【青色の文字にはリンクが貼ってあります。】
1.内閣府設置法とはどのような法律か -内閣府設置法は内閣府が国葬の実施を決定する根拠にはなり得ない。-
法律(特に行政法)を解釈する際に最初に読むのはその法律の目的(第1条に書いてあることが多い。)です。「目的」にはその法律が実現しようとする社会的利益が書いてあるからです。そしてその法律の解釈にあたっては、その目的に適うように解釈しなければなりません。
また、法律を解釈するにあたっては、特定の条項の文字面に拘ることなく、他の条項も見ながら法律の全体のバランスを考えて解釈しなければなりません。
岸田内閣が国葬実施の根拠としている内閣府設置法第4条第3項第33号に注目すれば、同号の「儀式並びに内閣の行う儀式及び行事」も第3条第2項に規定された範囲内で内閣府がその事務を実施するものと解釈すべきです。また、第4条第3項の全体を読めば、他の法律などで政府が行うとされている事項について、内閣府が行うべき事務をと定めたものであることが分かります。内閣府が誰の葬儀を国葬(国葬儀)とするかを決定する権限を与えたものと解釈できるものではありません。
(大変な量になってしまいますので法律の条文は引用しません。)
2.内閣法制局は“政権の注文”を受けて、こじつけ解釈をする機関に堕した。
前項に書いたことは、普通に法律を勉強した者であれば、当然に辿り着く結論ですが、アベ政権以降の内閣法制局は法律の文字面から都合の良い単語を拾い出し、政権に都合の良い解釈を組み立てるという「内閣法匪局」と呼ぶに相応しい機関に堕しています。そこには最早「法の番人」としての矜持はありません。
同じ事は、新型インフルエンザ等対策特別措置法を新型コロナウイルスに適用することを怠った際にも見られました。そこでも法律の目的(目指す社会的利益)を無視した屁理屈が組み立てられたのです。そして、安倍政権の初期対応の誤りを覆い隠すために必要のない法改正を進めたというのが私の結論です。これによってさらに新型コロナウイルスへの対応が遅れました。
このような法匪的解釈のやっかいなところは、文字面の理屈としては成り立ってしまうというところにあります。それだけに、法文をその文字面だけでしか理解できない者にとっても“分かり易い”のです。このことから、法匪的解釈が世の中を跋扈することになっているように感じています。
3.「国葬儀」であって「国葬」ではないとうのは詭弁 -言葉の置き換えで本質をすり替える自民党政権-
「『国葬儀』であって『国葬』ではない。」という岸田内閣の閣僚の言葉を聞いて、「自衛隊は『自衛隊』であって『軍隊』ではない。」という詭弁が頭に浮かびました。以前にブログでも書いたことですが、日本の自衛隊の態様は、国際法的に見て軍隊外の何物でもありません。「自衛隊」は日本の軍隊につけられた固有名詞でしかないのです。
同じように、「国葬儀」と呼ぼうが行政府の長である内閣総理大臣が主催し、出席を呼び掛けている以上は、世間の常識からは普通名詞としての「国葬」以外の何物でもないのです。現にあの自由民主党のニカイ幹事長も「欠席しようがしまいが、国葬には関係ない。」、「国葬は当たり前だ。やらなかったらばかだ。」などと発言しています。それにも関わらず、「国葬を閣議決定で実施するのは違法では」という批判に「国葬ではない。国葬儀だから……」という声があちこちで聞こえますが、まったくの戯れ言でしかありません。
このような言葉の置き換えで物事の本質を覆い隠そうとする態度は今に始まったことではありません。撤退を転進、全滅を玉砕、そして敗戦を終戦と言い換えた大日本帝国の軍事政権と同じようなことを現政権がやっているようです。今日に至っても、一国の首相が「幅広く募っているという認識だった。募集しているという認識ではなかった」などと言うのはその典型でしょう。安倍政権以降、アベ元首相を発源地として、このような言葉のすり替えで本質を誤魔化そうとする態度が日本で加速し蔓延していると言えます。そしてまた、旧統一教会問題については「点検」をさせてその結果を報告させるという「調査手法」を取りながら、「調査ではない、『点検』だ。」と強弁しています。
日本語では話し手と聞き手が共通の知識、経験、共感力などを持っていることを前提として成り立つ会話や文の遣り取りが少なくありません。上に書いた“文字面解釈”が跋扈することで、このような共感力が蔑ろにされ、日本語の言葉文化が壊れてしまうのではないのかと心配します。勿論、法務の分野やテクニカルライティングの分野のように一つの意味にしか取れない文書を必要とする場面もありますが、大凡の社会生活では、漠然とした概念を共有し、そのうえで対話が成立しているのだろうと思います。
これはツイーター普及と関連があるのかも知れません。このような“文字面解釈”が社会に蔓延し力を持ってきているということに不安を感じます。そして、飽くまでフィーリングですが、手間をかけて真実・真理を理解するより、簡易な嘘・デマに飛びつく人が増えているように感じています。