クリームソーダの写真が手元にありませんでした。これもクリームだし似たようなもん。
文フリ(直で変換すると絶対「文不利」と出てくるから腹が立つ)当日は色々とドタバタしていたりとにかく混み過ぎていたこともあって本をまったく買えなかったのだが、懇意にしてもらっている「きりん堂」の新刊はしっかり買わせてもらった。
今回が2回目の出店。新刊のタイトルは「ご一緒にクリームソーダはいかがですか?」。クリームソーダをモチーフにした短編が2作載っていて、カバーが半透明のトレーシングペーパー。カラフルな表紙の上に淡い白インクで印刷されたカバーが乗ると、冊子全体がクリームソーダに浸っているような印象を受ける。これは巧いこと作られている。是非どこかでパクりたい。
で、実はまだ結城氏の作品「さびしさ」だけしか読めていないのだが、これに関しては読みながら色々と浮かんだことを個人的に整理して残しておきたいと思い、取り急ぎ以下にツラツラ綴ることにする。
90頁足らず、少し長めの短編。現代劇かつ平易な言葉遣いで、特に予備知識が無くとも一気に読める。
舞台は山形で、家電量販店で働く青年「盛岡」の呪詛から話は始まる。東京に生まれ育った彼は就活に手こずり、やっとの思いで就職した会社のせいで東北に飛ばされ、地元の仲間と時間を共有できない寂しさだけを擦り付けながら生きている。
ある日、携帯販売のテコ入れとして派遣社員の「伊藤」が入社する。伊藤は盛岡と同い年の女性で、常にぼんやりとやる気が無さそうな態度を取り、にも関わらず販売成績は優秀だった。盛岡は何を言っても暖簾に腕押しな伊藤に不快感を抱いていたが、一方で彼女とは対照的にみるみる下がり行く自分の成績に焦りを覚える。散々悩んだ挙句、盛岡は伊藤に携帯販売の極意を乞う――以上あらすじ。
作中、伊藤は盛岡の、と言うか作中の全ての男にとって大変都合がいい女である。基本的には男が本来持ち得る(と彼女が思っている)欲求に応えることで今までの人生を費やしてきたし、そこに彼女自身の快不快にはじまる感覚が存在しない。だから全体的に受け応えや佇まいが空虚だし、台詞一つ取っても自ら発している言葉のようには思えない。
盛岡から「携帯を巧く売るコツを教えてくれ」と頭を下げられてから、伊藤は急速に盛岡に親し気な態度を取ろうとする。読んでいるとあまりの態度の変化に面食らうのだが、徐々に彼女の生い立ちや、そこから形成された彼女のパーソナリティが明かされてくると、出逢った男達による性欲の傀儡として今まで生きてきたからこその身の振り方だったのだなと、一応は納得できる構成になっている。
そんな彼女を「救う」役割を宛がわれたのが盛岡なのだが、僕がこのエントリで書きたいのは、盛岡を本当にそうした正の役割で設けているとするならば、かなり着地点を間違えているんじゃないかということだ。
伊藤の貞操観念は、上記の通りかなり低く書かれている。それに対して、盛岡は最初から最後まで一般常識やモラルと照らし合わせた上で彼女を戒める、もとい諭す行為に徹していて、その先が無い。口ではそう言っておきながら、実際のところ――みたいな描写もまるで無い。新卒そこらの青年が、同年齢の女性とラブホで二人きりになって、行動は勿論、頭をよぎる瞬間すらまともに書かれていない。そんな不自然過ぎるくらい性欲が無い男が、上から目線で「いたずらに人とセックスをしてはいけないよ」と、定規を添えて説き続ける。これは多分、伊藤がこれまで出逢った男とは一線を画す存在として配置した以上、盛岡をリビドーから遠く、かつ常識的な正しさを持った男に設定せざるを得なかったのではないかと思う。
ずっと正しいままの盛岡を以て、最終的に伊藤は「救われる」。だが、人と人が愛を抱いて交わる以上、そこに至るまでに生ずる性欲、劣情、幾多ものエゴイズムをすっ飛ばして「身体じゃなくて心だろ」の汎用まともまとも価値観一点張り説法で、本当に伊藤を救えると思って書いているならば、それは流石に身勝手と言うか、傲慢と言うか、何にせよ人間を軽く捉え過ぎだろう。ある種、反転的に強烈なエゴを以て伊藤に接していると言ってもいいかもしれない。
盛岡の押し付けがましさもそうなのだが、伊藤も伊藤で「そうか! 確かに私は価値観がバグってたから、まともなやつをインストールすればいいんだ」と呆気なく受け入れてしまう。そこに今までの自分を、性欲の傀儡として生きてきた自分の「普通」を捨てる葛藤がどこにも見当たらないのは、どうなんだ。今まで四半世紀近く生きてきて、しかも間違っていると今の今まで思いもすらしなかった日常を、いきなり現れた職場の同僚に貞操のモラルを説き伏せられたことで、疑いもせず全てを改める決意が付きましたなんて、そんな都合がいい話は無いと思うのだが。
ここまで書いてきて、僕がこの作品をどう捉えたかと言えば「生まれつき貞操観念が低い女が性欲が無い上から目線の男に一般的なマナーとモラルを説教されて都合良く目覚める話」でしか無いのだが、もし作者が盛岡の傲慢さを、伊藤の空虚さを狙ってあえてグロテスクに仕上げているのならば、僕は震え上がる。
そうでなく、真剣に感傷小説として作り上げた結果がこの作品なんだとしたら、盛岡と伊藤の関係性を、単なる「与える人、与えられた人」の帰結に過ぎない構図から、今一度考え直した方がいい。少なくとも盛岡にはモラルから離れたエゴイズムを、伊藤には今までの自分を唾棄する恐怖や反発心を、決して都合良く進まない二人の苦悩をしっかりと持たせてほしい。
そうでなければ、あのエモーショナルな結末には何の意味も無い。物語の仕掛けに過ぎない二人がトントン拍子に転がって、いい感じで別れて、クリームソーダを飲んで「寂しいなあ」で着地は、それこそあまりにも寂しいだろう。
「手帳をなくしただけなのに」はこれから読みます。楽しみです。