テレビとともに歩む
テレビの実験放送から出演
2023年2月でテレビ放送が始まって70年を迎えるんですってね、私が今85だから人生のほとんどをNHKで過ごしたような感じですね。
まだテレビ放送が始まる前、NHKが1940年に始めたテレビの実験番組『
まだちっちゃかったですけど、ちゃんとお仕事をやっているという「仕事感」はありましたね。子どもらしくワーワーと遊んでいても、「メイコちゃんそろそろ本番行くよー」て言われると、「はい!」と言って「さあ本番だ!」と切り替えていました。
下.『謡と代用品』(1940) テレビ実験放送 カメラマンは白衣姿
お買い物競争みたいな生放送
NHKがテレビ放送を開始した翌年、『今晩わメイコです』という番組をさせていただいてて。その頃はもちろん生放送でしょ、だから一定の時間内で本当の早替わりをしなくちゃいけないのね。それで「メイコちゃん今顔だけ録ってるから、下脱がして脱がして!」とかって、私19歳で年頃の娘だったんですけど、もうどんどん衣装さんが私を脱がしていって。大人になったら服装を変えて、今度は「足元撮って!足元撮って!」て言って、お買い物競争みたいでしたね。
出演番組の思い出
『連想ゲーム』
『連想ゲーム』は1968年に放送された『みんなの招待席』のクイズコーナーから始まった番組です。私は女性チーム「紅組」の初代キャプテンを務めました。男性チーム「白組」のキャプテンは加藤芳郎さんでした。アシスタントから渡された紙に書いてある答を、司会者から指名された解答者の人たちに答えさせるために、キャプテンがヒントを出すのが基本です。ヒントを次から次から出していかなきゃいけなくて頭を高速回転させる必要があるので、みんなが「キャプテン大変だったでしょ」って言ってくださるんですけど、性格的に全然そんなことなかったんですよ。
ヒントの例はNHKのスタッフがカードにばあーっと書き出したものを、番組が始まる5分ぐらい前にキャプテンに手渡してくれるんです。参考にはしますけど、つまんないのもあって、やはり自分で考えないといけないんですよ。そういう意味では非常に知的なゲームでしたよね。私は(そういう知的な感覚を楽しめる)生放送だからやっていたところがあったんです。
『お笑いオンステージ』
『お笑いオンステージ』をやった1972年からの約10年間で、女優として怖いものがなくなりましたね。女学生から婆さんまでありとあらゆる役をやりましたから。今考えたらよく引き受けたと思うんですけど。女子プロレスが流行っていたころに、グラマラスなあき竹城とやせっぽちの私とでレスラーの役をしたこともあります(笑)。分かりやすい喜劇だし、手っ取り早く笑える。それでいて品が悪くないという、そういう勉強をあの10年間でしましたね。
私はある時から自分は喜劇女優だということで通そうと思ったんですね。これはユーモア作家だった父の願いというか、家庭内命令みたいなものがありまして。子どもに「お母ちゃん、行かないで」なんて言って涙をこぼす役だけはやらせたくないと言うんです。だから小さいときはエノケンさんとかロッパさんとか柳家金語楼さんとかとそういう喜劇をやっていました。きっと父はハリウッドの喜劇路線に魅力を感じていたんでしょうね。
中村メイコのテレビ論
テレビの面白さは役者の演技
何でも物事っていうのは進歩が必要ですから、テレビもずいぶん面白いことやビックリすることができるようになった。でも、それは技術の面で、演技っていうのはまた全然別の話だと思うんですよ。だから、びっくりした顔って言ったってカメラがワーッと大アップによってくださることはあっても、演技することはまた別だと思うのね。
昔、私の周りには本当に素晴らしいバイプレイヤーの方が大勢いらしたんですよ、子供の頃から少女期も全部ね。そういう先輩方のなさる映画の演技、お芝居の演技そういうのを子供心において素晴らしいと思って育ってきまして、結局なかなか追いつけませんでしたけど。でも本当に昔は、きら星のごとく素晴らしい女優さん男優さんがいらっしゃいましたね。
メイコの脳ミソがパンクする(笑)
テレビジョンができた当時、ビックリしたお年寄りはたくさんいたんですから。どんどん科学が進歩すればいろんなジャンルでいろんなことができるようになるとは思うんですが。今だにね、絵柄というのは、ここまでワイドにしなくてもいいだろうとか、ここまで色つけなくてもいいわよとか、ここまで画面をいじくらなくても生の状態を見たいわ、と思うことがありますね。
だから、私2歳半からこのお仕事を始めて85年生きちゃったんですけど、もうそろそろ寿命だからちょうどいい時に去っていけると非常に明るくとらえてます。これ以上いろんなことが進歩したらきっとメイコさんの脳みそはついていけないと思いますね(笑)。