田村飛行隊長は話を続けた。
自衛隊と米軍では123便の墜落地点を正確に把握していたが、国の上層部はそれを直ぐには公表しなかった。123便にB-1の塗料が付着している可能性があるとして、先ず意図的に墜落地点の誤報を流した。
その間に陸上自衛隊の精鋭部隊である習志野第1空挺団が大型ヘリで墜落地点に飛び、残骸の中から塗料が付着している部品を回収したのである。回収を終わらせてから国は正式な墜落地点を公表した。それは日付けが変わった午前4時頃だということだ。
もう一つの現場、相模湾には123便の損失したラダーなどを捜索する為に明け方から自衛隊の航空機と護衛艦を出動させた。勿論それにもB-1の塗料が付着している可能性があったからだ。
そして昼前に垂直尾翼の一部を発見し、すぐにそれを護衛艦に積んで海上自衛隊の館山基地へ搬送したということだ。
[注記]
⚫︎最新鋭ステルス機. B-1ランサー爆撃機の塗料は極秘の電波吸収材料であり、当時は剥離し易い繊細な材質であった。この黒い剥離片が飛び散ったことは想像に難くない。
[ B-1 に気付かなければ. 経緯上オレンジ色という痛恨のワードを連想することになる ]
⚫︎田村飛行隊長の階級では国家機密を全て知り得る地位にはない為、これらの話は上層部からの伝え聞きと考えられる。よって全てが事実とは限らないことに注意を要する。
田村の話が終わってからも暫く誰もが黙り込んでいた。沈黙を破ったのは阿部だった。
「隊長、私達は入隊以来、血を吐くような厳しい訓練に耐えて飛行機乗りになりました。それは国を守る為、国民を守る為という崇高な責務があったからです。
今更青臭い事を訊くなと仰るかもしれませんが、私達は何の為に命を賭けて飛んできたのでしょうか」
阿部は薄っすらと涙を浮かべ、谷口は涙が落ちないように上を向いていた。
田村は少し時間をおいて、
「今回の件で君達は十分責務を果たしたと思っている。君達の努力であのJAL機をほぼ助けられる位置まで誘導した。そしてJAL機がもし着陸を失敗したとしても、私が思うに上層部のいう二次災害は起きなかったろうし、ましてや520人もの犠牲者を出すことはなかっただろう。
ただ今回は余りにも特殊な事故だった。JAL機のエスコート以降は完全な政治的判断であり我々の範疇を超える出来事だったんだよ。解ってくれ」
暫くの沈黙の後阿部が、
「隊長、分かりました。私達の手の届かない領域では仕方ありません。しかし理解して納得するにはもう少し時間が必要です」
そして白鳥が、
「隊長、この件でもしかしたら内調が動いているんですか」
そう訊ねると同時に3人が阿部の方を見た。
「阿部、どういう事だ」
阿部は躊躇ったが田村に催促されてK子の話をした。
「そうか分かった。帰国したら阿部の代理として見舞いに行って来る。内調は皆も知っているように防衛庁も全く口出しが出来ない組織だ。ただし長官を通して意見する事くらいは出来るので阿部の件は話してみる。命まで取られることはないと思うが言動には十分注意してくれ」
そして10月1日付で全員に硫黄島勤務が言い渡された。4人は驚いて互いの顔を見た。
表向きは基地司令が彼等の身を案じて配慮した勤務地ではあったが、口封じの為の異動のように思えてならなかった。
■ 第4章
硫黄島にて
阿部は悩み続けていた事に終止符を打つことを決意し同期の谷口に近々自衛隊を辞するつもりだと打ち明けて、10月半ばに辞表を提出した。そして悩み苦しんだ末にK子に惜別の想いで手紙を書いた。おそらく彼女は内調にマークされ続けているであろうから、このまま自分と一緒に居たらまた何が起きるか分からないからである。
辞表を提出した夜、谷口、白鳥、北沢にその報告をした。皆は阿部の気持ちを十分に理解したが非常に残念がった。
辞表が受理されるまでに約1ヶ月を要したがその間は通常勤務に就き、除隊日が昭和60年12月28日に決定してからは除隊準備の為千葉県の下総航空基地へ異動となった。
除隊後の就職については、飛行機から一切足を洗いたくて新宿にある大手の建設.不動産会社に就職することにした。
■ 第5章
阿部は再就職してからは徐々に仕事と環境に馴染んでいき、暫くしてから付き合い始めた同僚の女性と1年間の交際を経て結婚した。ささやかな幸せを感じながらも、除隊以後明らかに誰かに尾行されている事が常に気になっていた。いつまで続くのかと憂鬱だったが決して妻に話すことはなかった。
そんなある日、久し振りに北沢が会いにやって来た。北沢を含めた3人は1年前に浜松基地に転勤していた。最初は部隊内の話題で盛り上がったが、暫くの雑談の後北沢は会いに来た本当の目的を話し始めた。例の事件をまとめて本を出版するつもりでいると言うのである。
「北沢、お前の気持ちは十分解る。俺も出来ればすべて公にして欲しい。しかしそれは自衛隊法に抵触するばかりか、自分のみならず親.兄弟まで危険に晒す事になるかもしれんのだぞ」
阿部は北沢に出版を思い留まるよう何度も説得したが聞き入られなかった。そしてこれが阿部が見た北沢の最後の姿となった。
■ 第6章
北沢が失踪してから5年の歳月が流れた。阿部達はこの失踪には必ず内調が関係していると考えており、それ故に北沢は既に他界したと思っている。口には出さないが皆確信していた。
そして阿部はこの頃になって北沢の遺志を成し遂げてやろうと真剣に考え始めていた。
ところが急にグアムとニューヨークを行き来する仕事が舞い込んできて、このプロジェクトによる多忙の日々は実に5年間も続き、これを契機に阿部は離婚という人生の節目を経験した。それから更に8年の歳月が流れ、その頃にはようやく尾行の気配もなくなっていた。そして阿部は2度目の結婚をしていた。
ある日のことである、テレビのニュースで日航123便が今年で23回忌を迎えるとの報道を眺めながらしばし当時の出来事に思いを馳せていると、北沢のことが頭に浮かんで来た。
そこで阿部は、やはり公に出来なくても事実の記録として残すべきだと決意した。場合によっては25回忌に合わせて記録を公にしてもよいと考えたが、それには絶対に周囲に危険が及ばないよう細心の注意を払って行動せねばならないと自らを戒めた。
■ 第7章
平成21年5月19日、阿部はいつものように出勤の為バス停に向かっていたところ、
「阿部さんですか?」と警察手帳を提示して刑事が声を掛けてきた。
「確認したい事があるので暑までご足労願えますか」
. . そして阿部は業者に現金を強要したというまったくの濡れ衣を着せられた形となり、身柄を拘束されてしまった。その3日後警察署に2人の男が面会に来たので面談室に入ると、いつもは警察官が立ち会うのにその日は誰も立ち会わなかった。
「初めまして、私達はこういう者です」
見せられた手帳には【内閣調査室之証】とあり、阿部は一瞬緊張した。
「阿部さん、今年になって前職のことで何か作成していませんか」
「えっ、何のことでしょう?」
「では単刀直入に申し上げます。あなたは自衛隊時代、日本航空123便が御巣鷹の尾根へ墜落した件に深く関与されましたね。そしてその時の誰も知り得ぬ記録を残そうとしている。違いますか?」
「. . . . . 」
「あなたは当然自衛隊法第59条を知っているはずです。その記録は何処にありますか。パソコンを押収しましたがその記録が見つからないんです」
そういえば数日前、現場事務所に空き巣が入って会社のパソコンが盗まれたことがあった。こいつ等の仕業だったのか.. でもなぜ俺が記録を残そうとしていることが判ったのだろう。阿部は考え込んでしまった。
「パソコンの記録を削除しても、あなたの記憶までは削除出来ないですからね。だから家宅捜査は意味が無いのでやりません」
「本当はその件で私を拘束したのですか?」
「阿部さん、業界では通例かも知れないけど罪は罪ですよ。来年の8月12日はご存知のように25周忌です。それまでおとなしくしていて下さい」
阿部はおとなしくの意味が後になって解った。(これが意味する記述はなかった)
■ 第8章
平成22年8月24日、阿部は刑務所の門を出た。内調から「これ以上犠牲者を出さないように」と最後に言われた言葉が頭から離れない。門外は久し振りに見る外の景色であった。この懲役で2度目の離婚を経験していたので出所に際して誰一人として出迎えはなかった。彼女には犯罪者の妻という汚名を着せてしまい本当に申し訳ないことをしたと思った。
阿部は蒼空の下、郷里の札幌に帰るため羽田に向かい敢えてJALに搭乗した。
新千歳までの1時間半、これ迄の人生について考えることは尽きなかった。
あのJAL機が夕暮れの空を彷徨したように、自分の人生もあの日からそしてこれからも彷徨し続けるのだろう。 完
あとがき
私はこの記録を公にするか今だに彷徨している。もしかすると棺桶まで持って行くのかもしれない。ただ、あの墜落事故により人生を翻弄された男達がいたことを記録に残したかった。
最後に、この記録で再び犠牲者を出すのは本意ではない。
日本航空123便で亡くなられた方々の安らかなご冥福をお祈り致します。
記 平成22年10月14日
阿部 典之
あとがきに添えて
この手記は事故に直接関わった阿部氏が苦渋苦難の日々を乗り越えて書き綴った大切な記録である。私のブログ上での公表と検証の参考とするのを快諾してくださったことに感謝の意と敬意を表する。
阿部氏はおそらく13年前に記録を完成させた時から公にするのを本意とし、今回は既に最後の覚悟を決めておられると拝察するがそれでも尚御身を案じる。
この記録は世に公表するには余りにも衝撃的で重い内容であった。私などには想像もつかない程の苦悩と葛藤の経験をなされたであろう。
一読しただけでは、原因はあたかも海上自衛隊の訓練用標的機で最終的な判断は日本国首脳が下したという構図となる。これは隠れ蓑として事実を覆い、漏洩した場合でも俗説に紛れさせて事実から遠ざけようとする内調の意図と解釈した。そうでなければ阿部氏はこの記録を携えたまま無事では済まされないからである。
しかしその思惑は阿部氏が忍ばせた[ B-1 ]で完全に翻ることになり、全容に於いて米国の関与をあまり感じさせない不自然さが随所で浮き彫りになった。
あくまでも私見だが、日本国としては日米安全保障条約を守る為に唯々諾々の命を下さざるを得なかったと推察する。
何れにせよたいへん貴重な実録であるから凡庸な私があれこれと加筆するべきではなく出来る限り元本に忠実に書き下ろした。有志の方々には是非読解していただきたい。
最後に阿部氏. Y氏お二人の御高配と御采配に謝意を表し、何より無事でお暮らしいただけるよう心からお祈り申し上げます。
そして、この事故でお亡くなりになられた520名の安らかな御冥福と、生存者の方々のご健勝をお祈りして終わりの言葉とさせていただきます。
令和5年5月12日 黒田 匠