友人の自宅から旧日本軍の飯盒が出て来た
とのことだ。
なんでも80歳になる方のお父様が使って
いた物らしい。
友人は私と同世代で、この飯盒の持ち主
だった方も私の母方の祖父と同世代あたり
か。私の母方祖父はニューギニアで戦死
した。
この飯盒は一番新しく見積もっても75年
物ということになる。
終戦の1945年からさらに75年前という
と、明治維新直後とはいえ、まだ廃刀令
も断髪令も無い時代、江戸期のまま士族
は帯刀して新時代の街を歩いていた時代
だ。
それを考えると、75年とはかなり時代的
変化がある。
とりわけ近代から現代にかけての19世紀
末期から20世紀全般は世界史的にも激動
の時代だった。
第二次大戦後は、多少医療や通信機器等の
発達がみられたとはいえ、激動の19世紀
末や20世紀程の変化はない。
今から50年前の日本と現在はさして変わっ
てはいない。携帯電話が登場したのも1970
年の大阪万博からだ。個人への実用化は
その20年後だったが、自動車電話は1980
年には使用されていた。新幹線の中に電話
があったくらいなのだから、電波利用で
の電話の実用普及はインフラの問題だけ
だった。
無論、LEDやファクシミリやインターネッ
トなどは50年前には存在しなかったが、
50年前のそのさらに50年前などとは比べ
ものにならない。現代は50年前と比較する
と天地がひっくり返るような変化はない。
現代は50年前よりは各種の機器が進化した
だけだ。
自動車は自動車として50年前もあったし、
電話も各戸にあったし、テレビも各家に
あった。
ただ、世相として人は変わった。世代と
して。
最初から完成された時代に生まれた人たち
の特徴としては、そこにあるものが当たり
前として受け止めるため、人の歴史につい
て興味を持とうとはしない。学校で習う
学問としての歴史にしか興味を持たず、
先人たちの生の足跡から何かを学ぼうとは
しない傾向が強い。
そうした温故知新に考えを巡らす世代層
は、高度経済成長の始まりから終わりまで
を実体験した私の世代、つまり昭和30年代
40年代初期生まれあたりまでがラスト
世代ではなかろうか。
世代ではなかろうか。
私の一回り、二回り上の世代の人たちは
もっとめぐるましく世の中が変化した事
を実体験として持っている。
その中から生まれる共通の共有視座のよう
なものを私までの世代の人たちは保有して
いた。
現在の人たちは、かなり自覚的、意識的
に過去の歴史を紐解かないとそうした
時代的変遷が何をもたらしたのかという
ことに思考が働かない構造に置かれてい
る。ボーっと流されていると、どんどん
流されて、「思考せざる群れ」へと陥る
危険性を現代人のうち「時代の未経験者」
たちは持っている。
そして、ともすれば、変な形で、まるで
野放しの野犬のような粗暴で自己中心の
感性を剥き出しにする。
平和な時代はとてもありがたいし、何もの
にも変えがたいが、何か大切なものが失わ
れてしまい、人を踏みにじってでもかまわ
ないという人間性が日本人の中に蔓延し始
めてしまっている。
しかし、そうした気風は戦争を準備して
しまうのだ。
この飯盒、「使えと言われている気がす
る。縁を感じる」と友人は言う。
綺麗に洗浄して使ってあげたら良いと
私は思う。
どんな味の飯が炊けるのだろう。
平和を噛みしめる今の時代、きっと、
ほろ苦くはない筈だ。