余白

 

 

歴史上、最も有名な余白はフランスの数学好きな裁判官が、ひとりごとを書き記した、「Arithmetica」という、古代ギリシアの数学者ディオファントスの書いた浩瀚な、全部で13巻にも及ぶ本の、それでしょう。

この自分が発見した数学上の定理の証明を、めんどくさがって書かないで省略してしまう悪い癖を持つ数学趣味の法律家は、

「立方数を2つの立方数の和に分けることはできない。4乗数を2つの4乗数の和に分けることはできない。一般に、冪が2より大きいとき、その冪乗数を2つの冪乗数の和に分けることはできない。この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」

Cubum autem in duos cubos, aut quadratoquadratum in duos quadratoquadratos, et generaliter nullam in infinitum ultra quadratum potestatem in duos eiusdem nominis fas est dividere cuius rei demonstrationem mirabilem sane detexi. Hanc marginis exiguitas non caperet

という恐ろしいメモを残して、そのまま死んでしまう。

父親をよく理解していた息子は、13冊の本の、あちこちの余白に、様々に書き残された書き込みと共にArithmeticaを出版するが、

なかでも特に、このメモは、才能豊かな数学者たちの悪夢となって、

アンドリュー・ワイルズが1993年に証明するまで、死屍累々、200年以上に渡って、数多の数学者の才能を虚しく消費することになります。

この、最後のところの

「私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」は、世界でも有数の数学民族である日本語人の世界でも有名であるとおもう。

余白の効用は、なにか、ぽっかり空いた空間や時間があると、なんだか慌ててぎっちり埋めてしまう習慣がある日本の人には、なかなか判りにくいようで、隙間なく、運動会のお弁当のようにギュッギュッと忙しくなってしまうので、返って頭がぼんやりする。

むかしむかし、その様子を見ていて、それでは意識に雲がかかったようになって大変だろう、とお節介なことを考えたので、

「「時間を取り戻す」_経済篇」

https://james1983.com/2021/09/29/time/

という記事を書いたことがある。

いま見ると、12年も前に書かれた記事です。

(やれやれ、歳をとるわけだ)

需要があるところに供給があると、わっと広まって、物価があがり賃金はなぜか下がる。

魚心あれば水心あり、は、ちょっと違うのか。

いつも集団をなして、ぼくへの中傷を広めてあるいている人たちのひとりが、

なんだか自分が書いたもののような顔をして、ちゃっかり書き換えて使っているのを見て、嫌気がさしたので、削除するまでは、tumblr2ch、あるいは現実にそうであるわけはないが、

こちらから見ると、まるでぼくを中傷誹謗するために存在しているような「はてな」コミュニティでまで、何十回も引用されて、

日本語の「余白」に丁度よかったようなので、

長いが、そのまま引用されてきた部分を書くと、

『時間というものは一時間あったら50分しか使ってはいけないものだ、とわしは子供の時おそわった。
どんなに根を詰めても10分は休まないとな。
朝の8時から起きて一日を過ごせば、午後8時にはほぼ完全な休息に入らなければ人間は人間でなくなってしまう。
10歳以下の子供なら午後8時はもうベッドに入っている時間である。
眠るためでもあるが、日常とは切り離された時間のなかで、いろいろなことを考えるためです。

日本のひとは時間を隙間なく埋めてしまうのが大好きなようにみえる。
「ぎっちりした時間」が出来上がると、ちょっと嬉しそうだ。
逆に午後4時から午後7時まで「なにもない空白」な時間があると、とても不安になったりしそうである。
この3時間を、どうやってすごせばよいだろう。

ほんとうは、3時間も空いてしまったら、大チャンスなのだから、もしきみが海辺の町で仕事をしているのだったら、ベーカリーによってクリーム・バンを買って、コーヒーのボトルをもって、海辺のベンチに歩いておりていって、ぼんやり海を見ているのが良いのです。
ずっと昔のことを考えて、ああ、あんなことあったなあ、と頭の奥のすみっこで曖昧な輪郭をなしている記憶を呼び起こす。
持っているクルマのサードギアがスムースに入らないのはなぜだろうと思う。
自分にはどんな伴侶が向いているのだろう。
SF
って読んだことないけどおもしろいのかな。

文明人の特徴というべきか定義というべきかは、まさにこれであって、文明人で精神が健全なら「3時間」などは、そうやってぼんやりものごとを思い浮かべているだけであっというまに経ってしまう。
そうやって3時間を過ごせないで退屈してしまうひと、というのは、それだけ自分の中の文明が破壊されてしまっているのだと思います』

なんのことはない、ニュージーランド人やイギリス人にとっては、ごく普通の生活感情を書いただけだが、西洋の姿の9割が実はアメリカ合衆国である日本の人には、嬉しいことに、驚きだったのでしょう。

あっというまに、燎原の火のように、オーストラリアの夏のブッシュファイアのように、書いた当人が記事を削除するまでは、広まっていった。

要約すると、簡単で、漱石の造語が好きなので、使うと、単簡で、

「一時間というページがあったら、その6分の1は、余白にしないと、本をなせない」ということです。

ついでに、ところどころ暫くジッと見ていたくなるような挿絵が入っていれば、その人生は、ずいぶん成功に近いのではないか。

賭博は、不動産の経営や政治や軍隊やと並んで家業のひとつなので、

普段からは到底想像できない、まともな服装で、カシノのクラブに出かける。

このごろは、もうめんどくさくなったので、あんまり出かけなくなって、ロンドンかラスベガスのテーブルくらいにしか行かないが、ついでに、余計なことを書くと、ラスベガスは欧州的な「クラブ」は違法なので、なんだか高額テーブルほど行きにくくなるデザインで「クラブ的なもの」をつくっているだけだが、ロンドンやなんかは、ちゃんと会員カードみたいなものがあって、入り口で自分の番号を告げると、受付に座っている、ものものしい服を着た、謹厳な顔のおっちゃんが、ものものしい革表紙のノートを広げて、

番号と時間を記します。

お飲み物は

なにか食べ物をお持ちしましょうか?

ひさしぶりですね

もうギャンブルはやめましたから

冗談ですよ

ブラックジャックのテーブルに付いて、時間にも、道徳にも、財政にも、

「余白」をつくります。

ニュージーランドのなかでは、最近までは、最も英国的な町だったクライストチャーチにも、まったくロンドン式なクラブが存在して、

なにしろ発案者でグランドデザインを考えたのが名うてのUK人ギャンブラーのSir Aspinallなので、二階から、また階段をあがる部屋へのぼってゆくと、以前は、ロンドンにワープしてきたようなもので、

居心地がよかったので、ときどき出かけた。

ここまで全部が前置きなんだから、すごいね。

このクラブのブラックジャックテーブルのディーラーをしていた女の人が利発な人で、話がとても面白くて、交代する他のディーラーも頭の回転が早い愉快な人が多かったので、その晩は、ブラックジャックをしているというより、お話しお話し、と、いいとしこいて集まって来たおとなたちが目を輝かせてポケットから取りだした懐中時計を見つめるウサギの話に聴き入るような、ヘンテコリンな夜だったが、なかでも面白かった、この女の人はフィリピンの人で、クライストチャーチ空港に着いて、宿まで、

通りをまったく誰も歩いていないので、

ニュージーランドが、どこかの国と戦争を始めたのだとおもった、と述べていた。

テーブルの端っこにいたアメリカ人投資家のおっちゃんが、

「ニュージーランドと、どこが戦争するんだね。

南極のペンギンですか?」と混ぜっ返していたが、この人は、普段は隠れているが、

ニュージーランドの地底には、超絶頭が悪くて、アジア人が大嫌いな、最底人という内戦を起こしかねないバカ種族がいるのを知らなかったのでしょう。

ところで、このフィリピン人の女の人がシューの終わりに、残り少なくなったシューのカードを見つめながら、

「ここは、まるで余白のような国だわ」と呟いたのをおぼえている。

賢者というものは、どこに、どういう姿で降臨しているかわからない。

LLMが開発した当人たちも驚愕するほど、実際にAIで、

世界中が沸き返るようになっている。

おれのまわりは沸き返ってねえぜ、という人もいそうだが、

それはですね、立っている場所を間違えているんです。

AI、AI、AIで、

義理叔父が大好きで、ときどき、突如として壊れたオルゴールのように歌いだす、

お猿さーんだよ、アーイアイ

という歌のようだが、あの歌は、いったいなんなんだ、ということは別にして、日本の人も、ここがロドスだ、ここで跳べ、とばかりに、ぐわっと飛びついて、すごいすごい、ああ、もうダメ、どうしてこんなにいいんだ、

もう絶対に放さない、とばかりに夢中になって、目の下に隈をつくっている様子がインターネットから窺えるが、

よく見ると、もうすでに、追随が主になって、模倣技術化しだしているのことに気が付きます。

マネッコである。

マネッコ、悪いことじゃないけどね。

ちょっと退屈なんですね、マネッコ。

いや、見てるほうが、じゃなくて、やっているほうだけど。

なぜそうなるのか観察していると、「役に立てようとしすぎる」からだと判る。

道具なんだから、当たり前でしょう、という人もいるでしょうけど、

いやいやいや、ノコギリだって、いいノコギリを手にすると、ただ切るためだけにノコギリを挽きたくなるもんです。

ChatGPTなんて、4になってから、余白をつくるのに持ってこいで、

DiabloHaloと同じで、夢中になっているうちに、あっというまに一日が立ってしまう。

ましてMidjourneyにおいておや。

そうして、初めて、個々の、煦煦としたAIの別は、どうでもよくなります。

知性のパチモン、と蔑称されるところから、ようやく這い出たAIが、

どれほど広大な知的空間を生みだしたかが判ってくると、

とにかく、行けるところまで、この方角で行ってみたい、と考えるのは、

知性がある人間の普通の気持ちでしょう。

いわば、そこには広大な「余白」が出来ている。

余白でなくて、白紙かな?

余白にするのは、書き込む「新しい人」の群で、

どうやら、この新しい余白には、

様々な、この何百年も人間を悩ませる書き込みがなされそうです。

たいへんな幸運で、

いま生きている人は、例えば40歳にもうすぐ手が届くという人は、

IT革命とAI革命という、国家の革命や産業革命など問題にならない、

すんごい革命に、ふたつも生まれ合わせる幸運に恵まれている。

革命が起きた証拠には、昨日までは、まあまあ良さそうに見えたものの大半が、実はガラクタや無駄にしか過ぎなくなってしまっている。

AIは自分が魂に届かない、まさにそれが理由で、おなじく魂に届かない

「知的作業」を浮き彫りにしてしまった。

判りにくいならば、例えば、詩人に対するコピーライター、

画家に対するグラフィックデザイナーを考えれば、判りやすいかも知れません。

コピーライターやグラフィックデザイナーがパチモン芸術家だと考えるのは間違っていて、職人は職人で、才能があるひとびととして尊敬されるべきだが、不運なことに、そのマーケティングの部分から極く近い将来にAIに乗っ取られる運命であるように見えます。

文学においても絵画においても音楽においても、

どれほど名声がある作家でも、パフォーマーでも、

カルト的な人気を誇る作家でも、

AIは易々と取って代わるに違いない。

いろいろに計算してつくるタイプの作家は、真っ先にAIの技倆に打ちのめされるはずです。

人間の手には、多分、魂しか残らない。

余白と、魂と、このふたつを財産に

人間の新しい文明が船出しようとしています。



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