何をしててもやる気が出ない、何をしてても人生が辛くなる。もういっそ飼い猫になって、毎日フローリングでゴロゴロしてても怒られない、そんな生活を送っていたい。飼われたい、これは割と昔からある欲求で、でもそれはただ飼われたいんじゃなくて、誰かひとりに熱狂的に愛されて、ついでに生活に困ることなく暮らせて持て囃されていても許される環境、に一番手っ取り早くて理想的で都合いいのが、飼われたい、なだけで、本当に飼われたら日本だとそれは監禁ってことになるわけで、そこまでのリスクを背負ってやることではないしそこまでのリスクを一緒に背負ってほしいような君は多分私とはそんなに大きなリスクを背負う自信も必要も覚悟もないと思うので、結局何が言いたいかと言うとそんな無駄な妄想も期待も辞めましょうね、と、そういう訳なんだけれどどうにも出不精で、Twitterに『1分間片足立ちすると3時間集中できる』とか書いてあったからやってみたら身体能力低すぎて20秒でコケてた。無駄な足掻きも全部早くやめたいんだけどなー。でもそれを求めるのは限りなく私で、本当に全てがゼロになったらそれはそれで辛いんだろうなあ。それすら気づけないくらいゼロになればいいけど神様はそんなに優しくないから、ほらこうやって今日も食べたくて仕方ないわけでもなかったロールケーキ食べてカロリー見て悲しくなってるし何してるんだろう自分こうやってる間に同級生はどんどん頭良くなってるんだろうしんどい、時間早く止まってくれ頼むから、とまた無駄な妄想を捗らせているわけで。もし神様が一つだけ理想を叶えてくれるなら、今の私と全てを逆にしてくれと願うよ。無駄に愛を持て余す女よりは、愛に寄り添えられる男だったら良かったのに。趣味で絵を描く人間なのでよく好みの男の子をルーズリーフに書き上げては辛くなる。女への圧倒的劣等感、でも女を酷使しないとやっていけない自分がいる、そして女だから許されることを甘んじて手管にして女だから許されないことに立ち向かえない。だから化粧だってするし髪の毛も巻くし曲線的パーツの色めく服の方がよく好む。「それが社会では優遇されやすいから」。もし私が髪を切ったらどうなるんだろう、一人称を「俺」にして? CHANELL'eauではなくGATSBYのワックスの青リンゴ、アイライナーの代わりの指先のささくれ、タイトスカートじゃなくてカーゴパンツを纏って、文書きよりもみんなでサッカーしようぜ!ここまでの男像は確実に私の偏見だ、案外男の方がもろくて繊細で丁寧なことを私は聞いている。そしてそれを発散するどころか発散という言葉に至ることが恥だと、そういう固定概念偏った常識がありがちで当たり前だから逸れることが出来ないようで。全部固定概念、だいたいの存在を、《パンピー》《オタク》《リア充》《一匹狼》《コミュ障》《ツンデレ》《陰キャ》《ギャル》《変人》《ぶりっ子》《メンヘラ》《オタサーの姫》《ヤンキー》《ガリ勉》《熱血》せいぜい6文字程度のジャンル分けにしたがる人間が、固定概念ゼロで生きているわけがない、それに気づいた私すらも固定概念でしかない、「女はこうあるべきだ、男はこうあるべきはずなのだ」そんなつまらないもの捨ててしまえよ!といえどもそれが楽なんだよ所詮男と女は別の種族、体の構造だって違う、それこそオメガバースの世界がリアルだったら男も女も差はなくなる(αβΩの違いは置いておいて)だろうけど、しっかり現代では女が孕んで男は種蒔するそういうシステムなので、いくらフェミニストが平等を叫んでも、レディーファーストなんて言葉が生まれても、その時点で「男が女に合わせてくれてる」ことには変わりないし、これに関してはあまり追及したところでもうどうしょうもないから人それぞれいろんな価値観があると思うとしか言いようがない。女が孕むから子孫繁栄できるんだ、女が上だ!って意見もあったりするけど、最近の研究で精子だけでもも子供が作れるようになったらしいねもう通用しないね困ったね。今度平等に仕立て上げたと思えば、セクハラ、パワハラ、男が「着替えの覗き、下から見るか?横から見るか?」とか冗談めかせば目くじら立てた女が「下劣な犯罪をネタにできる日本、ありえない」と批判立て、それはそうだろうけど、例えば、別に口に出して笑わないだけで女だって男に俗的な感情で諸々を発散してる人間もいる、その年齢層はたしかに幾分か男性陣に比べれば高いかもしれないけど、それだけで、寧ろ男の方がタチのいい下ネタが多い気がする。寧ろ「性犯罪の温床」に自ら立とうとしてるのは女性自身じゃないか???とも。別に発言の自由だ、そう思う人がいればそうと思わない人もいることは前提で、批判をしている女の人に、男の人が「そういうことを言ってられるほど日本は平和なんじゃないか」と言っていて。それ一理あるなーと。※でもそれを男が言うんじゃダメだけど。女の人によってはというか大半は不快な下ネタを言わない、といえど、私はそれは、「女はそういうことを言うべきではない」という固定概念がまた働いていて、女の子が抑制してるだけにも思えるんだけどなー。いだって言おうと思えば言えるけ言わないのはその程度なんだし、言っても得がないと言うなら、それは賢明な判断だけどそれは個人的な都合不都合なわけで、男はそもそもふしだらに下ネタをいっても「あまり問題なく生きていけた」人種なんじゃない?そしてそれを許したのは、男でとあるけれどやっぱり女なんだと思う、「許さざるを得ない」と洗脳されて。だからってそう言う下劣な犯罪まがいな下ネタ、を全男性陣が言ってるわけでもなく、なんならそう言う下劣な犯罪まがいな下ネタ、を話のネタにしてるような女もいる。案外出会わないだけで小学生の女の子とかでもぼそっと言ってたりする。のを、せめて女子校に通っていた幼い私は聞き逃していない。そんなもんだ。傾向として現代日本は男尊女卑なので、ま、多少なりその響きはある。同じ問題なことを言うのでも公衆の面前で何も考えずに発言する男子中学生、裏垢で同志とだけ滾る30代OL。周りへの配慮とかうんたらを見たら、まだ女の方がまともな状況かもしれない。結局は根本は同じかもしれないのだが。でもそれで女が男女平等を謳うなら、せめて同ラインに立たなくても抑圧もせず合わせもせず、ただそういう人もいるんだなで終わればいいのにね。わがままなんだよなあ。自分達は男性と同じ人間なのだ、変わらないのだ、というなら、そういう「下品なタブーなネタ」を公衆の面前で話すような男が目につきやすい「人間」と自分たちだって同じなんだよ、高飛車ぶってるんじゃねー
私たちがもし、卑弥呼の時代に生まれていたらどうなっていたんだろう。女が主体で、男は頂点に立たない世界。立てない世界。なんならそこの差がなくなればベストだけど、どうしても人間は優劣つけたがるから難しいんだろうなあ。あーあ。
(もちろんそういう破廉恥なことを言わない男や女が大多数なのはおいておいてのはなしね)
痛い痛い、なんて泣かないで?
配信中、「どんな曲が好きですか?」とか、「どんなバンドが好きですか?」とよく聞かれる。悩む。本当に私はなんでも聞くのだ。ドビュッシーからFrank Sinatra、正直Ed SheeranもハマっているしSEKAI NO OWARIのライブにもよく行く。夕陽が苦しい日は太陽族を聴くし、平井堅を友人とデュエットするのがカラオケの醍醐味、十八番は大震災復興ソングの「花は咲く」。渋谷をギャーギャー騒ぎながら跳ね回ってたあの頃は爆音で「Booyah」が流れていた。校内を歩きながら口ずさむのは「エウテルペ」で、夏だから「勹″ッと<るSUMMER」を何度もリピートしてしまうし、冬になれば「About me」をイヤホンから垂れ流す。今聞いてた歌は「サイレントマジョリティー」で、「Free Fall」を君に聴かせるのが夢なんだ。(君のすきな歌は知らない)
私の人生は音楽なしに語れない。音楽ができる訳でもないけど、どの思い出にもこびりついたテーマソングがあって、それを聴いている間だけは世界が固まる。だから時間が進んでることに気づかないんだけど。キッツ。
兎に角、どんなジャンルの曲も聴くのだ。シャッフル再生は、しない。
でも敢えて、どのジャンルが一番人生を目覚めさせて、狂わせて、導いてくれたかと言うと、「VOCALOID」だと思う。私の自我が目覚めた時からVOCALOIDはそこにあって、私はたかが17年の功、VOCALOIDは10周年、目が死んだのが小学四年生のときだから、8年間常に寄り添ってきたジャンルがVOCALOIDだった。多分、ジャンルとして確立された年数分と自分のジャンルとの親しみの年数分との比率差が一番小さいのがVOCALOIDなんじゃないか?クラシックとか言ったら、もうウン世紀分も差が生まれてるし(笑)
バイオリンを年少の頃から嗜んでいたので、クラシックの方が身の回りにあった環境は長いんだけどね。勿論、クラシックも良く聴きたくなるし私のリストにもぎっしり"四季""ノクターン""運命""交響曲""Ha・lle・lu・jah"…最後のは冗談ですってばー。メサイアってことで。そうそう、幼稚園の時の私の好きなアーティストなんて、葉加瀬太郎だったんですよ?ふふふ、時の流れは残酷ですね 今でも最低に心地いい朝なんかは、「Asian Roses」に身を任せるときもあります。大抵そういう朝は脚を挫く。
VOCALOIDの無い時代に生まれていたら、私は私じゃなかっただろうなというくらいにはVOCALOIDの影響が大きい。さっきから壮大過ぎるifが多くない?打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?の残響ですか?因みに私は花火は上から見ていたいです。どこかでもこんなことを言ったような…。別に私は作曲家ではない。むしろ歌詞は作れるしリズムは出るけど、その曲調を書き起すのができない。からそういう直接的な影響ではないのだけど。VOCALOIDから派生して、誰だって表現を興せることを知った。美しい絵で世界を具現化できることを知った。フレーズで人の人生観を変えることも知ったし、粋な言葉遊びの面白さを知った。箱庭で生きてた私は決まられた勉強しか知らなかったから、動画を見て考察をして、「答えがない(本人の中でしか分からない)」ということも知れたし、私の知らない世界が溢れているということを痛感させられた。VOCALOIDなんて所詮、人の作る音楽で、いくらでも捏造はできるし書き換えることも出来るのはわかっていたけれど、ゼロから1を生み出すことが不可能なことくらい幼い頭でもわかっていたので。オタクとか、そういう概念ではなく、ただ「表現としてのジャンル」として圧倒的に富んでいて、私に多大な影響を与えた存在なのだ。
「メルト」で恋というものがこの世にあることを知った。「天ノ弱」でどう足掻いても埋め合わせ出来ないものが確かにあることを分かった。「千本桜」はつまらない女子校生活のレジスタンスの切り口だった。「はちみつハニー」で別の道を歩む寂しさを知って、「Leia」は私が私になる生の起点。ネットに強い萌え声のとても可愛い友達が教えてくれたボカロの「ウミユリ海底譚」でこういう(ミクの声の)調教もあるんだなあと感心した。「終点」と「地球最後の告白を」はまだ気高かった15歳の終止符。
「廃景に鉄塔、「千鶴」は田園にて待つ。」で陶酔して、何も考えたくない時は「崩れゆく世界にさよならを言う僕は」をよく流していた。「愛迷エレジー」「夜咄ディセイブ」「1925」「ドーナツホール」「リバシブルドール」にやるせない思いをぶつけて、クリスマスが近くなれば「金の聖夜霜雪に朽ちて」を聞きたくなってしまう。「ダンスナンバーと共に」でちょっとだけ背伸びしてみたりして、自暴自棄になると「ローリンガール」を聞くのがお約束。
ここまで書いて、別に曲知ってますよ自慢とかではなく、ただ私の人生にこれだけの音楽が強く関与して影響を与えたことをまとめておこうと思ったのだ。なんなら、5年間以上初音ミクprojectDIVAarcadeという音ゲーが一番得意だし、お家の箪笥には初音ミクのフィギュアが陳列されている。初音ミクの曲を題材にした小説も数多く購入した。私が単語の掛け合わせに感銘を受けたのもVOCALOIDの曲が題材の小説文で。初音ミクのイラストを何回書いたことか!初音ミクはわたしの青春を抽象して形象してくれた。それにどんなに助けられたことか、救われたことか。
多分、それ自体の役割は初音ミクじゃなくても、Jpopなどでも代用できたのだろうけど、それ以上に初音ミクは私にとって魅力的すぎた。超ロングのツインテールというプロポーション、誰でも曲を作れるという「人目を気にしない」エグい直球な、それでいて感情が生きたボーカロイドプログラム。曲々に応じて様々な解釈で出来た摩訶不思議なそれぞれ独自の、その上きちんと原曲へのリスペクトも施された世界観のイラスト、漫画、小説、動画、DJ、MMD、造形師、歌い手、踊り手、演奏、コスプレイヤー、エトセトラ。所謂お嬢様校で刺激からは程遠い世界で窮屈に生きていた私には刺激が強すぎて、眩しくて、かっこよくて、憧れて。世界が広すぎた、その世界を知りたいと思った。影響が大きすぎた、いい意味か悪い意味かは見る観点でガラリと変わる、影響。思春期の私への教育に近かったのかもしれない。ボカロがない人生なぞ考えられないというくらい、ボカロへの愛着が大きい。全部、前記の言い換えだけれど、本当に力説したらキリがないくらい強調していきたいのだ、初音ミクが筆頭としたボーカロイド文化というものがどれだけ多大なもので力を秘めていたかということを。
それでもボーカロイドが出来て10年だ。流石にもう最近のボーカロイド界にも衰退を感じていて、ボカロ古参厨のボカロpや歌い手などが次々と行方を眩ませて、私の大好きだったボカロpもネット世界から足を洗ってしまっていた。「初音ミクの消失」がリアルになるのも近いかな、と思っていた。その時に、砂の惑星が配信された。
知らない人のためにメモっておくと作曲調教は「ハチ」さん。アーティストの「米津玄師」さんと同一人物だ、あの「打上花火」の作曲歌唱をしている、男の人。
私は「ハチ」さんとしても好きだし、「米津玄師」さんとしてもこの方の歌が凄く好きだった。ファンとは言えない程度しかこの人を知れていないけど。謎解きのようなのだ、散りばめられたワードを拾い集めて一体何を見ているのか、推測して憶測を立てて答えのない道をさ迷う、楽しさがあった。
でもそれをやっていて、家からでないとなかなか人の意見が聞けないのが「音楽」で、分かり合えるのも友人と話したりライブやクラブハウスで仲間と話したりする上で、という段階が必要だった。
そして私もそこまでの手間をかけるほど夢中なジャンルの音楽があったわけでもなくて
でもボカロは違った、ニコニコ動画を見ればコメントでたくさんの人の「その曲への」意見や見解を見れる。楽しい、面白い!更にそこに自分の予想を筋立てて組み合わせて、果たして答えなのかは定かではないがぼんやりとしたバベルの塔の霧をほんのりと晴らしていくのだ、それをするための手間なんてニコニコ動画を開くくらいだ。それだけでどこまでも世界が広がる、関連作品だって、その作品へのアンサーソングだって、また別の目線からの作品だってすぐに見つけられるし、せっかちな私には凄くやさしいコンテンツだった。
それを暫くの間忘れていた。ボカロが停滞して、私もほかのジャンルの音楽を聴き漁っていたから。(もともとなんのジャンルでも聞くので)でも思い出してくれた、あの楽しさを、閃いた時のゾクゾクを。今日、ミクは10周年を迎えた。10年後も、私たちの世界をうつ(く)していてくれるかな。
勉強中に流していた音楽もボカロだったし、私にサブカルチャーを教えてくれたのもボカロだった、たった3分間の詩で幾重もの想像が膨らむということもボカロで知った。所詮ボーカロイドは楽器だ、あくまでも萌えキャラが添えられた、人声楽器、肉声じゃなくても人の感性を超えていけるのは、ボーカロイドしかない。
戦うことが大切なんじゃなくて、戦う「勇気」が大切で、すなわち生きていく力を奮っていく、その癒しの一つが、VOCALOIDなの 私はVOCALOIDの責任者でもうp主でもないけど、本当にボカロに出会えてよかったなあと思う
9/1は青年の自殺件数が一番多い日らしい。分かるなあ。別に私は学校が嫌で死にたくなるんじゃなくて、やるせないまま終わった夏休みの後になんとか希望を見据えて起きられない朝を無理矢理起きて残っていた学校は全然つまらなくて。「あ、学校ってこんなにちっぽけだっけ」って思うとじゃあどこへ行けばいいんだろうってなる。趣味?特技?義務?容認?どれもこれも飽き足らないの、一学期とは違うの、なんで、何も違うことはしてないのに!!そこでそんなものだ、で受け入れられたらそれは幸い、それ以上にハマれるものを見つけられたらそれもアリ。でもそんな簡単に見つかってるならこんなに苦労しないし今頃人生設計全部作れてるって。見据えれるほど自分が順調に行く気がしないから終わりだけを提示してある。「48歳で死ぬ」。
(YouTubeの私のPR動画のコメントに、『ほんとに18で死ぬんですか?』と書かれていたけどそれはこのまま変わらないじゃ精神的に、18で死ぬ、の比喩ですよ文脈でわかって…私が死ぬのは48歳だよ、分かりにくくてごめんね)
昨日の配信の心理テストでも、私の人生は「五里霧中」なのだそうだ。迷って答えが見つからない。答えのないものが苦手で、でもそれは私が「サブカル」とか「メンヘラ」とかそういう括りに括られることを嫌がっていることと多分、矛盾する。私に絶対的価値が生まれてる人間以外の中で。だってそういう言葉を使わずに私のブログを五段飛ばしで読むようなやつに私というジャンル、を構成できるわけがない、私が「私」というジャンルの世界を普及してくにはある程度のわかりやすさが必要で、まだ私にはそれが見いだせていない。それをわかりやすくするにはまずブログの長さをなんとかしろと友人ちゃんにアドバイスをいただいた。今の私にある普及したジャンルの構成要素としては、せいぜい地元で回っていた「ヤバイ」の単語くらいだろう。ハハ、ショボ!
自分の身は可愛くて仕方ないので私を知ってもらいたいんですよ、自己顕示欲?承認欲求?そんな簡単なものではないと思ってる。思いたい自分がいる。そして、それを出来るだけ私らしく叶えたいと思ってる。うつしたいわたしをうつしたいがままに届けたい。エゴなお願いごとだ、だって結局私の生きていたい世界だもの。それでも、やりたいことはやりたい、1%でも可能性があるなら賭けてみたいの、リスキーな逃走には馴れたかな?私は可愛いあの子たちみたいに、人目につきやすい世界で私をうまく発信できないし、「ファイナリスト残りたいです」と声を大にして言えるほどの忍耐力もない。心では死ぬほど思ってる。私を知って、私を伝えて、私を愛してくれ。私にももう1度潤いの果てを見せてくれないか、と。不器用なので、(といいわけして)ブログにコッソリ主張しておくことしか出来ない。なんか自分的にブログは、ほかのSNSより閉塞的に思えるのだ、そして、そのダンジョンを攻略して応援してくれてる人たちは、きっと少しは私を垣間見れてるんじゃないか?って、期待してみてもいいんじゃないかなって思う。そんなこと有り得ないのは無理なのはわかってるんだけどね。制限がない、私の想いを辞書的意味だけでならすべて教えられる、それがブログで、言葉で、em.で。もっとツイッターとかインスタなりを活用すべきなのだろうけど、リターンホーム02カミング、やっぱり私は多くの言葉と触れて、確実な言葉と絶対的な私であろうと願っている。
だからまだ死ねない。私はまだ未完成だ、せめて私の中では私の言葉たちは私を網羅しきれていない、ブログの更新スピード、語彙力の欠如、新しい言葉に触れれば古い言葉が抜け落ちる。永遠に終わらないかもしれない、最初から無謀かもしれない、たった31年で完走できることでもないかもしれない。でもやりきりたいの。ニュアンスなんかじゃ嫌だ。定義なんてもっとダメ。踏み台なんかじゃない。大真面目に、真摯に、ゆりかごへと回帰したい。
正直私も明日が怖い。JKの夏が終わって残った学校は楽しかったっけ?ミスiD2018SFになってから全校生徒の集まる日程は初だ。からかいが本気なのか優しさなのかも分からない。1年と一日前、ミクが死ぬことを決意した、でもミクは生きてる、今だってこうやって。全てがパラレルワールドの平行世界でも、初音ミクは生きてるとするならば、私達も死ぬことを決意しても生きていられるんだよ、明日も明後日も必ず生きていこう、ね。