わっていて、それは自分でも前向きに受け入れることはできるんです。声が出ている限りは、自分の声を聞いて、『こんなことしてみたいな』と誰かが思ってもらえるような歌を歌っていたいなと思います」

最後に、生まれ変わったらもう一度稲葉浩志に生まれたいかと聞くと、「もう、それしかないです」と即答した。やりたいことがまだまだある。

「人生って、やっぱり時間がなくなっていくじゃないですか。もう一回稲葉浩志になれば、もうちょっとまた時間が増えるので(笑)。前世の記憶があればですけどね。やればやるほど、いろんな可能性って生まれてくるので」


稲葉浩志(いなば・こうし)
岡山県出身。1988年に松本孝弘とともにB'zとしてデビュー。1997年には初のソロアルバム『マグマ』をリリースし、以降ソロとしても活動。今年、歌詞にフォーカスした初の作品集『稲葉浩志作品集「シアン」』(KADOKAWA)を発売。

(取材:塚原沙耶/構成:宗像明将)

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