人間の痛覚は一箇所にしか集まらないらしい、複数箇所の怪我の場合は、その中で一際傷ついたところだけがよく痛むという。
いつもより丁寧に髪を巻いて、幾度もアイロンがけした制服に慎重に腕を通す。退屈な卒業証書授与を過ごし、諸々の関わりで集合写真を撮って、忘れ物をした校舎に新たに忘れ物を作って、呪いのようなポップチューンが犇めく打ち上げ会場で空気を読み続けて大森靖子は歌えなかった。3/1がついに終わってしまった、体力も気力も力尽きて制服も中途半端に脱ぎ散らかしてベッドに突っ伏せながら好きでもない(愛着はあるのかも)カップ焼きそばと買って来た箱に入ったままのケーキを貪り食う。悲傷、憂愁、とりとめのない喪失感と並行して空疎な陳腐さが身を襲う。たたみかけるようなカップ焼きそばの塩っけがさっきまでの涙の甘さを打ち消す、いつも式典では泣かないと決めるのに、最後の最後で殺しきれない嗚咽を住み慣れた7帖の自室で嚼み潰すのがどうもお決まりになってしまっている。加えて、だいたい涙の理由が不本意なものなのが定番化してしまっている。情けない。みんながみんなの晴れ舞台で、特別な人なんていないからこそ一番幸せになろうとするのが人間の性で、あの子は欲しい、あの子はいらん、そんなんで作り上げた帝国の集大成の賞味期限が1日でももう会わないしどうでもいい。人間の一番汚いところに触れ続けた気分でもう最悪、お口直しに食べたいフルーツもない。添加物と一緒に口紅も食べちゃってて、マスクの下だけバームが湿ってる。「幸せになりなよ」なんてセンセーに言われたけど、幸せの成り方なんて18年間生きてても分かんない。お金を使えば欲しいものは手に入るし、セックスすれば気持ちいいし、所詮他人は他人なので『口ではなんとでも言える』、幸せの基準が大規模過ぎるのか、私が貪欲すぎるのか、どっちもだろうしどっちでもない。幸せってなに。あなたの幸せは?寄せ書きに記されたこれからも主人公であり続けてくださいの一言、オフレコ多めでもオッケー?きっとわたしの多感(多感なんて言葉は使って欲しくないんだけれど)だって在り来りで、映えに慣れてしまった学生達は演出と誤魔化すことを覚えてHUJIで思い出を切り取る。SNS世代の私たちはいつだって欺瞞と狡猾に溢れていて、塗れていて、それが本物だって信じ込んでいる。何が正しくて何が悪いかはすべてインターネットが教えてくれて、大人は狡く生きることが当たり前らしい。制服の同級生と深夜にドライブをして、温泉に浸かった。『幸せっていうのは納得することよ、自分で実感して、確かめる。』ぽろりと、ぼとりと、湯舟の底に沈めた言葉がゲルマニウムと溶け合ってゆらゆらと蠢く。日々生きているだけで価値があるのだと、貴重なのだと、それを幸せの糧にしろと、説く大人がとても苦手だった。冷えきった広々なフローリングも、機械的に温められた冷凍食品も、趣味じゃないフレアスカートも、ないよりはマシ。クラスメートの親友はとても家族と仲が良くて、行く先々で家族に写真を送り、綺麗な黒髪は毎朝ママに結ってもらうらしい。他人の男と、責任者の女と、私で構成されたLINEグループは、まだ紙1枚と左薬指の4gが3人の共通性を維持していた時からあったけれど、一度も動かされたことがなかった。いつ退会したんだっけ。そうだ、私が携帯の移行に失敗してアカウント作り替えたからだ。グルチャアイコンの初期画像のマカロンを眺めて学べたことは、終わりのない永遠なんてない、ということ。何でもない日に買うチョコレートも、吐き出す壺代わりの煙草も、君と私が同じ運命を辿ることも、期限があって、当たり前のことだけど酷く他人事のようで。でもモノは違う。グッチのコレクションバッグ、修学旅行のお土産に買った青く澄んだスノードーム、アルバムの中で引き攣り笑いをする君、外に出さなければ失くすこともないし、壊れたら修理できる。今の時代、通販でだいたい買い直せちゃうし。短い永遠を大切に守ること、これは至難の業で、ぬいぐるみと色とりどりの服と黄ばんだ本に囲まれることでしか安心できない私には結構向いていない。円周率だって終わりが示されて、時は金ではなく、時の使い方によっては金になるというだけの話。更に要領に欠けているのですぐに忘れてしまう。思い出せなくなる。消えてなんかない、消えさせてやるもんか。本当は人との関わりも、感情も、愛も、私の、私だけの『大切』なのに、器官の欠陥なんかを言い訳にしたくないよ。だから書き留め続けてる。短い永遠を無かったことにしないように。初めてピューロランドに連れてってもらえたあの日、横浜駅のポルタからのエスカレーターで登りながら顔を合わせたあの日、せめてあの時の私は幸せだったし、愛に満ちていた。結果ばかりを追い求める日本、そうじゃない人もいるけど大半がそう、そうじゃない人を探す方が苦労するから大人と呼ばれる人間は結果を出さなきゃならない。18歳。既に婚約を済ませた友人、子供を育てている知り合い、起業したあの子、1人で転居届を市役所で受け取る。毎日欠かさずに勉強しても国公立組からMARCHになってしまった女の子も、「なってしまった」と言われる。彼女の努力は何よりもかけがえのないものの筈だろう、多分、客観だけど。そんなのみんな分かってるし本人が一番わかってても苦しい。声を大にしていいたい、『私は幸せを保存して、満足したいわ。』私の大切なんて、他人にとっては当たり前なのかもしれないけど、それじゃだめなのか。駄目なんていう人いない。でも社会がそれを見なかったことにする。やるせないよねえ、ほんと。幸せに生きたい。みんな誰しも思ってるのにココ最近の世の中はなかなか叶えづらくなってると思う。形容しがたい幸せじゃ世の中を渡れないから、受験するしインスタ載せるし不幸になる。資格もbioも武勇伝も何も凄くないのに。出来事の全てはあらゆる主観を合わせたらすべて同価値なはず、選り好みするのは個人の自由なんだけど、全てがあるのに全てを選べないのが私たちだ。もうそれはどうしようもなくて、そこで幸せになろうと取捨選択することの何が悪いのか。だって自分の身がいちばん可愛いから。顔は可愛くないけど。そうやってないと生きていけない。私の幸せってなんだろう、多分、今のところは、終わったものも、止まったものも、忘れないこと。
私はドライフラワーが嫌いだ。花は気高く瑞々しく咲き誇り、一瞬にしてその生を全うして堂々と散るから美しいのであって、抜け殻になってしまった「不完全体」を飾るのはどうかと思うからだ。ブリザーブドフラワーがどうとか、そういう話は置いておいて。ドライフラワーは花から水分を奪って作る、その過程は至極残忍で、鮮やかさの褪せた花を飾ることを厭うのは死体を連想させるからなのか、平然と命を刈取る人間が怖いだけなのか、どうか死ぬのはきみだけでいい、私の大切なあなた達にはきっと生きててほしい
オシャレな流行りのカフェに入ると、何処かの誰かのバースデーサプライズソングが流れて、店の照明が落とされた。しかも三回。私たちが何気ない1日を過ごす間にきっと誰かは大事な記念日を過ごして、私たちが何気ないステーキをたいらげる間に誰かが幸せになって、店に集まった他人が他人の尊さを祝福する。
温く閉じ込めた週末の路地を野良猫がそそくさと横断する、キラキラした夜は草臥れたオッサンが生み出したそれで、それがなかったら私は救われていないし世界もゲームオーバー。私は選ばれなかった子供だったらしい。ストッキングの上から撫でた肌が通気性悪すぎたから新作のリップでマウントとってかないと生きていけないっぽい。クラッチの中で潰れたメロンパン、君は死んでも凋まなかったのに。死ぬことだけが平等。そんなことにすら気付かないフリをして生きていかないといけないのは、あまりに人間が脆いから?
裏を返せば人間は生きている限り勝つか負けるか、選ばれるか選ばれないか、産むか廃れるか、愛するか享受するか、どちらかしかない。優劣がつくのが当たり前で、せめて私の生きる日本の大部分の世間はそうなんだろう。体育祭で長距離リレーを押し付けられる、席替えであの子の隣になれた、私は私を好きにならないあの人のことが尊くて仕方ないし、屋上から飛び降りたあの人が口ずさんでいた歌の題名はいまだにわからない。なんだかそんなことを考えていたら"死"そのものは平等だろうと、"死のタイミング"は不平等だよなあと、そう思いながら点滴に繋がれた親戚のお見舞いをする。カリウム補給剤が漏れた拍子に出来たどす黒い痣の淵が滲んでいて痛そうだった。こんなに分厚い掌でも、だからこそ、生きていられるのだなあと、そして死ぬのだなあと、少しだけ怖くなって再従姉妹の坊やを撫でてやる。18年も生きてしまった。全然あっという間なんかじゃなかったはずなのに、人間というよりは私は馬鹿だから時間を忘れようとしている。思い出だけが残ればいい。思い出じゃなくて実在が欲しい。マメな人間でも几帳面でもないから、私が過去に生きていた証なんて、ブログと、裏垢のログと、ケロイド化したピアス跡と、財布の中のレシートくらい。ケータイの中の自撮りは加工されているし、昨日で作られた私の体も明日には昨日の体ではなくなってしまう。
ねぇ、変わらないものなんてのは無いし、あの頃の変わらないあれが好きだったなんて言ってもそれは少しずつ形を変えていだものだし、変わらないものを人は笑う
— ひみこ (@himiko_mi135) March 2, 2018
私たちはそれを受け入れながら生きていくんだよいつの時も
最近仲良くなったひみこちゃん。bisという雑誌で賞を貰った子。大阪の子。逞しくしどけない女の子。永遠にJKであってほしい女の子の一人。バレンタインにチョコを貰ったのだけど、開けてみたら魚のパッケージで、さてはヴィレッジヴァンガードだな?とニコニコしながら頂戴した。
私は白黒はっきりしていないと許せないタイプの人間だ、おざなりが許せるのは気の置かない友人だけ。昔は赤味噌しか飲まなかったからか、自毛申請を出しているのに頭髪検査を毎回させられているからか、どっちの血が濃いからかは分からないけれど。勿論、関東の血も流れているんだけれど。だからチェーンのレストランでは優柔不断を発揮しがち、オムライスでもハンバーグでも明日生きてく分には関係ないのにね。
友達なのか、セフレなのか、恋人なのか、他人なのか。だから感情に任せたキスなんて私らしくないのにな。キスをする場所でも意味が分かれてて、でもアレルギーは幾種類もあるのに処方薬はワンパターンずつなんだから、きっとどこに口付けをおとしても一緒なのだろう。なんだか興醒めだ。生きるか死ぬか、そのふたつだと思っていたけれど、案外生の反対語は死じゃないのかもしれない。生きることも堕落することも全て死に直結していて、どんなに人生を世間への貢献に尽くしても、ひきこもりながらリスカしても、軽犯罪でボルテージを有耶無耶にしても、人はいつか死ぬ。なにをしてても人は必ず死ぬ。それはだれかにとっては救いでもあるだろうし、誰かにとっての絶望でもあるだろう。中途半端を嫌う私、絶対を愛して絶対に生きていたい私にとっては、「必ず死ぬ」というのは本トなら凄く都合のいい現実な訳だ。確実で揺るぎない絶対。ネズミの国を作り上げたあの人は今も冷凍保存されてて、不死身の方法が確立された時に解凍されるなんて都市伝説があったりするけど、せめてもいまは不死身なんてできないらしいし、ただのいちJKだった、そしてJDになる私を冷凍保存で不老不死が可能になるまで取っておく、程、私に価値がないことは自覚済みだ。「ゆすらは自分に自信がなさすぎるよ」とか言われるけど、私は充分に自分の身の丈以上に生き過ぎていると思うし過信している方だと思うのだが…まあ割愛して。私たちに永遠なんて本当はなくて、ウィリアム・ギブスンの言葉を借りれば『僕らの短い永遠』を私たちが掌握できていなかっただけの話なんだ。高校生は無限に続くと思っていた。阿呆な話だけど、ずっと私たちはそう思って生きていた。無敵で、素敵なまま、いつかプツンと真っ暗になると思っていた。核爆弾のように。
でも勿論現実はそんなわけがない、神様なんて多分いない。ただの運の巡り合わせが世界を構築している、気づけば賛美歌380番を歌って、気づけばコサージュの花たちは枯れていた。時は止まらない。私たちは止まったつもりでいても足元は自動運転している。呼吸は吸って、吐いて、循環してるつもりだったけど、人間は何かを摂取し続けて排出し続けないと生きていけない。一方通行で、そうやって人を愛する。よく考えたら、人間の行為で反復だけで満足してるのはセックスの出し入れくらいじゃない?(笑)進み続けないときっとダメなんだ。本能的に。私たちは繁殖し続けて種を絶えさせない為だけに産まれている。そういう「生命力」の強い種を選び抜いて更に生き延びる。拓殖、品種改良、デザイナーベビー、よく子供が親の人形だと、アクセサリーだと嘆いているけれど、(私もそう思っていたし、今もこの喩えは覆ることは無い)本当は親の趣向ではなくて、親の本能によるものなんだと思うよ。だから、アクセサリーとかじゃなくて、生理用品。ブランドがソフィかロリエかそれだけの違い。吸収力をとるか、通気性をとるか、でもやっぱりどちらもあれば愁いなし、じゃないか。ないのは困るし、そりゃあ機能性に優れててほしい。人によって使い心地の違うナプキンなんてポーチに忍ばせたくないし、いざって時に人に貸しても文句がつけられない、そういうモノの方が便利だ。結局。下品な(本来は下品というべきではないのだけれどはしたないと思う人間もいるのだろう、くしゃみの特効薬の話と大差ないと思う)例えになってしまったけれど、とにかく私達はなくてはならない存在ではあるけれどポンコツなら存在する意味がなくなってしまうのだ、人間は変化する。適応はマンネリ、人間は飽きることを恐れている。この世界を終わらせてはならないから。この世界を見切ってしまったら酸素しか取り込めない私たちは逃げ場がなくなってしまう、その時には、私たちは静かに澱んだ沼に沈むように、全てが無に還る。エラ呼吸できたら人生違ったかも。でも水太りは嫌だしな。残念ながらそういう理屈を考えていきますと私は人間の負け組のようです。スクールカーストを生き抜いても、受験戦争を勝ち抜いても、私は子孫を絶対に遺したくないし死にたくない。いや、死にたいのは死にたいんだけど。死にたいっていうよりは、終わりにしたい。なかったことにしたい。死なんて身勝手な遺失物を他人に兎や角弄られたくない。私は私だし、私の死は私のモノだ。生きている限りは私が私を蹴りつけられるけれど、死んでしまったら遺言に託けしておかない限りは私の死体は勝手に火葬されて勝手にも葬られてお墓に入れられるのだろう。正直、死んだ後のこの世なんて知ったこっちゃねえし、そこまで気を回すほどこの世界に好意もなければ後腐れもない。ほっとけばいい。そうやって見離されたらずっと楽だったのに、地球温暖化が進んだせいかどうにも他人にお節介な人間ばかりだ。それが利己的なお節介だったとしても、慈善的なお節介だったとしても、もう人間は何を施しても全て自分勝手になるんだからいい迷惑。死にたくない。私が日常的に口にしている死にたいは言葉違いで、本来は消えたいが正解、ぶっ潰したいじゃダメ、質量ゼログラムじゃなくて、測定不可能の方が安心できる。分からないものは分からない。人間には生きる目的があってもそれは手段にはならないから、やるせないもんだ。生きる手段を熟考することが、私たちの哲学なんだと思う。「哲学なんて嫌いだ、ウジウジ考えても答えのないことに踏み止まるなんて時間の無駄だ」と某は言った。(名前を伏せろと強く言われている)哲学の答えなんて(いるとしたら)神様しか知らないことだ、哲学なんて所詮幾ら筋道立ててもどれだけの大多数が賛同してくれるか、が正義の世界で(だって人間が平等だと道徳で教わったから、その通りに考えれば人間の真理の推測を人間如きはできない、働かなくても学ばなくても人は平等で誰しもがかけがえのない存在なのだろう?)、やっぱり答えはないと思う。答えが出たらそれは己への信望だろう。ここまでも私だけの信望かもしれない、答えは出ないと疑わずにのうのうと生きていきたいだけかも。そうやって生きていたから。でも、哲学を深めるのは悪いことじゃないと思う。それでEDになったら意味ないかもしんないけど(笑)どうでもいいからパターン化して処理しておきたくて、大切なことはけじめが付けられない。怖いだけかも、取り返しがつかなくなることが。人間が痛みなく消失出来るようになったら、少しは変われるかもしれない。(痛みは馴れててもしんどいものだ)
ただ、不変に愛していてほしかったし、私たちはこのまま立ち止まってしまいたかった
綻びを繕う為の宝物、自傷のようなセックス、暴力は甘露だと君はいう、牛乳も煙草もドラッグも全部ただ満たしたいだけ。埋め合わせたい何かは、分かったようで解らない。人それぞれの自由もポルノ規制される前。幸せが覚束無くて、潮の匂いは羊水への回帰を彷彿とさせる。それでも、後戻りはできない。閉塞感、虚無感、焦燥感、そんな愚直な言葉で終わらせられない終わらせたくないハズの生活も関係も、形式だけがリアルなんて。
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映画の試写会に行ってきました。こういう記事を書くのは珍しいでしょう?「リバーズ・エッジ」という作品の映画です。人生初めての試写会でした。原作者は岡崎京子、「ヘルタースケルター」の作者としても有名なので、聞いたことある人は多い筈。ただ、(あくまで個人的な)インプレッションは、「ヘルタースケルター」がグロテスクでなによりもリアルな程の極彩色、だったのに対して「リバーズ・エッジ」はモノクロよりも欠けた、セピアに近い無色、という印象を覚えた。
映画を見終えてどっと、倦怠感と渇欲と吐きたくなるような衝動に襲われる、これをきっと大人は一服したい、という言葉に集約するんだなと他人事のように思う。その大人が刻々と迫る、18歳、私は卒業済の高校三年生で、そんな高校生に浸れるのも何日かあとの葬式で喪服代わりにするくらい。高校生というものは特別で、そんな特別は文部科学省が定めただけのつまらない監獄なんだけれど。本当は生きるだけなら殊更に無に等しくて、絶望も、衝撃も、思慕も、独占も。心と体が別物で、脊髄がひずんでるのかななんて疑っちゃうくらいには。幾ら手首を切ったって生きてるなんて実感出来なかった、無邪気に皮膚越しの私たちを重ねて谷間に滲んだ汗も、学校に行かないでショッピングセンターの裏に屯った事付も、全部私のことのはずだったのに、なんだか屋上から見えた海岸の電灯の方がずっと本物のような気がした。よくある地獄で、多分私のトラウマも好奇心も全部子宮の重さと大して変わらない。深く「何も無い」を縫い付けられた。何も無い街、何でも無いフィクション、何にもなれない私たち。不感症だとか離人症だとか恋人とか進学先とか、形づいたもので表される度に人でなしになった気分だ。それなのに、私たちは安寧に引き寄せられて、埋もれて、窒息死して、それが幸せだと、言うらしい。幸せって何だっけ?
スクリーンの彼女らを見て、どことなくシンパシーを感じた。何にも縛られずに自由に生きたい、性枠に囚われずに愛を貫きたい、愛することを諦めたくなくて、気持ちいいものは気持ちいいし、それを悪だと唱えるのは世間体で人類を滅ぼしてはならないから、なーんて、人類以外の誰も人類を絶やしてはならないなんて明言してないよ?まあまず人類は人類としか会話出来ないもんね、今の所は。未成年の喫煙が禁じられているのは法律で決められているから、法律はせめてその国に於いては絶対で、明記された理由は「健康上悪影響を及ぼすから」なんて、そんなの自己責任じゃない。それでも共存のためにルールは守らなくちゃいけないし、守らなきゃ人類滅亡しちゃうもん。
映画を見て、まず原作を買った。次に、ファンブックと呼べばいいのか、「Edge of Rivers Edge」という、20人以上の人が共通の「リバース・エッジ」という作品を通して考えたことや表現したいものを吐露するという本を購入した。読了済。
原作とはいうと、映画本編のぬるやかでじっとりと蝕む展開よりも、映画の途中途中で挟まるインタビューの方が、原作の雰囲気に近かった気がする。私としては、原作は、厳かで、いたいけなくて、カラリと乾いているのに厭に染み込んでくる、そんな印象を覚えた。岡崎さんの絵柄が思っていたよりもアッサリしていて、かつ鋭く心を刺すからか。刺すっていうよりはまち針を針山にさしていくような痛み、私たちはこの痛みを知っていて、知らないふりして生きていこうとしたのにそれを許さない。だってそれが生きる、ということだから。リバーズ・エッジは昼の世界と夜の世界の交錯、微睡み、その狭間で端っこ、はみ出しものと言われた少年少女が主役で脇役でモブ、矯正された青春なんていらないよ。昼間の校舎は人だらけなのにやけにがらんどうで、密度の歪んだ暗闇はどこまでも暗い青だから炎がよく映える。絶頂、峰巒、なだらかな海じゃ見えない欲望にも、きっと川辺なら届くんじゃないか、なんて思って。私の育った街には小さな川しかなくて、やけに舗装された橋から川の底を探す度に私は特別な女の子になれないと再確認していた。『惨劇はとつぜん 起こるわけじゃない』運命だと享受していた18年間、実は運命だって妥協してたんじゃないの?ハリボテの引き戸、君がいる教室だって引き戸だよ、恋の駆け引きもよく分からなかったし、特別なことをモノのように整理整頓する女が大嫌いで、前ならえもいつも先頭だったので、やり方をしらない。
物語には必ずモノローグがあると共に、エンドロールも必ず用意されている。『平坦な戦場』おわりのない、始まりもない、そんなわけがない。着々と、ジワジワと、括られた世界に外も内もない。死後とかあの世とかが信じるか信じないかの話で終わるように、表も裏もない平坦な戦場で、戦う相手も知らずに生きて、それでやっとひとつの「鱗片」になれるんだと思う。私たちの全てがメモワールで、同じように誰かも君もノンフィクション、インスタはあたし達のZINEだというなら、もうあなたの目に映る私は写実的フィクションの方が正しい。リバーズ・エッジもしっかりモノローグとエンドロールが於かれている。石油化学工場から立ち上る害悪な灰色。茶ばんだセイタカアワダチソウ。酷くくすんだ川は河口にいくほど、臭い。加工だらけの自撮りも、イッタいよね〜、ギャグじゃないよ。起承転結、波瀾万丈、それは面白いけれど、どうしてもそうであらなきゃいけないのか。出だしも〆も同じ言葉で構成されていて、街の色めきは常に一定を帯びている。街が没落しないように、私たちだってきっとすべてをなし崩しにする必要は無い。そんなのは、田島カンナの死体だけで、いい。ネクロでもポリテオでもぺドでもなんでもいいよ。でも、殺されなかった私たちは生きていかなきゃいけないし生き続けなきゃいけない。変わらないものと、変えられないものと、変えたくないものって、あるじゃない?取捨選択は知恵で特権。改札前でキスするのも君だけでいい。淵と縁、合わさることがなくても、ひとつに繋がっている。少女と少年も、いつかは女と男になって、でも最後は抜け殻、もはやもぬけ、蝉の五月蝿い季節ばかり記憶にこびりついている、リバース・エッジでは季節が流れていない。与えられた条件は「平成の初めのころの物語」。私たちは「平成の終わりのころの佳話」なわけだ。平成の初めはバブル崩壊に引き続いて公害問題、ビルに飛行機突っ込むしノストラダムスで死を発起する。私がまだ生まれてない頃のお話。大人が悲惨だったねえ、なんて嘆いているけれど、ちっぽけなディストピアは今となっては底抜けの無意識になっている。震災に津波で人が死に続けて、パワーワードは援交少女から家出少女になって、偉いぶった大人が決めたイケナイコトを掻い潜るように逃げた先で殺されていく。個人情報が厳格化してるのにヘッダーは卒業の集合写真で、君の笑顔はスクショ済。欲しいものが何でも手に入るようになったけれど、無秩序の中では幸せはもたついてしまう。平成の終わりを生きて、SEKAI NO OWARIなんて名前のバンドが売れちゃったりして、世紀末って人が描くイラストだってツイッターで無料で読めるし、なんなら漫画村にない漫画しか買わない。ちんけで安価で、それが賢いと言われる。インスタ映えには矢鱈お金かけるくせに。安っぽい友情、安っぽいkawaii、安っぽい愛してる。頭の悪い私でも、終わってるなって身に染みて分かるよ。「平成の初めの物語」90年代が焦燥の予感なら、新10年代は諦観の懐疑。こんなはずじゃなかったのに。こんなじゃだめなのに。もっと、もっと、でも、結局。叫んだことを褒めてくれる人はいても、叫んだ後処理は誰も出来なくて、自動販売機のゴミ箱にポリ袋突っ込むみたいに、私たちは自分らしい生き方に囚われてる。主体性とか個性とかもなくちゃいけないものだって急に言われても、お手本通りに解かなきゃ赤ペン先生は丸くれないから、いい子じゃない子はいらないから。バブルがパチンと弾け飛んだあとの停滞は終わらなくて、きっと平成が終われば東京オリンピックがあるから救われるんじゃね?なんて安直だな、ほんと、百均で一人暮らし用品揃えてる位には安い女だな、本ト。平成30年、タッチパネルで生きる証拠を残せる時代になる。こんなにもだだっ広いインターネットの海に放られてるのにどうしてこんなに苦しいのだろう。きっと溺れてるのよ、自分に酔いしれて。iPhoneでさえ水没しなくなったのに。平成は、たしかになにかを壊し続けてないとダメだった、自暴自棄に妊娠したルミも、好きな人がいてもおじさんとセックスする太郎くんも、ハーブでドロップアウトしていった観音崎くんも、どこかで見た気がするし、どこまでもよく知っていて。そういえばいつの時代も歯車のダイアルはセックスなんだなと至極生物学的に当たり前なこと言う。平成は本能と理性の追いかけっこで、読むのもダルい法律やら校則がちょい足され続けてるせいでもう逃げ場を失った、きっとかくれんぼができなくなった本当にその時に、年号は変わって、でも私たちは死ねなくて、その時はどうなってしまうんだろうな。
ろ過した感情は単純なハズなのに、言葉がつまって死にそうになる
会いたい時にすぐに会えてしまうのがこのご時世で、SNS一つ繋がっていればいつだって生存確認ができるし会話ができるし君にだって会える。でも所詮SNSしかしらないからSNSでブロックしたら終わる世界が私の分岐点、公衆電話からラブレター送れるなんて知らないしノーブランドのお財布にもテレホンカードは入ってない、便利そうで窮屈で、世の中に揉みしだかれてボロ負け、ブラジャーのホックがうまく外せない、夢に出てきた君、まだ私は生きていける?