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雑学曼陀羅

ヤマトダマシイ 国家的な刷り込み

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古事記 Izanami and izanagi




 植え付けられた大和魂と武士道

 天壤無窮の神勅

 サクラ教科書の制定された翌年の一九三四年(昭和九)に、尋常小学校に入学された方の修身の試験答案を見せた頂いたことがある。一年から六年までの答案であるが、各学年とも三問あるうち、第一問と第二問は共通である。第一問は二月十一日は何の日か、それはどんないわれがあるかというものであり、第二問は天壌無窮の神勅を書けというものである。

 天壌無窮の神勅というのは、アマテル大神が地上に降り立つニニギ(神武天皇の曽祖父)にたいし、豊葦原瑞穂国(日本)を永久に統治せよといったというもので、天皇の統治の歴史的根拠として国民に叩き込まれたものである。「君が代は千代に八千代に」の歌も本来は祝事の賀歌であるが、これも右の神勅と関連させて解釈された。

 参考までに天壤無窮の神勅を記しておく。

豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治せ。行矣、 宝祚の隆えまさんこと、当に天壌と窮り無けむ

 余談ながらこの話を別の同年輩の方にしたら、やはり同じ問題であったことを憶えておられ、第一問に「ぼくの誕生日」(この方は偶然二月十一日生れ)と書いたところ、職員室に呼ばれてこっぴどく殴られたという。いまだに釈然としないそうだ。

 各学年とも第一、第二問は同一問題であるから、六年生ともなれば全員正解となろう。わたくしに答案を見せて下さった方は、第二問は最初は片仮名、ついで平仮名(当時は片仮名を先に習う)、四年生からは漢字交じりで正確に書いておられた。こうした教育を小学校一年から繰返し叩き込まれれば、どんな人間になっていくか想像して欲しい。この方もやがて陸軍士官学校に入学されており、敗戦後大学で歴史学を学ばれたが、最初の動機は皇国史観の復活を目指してのことだったと伺った。インプリンティングの典型である。

 富士は日本一の山

 日本の伝統とか日本的といわれるものの多くは、明治期の産物である。

 たとえばサクラとならんで日本の象徴とされる富士山は、古来東海道の風物として有名であった。万葉集の山部赤人の歌に始まり、火を吹く富士山を祭神とする浅間神社もあり、近世には江戸から見た富士が葛飾北斎の絵によって知られ、また山岳信仰の対象として富士講が江戸から東海地方にかけて組織された。たださかんに火山活動をしている時には、恐ろしい山であった。

 猪瀬直樹氏の『ミカドの肖像』(小学館 一九八六年)によると、富士山のイメ-ジの全国的浸透は、志賀重昂の『日本風景論』(一八九四年、)によることが多いらしい。志賀重昂は日本列島各地を旅行し、コニ-デ型の山に「なんとか富士」と命名して歩き、富士山を見たこともない多くの日本人に想像上の富士山の姿を焼き付けた。人々は郷土の高山に富士山のイメ-ジを見たのである。これも一種の刷り込みであろう。

 明治末以来子どもたちによって広く歌われた「せいくらべ」の歌の二番に、「富士は日本一の山」という一節がある。現実に富士山を見たことがない子どもたちも、この歌を通して富士山の姿を想像し、「富士は日本一の山」と信じた。余談ながら「せいくらべ」は静岡市曲金出身の海野厚の作詞であるが、この曲金周辺からは南アルプスの山々が背比べするように並び、その東端に位置する富士山が際立って高く見える。まさしく山々の「せいくらべ」である。この風景はまことに素晴らしく、わたくしも静岡に移り住んでこの歌を実感した。

 各地の「なんとか富士」によって培われる富士山への想像力こそ、人々を国家に結びつけた求心力になっていったのである。『日本風景論』の【講談社学術】文庫版【(一九七六年)】の土方定一氏の解説によれば、「これまでの大和的、盆景的な景観意識に対して、日本人の景観意識に重要な変革を与えた革命的意義をもっていた」そうであるから、この書の影響は測り知れない。

 「君が代」と「日の丸」

 幼少時体験というものはきわめて情緒的なものである。文部省係官の言い方を借りれば、まだ合理的な考えの育っていない小学校低学年に叩き込まれているわけだから、理屈では説明できない。しかも数々の儀式や集団訓練で体に叩き込まれている。パブロフの犬のようになんらかのサイン(目の前にある器物、音楽、号令)に体が反応するようになっているのである。

 わたくしは一九四四年(昭和十九)入学の国民学校の世代であるが、毎日一時間は「キオツケ、マエヘナラヘ、ミギムケミギ」の号令で集団行進の訓練をしていた。今でも「日の丸」「君が代」に対しては体の方が先に反応する。低学年で体に憶えさせられた結果であろう。ただしわたくしの場合は、あの時代に戻りたくないとする拒絶反応の方である。

 小さい頃から自分の体に染み込んだものを批判されたりすると、自分の全人生が否定されるような危機感をもち、きわめて感情的権力的に反応するのである。それは「日の丸」「君が代」の歴史的法的根拠を問われたときの逆上ぶりによく窺われる。理屈では答えられないのである。

 「君が代」については旧版でくわしく述べたから、ここでは「日の丸」について述べよう。日本は中国から見て「日辺」にあり、「日出づる国」である。しかしこれは大和国家の専売特許ではなく「日の本」族は、大和より東の東北地方にも蝦夷島にもいた。太陽信仰はどうか。オオヒルメ(大日の妻)をアマテル大神とする。太陽に仕える巫女がいつのまにか太陽自身に同一化した。そのいわれを知らなくても海上から、あるいは山並みから昇ってくる太陽を崇拝するのは、日本に限らず人間自然の情である。

 とくに武士が太陽信仰をし、戦国時代には「日の丸」を掲げたというが、その事例がはっきりしない。朝日はどのような赤なのか、茜は夕日の色のようだが。また「白日」「黄道」ともいうではないか。民俗学者早川孝太郎は武士の猪狩に注目し、猪や鹿など獲物を包んだ布に注目している。わたくしは首狩族であった武士たちが、敵の首を包んだ布に注目している。

 幕末に薩摩藩の献言で日本総船印として採用され、明治維新後の一八七〇年商船旗となったが、それにとどまり、一九三一年大日本帝国国旗法案が成立しなかったように、とうとう法制化されなかった。なお戊辰戦争では幕府軍が日の丸を、新政府軍が菊の旗(菊は天皇家の紋章)を使用した例がある。

 現在サクラと富士山、あるいは「日の丸」「君が代」で育った世代が、日本の各界のトップに立っている。かれらが敗戦後の長い人生で幼少時体験を克服し、自から歴史的事実を見きわめることのできる理性ある人間に脱皮しているかどうか。否むしろこれらの世代は、年とともに自分たちの幼少時の体験に疑問をもつことが少なくなり、むしろ理想化してしまっているのではないか。

 現在かれらによって国家的な刷り込み策が強力に推進されているが、新人類といわれる若い世代が、アヒルの域を脱することの出来なかった旧人類に対して、自分たちこそ真人類であることを行動で示すことを期待したい。



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