マツダ本社

現在の広島爆心はイメージ

再生の歩み 
世界が注目

広島のレジリエンス(回復力)に学びたい-。世界各地で戦争や紛争がやまない中、焦土から立ち上がった被爆地・広島があらためて世界の注目を集めている。1945年8月6日、米軍が投下した1発の原子爆弾によって壊滅した広島。「70年は草木も生えぬ」とも言われた惨状からどう復興したのか。そこにはどんな教訓があるのか。歩みを見つめ直したい。

人類史上初めて投下された原子爆弾の名は「リトル・ボーイ」といった。米軍が照準にしたT字型の相生橋(広島市中区)からやや南東、地上約600㍍の上空で核爆発した。直径約280㍍に膨れ上がった巨大な火球は、熱線と放射線を放出。直下の地表の温度は3000~4000度に達し、秒速440㍍の爆風が津波のように街をなぎ倒した。

爆心地近くにいた被爆者は、皮膚が黒焦げに炭化するほど焼かれた。

1945年10月29日に米戦略爆撃調査団が撮影した中島地区
(米国立公文書館所蔵)

米軍が広島へ原爆投下

一番電車が走った区間(被爆当時の路線図)

路面電車が一部で運行再開

一番電車が走った区間(被爆当時の路線図)

被爆3日後に「一番電車」

動いたときはうれしかった。みんな「電車が動くじゃないか」とたまげて見てくれたんがね。誰しも、あの状態で電車が動くとは考えんかったから

「一番電車」を走らせた元広島電鉄社員の山崎政雄さんの証言。2005年、取材に答えて
爆心地から東へ250㍍の紙屋町交差点付近で被爆した路面電車
(1945年8月12日、川原四儀さん撮影、原爆資料館所蔵)

広島電鉄は従業員185人が原爆死し、市内線用の123両のうち108両が被災したと社史に刻む。それでも、被爆3日後に「一番電車」を走らせた。

路面電車の線路復旧工事
(1945年10月、菊池俊吉さん撮影、田子はるみさん提供)

車窓の景色は一面、焦土だった。運行を再開した路面電車に“車掌”として乗務した笹口里子さん(当時14歳)はそう振り返る。「一番電車」は、家族や友人を失い、絶望の底にあった多くの市民の心を打った。

赤十字国際委員会駐日首席代表のマルセル・ジュノー氏が広島入り。
医薬品15㌧を届ける

東洋工業(現マツダ)が
三輪トラックの生産を再開

「バタンコ」が物流けん引

東洋工業はあの日、建物疎開の作業などをしていた従業員119人を亡くした。同社幹部は翌月には福岡県の工場を訪ねて三輪トラックのタイヤの仕入れに走っていた。資材不足の中で、何とか生産を再開した。

後輪が左右に二つ、前輪が一つ。1931年に発売した三輪トラックは、マツダが最初に造った自動車だ。通称「バタンコ」。焼け野原になった街で、未舗装路の物流をつなぎ、復興を支えた。

現在の原爆ドームの前に並ぶ三輪トラック(1949年)

広島復興都市計画決定

第1回平和祭

被爆から2年後、現在の平和記念公園内で第1回平和祭が開催された。現在の平和記念式典の原型となった。

原爆投下時刻に市中心部で手を合わせる人たち

この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう。ここに平和の塔の下、
われらはかくの如く
平和を宣言する

当時の浜井信三・広島市長が平和祭で読み上げた平和宣言の一部

開業医有志が勉強会を発足

がん多発 開業医が証明

原爆投下で広島市内の医師298人のうち270人が被爆。その後の医療は困難を極めた。原爆後障害の研究に足跡を残した於保(おぼ)源作医師は当時、郷里から広島の患者に呼び戻されて診察に当たった。「被爆者は病気にかかりやすいのではないか」ー。48年に開業医8人で発足した勉強会「土曜会」で、医師たちは症例を報告し合い、疑念は確信に変わった。

於保医師は51~55年に市が受理した死亡診断書約1万1400枚を洗い直し、56年に「被爆者のがん死亡率は全国平均を上回る」との論文を初めて医学誌に発表した。

原対協が初めて行った診察。広島市民病院で被爆者138人を診た
(1953年1月18日)

自分が診る患者にとどまらず、誰かが亡くなったと聞けば足を運び、病名や被爆状況を聞き出して情報を蓄積した手法がすごい

於保医師の功績をたたえる、広島大の鎌田七男名誉教授の言葉

医師たちは53年に広島市原爆障害者治療対策協議会(原対協、現広島原爆障害対策協議会)を設立。国費による無料の被爆者医療や原爆医療法に基づく手帳交付などにつながった。

広島児童文化会館が開館

教員や日系人 支援実る

明るさと潤いを失つた児童たちの現状をみ、日本の将来を念(おも)い、止み難い児童愛と祖国愛に燃え立つた

47年8月の建設趣意書より

まだ焼け野原だった広島市基町(現中区)にかまぼこ屋根の大きな施設が誕生した。この児童文化会館の建設に動いたのは教員たち。映写機やオーケストラボックスを備えた大ホールを完成させた。

児童文化会館の開館式に参加した子どもたち
(1948年5月3日)
広島市子どもまつりの会場となった児童文化会館
(広島市公文書館所蔵)

基町では52年、児童図書館も完成。平和記念公園も手掛けた建築家、丹下健三氏が設計した。北米の広島県人会など、海外の日系人から寄せられた多額の寄付金が建設を支えた。

児童文化会館は広島市青少年センター(手前中央)、
児童図書館は市子ども図書館(奥)に。今も多くの市民に愛されている

広島平和記念都市建設法の公布

平和記念公園の整備と
原爆ドームの保存

緑豊かな広島の街を象徴する平和記念公園(広島市中区)。被爆前は店や民家が立ち並んでいたが、爆心地に近く壊滅した。今も当時の遺構が地中に眠るこの地で1949年、公園整備が本格的に動き出した。

広島市は「世界平和記念都市として再建する」と掲げて49年、平和記念公園の整備を打ち出す。住民投票を経て同年公布された広島平和記念都市建設法も、平和記念都市として広島市を再建することを目的とした。

原爆の悲惨さ、恐ろしさが分かってこそ平和は生まれるという考え。それでドームをシンボルに配して設計したわけです

設計案が採用された建築家の丹下健三氏が取材に答えて。1995年

52年に原爆慰霊碑ができ、55年には原爆資料館が開館。ただ、肝心のドームには「原爆の惨事を思い出したくない」と解体を求める市民の声が根強かった。

そんな中、市内の児童生徒たちでつくる「広島折鶴の会」が60年8月、保存を訴える署名集めを始めた。16歳で、白血病で亡くなった楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記に突き動かされたという。

世論は次第に保存へ動き、広島市議会が66年、「保存は後世への義務」と決議した。

原爆ドーム保存のための費用の一部にと、集めた募金を
浜井信三・広島市長(右端)に渡す「広島折鶴の会」の会員。
左端の少女が持つ遺影は楮山さん(1965年1月6日)

あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろう

楮山さんの日記より

米国人のフロイド・シュモーさんが
「広島の家」の建設スタート

平和願う善意 世界から

(建設は)原爆を使用したことに対して遺憾の意を表している何百何千という人々の善意の表明である

シュモーさんの手記「日本印象記」から

焼き尽くされた街の復興へ、住宅を造ろうと手弁当で広島を訪れた米国人たちがいた。中心は、森林学者で平和活動家のフロイド・シュモーさん(2001年に死去)。49年、皆実町(現南区)に仲間3人と長屋2棟を建設した。

広島市の江波地区で住宅を建設するシュモーさん
(1952年10月4日)

住宅建設には世界中から3万ドルを超える寄付が集まり、53年までに15棟21戸が市内に建てられた。米国から計17人が作業に参加し、広島や東京の日本人の若者も加わった。建設現場には、英文の看板でこう掲げた。

「家を建てることによってお互いを理解し合い、平和が訪れますように

シュモーさんが江波地区に建てた住宅の
前で写真に納まる家族。1956年撮影
(シュモー富子さん提供)

最初の広島市民球場の跡地

カープ結成披露式

市民球団、立ち上がる強さ

西練兵場跡(現広島県庁の一帯)で行われたチームの結成披露式には、約2万人が詰め掛け、「県民の球団」「市民の球団」として誕生した「われらのカープ」を祝福した。

結成披露式で、整列する選手達

創設期のカープは慢性的な資金難で、存続の危機を市民の限りない愛情で乗り越えた。経営の一助として、切り崩した貯金を差し出す人や「たる募金」に身銭を投じる人…。地元企業10社も建設費を寄付し1957年、広島東洋カープの本拠地、広島市民球場が完成した。

初点灯した広島市民球場のナイター照明。右奥は原爆ドーム
(1957年7月22日)
空から見た広島市民球場(1957年)

球団創設26年目の1975年には、悲願のリーグ初優勝を飾った。原爆から立ち上がり、郷土愛からカープを活力にした市民のただならぬ愛情も花開いた瞬間だった。

チャンピオンフラッグを掲げて声援に応える広島ナイン
(1975年10月19日)

100㍍道路(平和大通り)開通

比治山側から西側へ見た百メートル道路。まだ民家が点在している
(1952年3月)

1946年の復興計画で位置づけられた「100㍍道路」。当時、バラックを建てて雨露をしのぎ、生活に苦しんでいた市民たちから不興をかうなど、いばらの道にも似た復興の営みとなった。

平和大橋の完工を祝って行われた神事(1952年6月3日)
寄贈されたモミジなどの木を平和大通りに植樹する人たち
(1957年11月20日)

樹木が一気に増えたのは1957年ごろに始まった供木運動から。東端の「被爆者の森」には被爆者が集めた47都道府県の木、海外から贈られた種や苗が植えられた。被爆後に「70年間草木も生えない」とされた街の中心には今、比類のない豊かさを誇る緑地帯が広がっている。

中心部にお好み焼きの屋台が並ぶ

お好み焼き
屋台発のソウルフード

広島のソウルフード、お好み焼き。被爆後の焼け跡で営業を始めた「一銭洋食」の屋台が発祥とされる。1950年代、中心部でお好み焼きを出す屋台が増え、市民の味となった。

お好み焼きの屋台群があった広島市の西新天地広場(1965年8月)
屋台の準備風景。左の男性が「麗ちゃん」を創業した
山城信登さんとみられる(1965年9月)

広島のお好み焼き店は「ちゃん」が付く店名が目立つ。山城信登さん、年江さん夫妻(いずれも故人)は娘のレイ子さんの名を取って店名を「麗ちゃん」にした。

屋台の無許可営業や深夜の騒音が深刻になり、広島市は65年に広場の利用を禁止するなどして屋台を一掃した。ただ、近隣のビルや郊外などでお好み焼き店は増加。広島東洋カープの初優勝や修学旅行の誘致などを機に「広島風」のお好み焼きは全国に知れ渡った。

原爆慰霊碑が完成

広島市原爆障害者治療対策
協議会(原対協)が発足

広島市で
・第1回原水爆禁止世界大会
・原爆資料館開館

原水爆禁止世界大会で、体験を訴える被爆者たち
開館前の原爆資料館

広島県被団協が結成

広島労音が
「第九」コンサートを開催

音楽の力 人々を鼓舞

56年の年の瀬。平和記念公園内に前年完成したばかりの市公会堂に、「歓喜の歌」が響き渡った。地元の合同合唱団と広島放送交響楽団によるベートーベンの交響曲第9番の全曲演奏だった。

真新しい広島市公会堂で
地元合唱団が歌声を合わせた「第九」コンサート
(1956年12月、高橋勇さん提供)

食うや食わずの生活の中、どうしてあんなに音楽に熱を注いだのか。でももし音楽がなかったら、私は道を踏み外していたかも知れない

合唱団に参加していた高田資生(よりお)さんの言葉。原爆で両親と長兄を失った

生活の再建に続いて、広がり始めた文化の復興。地元財界の寄付で建った市公会堂はその拠点だった。

被爆者が英国の水爆実験中止を求め、原爆慰霊碑前で座り込み開始

広島復興大博覧会が開幕

第1会場の平和記念公園内に設けられた人工衛星館

「原爆の子の像」除幕

モデルは被爆10年後の1955年、白血病で亡くなった佐々木禎子さんだった

全国から子どもたちを招いた「原爆の子の像」の除幕式
(1958年5月5日)

広島市議会が原爆ドーム保存を決議

全国初の原爆養護ホーム
(舟入むつみ園)開設

山陽新幹線が全線開通

広島駅での記念式典

広島、長崎両市長が国連で
核廃絶への措置求める

基町再開発事業完成式

軍の拠点から住宅群に

広島発祥の「基(もとい)の地」を意味する広島城一帯の基町。明治以降、軍の部隊や施設が集まる「軍都広島」の中心地だったが、原爆で壊滅した。広島市が1946年に応急策で住宅を建て始めたのをきっかけに、49年までに1800戸余りの公設住宅が集積した。

基町の「10軒長屋」。人々は競って入居した(1950年1月)

一方で、公設住宅には入れない人たちは河川敷や空き地にバラック住宅を建てて住んだ。基町の太田川河岸には区画整理で行き場を失った人が集まり「原爆スラム」と言われた。

行政は密集した老朽住宅やスラムの解消へ再開発を決断。市営、県営のアパート群を建てて居住者の移転を進め、78年、基町再開発事業の完成を宣言した。

再開発完了直後の基町地区

広島市で
第1回世界平和連帯都市市長会議

核戦争防止国際医師会議(IPPNW)
が広島市で世界大会

暴力追放広島県民会議が発足

暴力団追放、官民結束

被爆後、焦土の街に闇市が広がり、利権を巡って幅をきかせるようになった暴力団。1946年から71年までの間、3度にわたる抗争が発生する。凶悪な事件が相次ぎ、市民も巻き添えとなった。激しい抗争は後に、映画「仁義なき戦い」の題材にもなった。

暴力団組員によって市民がピストルで撃たれ、
死傷した広島市の現場周辺(1963年5月)

飲食店経営者など、立ち上がった市民は暴力団の不当要求に「ノー」を突きつけた。87年、暴力追放広島県民会議が発足。暴力団対策法が施行された92年には、被害者支援などに取り組む全国初の暴力追放運動推進センターになった。

広島アジア競技大会

原爆ドームと厳島神社が
世界遺産に登録

国立広島原爆死没者追悼
平和祈念館が開館

広島市で主要国(G8)下院
議長会議(議長サミット)

被爆者の話を聞く議長たち

新市民球場(マツダスタジアム)
が完成

初ナイターに沸くスタンド

広島市で軍縮・不拡散イニシアチブ(NPDI)外相会合

広島市でG7外相会合

オバマ米大統領が広島を訪問

原爆慰霊碑に献花するオバマ大統領

核兵器禁止条約が国連で採択

G7広島サミット開催

「70年は草木も生えぬ」原爆製造に関わった米国の科学者が原爆投下直後に述べた見解から生まれた言説だ。一方で、広島の人と街は焦土から立ち上がった。「なぜ私が生き残ったのか」という罪悪感、「あの惨禍を語り継がなければ」という使命感…。人々は死者への思いとともに生き、世界のどの都市とも異なる自覚を持って、復興を懸命に進めてきた。

「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」。米ソ冷戦と核開発が激化していた1952年、原爆慰霊碑は建てられた。碑文は、祈りと誓いが凝縮する21文字。作者の故・雑賀忠義元広島大教授は「全人類の過去、現在、未来に通ずるヒロシマの市民感情」と信念を説いた。広島市は83年に慰霊碑近くに置いた説明板で、主語は「すべての人びと」と解説している。

世界最大の核保有国、ロシアによるウクライナ侵攻が深刻さと不透明さを増す中、2023年5月、被爆地・広島で先進7カ国首脳会議(G7サミット)が開催される。核保有国を含むG7の首脳も、碑文の前に立つ時、「世界市民」の1人となる。豊かな新緑に包まれた復興都市で、核なき世界へ向けた揺るぎない意思と指針を示せるか。世界が注目している。

最初の広島市民球場の跡地