須臾の永遠

Vichy Catalanは、いちばん好きな水で、東京で売っているのはもちろん、

この頃は、驚くべしニュージーランドでも売っています。

むかしは、あんまりいろいろなところで売っていなかったので、

バルセロナに着いて落ち着くと、そそくさと近所のスーパーに出かけて買ってきたものだった。

バルセロナで最初に買ったピソ(アパートメント)は、ものすごいオンボロで、リフトは年中止まるので重い荷物があるとき以外は住人は気を付けていて誰も乗らない。

前にも書いたがバルセロナは夏の暑さを凌ぐのが生活の主要テーマの町なので、夏の大半は海辺やピレネーにバカンス(←スペン語ではバカチョンと言う不穏な発音です)に出かけるにしても、自分のアパートでも蒸し焼きになるのを避けるに越したことはないので、ペントハウスなんてバカなものを買う人はいません。

買うのはバカ(牛肉)だけにしてくれ。

購入者はバルセロナの事情を知らないバカな外国人ばかりで、要するに、絵に描いたようなバカな外国人として、「広大」と言いたくなる100㎡くらいのテラスがあるビルのてっぺんの部屋を買って悦に入っていた。

インターネットが止まる、なんてのは毎度のことです。

電気が止まる。

水が止まる。

なんでんかんでん止まって、そのたびに管理会社に電話してなんとかしてもらう。

考えてみると、地元人なら賃貸でも手を出さないダメダメなピソを買ってしまったことになるが、アホな人というのは、幸福の神様が微笑みかけてくれやすいもので、なにが止まっても幸せで、

でっかい白アスパラガスの瓶詰めと、ドルミオのスパゲッティと、缶トマト、それにアホ、といっても自分のことではなくて、ニンニクのスペイン語だが、オリーブオイルで、潰したニンニクと赤唐辛子を炒めて、茹で上がったスパゲティに缶トマトとこのオイルをぶっかけるだけの食事で、初めの三日くらいは恍惚として暮らせることになっていた。

テーブルの上にはテンプラニーリョ。

テラスに座って、夕方の町を見渡していると、遠くにガウディのサグラダファミリアが見えます。

そのころは、聖堂のまわりにクレーンの塔が3基立っていたころで、景観としては芳しくないが、なにしろ嬉々として暮らしているので、クレーンは、頭のなかでフォトショされて消失している。

夜更けの1時頃、傍らでやさしい寝息をたてているモニさんを起こさないように、そっと、そっと起きだして、キッチンに行って、冷蔵庫からVichy Catalanを取り出します。

知っている人は知っている。

Vichy Catalanは発泡水のなかでも、最も強烈で、ブラジルから遙々大西洋を越えて運ばれて、欧州のあちこちでシュワシュワしているペリエよりも、なお強烈です。

自然、コップに一杯のんで、まるでドイツ人や日本人がビールを飲むときみたいに「ぷっはああー」をして、大満足にひたっている。

二日酔いにはなっていないが、昨日のワインの大量摂取で喉が渇いているのでVichy Catalanは天国の味がします。

それからおもむろに木箱で買い込んだ大好きな銘柄のテンプラニーリョを開ける。

週末は明るむまで賑わっているバルセロナの町も、平日は、このごろは他の大都市と変わらなくて、夕飯こそ午後十時くらいに始まるが、1時ごろともなると、あの辺りは、もう森閑としている。

サグラダファミリアと右側の、やけにおおきな携帯電話の電波塔を眺めながら、ワインを飲んで、いつもの癖で、なにごとかノートを広げて書いている。

おもいだしてみると、人生の至福の瞬間のひとつで、バルセロナが頭のなかでは、なんだか特別な町になっているのは、要するに、この一瞬が、あまりに幸福だったからでしょう。

記憶のなかの町にも寿命があって、マンハッタンは、若いときは大好きだったが、結婚してしばらく立つころになると、そんなに特別な町と感じられなくなっていった。

ひどい言い方をすると「ただの都会」に思われてきた。

日本の人でも、びっくりするような田舎っぽいところがあって、

有名で地元人にも人気があるイタリアンレストランで、ビートルズがかかったりすることまである。

欧州人からすると、だんだんヨーロッパコンプレックスのようなものが鼻につくようになって、それまでは好きでなかったオレンジカウンティのほうが好もしくおもえるようになってきたりします。

友だちを見ていても、ニューヨークの特徴である友だちコミュニティの面々と会って、アップデートするためだけに大西洋をわざわざこえてマンハッタンを訪問する人もおおくて、最近では、自分も含めて、盛りがついた交尾期の男と女がベストパートナーを求めて徘徊する動物園のようなイメージがなくもない。

30歳を過ぎて住むところちゃうよな、という気がしてくる。

幸福というのは、要するに「幸福な瞬間」のことで、その一瞬があるかないかのことをいう。

オカネがあっても、健康でも、この一瞬を一生涯、ただの一度も持ちえない人もいる。

どうしても入りたかった大学に合格した瞬間や、友だちでいえば、有名な文学賞やオスカーを手にした瞬間を幸福だと感じる人がいて、他人の幸福にいちゃもんをつけるのはバカな人間がやることだが、Haloあらわれそうな、そうい栄光に満ちた瞬間と幸福の瞬間は、ほんとうは、どうも質的に異なるもののようでした。

オンボロアパートでテンプラニーリョとVichy Catalanで、内から湧き起こってくる圧倒的な幸福感に適うべきもない。

あるいは、夜更け、コモ湖の西岸の中世然とした石畳の道を散歩していると、石が途切れて、砂利道になった先の公園の教会のドアがほんの少し開いていて、ビームの光が内側から洩れている。

神の光としかおもえなくて、足を止めて、呆然と見つめてしまう。

ハウラキガルフのステーションベイで、やはり夜更け、甲板よりも一段水に近いスターンデックに立って、なにかの拍子にディンギーの櫂を水につけてかき回したモニさんが歓声をあげている。

行ってみると、夜光虫が水のなかのオーロラのように輝いている。

もちろん家のベッドで、並んで、サイドバイサイドで、そっと手を延ばして、お互いの手が触れ合うだけで、激しい、と表現したくなるような幸福の瞬間を味わうこともあります。

この記事、ヘンでしょう?

なにを書いているのかというと、人間がこの世界に産まれてくるのはなぜか?ということについて書いている。

日本の人たちの大半は、いまはanxietyの極限のようなところに追いつめられていて、国民性で、案外と食い詰めたりする心配はしないが、

なにかよくないことが自分たちを待っているという気持ちを振り払えないでいる。

最近は大森博士以来の警告される巨大地震の前触パターン、太平洋側と日本海側で呼応するように地震が交互に起きていて、不思議なことに、関東直下型地震の前によく活動期に入るスポットと、南海トラフ地震の前兆のスロースリップをおもわせる揺れとが同時に起きている。

あるいは外から見ていて、ネトウヨは、ああいう人たちだから仕方がないとして、政府側の「専門家」のひとたちが日本の食糧自給率は40%を実は超えているんです、と述べていたのが、いつのまにか声が小さくなって、海外のアナリストたちによれば実は8%にも満たないことになっていて、日本の人たちを唖然とさせている。

それではグローバルな食料流通がバッキバキに折れてつながらなくなったいまの世界ではウクライナあたりで紛争が起きたら、ひとたまりもないではないか、日本に餓死者がでる日が戻ってきてしまうではないか、と言っていたら、見事なくらいタイミングよく、プーチンがウクライナ侵略を始めて、日本の人は相変わらずお人好しにもプーチンの「理」を説いて世界のなかでほぼ孤立しているロシアの肩をもつ人が多いが、なんのことはない、戦争のせいで最も深甚な被害を蒙るのは、個々の日本の人です。

自分の収入で買える食料がなくなるのだから、これ以上の被害はない。

本来は国民として心配されるべき、中国の、沈黙の、でもはっきりした太平洋覇権主義も、なにしろいろいろと優先度が高い心配事があるので、脳裏にのぼらないくらいで、幸福の瞬間を味わうどころではないのかも知れません。

人間が五体をもって、この世界に産まれてくるのは、最も控えめに述べて、肉体の五官によって、この世界の悦びを享受するためでしょう。

仮に魂が独立に存在するとしても、魂には、おいしいチャーシュー麺を食べる舌がない、は、ふざけすぎだが、

愛する人の髪の匂いや、あの滑らかな手触りの感覚もなく、ふたりで力をあわせて、小さな死を死ぬ、あの、文字通りめくるめく強烈な感覚もない。

陽光が肌を灼く感覚も、

冷たい水が身体全体をリフレッシュする感覚もない。

神様が人間を嫉妬するのは、人間が自分とおなじモデルに属する言語知性をもっているではなくて、正に、人間が肉体を持っているからでしょう。

日本は楽しい国で、訪問した人間が退屈することなんて金輪際ないのは、

いつも数多の友だちに保証しているとおりで、この世界に、ヘンテコリンでもなんでも、日本のようなユニークな国があってよかったと心からおもうが、政府や社会ということになると、

なんで、そういうことになっているんだろう?と思う事ばかりが多くて、

初めは、まるで日本人のような気持ちで腹を立てて、次には、呆れて、

いまはもう考えもしなくなってしまったが、友だちが出来て、

社会的に弱い立場の友だちたちから、次第次第に、幸福の瞬間を感覚するチャンスを奪われているのを、悔しい気持ちで観ている。

いつものことで、もう日本の人も聴き飽きたに違いないが、

日本の社会は、いったい、なんのためにあるのか、とおもう。

誰を「幸福」にするために存在しているのだろう。

時間を奪い、次にはオカネを奪って、到頭、幸福の瞬間を手にする機会まで奪い始めて、どこまで収奪すれば満足するのか。

もしかしたら、日本の為政者たちは、そもそも幸福を感受する能力など持ちあわせなくて、他人をコントロールしたり、愛情を性的収奪に置き換えたり、優位にたつことにパチモンの幸福を錯覚するだけのひとたちなのではないか、と疑うことがあります。

見ず知らずの遠くの他人のために、社会の不正に腹を立てるくらい愚かなことはないが、なんだか日本語を書くたびに、怒りがこみあげてきてしまう。

なぜだか、さっぱり判らないが、もしかしたら日本語という言語を通して、まだ自分の気持ちのどこかに紐帯が残っているのかも知れません。



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