ABCCの内部情報を流出させた日本人職員について③
学校について先に書いてしまいましたが、終戦の日、ラジオで天皇の声を聴いたけれど、良くわからなかった。しかし、大人たちが負けたことを話して。山内幹子さんは、「生きて虜囚の辱を受けず」と聞いて育っています。死ぬしかないと決心。家に帰ると、母親が大事に残していた白米を炊いてくれたそうです。最後の日。「母ば自分で死ぬだろうが、子どもは殺せないだろう。私が包丁で弟らの胸を突き、その後自死を」と考えると、食事が喉を通らなかったと。と、その時、裏に住むおじさんが窓から首を突っ込み、「戦争が終わったで。お父っつあんが帰って来るで!」と怒鳴ったのです。「死ぬ必要はない」と、異常を感じたこのおじさんの怒声によって、山内さんたち一家は、生き延びたのです。そこから、学校の厳しい状況になります。
山中高女を卒業した山内さんは、広島女学院大学英文学部へと進学しました。卒業後、1955年、政治家の秘書からABCCの職員に転職します。弟たちを養わなければならないという使命から、少しでも給料の多い所への転職です。
ABCCは、被爆者の調査はしても、治療はしないという評判でした。はじめは連絡員の業務で、毎日20件ほどの被爆者を訪ねて、話を聞きます。はじめはよく話していた被爆者が、10年もたつと、ぴたっと話をしなくなったそうです。「みんな気が付かれたと思うんです。愚痴を言っても、返って来んのんじゃ。言ってもだめじゃと。」そんな時、彼女は人事異動の辞令が出て、医科社会学部受付係。新たな業務はABCCでの調査研究に関しセクション間の調整を行う「スケジュラー」という役割です。
そんな時、1965年、深川宗俊さんから呼び出されます。
「精神薄弱を伴う胎内被爆の人がいる。普通の被爆者は国が手を付けたが、彼らはだれからも見捨てられている。胎内被爆の人のことを調べたいから、その人たちがどこに住んでいるのか調べてくれないか。」という依頼に、山内さんは、「この仕事は、私にしかできない仕事だ、よくぞ私に言ってくれた」と思い、深川に対してその場で」「わかりました。大丈夫です。やります」と答えました。
「胎内被爆の情報を伝えるということは、ABCCの内部情報を部外者に漏洩することになり、組織に対する重大な背反行為だ。それでも、山内はこの申し出を引き受けた。」
彼女は、論文を読んで、そこに出てくる一人ひとりのナンバーを調べ、そしてカルテ庫に入り、それぞれのカルテから住所等を調べました。すでにスケジュラーとなっていた彼女は、カルテ庫に入ることも可能だったのですね。
そうして彼女が作ったリストは深川さんから秋信さんに渡りました。
山内さんは、2020年89歳で亡くなりました。亡くなった後、遺品から小頭症の論文のコピーや彼女の手書きのリスト等が出てきました。
平尾さんの論文には、まだまだ興味深いことが沢山出てきます。山内さんが話す前に、山内さんのことを知ったマスコミの人のこと、ABCCの市民の受け止め方・・。私がはじめに書いたように、読み物としても十分に心打ちます。これは、公にされていますので、興味のある方はぜひ読んで下さいませ。ここにあります。
また、今年の「8.6ヒロシマ平和の夕べ」には、平尾さんに平和講演をお願いしています。きっと、平尾さんが作られた番組も上映されることでしょう。
最後に、今日、平尾さんから頂いたメールを転送させていただきます。
「山内幹子さんの長女、原森泉さんは母の幹子さんがお亡くなりになって、「母の思いを受け継ぎ自分でもできる限りのことをしたい・・」と、自宅を開放し、月に一度の勉強会「ミキコ・ピースカフェ」を開いています。被爆者や研究者などをゲストに呼んで、反核平和に関することを共に学ぶ会でして、私も一度ゲストとして招かれました。山内幹子さんの思いは、次の世代に受け継がれています。広島全体で、このような継承の和が広がるといいですね。」
長々と読んで頂いてありがとうございました。また、貴重な論文を、私のつたないブログ等に転載させていただくことを許可して下さった平尾直政様に感謝申し上げます。
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