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この作品「第四章 新幹線」は「ぎゆしの」「現パロ」のタグがつけられた作品です。
第四章 新幹線/てれこの小説

第四章 新幹線

9,007文字18分

現パロぎゆしの、しのぎゆ風味強めです。
文章:みかさ( user/15727307 )、表紙と挿絵:てれこ( user/17698929 )が担当しました。二人とものページに同じものがあります。どちらで読んで頂いても構いません。
このシリーズには全年齢部分とR-18部分があります。詳細は目次部分をご覧下さい。
2021年8月に公開した「その向こうにあるもの」に大幅加筆修正したものです。
何でも許せる人向けです。

2022年12月24日 01:28
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 キャメル色のキーケース。ファスナーを開けて、そこに恋人の部屋の合鍵がきちんと収まっていることを確かめる。地下鉄を降り、改札を抜けると穏やかな風が吹いていた。空が高い。
 冨岡は背に小ぶりのボストンバッグ、手には紙袋をいくつも下げて駅前の通りを歩いていた。自然と足取りが軽くなる。今日は金曜日。彼は有休を取ってここへ来ていた。通い慣れた道。ツンと澄ましたハチワレの猫、道の脇で揺れるコスモス。目的のマンションにたどり着いて、彼はわずかにまなじりを下げた。

 ガチャ。合鍵で恋人の部屋に入る。ふわりと、甘くやさしい香り。さっき連絡があったから十五分もすれば帰って来るだろう。そう考えながら、玄関で靴を脱いだ。
「お邪魔します」
誰に言うでもなく声に出す。
 百貨店の紙袋とボストンバッグを下ろす。手を洗って、紙袋の中身をひとつずつテーブルに並べる。惣菜がいくつか、四合瓶の日本酒、小さなデザート。
 それから皿を出してきて、色とりどりのサラダを慣れない手つきで盛り付けた。



 ひとつは柿と生ハムのサラダ。もうひとつは、炙りホタテとフルーツトマトのサラダ。どちらもしのぶのお気に入りだった。
 元来彼は百貨店の惣菜コーナーなどという場所は苦手だった。どのメニューも同じにしか見えなかった。それが数年を経てどうにか目的の惣菜を間違わずに買えるようになったのは、好物を頬張る恋人の表情を眺めるのが好きだったからだ。彼女の幸せそうな顔は、雨上がりに街路樹の葉の上で輝く雫のようにきらきらしていた。
 冨岡の毎日はモノトーンだった。少なくとも、彼はそう感じていた。
 年下の恋人は、いつも彼の心の中にするりと入ってきて、世界に色があったことに気付かせてくれる。彼女の目を通して見た世界は美しく彩られていて、見飽きることがなかった。
 紙袋から手土産の焼き菓子と漬物を出す。漬物も冷蔵庫か、と思って手に取ったところでドアがガチャッと音を立てた。
「あら、早かったですね、冨岡さん」
 そう言ってしのぶはバタン、とドアを閉めた。冨岡が「おかえり」と言うと、彼女は優しい眼差しを向けて「ただいま」と返した。
 靴を脱いで、バッグを下ろす。それを待ってから冨岡はしのぶに歩み寄った。
 一ヶ月ぶりの逢瀬。嬉しさを滲ませた彼女の表情。電話越しではない、声。可愛らしくて、いとおしくて、冨岡はしのぶを抱き寄せた。服越しに体に触れただけで、言葉にしなくても気持ちが流れ込んでくる気がした。華奢な腕、艶やかな髪。じんわりとあたたかいものが胸に広がる。
 冨岡は少し屈んでしのぶに口づけた。軽いキスをふたつ。もうこれ以上は止まらなくなる、と思って冨岡が腕をほどこうとすると、しのぶが頬に触れた。目が合って、もう一度唇を合わせる。

 二人が遠距離恋愛をして七年目の、秋のはじめのことだった。

 ◇

 遡ること一日。

「――おい、まじかよ」
 社内は騒然としていた。納品間近の案件に、何らかのバグがあることが今しがた判明したのだ。それは冨岡のチームが担当する案件だった。
「なんとかする」
 冨岡はぽつりとそう言うと、すさまじい速さで全プログラムのチェックを始めた。それを斜め向かいから、同期の村田がじっと見ていた。

 冨岡はSEとしてこの会社に勤めて四年になる。入社当初は「周囲と連携の取れない使えない奴」という評価だったが、同期の村田と同じ部署に配属されてから状況は一変した。
 冨岡の技術力は目を見張るものがあった。ただ、コミュニケーション能力が圧倒的に低かった。チームのメンバーの意図を汲むことはおろか、先輩に進捗報告をすることさえままならなかった。
 村田は技術職として採用されたのだが、実際には営業と技術の橋渡しが彼の役割と言ってよかった。それぞれの意図を汲み、妥協できる着地点を双方にうまく提案する、チームの潤滑油のような存在であった。
 そして誰よりも彼の恩恵を受けているのが冨岡だった。村田は早々に冨岡の不器用さに気付き、同じ部署になってからは折に触れて彼のフォローを自ら買って出ていた。冨岡がどんなに速くプログラムを組み、バグを見つけられるか。よりシンプルな手順で取引先の要望を叶える方法を、どんなに速く思いついているか。それが周囲にわかるよううまく立ち回ってくれた。村田はそれがチームのためになると確信していたのだ。
 村田の手助けで冨岡の評価はめきめき上がった。本来の実力を出せるようになった彼は、先輩や上司から適切なフィードバックを得てさらにその能力を伸ばした。正確さ、知識の深さ、そして冷静さ。いつの間にか、「困った時は冨岡を頼る」が暗黙の了解となっていた。

 冨岡が彼に、「村田はすごい」と言ったことがあった。

「村田は俺の言いたいことが全部わかってる」
「いや、すごいのはお前のほうだよ。よくそんなに速く仕事こなせるな。俺の三倍は速いよ」
 困ったような笑顔の村田。
「……そんなことはない。前は、ひどかった」
「お前、そういうとこ……ほんと謙虚だよな」
 村田はそう言って笑ったのだった。

 そろそろかな、と村田は席を立った。ディスプレイをじっと見て作業を続けている冨岡に声をかける。
「見つかったか、バグ」
「ああ」
 冨岡は画面を見つめたまま答えた。
「これと、そのせいでここも。それから、」
 画面を切り替える。
「ここの記述がおかしい」
 冨岡の言葉は圧倒的に足りなかったが、村田にはその言わんとすることが想像できた。なるほど、と簡単にメモを取る。
「わかった」
「悪い」
 冨岡は画面から目を逸らさずに言った。
「おいみんなー、わかったぞー! ちょっと来てくれ!」
 村田はそう言って、チームのメンバーを集めた。コーディングの修正箇所、差し替えが必要な部分の洗い出し、関係各所への連絡と根回し。それらをテキパキと指示する。その後、確認不足でミスを引き起こしてしまった新入社員へのフォローをさりげなくしておいた。
 冨岡は、村田を一瞥した。それから、再度ディスプレイに視線を移す。村田と他のメンバーのやりとりを聞きながら、再チェックの作業を続けた。

 他のチームのメンバー数人が手伝ってくれたお陰もあり、どうにかその日の午後十一時頃には作業がひと段落した。終電に間に合うかも! お疲れ様! という声が飛び交った後、フロアは一気に静かになった。
「お前、いつも以上にすごかったな」
 村田が冨岡の席まで来て、声をかけた。
「そうか」
 書類に目を通しながら冨岡が答える。
「……あ。明日お前有休取ってたんだっけ?」
「ああ」
「あ~~、なるほどね~~」
 村田はしたり顔でそう言った。どうやら冨岡にはずっと遠距離恋愛をしている相手がいるらしい、と彼は察していた。
「ま、何にせよよかったな。じゃあお先。おつかれー」
「ん、おつかれ」
 荷物をまとめて、村田がフロアを去る。それから一人、またひとりと退社し、気がつけば冨岡だけが残っていた。翌日休む分、作業を進めておきたかったのだ。
 ここまでやればいいだろう。そう思って手を止める。ふと時計を見ると午前一時半だった。
 施錠して外に出る。自転車にまたがって夜の街を走った。途中でコンビニに寄る。そこから数分走れば自宅に着く。シャワーを浴びて、缶ビールを二本飲む。それから布団に入った。

 翌日。
 冨岡は午後一時すぎの新幹線に乗っていた。久しぶりによく寝たな、と思いながらぼんやりと窓の外を眺める。
 しのぶの住んでいるところは、冨岡の地元でもあった。二人は、一年間だけ同じ高校に通っていた。冨岡が三年、しのぶが一年の二月に、二人は付き合い始めたのだった。その後すぐに冨岡は大学進学で上京し、卒業後も地元での就職が叶わなかったためこうして何年も遠距離恋愛を続けている。
 ペットボトルの水をひとくち飲む。きゅっと蓋を閉めて、仕舞う。目的地まであと十五分。ポケットからスマホを出し、冨岡は転職サイトを眺め始めた。

「ちがうよ〜! もう一回うたうからきいてて!!」
 品の良いインテリアでまとめられたリビングに、幼児の笑い声が響いていた。
 しのぶは夕方まで仕事があるので、それまでの間冨岡は実家に帰ってきていた。そしてそれに合わせて姉の蔦子が子供を連れて遊びに来ていたのだ。
「いい? いくよ!」
 五歳になる姪は今にも笑い出しそうな顔をしている。子供はいいな、と思いながら冨岡は「うん」と返事をした。
「ひつじーのしょーん、ひつじーのしょーん♪」
「なんのうたでしょうかー?」
 隣にいる三歳の甥も嬉しくて堪らない様子だった。
「……ひっつきましょー? って、聞こえた」
 そう冨岡が答えると、子供たちはケラケラ笑った。
「あはははははは!!」
「ブブー!! ぜんぜんちがうー!!」
「おかあさーん! ぎゆう兄ちゃんぜんぜんちがうよ〜〜!!」
 隣室にいた蔦子が声を聞いてリビングに戻ってきた。
「よかったわね、義勇お兄ちゃんに遊んでもらえて」
「うん!!」
「ぎゆう兄ちゃん、へんなことばっかりいうから、おもしろい!」
 二人が同時に返事をした。蔦子は子供たちの頭を撫でてから、紙袋を冨岡に差し出した。
「これね、しのぶちゃんに。フィナンシェとビスコッティ、前に好きって言ってたから」
 冨岡はそれを「わかった」と受け取った。
「あっ、そういえばお母さんも何か用意してたわね……あった、これだわ」
 赤と緑の包装紙に包まれたものを冷蔵庫から出す蔦子。手際良く保冷剤を添える。
「これ、千枚漬けと長芋のしそ漬けね」
「わかった。……そろそろ行く」
「そう? じゃあ、気をつけてね。しのぶちゃんによろしく」
 えー!! もうおわりなの?! と子供たちが騒ぐのを聞いて、冨岡は「また遊ぼうな」と二人に言った。
 私鉄と地下鉄を乗り継ぐ。冨岡は『夕飯、買っていく』としのぶにメッセージを送った。百貨店に寄って、スマホのメモを開く。何度か迷いながら、どうにか目的の店に着いた。

 二本の、並行な線。それは時々小さく交差して、また離れる。ずっと並行なまま、同じペースで進んでいく。
 心の中に、彼女のための場所がある。いない時にも、いるような感じがする。ふとした時に、今何をしているだろうか、と考える。たまたま耳にした言葉で、彼女の言動がありありと思い出される。
 冨岡はそうやって日々を過ごしていた。それを、できる限り大切にしたいと思っていた。

 『今、仕事終わりました』というメッセージを受け取ったのは、あと五分もすれば彼女の部屋に着く、という頃だった。今日は金曜日。日曜日の夜まで、時間はたっぷりある。

 ◇

「あ〜やっぱりこれですよね! おいしい〜!!」
 しのぶが顔を綻ばせる。冨岡の選んだ皿はサラダの分量に対して小さすぎて、きれいとは言い難い盛り付けだった。しかし彼女は気にしていない様子だった。
「つまみにもなる」
 冨岡はそう言って小ぶりなグラスに冷えた日本酒を注いだ。
「……それ、おいしいんですか?」
「うまい」
「冨岡さん、酔わないですよね」
「しのぶよりは強い」
 そう言われてしのぶは少しムッとした。
「そうですね強くはないです。どなたかが『俺のいないところでは飲まないでくれ』なんて仰るんで、慣れる機会がないんですよね〜」
 しのぶの笑顔を見て、冨岡は「しまった」と思ったが、もう遅かった。
「あ!ということは今日は飲んでもいい日ってことですよね! うっかりです。ありがとうございます頂きますね〜」
 こうなったらもう何も言わないほうがいい、と冨岡は思った。新しいグラスに、少なめに日本酒を注ぐ。
「あ、ほんとですね、おいしい〜」
 グラスを傾けるしのぶを、冨岡は目を細めて見つめていた。

 キッチンから鼻歌が聞こえる。しのぶは「夕飯買ってきてもらったので」と言って食卓の片付けをしていた。テレビでも見ててください、と言われて冨岡はソファに座っていた。しかし彼は面白そうな番組を探す気にもなれず、ただ画面をつけて音量を下げ、恋人の鼻歌を聞いていた。
 冨岡はしのぶの声が好きだった。強い意志としなやかさを感じさせる彼女の澄んだ声を思いながら、背後から聞こえるメロディーを聞いていた。アルコールがゆっくりと身体を巡る。彼は心が浮き立つのを止められずにいた。
 しのぶは皿を拭きながら、背後に冨岡の気配を感じた。足音が近づいてきて、腕がまわされる。振り向きかけると、こめかみの辺りにごわついた髪が触れて、そのくすぐったさにしのぶは少し肩をすくめた。
「まだ終わらないのか」
「あっ、お皿、ここに伏せておけばよかったですね? なんだか気分が良くて拭き上げてしまいました」



 しのぶは残りの皿を水切りラックに置いた。それから冨岡の腕の中で、後ろに向き直る。
 小首を傾げて彼を見つめるその瞳が、とろんと甘く融けていた。頬と耳が赤い。それを見て、冨岡はふと思い当たった。
 ――これは……残りの日本酒、飲んだな。
 しのぶの指が冨岡の首筋にそっと触れる。手のひら全体で肌の感触を確かめるように、頬のほうへ指を這わせた。
「義勇さん……」
冨岡は、彼女を包み込むように抱きしめた。

 二本の線が交わるときは、しあわせで、さびしい。そんなことを考える。線が近づこうとしている時は心が躍る。でもひとたびそれが交差すれば、それがどこまでいっても一本にはならないことが分かってしまう。また別々に、離れたまま進んでいく時間が来ることを思ってしまう。それだからこそ、嬉しい。
 そういう矛盾を、彼女に会うまで知らなかった。

 ◇

「……冨岡さん、そろそろ」
 スマホで時刻を確認して、しのぶが言った。
「そうだな」
 新幹線の駅構内のコーヒーショップ。飲みかけのアイスコーヒーをごくごくと飲み干す。冨岡は胸の奥に重いものを感じながら、恋人に続いて席を立った。使い捨てのカップをゴミ入れに捨てることさえ、なんだか億劫だった。
 スマホで発車時刻を確認する。のぞみ62号、二十一時二十一分発。二人で並んで上りのエスカレーターに乗る。いつもの順路。何度となく繰り返してきたはずなのに、いつまで経っても慣れない。

「もっと遅い時間でもよかった」
 冨岡がそう言うと、しのぶは眉を下げて小さく笑った。
「もう、またそんなこと言って……明日からまた仕事でしょう? ちゃんと寝ないと」
 構内にアナウンスが流れ、強い風とともに車両がホームに滑り込む。
「…………じゃあ」
「ええ。また」
 これに乗れば、また日常が始まる。家に帰って、月曜がきて、またいつもの日常に戻る。そう思うと、気が重かった。
 ドアが開く。車両を確認して、冨岡が歩を進めようとした、その時。
「……冨岡さん!」
 冨岡の腕をしのぶが引いた。
「もう! ほら、笑って! 帰り際くらい笑ってくださいよ」
 そう言ってしのぶは両手の人差し指を冨岡の口の両端に当てて、きゅっと持ち上げた。
 冨岡は、無理矢理口角を上げて見せ、軽く手を振ってから列車に乗り込んだ。

 冨岡は何年続けても遠距離恋愛に慣れなかった。毎回毎回、自宅へ帰るのが億劫だった。どうしても、そこが本来自分がいるべき場所だという気がしなかった。
 彼女のそばで暮らしたい。その気持ちが年々膨らんでいく。同棲でなくとも良い。もっと気軽に会える距離に居たかった。

 ◇

 翌日、月曜日。出社してみると、クライアントから仕様変更の依頼がきており、現場は騒然としていた。冨岡は直接関わっていない案件だったが、どう見ても人手が足りていない。これは、たぶん来るな。そう思っていたら、案の定声がかかった。
「冨岡、悪い、手を貸してくれ」
「わかった」
 SEの繁忙期は、突然始まる。これはしばらくまともに眠れそうもない。
 冨岡は、忙しくなることにどこか安堵していた。先週末は金曜に有休を取って、しのぶとゆっくり過ごした。だから眠らなくてももつだろうし、仕事に集中しているほうがネガティブにならなくて済む。そう思った。

 昼休み、彼はコンビニのパンをデスクで囓りながらしのぶにメッセージを送った。
『しばらく忙しくなる。悪い』
『わかりました。ちゃんと寝てくださいね?』
 すぐに返事が来て、気持ちがふわりとほぐれる。
『そっちはどうだ』
『仕事ですか? 順調ですよ。特にトラブルもなく平和です』
『そうか』
 しのぶのことを考えるといつも転職の二文字が脳裏をかすめる。
 冨岡は今の会社には満足していた。村田をはじめとして、世話になった同僚や先輩、上司への恩もあるし、大学の頃に比べればずっと地元に近い。とりあえずは、このままでやっていけないことはない。しかしそれは、「とりあえず」でしかなかった。
 しのぶは地元の植物園で働いている。それは彼女の子供の頃からの夢だった。彼女は意志が強いし、行動力もある。いっそ執念深いと言ってもいいほどだった。問題があっても、自分で解決する力がある。彼女にとってその植物園は特別な場所だった。
 だから、自分が頃合いをみて転職するのが一番良い。それまでに十分経験と知識をつけておかなければ。冨岡はそう思っていた。

 ◇

 三日後。
 ヴヴ、とスマホが数度鳴って冨岡は目を覚ました。暗い部屋の中、手探りでスマホを探す。充電器のケーブルをたぐり寄せ、電源を入れると画面に『22:15』『新着メッセージあり』の文字。冨岡は目をこすりながら、画面を操作した。

 午後五時を過ぎた頃、同僚たちに「昨日も一昨日も帰ってないだろう、せめて仮眠くらいして来い。近いんだから」と言われ、それもそうかと冨岡は一旦帰宅した。
 シャワーを浴びた後、久しぶりにベッドで眠った。それが確か六時前のことだった。
 ということは四時間寝た、ということだ。起きる予定だった時間より少し早いが、まあいいだろう。そう判断して冨岡はスマホのメッセージを確認した。しのぶからだった。
『ご飯、ちゃんと食べていますか?』
『おやすみなさい』
 しのぶは実家に帰っているようで、二通のメッセージのあとに、妹との自撮り写真が送られてきた。二人は色違いのルームウェアを着ていた。一目で風呂上がりとわかる、上気した頬。にっこりと笑うその表情を眺めていたら、つい声が聞きたくなってしまった。メッセージが送られてから五分しか経っていない。もう眠ったということはないだろう。
 冨岡が電話をかけてみると、呼び出し音三回目のところで「もしもし?」と、少し驚きを含んだしのぶの声がした。ここのところ、メッセージにろくに返事もできていなかったのに、急に電話をかけてしまって迷惑だっただろうか、と彼は思案した。
「……起きていたか」
「ええ。起きていましたよ。返事があるとは思ってなかったので、カナヲと話していました。あ、今は自分の部屋に来ましたからどうぞご心配なく」
「そうか」
「冨岡さんはまだお仕事中ですか?」
「いや、今起きた」
「あら……私が起こしてしまったんですね。すみません」
「構わない」

 そうして、他愛ない話をする。しのぶが、同僚たちとカフェに行って注文を間違えた話、高校の友人に偶然会った話。こうして電話をするときは大抵彼女が話して、冨岡は聞くばかりだった。しのぶは話すのが上手く、日常の小さな出来事が、今目の前で起こっているかのようにありありと想像できた。
 初めの頃、しのぶは度々「冨岡さんも話してくださいよ」と言った。しかし冨岡は電話で話すのが苦手だった。どうしてもしのぶのようには話せなかった。数ヶ月もすれば彼女もそれに気付いたようで、もっと話して欲しいとは言わなくなった。
 離れて暮らしているとどうしても電話で話す時間のほうが長くなる。こうやってしのぶの声を聞く時間が、冨岡は好きだった。張り詰めていたものが緩んでいくのを感じる。
 
「あら、そろそろ十一時になりますけど、時間大丈夫ですか?」
「……そうだな。そろそろ、切るか」
 しのぶはしっかりしている。高校の頃からあまり年下のようには感じなかったが、今ではもうどちらが年上かわからないくらいだ。そんなことを思う。
「……しのぶ?」
 返事がない。
「……あ、すみません。あの……」
 妙な沈黙。こんな時、姿が見えないのはもどかしい。表情ひとつでわかることがあるはずなのに。何か、おかしなことを口走ってしまったのかもしれない。冨岡はさっき発した自分の言葉をひとつずつ思い出していた。
「あの、義勇、さん……。今度、いつ会えるかなって……」
 胸が疼いた。下の名で呼ばれると、いつもこうだった。
 しばらくはとても会える時間を作れそうになかった。そのことが申し訳なかった。今の案件がひと段落した頃には本来担当している案件で手一杯になるだろう。そう思って彼がどう返事をしようか迷っていると、しのぶの方から口を開いた。
「あっ、ごめんなさい、いいんです、わかってます。また都合がわかったら教えてください。お仕事頑張ってきてくださいね!」
「……悪い」
 この距離がもどかしかった。しのぶの髪に触れて、ぎゅっと抱き寄せたい。その気持ちを言葉にすることもできないまま、彼は「じゃあ、また連絡する」とだけ言った。「はい。また」としのぶが答えて、冨岡は彼女が電話を切るのを待った。
「……切ってくださいよ」
 そう言って小さく笑う、しのぶの声がした。同じことを考えていたらしいことが分かって、冨岡は小さく笑みを浮かべた。
「……うん、そうだな。またかける」
 そう言って、今度はすぐに切った。
 彼女の澄んだ声を思い出しながら、冨岡は顔を洗って、身支度を始めた。

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