(この記事は2020年5月19日に「ガメ・オベール日本語練習帳ver5」に掲載された記事の再掲載です)
日本の人の「不躾(ぶしつけ)さ」が、ときどき、ひどく懐かしくなることがある。
短いあいだ四谷に住んでいたときにオオハラと言ったかな?記憶を上書きしている可能性があるが服部半蔵の槍があるお寺の坂の下にある中華料理屋さんで、麻婆豆腐を注文したことがある。
でっかい丼に入った、細かく壊れた豆腐が入っているスープが、どちらかといえば酸辣湯のように見えたので、「あの、これ、麻婆豆腐、ですよね?」と訊いたのがよくなかった。
ただ注文を間違えたのかもしれないとおもって、なるべく失礼にならないように尋ねただけのつもりだったが、カウンターの例の身体で押せば開く低い両開きドアをおしてノシノシとやってきた女将さんにえらい勢いで怒鳴られた。
「あのね。うちじゃ、これが麻婆豆腐で、一生懸命つくってるんです。ガイジンなんかに説教されてたまるもんですか。これで文句があるんなら、とっとと出ていきなよ!」
いやいや、そういう意味ではないんです、とパニクって青くなりながら、なんとか誤解を解いて、食べてみると、おいしかった。
ご飯も頼まないヘンな客で、相変わらず歓迎されない様子だったが、ともかくも、「おいしかった」と述べて「お勘定」を払うころには、でっかい女将さんの機嫌もなおっていたようでした。
もちろん、誤解に基づいた怒りが「不躾」だったのではない。
チョーおいしかった麻婆豆腐に味をしめて、ほとんど毎日のように通って、熱燗と麻婆豆腐を毎夜楽しんでいるうちに「ヘンなガイジン」という渾名を賜って、顔を突っ込んで、ガラッと引き戸を開けてのれんをくぐって店に入るたびに「おや、また麻婆豆腐なの? あんた他に食べるものないのかい?」から始まって、「ちょっと太ったんじゃないの?ビールをあんまり飲みすぎないほうがいいよ」
「おや、痩せたんじゃないかい? ちゃんと食べてるの?
ガールフレンドをつくらなきゃダメじゃないか。
日本の女はいいよお。あんたの国の女もいいかもしれないが、妻にするなら日本の女が世界一って、知らないのかい」
だんだん江戸言葉になっていきそうな舌のまわりかたで、太った痩せた、眠ってないんじゃないか、酒の飲み過ぎだとおもう、
西洋のルールなら、おおきなお世話もいいところの軽口がとんでくる。
ぶっくらこいたのは、短い滞在がおわって、明日、国に帰るんです、と述べたときで、むかし言葉で、初めて名前で呼んでくれて
「ガメちゃん、抱っこさせておくれ」と言って、割烹着を慌ててぬいで胴体に手を回して、胸に顔をつけて、おいおい泣きだしたのには驚いてしまった。
おばちゃんはね、ガメちゃん、息子みたいなもんだとおもっていたの。
そうだよねえ。あんた、いつかは帰る人だもんねえ。
と、述べて、おおげさもおおげさ、まるで新派のような愁嘆場です。
あんたは蝶蝶夫人か、とおもえればよかったが、まんまと、だらしなくも、涙がでてきて、一緒においおいと泣いてしまった。
ほんとにきみはガイジンなのかね。
ニセガイジンなんじゃないの?
あるいは、こっちは、いつかも書いたが、ストップオーバーで日本に寄って、むかし、よく酔っ払いにいったバーに行った。
ぼくとこの店の「マスター」は日本にいるあいだじゅう、友達だった。
極端に無口な人で、カウンタに並べた酒瓶の陰に隠れるようにして、下を向いて、客とは目もあわさないで、注文されたナポリタンやピラフをつくる人だったが、ある日、客がひとりもいなくなったあとで、ブッシュミルズをストレートで飲んでいたら、「どこからいらしたんですか?」と話しかけてきたので、驚いてしまった
ニュージーランドです、と述べたら、ニヤッと笑って、
「じゃあ、イングランドからニュージーランドに越したんですかね」と言うので、またまたびっくりしたのをおぼえている。
そのすぐあとで、酔っ払った中年の客が入ってきて、そんな時間には珍しいコーヒーを注文していった。
その客は、コーヒーが好きな人だったのでしょう。
あの欧州コーヒー党特有の「ぐいっ」と飲む飲み方で底まで飲みきると起ち上がったが、お勘定の段になって、750円、というと、
「たけえな」とひとこと単簡に述べてドアを開けて帰っていった。
マスターは、「たしかに高えよな」とひとこと述べてドアを閉めて階段をおりて帰っていった客を見送っている。
なんだか、そのときから、友達になったような気がする。
向こうはどうして興味を持ってくれたのか知れないが、それから、客がいなくなると、よくふたりで話をした。
もとは美術大学の教師だったことも話してくれた。
自分が好きな画家や彫刻家の名前をあげると、
「ガメちゃん、趣味が悪いな」と言ったりした。
草間彌生なんて、どこがいいの?
なんで大学教師やめちゃったんですか?と訊くと、小指を立てて、
「これで」と偽悪的な笑顔で、へへへ、と笑ってみせた。
あるとき、あんまり酔っ払ったので、正体がなくなって、ほんとうのことが訊きたくなって、「なんでぼくと話してもいいとおもったんですか、むかし?」と訊いたら、マジメな顔になって、
カウンターから身をのりだして、
「きみは、ここに座って、友達と話していたときに、『去年と今年とおなじことを繰り返す人間は愚か者だ』と言ったんだよ」と言う。
おれはね、そのときに、このガイジンは、おれにとっては灯台だとおもったんだ。
そういうものですか?
そーゆーもんだよ。
と取り付く島もない会話が交わされたりしていた。
ひさしぶりに会ってみると、日本語の発音がヘンで、ヘンだとおもっていることを気取られないようにしたはずだが、
訊きもしないのに「舌癌にかかってしまったんだよ」と言う。
魚の目が出来た、くらいの口調です。
閻魔さまに会う前に舌を切られちまって、ケツの筋肉を移植して、また話せるようになったんだ。
ケツが話してるんだから、そりゃ、発音、不明瞭だよね。
それきり、金輪際、舌癌の話はしなかった。
今日は、東京にもどるから、というと、おおそうかい、じゃあ、おれも店を閉めて藤沢に帰るかな、と驚くべきことを言う。
小さい声でいうと、この常に驚嘆すべき人は、ぼくと、昔なじみの、自然な形であうためだけに、店を開けていてくれたもののようでした。
グリーン車の切符を買うと、大船で乗り換えて藤沢に行くだけのこのひとも、グリーン車の切符を買う。
東京に帰るぼくと同じ950円のグリーン車料金を払っている。
大船に着いた。
そのとき、この人がとった行動は、一生忘れられない。
この人は、ホームにおりて、ただ手をふっていたかとおもったら、電車が動きだすと、電車に負けまいとでもいうように、ひとけのないプラットフォームを走りだした。
頭脳が意地悪くデザインされているぼくは、この人の年齢を探り始める。
いくつだっけ。
もう60歳は絶対にすぎている。
その人が、ちぎれるように手をふりながら、全力疾走で、大船駅のプラットホームを走っている。
並走している。
その日、グリーン車の乗客がぼくだけだったのを神に感謝しないわけにはいかない。
あたりまえだが、ぼくは、顔を覆って泣き出してしまったのだから。
泣いたよ。
自分でも恥ずかしくなるくらいに。
ニホンジン、とぼくがいうとき、たくさんのたくさんのことが絡みついている。
ぼくが日本の文明の非人間的側面を論難するとき、ぼくの脳裏には、たくさんの(日本にいたことがない西洋人にはおもいもつかない)素晴らしい日本人がいる。
その、他文明人には、想像もつかない、こまやかな、たゆたう、あますところがない友愛を、言葉はあらわすことができるだろうか?
ぼくの、日本語の、原点なのだと思います。
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