昨日、先週末から公開の映画『プリンセス トヨトミ』を観に行ってきた。話にリアリティがないとか、見せ場がないとか、いろいろ言われているけれど、“おとぎ話”として観るにはいいくらい。自分は楽しめた。


さて、主演の堤真一と相対する中井貴一、この二人で思い出されるのは1985年のNHKでやった単発ドラマ「オアシスを求めて」。当時若手男優ナンバー1と言い切ってももいいくらいの中井貴一が主演で、この作品がテレビドラマデビューとなった堤真一も出ているが、堤は駆け出しの頃だけに端役に過ぎず、中井との絡みもなかった。


この作品の放送日時は10月26日の土曜日の、夜9時から10時半まで。自分は夜8時からのフジテレビ「オレたちひょうきん族」を観た後は、そのままフジテレビ「ゴールデン洋画劇場」枠でやる映画か、テレ東の『テレビあッとランダム』観るのが慣例だったけど、この日は内容に興味が惹き付けられて「オアシスを求めて」観る。


本格的なSF作品で、それもスペースコロニーを舞台にしたというのは、特撮も含めても日本の実写ドラマではこれ以外はないんじゃないかと思う。それだけ特異なものであったが、当時この作品に対する話題としてはもう一つあって、それは作品のテーマだった。それは、完全無欠・正確無比であるからといって、何の疑いなく機械に全幅の信頼寄せることに警鐘を鳴らしたことであった。


あらすじはこう。スペースコロニーを維持管理する人工知能のコンピューターに対して、オペレーターの織部路音(おりべ・るおん)が重大事故に繋がる予兆を感じて疑い始める。絶対的性能のコンピューターの前に、同僚らは織部の疑いに耳を傾けずに、おかしい者として排除しようとする。しかし、コンピューターには疑うだけのおかしい事象がたしかにあった・・・。


この作品の放送の二ヶ月半ほど前、日航機123便事故が起きる。機体がコンピューターで維持管理されて航行しているから“墜ちない”と云われた絶対安心のジャンボ機が墜ちたことで人々にショックを与えた。それゆえに、『オアシスを求めて』は、スペースコロニーにそのジャンボ機を準えたものとして捉えられて話題となったのだが、じつは制作されたのは、日航機123便事故の前であったから、事故そのものへの他意はなかった。


現在の眼で見るとたしかに『オアシスを求めて』の特撮や、作品内に出てくるコンピューター機器やモニター映像は古くさい。しかし、この作品のテーマは現在でも通用する普遍的なものである。


飛行機はジャンボ機であろうとセスナ機であろうと、墜ちるときは墜ちるし、そこになんらかの原因が必ずあるものだし、だいたいが未然に防げるものだと云われている。それは飛行機だけではなく、すべての事柄にも云える。


原発事故だってそう。「事故防止の対策は出来ている」と喧伝されて安全を謳ってきた原発ではあったが、結局はそうならなかった。おそらく、事故防止の対策に疑い持っていた関係者は多かったと思う。ただ、『オアシスを求めて』の織部路音と同様に、それが想定外と云われていたり、コンピューターによる診断のほうが採用されていたため、聞く耳持ってもらえなかったのだろう。


『オアシスを求めて』に話を戻そう。物語のクライマックスはこう展開していく。オペレーターから外された織部路音は、手がかり得て、秘匿とされていた人工知能を管理するところに辿り着く。そこでは織部の疑いの問いに対して、人工知能なりの理路整然とした理屈突きつけられたが、それは安全を得たい人間にとって看過されるものではなかった。織部は隠していたマイクロビデオカメラで、人工知能の脆弱なる正体とその“屁理屈”を世界中に中継した。そして、形勢が逆転され、スペースコロニーの維持管理は人工知能だけに頼らず、人間による診断も入っていくことを決めて、未来に希望持たせたエンディングとなった。


放送から11年後の1996年にNHK BSで一度だけ再放送されたらしいが、いまだからこそまた再び放送してほしい。そう願う作品だ。

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