百鬼之学園譚 — 拝啓、忌まわしくも麗しいこの世界へ、歪んだ鳥籠より —

雅彩ラヰカ

第1話 篠突く雨の帷を越えて

 しとしと——だなんて優しい擬音が似合わない、滝が流れ落ちるような篠突く雨が襲いくる夜半。

 ある和風建築の屋敷の二階は宴会場になっていたが、そこにいる客はたった一人だった。両目に真横一文字の傷が走り、深く瞼を閉ざす黒髪の男だ。


 彼は着流しという楽な格好で、しなだれかかる遊女の乳房に手を這わせ、空いた手で盃を傾ける。

 笛と三味線の音と、防音設備越しの雨の音。それらの中で、男は女から離れて窓際の枠に腰掛け、カルガモのようについてきた女から焼き鳥を受け取って喰らい付いた。

 宴会場に満ちるのは優雅な和曲。男は焼き鳥の残り一口を齧り付きつつ引き抜き、ろくに噛まずに嚥下する。


「空蝉様、お客様が」


 襖を開けて控えている仲居がそう言って、空蝉と呼ばれた男は通すよう下知を送った。

 やってきたのは袈裟を着た二十代半ばほどの女。剃髪しておらず、銀髪を長めのおかっぱにしており、僧には見えないがそれらしく着飾っているため仲間内では尼と呼ばれていた。


「どうした」

「手筈が整いました。あとは時期を待つのみです」


 尼が首を垂れ、片膝をついた。

 空蝉は口元に獰猛な笑みを浮かべ、


「人妖融和記念式典襲撃、か。お頭も面白いことを思いつくもんだ」

「若い衆はすでに集まっております。来たる記念式典……その日が来れば……」

「問題は式典の日が不定だってことだ。気まぐれな妖怪らしいっちゃらしいが、それが襲撃やテロを防ぐ最大の抑止力になっていやがる。まあ、どのみち準備はできた。どっしり腰を据えてりゃああとは勝ちが転がり込んでくる」


 空蝉はそう言って手招いた遊女を抱き寄せ、彼女が持っていた瓢箪を受け取って中身の日本酒を呷った。


「鬼が出るか蛇が出るか……式典にゃあ当然警備の妖怪もいる。楽しくなりそうだぜ」


 遠雷が轟き、遊女が短く悲鳴を上げた。

 空蝉は歪んだ笑みを浮かべたまま、もう一口酒を呷った。


×


「どうして俺ではないのです!」


 雷雨の夜、居間から聞こえてきたのは年が少し離れた兄の怒号だった。


 穏やかで気配りができ、座学も体術も、妖術の技能も優れていた兄。将来を嘱望され、八雲家次期当主として相応しい立場の兄だ。

 彼の怒号など一度だって聞いたことがない弟・八雲嶺慈やくもれいじは便所から戻る途中、雨がひどくならなければいいがと思いながら、鶴の一声を思わすその悲痛な叫びに眠気が吹き飛んだ。


 電気提灯に照らされ障子に浮かぶのは両親と兄の姿。兄は立ち上がり、拳を握りしめている。

 見ていては駄目だ。聞いてしまっては駄目だ。

 齢五つの幼いながらにそう察した嶺慈はそそくさとその場を去り、自室に戻って布団に潜った。


 元々は田舎を治める豪族、戦国時代には武将、そして江戸時代に至るまで武士であり妖術師であった家系の八雲家は、平安時代より続く由緒ある家柄だ。

 改修を重ねた屋敷は広く、嶺慈は己の部屋で鼓動が早鐘を打つのを感じたまま目を閉ざしたが、眠れなかった。


 翌朝、起きる時間になった頃にようやく眠気がやってきたが寝坊など厳格な父が揺るはずがない。古い家であるため未だ家長は父であり、最も恐ろしいのも父だ。同時に嶺慈は素直に両親を尊敬していた。


 だからこそ兄が屋敷のどこを探しても見つからないと聞いた時は、頭を金槌で殴られたかのような衝撃を受け、文字通りよろめいた。

 その後警察に捜索願が出されて周囲を捜査したが見つからず——事態の悪化を恐れた祖父は報道規制を敷き、妖術師であった兄の処遇は退魔局に委ねられ、その後妖術法規定に従い、正式に行方不明となるまで術師によって捜索が行われた。


 結局なんの手がかりもなく、唯一嶺慈に思い当たる節があるとすれば雷雨の夜の出来事だったが、それについては怖くて何も言えなかった。


 ——十二年近くも前のそんなことを思い出したのは、奇しくも雨音の中で眠ってしまったためか。


 揺れ動く電車の中で、肩と太ももに重みを感じた嶺慈はゆっくりと瞼を持ち上げてそちらを見た。

 視界に映るのは艶やかな群青色の髪の毛。視線を落とせば豊かな谷間を包む水色のキャミソールと膝丈まである黒のワンショルダー、太ももの重みは髪と同じ色の甲殻に覆われた太い尻尾が正体だ。


 肌の色は日本人らしい黄色のそれで、彼女は可愛らしく寝息を立てているがその姿は異形である。

 右の眼窩からは瞳ではなく角が覗き伸び上がり、両手は甲殻に覆われている四本指の、龍を思わせるそれ。


 然り。彼女は嶺慈の方に頭をもたせかけて眠っているのは龍族——嶺慈が住んでいた潤巳うるみ村の産土神の血を引く、その名も潤巳水奈萌うるみみなもである。

 まだ神格には至らず、あくまで妖怪である彼女は己の性別をはっきりと自覚していない。ずっと川で母と姉妹と暮らし、幼くして父を失っているために男を知らないのである。


(そのうち変な男に騙されるぞこいつ)


「間も無く燦月学園町さんげつがくえんちょう、燦月学園町でございます。お出口は向かって左側です。お荷物等お忘れないようご注意ください。繰り返します——」


「起きろ水奈萌。着くぞ」


 嶺慈は呆れつつ、水奈萌を起こす。赤い左目が嶺慈を見上げた。瞳孔には同心円状に線が走り、二重の輪になっている。


「んあ……朝ですか」

「もう昼だ馬鹿」

「日曜日は昼まで寝てていいってお父上も」

「今日は火曜だ」

「あ……すみません、普通に寝ぼけてました」


 水奈萌は口元のよだれを異形の手で掴んだハンカチで拭って、伸びをした。

 豊かな胸がぐにゅりと形をかえる、所謂『たゆんたゆん』を、周りの客がチラチラ見たり凝視したりする。

 嶺慈は七歳の頃ある事情で彼女と出会い、以来一緒に暮らしている。

 妖怪は人間に比べ寿命が長く、既に今の二十歳そこそこくらいの姿だった彼女は思春期の頃には目に毒でしかなかったし、未だにドギマギするが、先述の通りの事情で彼女はそれを気にしない。


「学園ですか。なんともまあ不便なものですね、人間って」

「俺も人間だけど我ながらそう思う」


 電車が原則し、慣性の法則で嶺慈は水奈萌に寄りかかってしまう。彼女は優しく抱き留めた。

 胸が当たっている。


「っ」

「どうかしました?」

「な、なんでもない」


 嶺慈は慌てて離れ、停まったのを確認してから立ち上がった。顔が熱っているのを悟られないようさっさと歩き出した。

 荷物の類は業者が既に寮に運んでいるので、嶺慈たちは携帯や財布などだけを持っているくらいだ。斜めがけのポーチ一つで十分事足りるし、水奈萌に至っては鞄の類すら持っていない。


 丈の長いワンショルダーから伸びる肉感的な足、剥き出しの肩、首筋のあたりにはところどころ鱗があり、彼女が人外の龍族であることを物語る。


 方や嶺慈は既に学園の制服を着込んでおり、ブレザータイプの黒いジャケットには青い差し色で多少の装飾が施され、左胸には青い学園章が縫い付けられ、同じく青いネクタイを締めていた。

 二人は——妖怪も人型でいる時は一人二人とカウントすることがあるが、水奈萌の場合龍なので一頭というカウントが正式なそれだ——電車を降りて、雨が降るかびっぽいコンクリの香りが漂うプラットフォームに降りた。


 嶺慈は折り畳み傘を取り出し、一つを水奈萌に渡した。駅を出たら差さなくては。


「都会って、なんか……独特な匂いがしますね」

「人工物の匂いって感じだよな。間違ってもいい匂いじゃない」


 改札を通って歩いていると、突然悲鳴が聞こえてきた。


「ひったくりよ!」


 犬妖怪の若い女性がそう叫んだ。

 嶺慈ははっとしてそちらを見ると、明らかに常人ではない速度で走り去る人影。


「水奈萌、ここで待ってろ!」

「えっ、あ——ちょっと!」


 駅を飛び出した何者かを追い、嶺慈は強化術で身体能力を上昇させて走る。雨粒が痛いくらいに皮膚を叩くが、相対的に表皮も硬化しているので大したことはない。

 歩道を超えて車道に入った人物は往来する自動車に怯むことなく底を抜けていく。クラクションと急ブレーキのスキール音が撒き散らされ、自動車の接触事故が起こるが死者が出るほどのものはない。


「たかがひったくりでなにをここまで——」


 事故った車を通り抜けてひったくりを追うと、そいつは降下道路下の脇道に入った。

 そして道路下の公園で立ち止まり、肩で息をしているところに嶺慈は声をかけた。


「手こずらせやがって」


 どちらが悪党かわからないセリフが、これまたどちらが悪党かわからない声音で漏れた。


「な……てめえ」


 そいつは化け狸の男だった。若く、一尾で手にしているのはブランドものの高級品。

 嶺慈はそれであの女性をターゲットにしたのかとあたりをつけた。


「ひったくり程度のために随分と必死で逃げ回ったな。目的はなんだ」

「食ってくためだよ。力も学もねえ俺が食ってくにはこうするしかねえんだ」

「こんなに体力があるんならバイト先くらい見つかるだろ? カバンを返して自首しろ」

「うるせえっ!」


 男がカバンを放り捨て、足を肩幅に開いた。腰から一振りのアウトドアナイフを取り出し、順手に構える。

 嶺慈も構えを取った。

 右半身を前方に出し、左半身を引いた構えだ。右の拳を握り込んで、左手はズボンに付属させた小型ポーチから引き抜いた式符を挟ませた。


 嶺慈は背負ったポーチとズボンのポーチにそれぞれ式符をはじめとした術に使う呪具が押し込んである。

 彼自身は生まれ持った術式——いわゆる先天術式を持たない、大半の凡庸な妖術師と変わらない土俵に立っているが、だからといってそういった使い手が弱いのかと言えば、決してそうではない。


「お前にわかるかよ、親も寄る辺も、力も学もねえ俺ら弱小野良妖怪の苦痛が!」


 男が姿勢を低くして突っ込んできた。

 嶺慈は指に挟んだ三枚の式符のうち一枚に妖力を込めて結界を形成する。

 ガキンッ、と音を立ててナイフが阻まれ、狙いが上に逸れた。


「だからって犯罪が許される免罪符になるかよ」


 結界を解除。つんのめるようにしてよろけた顔面に右拳を叩き込み、左の肘を顎に打ち込む。

 たたらを踏んだ化け狸はナイフを逆手に構え直して直上から振り下ろし、嶺慈は再び結界を一枚張って防いだ。


「くそっ」


 ぎちっとナイフの刃が軋み、嶺慈は身を引きつつ結界を解除した。

 目の前にまろび出るようにして姿勢を崩した男の脇腹にボディーブローを打ち、胃液を吐いた顔面を掴んでそのまま地面に顔面から叩きつけた。

 すぐさま残った式符に妖力を練り込んで鎖——〈封神縛鎖ほうしんばくさ〉を顕現すると、それで両足を縛り上げて拘束。


「畜生っ、この、腐れ妖術師が!」


 牙を剥いて暴れる男を見下ろし、嶺慈は落ちていたナイフを拾い上げた。


「警察でしっかり説教されて来い。俺みたいなガキが何を言ったって神経を逆撫ですることしかできないだろうしな」


 化け狸は歯軋りし、掌で土を掻きむしった。だが鎖の頑強さを前に抵抗はできず、やがて諦めたように力を抜いた。

 嶺慈はエレフォンで警察に通報し、男を監視する。項垂れ、悔しそうに表情を曇らせている。


 力のない野良の弱小妖怪は、彼らを扶助する団体もあるにはある。だが活動資金の横領などを目的とした運営実態の知れぬグレーな団体や、妖怪売買組織の下部組織などの隠れ蓑などもあり、信頼度は低い。

 無論中にはしっかりとしたものもあるが、妖怪の中にもそういった団体に不信感を持つ者は一定数おり、それが人間への、ひいては人間社会への根本的な懐疑につながるケースさえあった。


 人間と妖怪の融和は完全ではない。


 だからこそ妖と共に生きる術師がその間を取り持つ関係として、相互の社会を脅かす負の因子を取り除かねばならないのだ。

 たとえそれが一方からの恨みを買うことになったとしても。


 やがて遠くからパトカーのサイレンが近づいてきて、嶺慈は制服についた埃を払い落とした。

 諦めたような化け狸は最後まで抵抗することはなく、警官に連行されていくのだった。


 嶺慈は入学早々暗澹たる思いが去来するのを、どうにもできずに頭を掻いた。

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