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※捏造過多
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ハリーはうつ伏せになって、静寂を聞いていた
完全に一人だった
他には誰もいない
自分自身がそこにいるかどうかさえ、ハリーにはよくわからなかった
時間の流れすらわからない…経っているのか、経っていないのか…
ハリーは、自分自身が存在しているに違いないと感じた
体のない…想念だけではないはずだ…
なぜなら、ハリーは横たわっていた
間違いなく、何かの表面に横たわる触感が、ある
自分が触れている、何もかもが確かにそこに、存在している
ハリーは明るい靄の中に横たわっていたが、これまで経験したどんな靄とも様子が違っていた
靄のような水蒸気が周囲を覆い隠しているのではなく、むしろ、靄そのものが、これから周囲を形作っていくようだった
どこもかしこも、真っ白で…
ハリーの横たわっている床も…
温かくも、冷たくもない
ただそこに、平で真っさらな物として存在し、何かがその上に置かれるべく存在した
ハリーは上体を起こした
体は無傷ようで、顔に触れれば、もう、メガネは掛けていなかった
その時、ハリーの周囲の、まだ形のない無の中から物音が聞こえてきた
軽いトントンという音で、何かが足をバタつかせ、振り回し、もがいている
哀れを誘う物音だったが、同時にやや猥雑な音だった
ハリーは、何か恥ずかしい秘密の音を盗み聞きしているような、居心地の悪さを感じた
ハリーは立ち上がって、辺りを見回した
どこか大きな「必要の部屋」の中にでもいるだろうか?
眺めているうちに、だんだん目に入るものが増えきた
頭上には大きなドーム型のガラス天井が、陽光の中で輝いている
宮殿かもしれない
すべてが静かで、動かない
ただ、バタバタという奇妙な音と哀れっぽく訴えるような音が、靄の中の、どこか近くから聞こえてくるだけだ…
ハリーはゆっくりその場でひと回りした
ハリーの動きにつれて、目の前で周囲がひとりでに形作られていくようだった
明るく清潔で、広々とした開放的な空間
「大広間」よりずっと大きいホール
それにドーム型の透明なガラスの天井
まったく誰もいない
そこにいるのはハリーただ一人…
ただしーーー
ハリーはピクリと身を引いた
音を出しているものを見つけたのだ
小さな裸の子どもの形をしたものが、地面の上で丸まっている
肌は皮を剥がれでもしたかのようにザラザラと生々しく、誰からも望まれずに椅子の下に置き去りにされ、目につかないように押し込まれて、必死に息をしながら震えている
ハリーは、それが怖いと思った
小さくて弱々しく傷ついているのに、ハリーはそれに近寄りたくなかった
にもかかわらず、ハリーはいつでも跳び
やがてハリーは、それに触れられるほど近くに立っていたが、とても触れる気にはなれなかった
自分が臆病者になったような気がしたハリー
慰めてやらねばならないと思いながらも、それを見ると虫唾が走った
「救いようのないものだ」
ハリーはくるりと振り向いた
ダンブルドアよりも、背の高い中年ほどの男が立っていた
ブロンドの髪の両サイドを刈り上げ、前髪を後ろに撫でつけ、口髭を蓄えている
驚くことに、その男の眼は、オッドアイで右眼がかなり薄い青で、左眼が黒色であった
中年ほどに見えるというのに、その男はとてもハンサムで魅力的な容姿をしていた
目尻の皺や、口元のほうれい線さえ、その男の魅力を引き出すもののひとつであるかのように
その男は、ボタンの多い黒のコートの下にスーツを纏い、軽快な足取りで、ゆっくりとやって来る
「ハリー・ポッター」
その男は自分の名前を知っていた
ハリーは、どこかでその男を見たことがある気がした
「歩こう」
男はそう言い、軽く体を捻り、半分ほど背をハリーに向けて、片腕を広げ、促した
ハリーは、男に危険を感じることはなかったので、従いていった
背筋を伸ばして悠然と歩く男の横顔を、ハリーはじっと見上げながら、男が口を開くのを待った
なぜか、そうしなければいけない気がした
男は、哀れっぽく声で泣いている生々しい赤子をあとに、少し離れたところに置いてある椅子へとハリーを誘った
ハリーはそれまで気づかなかったが、高く輝くドームの下に椅子が二脚置いてあった
男がその一つに腰掛け、脚を組み、オッドアイの不思議な眼を細め、ハリーを不思議そうに見ている
不思議そうに…
「私が誰なのか、聞かないのか?」
ハリーは、咄嗟に言葉を返せなかった
男は続けた
「君は…君は実に不思議な男だ。そして、虫唾が走るほど優しい」
唐突に罵倒されたハリーは、ムッとしたが、その男が自分で言っている言葉に、自分で驚いているような様子なのに気づき、思わず黙った
「不思議だ。君の優しさは、多くのものを惹きつける。私も多くの者を惹きつけてきた」
男は続けた
「だが、私と君は違う。私は、君のような魅力を決して手に入れることはできなかった。’’そのようなもの’’、必要がないと切り捨てていた」
「どんなものですか?」
ハリーは、とうとう口を開いた
男は…特に気に留める様子でもなく、まるで独り言ように言った
「愛だ」
囁くように言った男に、ハリーは驚いた
どうしてか、この男がその言葉を使うことに、違和感があったからだ
「自愛によって己を尊び、慈愛によって人を慈しみ、敵が相手でさえも温情を忘れず、情け深い。どうしてだ?」
「さあ、わかりません」
ハリーは、まるで他人事のように答えた
「その昔、私は、ある女性と出会った」
男は、まるで独白のように、語り始めた
まるでそれを、ハリーに聞いてほしいというように、そして、ハリーから答えを聞きたいと思っているかのように
「私は、準備を進めるため、奔走していた。己が掲げた『より大きな善』のために、偉大な事を成し遂げるために」
ハリーはその言葉に、ピンときたが、なぜか、男の語りを止める気にはなられなかった
どこか、遠くに、男の話を聞いている気がしていた
「ある時、農場に住んでいた女に世話になった。女は、平凡で凡庸な、魔法も使えない下等生物のはずだった。なのに、私はその女性にどうしようもなく肩に力を抜かれた…」
男の言葉には、マグルへの嫌悪がはっきり現れていた
だが、それなのにその言葉は空っぽだった
「控えめで、口数の少ない女は、得体の知れない私のことを、知ろうとはしなかった。私は、なぜかそのことに腹が立ち、己を知らないのか、と女に聞いたのだ。マグルに聞いても、意味はないというのに…女は言った。「あなたは、仕事を手伝ってくれる。つまり、そういう人なのでしょう?」と……」
「しばらく女の家で世話になった……だがある時、私は、己の野望、為すべき事を達成していないことを思い出し、女の元を去った。それ以来、二度と女には会わなかった」
ハリーは、なんとなく、男の言うその野望に嫌悪感を催したように眉根を顰めた
「私は間違えた。愛など、己の体が否応なしに感じる、動物のような浅ましい行為を勘違いした、価値も何もないものに過ぎぬものだと、考えていた。だからこそ、私は女の顔を、二度と見たくはなかった」
「だが……野望が挫かれ、皮肉なことに、己が作った冷たい独房に、長い…長過ぎる時間を過ごしていた時、女の顔を思い出した。顔すら見たくないと、忘れていたはずの女の顔を…私は思い出そうと必死になった」
「その日から、友を、愛した女を、忘れた日はなかった。己の行いのせいで、くだらない野望のせいで、多くの者を傷つけた。後悔すら、もう聞き届けてくれる者すらいない。最期の時を冷たい石の中で過ごすのだと思っていた…だがーーー」
「ある時、ある子どもが、どうやったのか、独房にいた私を説得しにきた。遠い地からわざわざ犯罪者に会いに来る愚かな子どもが…いいや、子どもではなかった。その子どもは、私の愛した女にどことなく似ていた。子どもは……『アルウェン』と名乗った。私は…その名と、告げられる過去を聞いた瞬間、私の’’友を助けてほしい’’という懇願を聞き入れた。アルウェンは、それを為すことによって、再び私の名誉は戻るだろうと。史上最悪の魔法使いを阻止した者のひとりとして名を遺すだろうと言った。だが、私にはそんなことはもう、どうでもよかった。無様に朽ちてゆくだけの最期が、かつての友のために、愛する女の遺した’’唯一の形見’’の為に消費されるのならば、いくらでも差し出そう。この命はくれてやる。利用されてやる、と」
徐々に語気が強くなり、訴えるように語る男
ハリーは、男の話に、心臓がうるさく音を立て始めたのを感じた
「私は、アルウェンに真実を言うつもりはなかった。ただただ、あの子に利用されてやりたかった。あの子がトムを選ぶのならば、去る私を、’’アルヴィー’’が止めなかったように、私には、止める資格などない。あの子の父親は、すでに私ではない……止める権利がどこにあるだろうか?母親とその子を捨て、死に際すら駆けつけず、子の存在すら知らなかった私に、そんな権利などない」
ハリーは、目玉を落としそうな心地で、眼を見開いた
頭の中が真っ白になった
ハリーは、何もかも、信じたくなかった
「ハリー・ポッター」
男は、ふと思い出したようにハリーを見た
「君は、自分が死んだと思うか?」
「あ…なたは、死んでいる」
ハリーは、やっとこさ絞り出した言葉で、それが答えであるかのように言った
「ああ。’’私は’’死んでいる」
「それなら……僕も…」
「ああ」
男は、にやりと笑った
そして、すぐ真顔に戻り、膝に置いていた指を立てた
「’’私から’’してみれば、違う」
「違う?」
「ああ」
男は、まるで答え合わせをするかのようにハリーに答えた
「でも……」
ハリーは反射的に、稲妻形の傷痕に手を持っていったが、そこに傷痕はなかった
「でも、僕は死んだはずだーー僕は防がなかった!あいつに殺されるつもりだった!」
「そうだな。だが、そうなったのが君だったから、それ故に、大きな違いをもたらした」
男のオッドアイの眼に、強い炎があった
「どういうことですか?」
「わからないか?今の君ならば、察せると思ったが」
男は、顎を摩り、試すような鋭い視線を投げかけた
「僕、あいつに自分を殺させた」
「続けて」
「それで、僕の中にあったあいつの魂の一部は…」
ハリーは、自分を観察するように見つめるオッドアイをもう一度見た
その魅力的な顔が、感心したように歪められ、口角が上がった
「……なくなった?」
「そうだ。トムが己の手で破壊した。君の魂は、君だけのものとなった。もはや、何者にも害されることも、干渉されることもない」
「でも、それなら……」
ハリーは振り返って、椅子の下で震えている小さな傷ついた生き物を一瞥した
「あれは、なんですか?」
「’’我ら’’には、救いようのないものだ」
男は、またハリーを不思議そうな目で見た
顎に指をやり、傷ついた生き物には一瞥もくれず、ハリーだけをじっと見た
ハリーは、まるでシャーレに入れて観察されている気分になり、居心地が悪くなった
「でも、もしヴォルデモートが、『死の呪文』を使ったのならーー」
ハリーは話を続けることにした
「そして、今度は誰も僕のために死んでいないならーー僕はどうして生きているのですか?」
「わからんか?」
男は、眉を上げて聞き返した
「振り返って考えてみろ。トムは、ある種の無知、欲望、そして残酷さ故に、君に何をした?」
ハリーは考え込み、視線をゆっくり移動させて周囲をよく見た
二人の座っている場所がもしも宮殿なら、そこは奇妙な宮殿だった
椅子が数脚ずつ何列か並び、切れ切れの手すりがあちこちに見えるが、そこにいるのはやはり、ハリーと男の二人だけで、あとは椅子の下にいる発育不良の生き物だけだった
その時、何の苦もなく、答えがハリーの唇に上ってきた
「あいつは、僕の血を入れた」
ハリーが言った
男がにやりと笑った
「然るに、トムは君の血に価値を見出した。価値をつけた。そうして自分の生身の身体を再生させた。だが、それは君を殺したくて仕方がないトムにとって、致命的なミスになった。トムの血管に流れる君の血は、君の母親が君に施した護りそのものだ。トムが生きている限り、トムは君の命を繋ぎとめている。トムは、全てが精算される仕組みを、自らのミスにより作り上げてしまったのだ」
「僕が生きているのは………あいつが生きているから?でも、僕………僕、その逆だと思っていた。二人とも死ななければならないと思ったけど?それともどっちでも同じってこと?」
ハリーは、背後でもがき苦しむ泣き声と物音に気を逸らされ、もう一度振り返った
「本当に、僕たちにはどうにもできないのですか?」
「ああ。’’我ら’’にはな」
「それなら、説明してください……あなたは知っていますよね?…教えてください。もっと詳しく」
男は、脚を組み直し、真面目な顔をしてオッドアイの目でハリーの見据えた
「君は、トムが期せずして作った分霊箱だったのだ。君が殺されかけたあの夜、トムは自分の肉体だけでなく、それ以上のものをあの場に置いていった。生き残った君に、トムの一部が結びついて残された」
「言うまでもなく、トムの知識は、この私ですら凌駕するほど、とてつもなく深く広い。トムの知識欲は底がない。だが、トムには、その知識そのものが、はるかに己を凌駕する力を持っているなど、想像にもしていなかった。その上、決して理解すらできなかった」
「先にも言ったように、トムの血管に流れる君の血は、君の母親が君に施した護りそのものだ。母親が君を守るために命を棄ててかけた魔法が、わずかながら取り込まれた。母親の犠牲の力が、皮肉にもトムを生かし、その魔法が生き続ける限り君も生き続ける」
「もう分かっていると期待しているが、トムは、人の形に蘇った時、意図せずして君との絆を二重に強めた。魂の一部を君に付着させたまま、トムは、自分を強めるためと考えて、母親の強力な魔法の力を一部、己の中に取り込んだ。その魔法が、どれほど恐ろしい力を持っているかを的確に理解していたなら、トムは、君の血に触れることなどとてもできなかっただろうなーーーーまあ、トムがそれを理解していたならば、アルウェン自身が己にとって、最も脅威になるとは思いもしなかっただろう」
「どういうことですか?ヴォルデモートが、彼女を死に追いやったから…ということですか?」
「当たらずとも遠からず。その質問を解消する前に、ハリー・ポッター、君は、未だに、アルウェンは死なない道を、探しているのではないか?」
ハリーは、自分でも無意識のうちに思い込もうとしていたことに気づかれて、虚を突かれた顔をした
「言っておこうか。それは不可能だ」
男は膝を組んだまま、胸の前で手を合わせて淡々と言った
「でも……でも彼女は、今を生きている」
過去ではない、とハリーは言いたかった
ハリーの頭では、すでに『トリニータス』のことはなかった
「そうだな。あの子には家族がいる。あの子を心から慈しみ、愛する両親が。はじめて手にした幸せな家族だろう」
「それなら!」
「だがトムにはアルウェンしかいない」
ハリーは反射的に返す言葉がなかった
「『一方が生きる限り、他方は生きられぬーー望むべくして終わりを告げるであろう』」
男は唐突に、あの予言を復唱した
「でもそれはーー」
「君は、それが己とトムだと思ったのだろう。だが、違う。一方とはアルウェンとトムであり、もう一方とは君だ。アルウェンとトムは二人で一人だ。君は忘れているようだな?トムは『トリニータス』を為した。どうやったのかは、この私ですらわからない。想像もつかんさ。だが、ひとつだけ事実がある。それを為した時からアルウェンとトムは、君とトム以上の深いもので強く、永遠に、繋がった」
「でも、あれは失敗に近い成功で…」
「ああ。そうだ」
「結局、剣は…ひとつの剣は現れなかった…」
「現れたさ。トムはあの神話において、見落としたところがある。正確には、重要視しなかったことだ。その答えは、アルバスがすでに、君に示唆したはずだ」
ハリーは、口の動くままに答えていた
それでもずいぶん時間がかかった
「…呪い…?」
「ああ。そうだ。その通り」
男は囁くように言った
「そして君は、その呪いが’’誰が’’生み出したものか、知っている」
確信しているその口調に、ハリーは頭を捻って記憶を呼び起こした
何か、ダンブルドアが自分に教えたか?
いいや、自分の知る限り、それらしいことを言ったのは、『呪い』という言葉以外にない
だが、ハリーは考えるより先に肩を落とした
「でもーーー仮に知っていたとしても、僕にはもう…」
「引き下がるか?まあ、それもまた賢明な選択だろうな」
本当にそうだろうか、ハリーは思った
「ダンブルドアは死んだ……あいつは、先生の杖で僕を殺した」
「ああ。’’正しく’’アルバス’’の’’杖で、君を殺し’’損ねた’’な」
男は、やけに強調した
「なあ、ハリー・ポッター、君は、アルウェンをどうしたい?どうしてやるべきだと思う?」
男は、純粋に意見を聞きたいとばかりに、まるで聞いた
ハリーは考えた
周りを見回した
哀れな生き物は、まだいる
「…僕は…」
ハリーは、記憶の彼女を思い浮かべた
そして、自分の知る彼女も、思い浮かべた
「あの、ここは、いったいどこなのですか?」
ハリーは、答えの出ていた思考を振り払うように、唐突に聞いた
清潔で、傷ひとつない両手を見下ろしながら言った
「ああ、どこだと思う?」
男も、同じ疑問を持っていたようで、ハリーに聞き返した
そして、ハリーは男に聞かれるまで、わかっていなかった
しかし、今はすぐに答えられることに気づいた
「なんだか…」
ハリーは考えながら答えた
「キングス・クロス駅みたいだ。でも、ずっと綺麗だし誰もいないし、それに、僕の見る限りでは汽車が一台もない」
「ならば、’’引き下がる’’ことも、’’先に進む’’こともできるだろうな」
男は自嘲気味に言った
ハリーはその時、先ほどの男の話を思い出した
「あなたは……アルバス・ダンブルドアを知っている」
「ああ」
「そして、あなたの言う『友』は、先生だ」
「’’だった’’」
男は、ハリーではない、真っ白な空間の遠くどこかに目を向けて言い直した
「あなたは、なぜ死んだんです?」
ハリーは、目の前の男が、もう誰だかわかっていた
だが、なぜかそれを言わずに、聞いた
「なぜ、か……私自身は、早く、アルヴィーの元へ逝きたかったからだ。情けなくも、戻りたかった」
男は、まるで遠くにその女性を見ているかのように目を細め、情けない顔をした
「愛とは間違いだ。だが、その間違いが生み出したものが、私を最後に’’ただの人’’に戻してくれた」
男は、切り替えたようにはっきりとした口調で言った
「アルウェンは、どうしてあなたを利用したんですか?」
「アルバスのためだろうな」
「え?」
「君の知るアルバスは、人間らしかったと思うか?」
ハリーはすぐに「はい」と答えようとした
だが、言葉が喉に詰まったように出てこなかった
言いたいのに…
男は、それが答えかのようにハリーにオッドアイの目を向けて、頷いた
「アルバスは、君や、多くの者の前で偉大で’’あろう’’と努力した。公平、平等、知識人…偉大な魔法使いだ。だが、その裏に隠れたアルバスは、どうしようもなく弱く、見栄っ張りの愚か者だった。そして、私もそうだ。二人ともどうしようもない愚か者だった。己の才能に胡座をかき、驕った。どこまでも自分本位で傲慢な餓鬼だ。アルバスはそれに早くに気づいた。たがーーーそれでも遅かった。そして私は、最も救いようのないことに、愚かなままだった」
「アルバスは私よりもよっぽど強い魔法力を持った男だった。私は、それに気づいていた。認めたくはなかったさ」
「実に、不可思議な縁だ。アルウェンは、アルバスの中にある
「アルヴィーの血か…それとも、アルウェン自身が持つものなのか…アルバスの徹底して隠した顔を引き出す何かが、あの子にはあったのだろうな」
「そして、これも不可思議なことだが、あの子は、あの子の母のように、私のような者を選んだ」
「私はアルヴィーを愛してやれなかった。そばにいてやれなかった。己を優先した。だが、トムは違った」
「私にはわかる。トムはアルウェンが離れていくことを恐れていた。己の母親のように、いつか死があの子を連れて行ってしまうことを。片時ですら側にいないことにも、安心できなかったんだろう。トムはあの子を究極の形で愛した。愛を示した」
「だから、あんなことをしたと?仕方がなかったと言えるんですか?」
ハリーは紛れもなく怒りを感じた
今は、自分だけの、自分だけが感じる自分の怒りを
「君にはわからん」
「そういう問題じゃない」
ハリーは、きっぱりと言った
「大切なら、失いたくないなら、何をしてもいいわけじゃない。誰だって大切な人がいなくなるのは苦しいし、悲しい。どうしようもないくらい打ちのめされる。二度と味わいたくない。だから人は二度と失いたくないと思うんです。失ったものは戻ってこないけれど、だからこそその後の人生を必死で生きようと、大切にしようと思えるんです。失いたくないから、大切な人以外の人が傷ついていい理由にはない。それでいいと済まされていいわけじゃないんです!」
「僕は両親に会いたかった。一緒にいたかった…褒めてほしかったし、抱きしめて欲しかった、頭を撫でて名前を読んで欲しかった」
男は、何も言わずに黙っていた
「でも、もう叶わない…」
ハリーの言葉は、弱々しかった
「すでにいない。死んでしまったんです。だから、僕は二人の息子として、生きる必要がある。生きて証明する必要があるんです」
「では、先に進むと?」
男が、ピクリと眉を動かし聞き返した
「あなたは、彼女とあいつを哀れんでいるみたいだけれど、僕はそうは思わない。哀れむべきはあなた自身だ。あなたは言いましたね。自分には資格がないと、権利がないと。その通りだ。彼女はあなたでも、ましてやあなたの愛した人でもない。彼女は彼女だ」
「私が間違っていると?」
「いいえ、あなたの言うことも、間違いとは言わない。だけど、何が真実がどうか決めることなんて、僕にはもう、どうでもいいんです」
「では何か?君自身の手であの子を殺すのか?」
「あなたは彼女をわかっていない。彼女は、僕よりもずっと、ずっと強くて、自分のせいで人が傷つくのを恐れている。彼女は自分の手で終わらせようとしている。僕にはわかる。彼女は僕に恨まれようとしました。憎まれたいと願ったんです。そんなことを願う人が、他人の手で終わることを願うわけがない」
「嘘を吐いているとは思わないのか?アルバスと同じで、あの子は、君に真実を教えることもできたのに、言わなかった」
「思わない。もうーー思わない」
ハリーは、強く、男を睨むように見据えて言った
「そうか、ならーーー行け。二度とここに来るな」
男はくるりと背を向けて、俯きながら、ハリーを追い払うように手を振って言った
ハリーはその背中が、ひどく寂しそうな子どものように思えた
砂場でうずくまっているような…ひとりの子ども
「最後に、ひとつだけ教えてください」
「なんだ」
「これは現実のことなのですか?それとも、全部、僕の頭の中で起こっていることなのですか?」
「私は死んでいる。その点から言えば、現実ではないだろうな」
ハリーは納得した
「だがーーー君が望めば、現実にもなる」
弱々しい声だった
その時、俯いた男の前に、眩い光を纏い、放つ、人の形をしたようなものが現れた
それは、男に寄り添った
「……………わかってる…わかってるさ…」
喋らないそれに、まるで許しを求めるように言った男は、ハリーに軽く振り向いて、言った
「アルバスに伝えてくれ。『君は悪くない』………誇れーーー君はーーー勇敢な男だ」
「えーー?」
ハリーは思わず、聞き返そうとした
だが、男はすでに光の人の形のものに連れられて、白い空間の、奥へ奥へと、遅い足取りで、なのにものすごい速さで、消えていった
ハリーはぽつんと、取り残された…
「メルリィ。何か言ってくれっ…」
大広間、今や、この場にいる全員の注目を集めている中、愛する娘を探しにここまで来た男は、娘の骨のような手首を力を込めないようにできるだけ優しく掴み、泣きそうな声で、もう何度も、何度も声を掛けていた
負傷者や死傷者がいる静寂とした大広間で、親友に別れを告げ、漆黒のローブを翻して、揺らしながら出て行こうとした彼女を止めようとする者は、父親だけではなかった
事態を見守っていたフレッドやジョージも立ち上がり、ドラコも駆け寄って行った
そして、負傷した腹を抑えたシリウスも、レギュラスもだ
彼女は一気に全員に詰め寄られ、行き先を塞がれたのだ
大広間の出入口側には、フレッド、ジョージ、ドラコ
内側からは、彼女の手を掴むルーディンと、ルーディンの横にいたバーント、そして周りにはシリウスにレギュラス達…
「……お父さん……」
彼女は、蒼白い顔を青ざめさせて、焦った様子になった
「…は、離して…」
「ダメだ。家に帰ろう。メルリィ、母さんは眠れないほど心配しているんだ。っ…本当は来たかったのを、涙を呑んで父さんに任せたんだ。メルリィ。お願いだ。何があったのか言ってくれ。お願いだ」
彼女は、涙を呑むように首を横に振った
「メルリィ。良い子だから。君が悪くないのはわかっている。恐ろしい思いをしたんだろう?逆らえなかったんだろう?」
彼女は、今度は押し黙った
俯いたまま、顔を上げない
ルーディンは、娘の前の顔を覗き込むように屈んで、薄いほっぺに手を添えて必死で訴えた
「…メルリィが優しい子なのは、父さんは知っている。君は虫一匹殺せないような子だ。メルリィ、メルリィ。お願いだから何か言ってくれ。どんなことでも受け入れる。もしーーもし、本当に罪を犯してしまったなら、父さんも一緒に責任をとるから」
「……お父さん…」
「メルリィ。メルリィ…何があったのか、教えてはくれないか?君を愛しているんだ。お母さんも私も、愛しているんだ。愛する娘が苦しい想いをしているのに、それを知れないなんて、親不孝なことをしないでくれっ…お願いだからっ」
「…っ……き…の…」
「何だい?」
「……できないのっ……お父さんが大好きっ…お母さんがっ…大好き………でもできないっ……どうしてもできないのっ…」
とうとう、彼女は決壊した
絶対に言うまいと、未練を遺すような仕草を見せまいと決めていたのに、耐えられなかった
必死に言葉を掛け続け、自分を追ってここまで来て、危険を省みずに助けようとしてくれた父親に、家族の愛に…耐えられなかった
顔を上げて、涙を流して小さく叫ぶ娘に、ルーディンは目を見開いた
「……できないの……お父さん……私…お父さんの子どもでいられて……お母さんの子どもでいられて…………こんなにも愛してくれて……どんなにか幸せだったか……私っ…私っ…家族がこんなに温かいなんてっ…………私にはもう時間がなかった…だからっ…だから離れたっ…なのにっ…なのにどうして追ってきたのっ…どうしてっ……」
「メルリィ。メルリィ、聞きなさい。聞くんだ」
ルーディンは、優しい口調で、言い聞かせるようにひと呼吸置いて言った
「それは君が愛する娘だからだ。私たちの愛する子だ。かけがえのない宝なんだ。私たちは、君が元気に、いつも笑っていてくれて、幸せになることを、この世の誰よりも、何よりも願っている。ずっと、ずっとだ」
泣きじゃくる娘の頬を抑えるように、目を合わせて訴える父親に、彼女は声を上げてしゃくり上げ始めた
「ふっ…うぅっ…ごめんなさいっ…ごめんなさいお父さんっ…私…私っ…」
「メルリィ。メルリィ、聞きなさい。君が生まれた時、私たちがどんな気持ちだったか、わかるかい?」
彼女は、涙を拭ってくれる父親の手を両手で弱々しく掴みながら首を振った
「この世に、これほどの幸せがあるのかと思うほどの幸せに包まれたんだ。決して、決してあの時の想いをーー君を必ず守ると決めた。決して忘れたりなんかしないよ。メルリィ、君を守るためならこの命なんか惜しくはない。いくらでも差し出そう。それで君が生きていてくれるなら。お母さんもそうだ。愛する子が苦しむならそれを取り除いてやりたい。そう思うのが親なんだよ。君が泣いているなら、何度でも涙を拭う。大切に、大切に。君の、君だけの幸せを願って育ててきた。道を踏み間違えたなら、戻ってくるまで待っている。決して一人にはしない。君を孤独にはしない。悲しいなら泣きなさい。苦しいなら言いなさい。助けてほしいと言いなさい。ひとりで全てを背負わないでくれ」
「お父さんっ…お父さんっ…」
「ああ、ここにいるよ、メルリィ」
「私っ…私っ」
彼女は、幼い子どものように首を横に振り、枯れることのない涙を延々と流し続け、涙で滲む視界に、同じく涙を流して訴える父親を見た
そして、彼女は無言で父親の胸に抱きついた
強く…
強く…
幼い子どもが、迷子になってしまい、親を見つけてすぐさま抱きつくかのように
その時、恐ろしい、首筋に死が迫っているかのような、魔法で拡大されたヴォルデモートの声が響いた
全員が固まった
『ハリー・ポッターは死んだ。お前たちが奴のために命を投げ出している時に、やつは、自分だけが助かろうとして逃げ出すところを殺された。お前達の英雄が死んだことの証に、死骸を持ってきた』
『勝負はついた。お前達は戦士の半分を失った。俺様の死喰い人達の前に、お前達は多勢に無勢だ。『生き残った男の子』は完全に敗北した。もはや、戦いの手は収めねばならぬ。抵抗を続ける者は、男も、女も、子どもも虐殺されよう。その家族も同様だ。城を棄てよ。俺様の前に跪け。さすれば命だけは助けてやろう。お前達の親も、子どもも、兄弟姉妹も生きることができ、許されるのだ。そしてお前達は、我々が共に作り上げる、新しい世界に参加するのだ』
大広間にいた騎士団、動ける者は全員玄関に一斉に飛び出た
シリウスは大怪我をしているのも気にせず、ハリーの名を叫び、全力で走った
外に出ると、開かれた学校の玄関扉に面して、死喰い人達が、一列に広がる物音が響いた
ハリーは、今や、閉じた瞼を通してでさえ、玄関ホールからハリーに向かって流れ出す、赤みがかった光が感じていた
ハリーは待った
あの夢のような現実の出来事が、ついさっき起こったばかりのように思えた
痛みと苦しみの現実に戻ってきたのだ
ハリーの頭の中には、今や多くの事実と真実が詰め込まれていたが、靄が晴れたように、自分のやるべきことが見えていた
ハリーが命を捨ててまで守ろうとした人々が、今にもハグリッドの腕の中で紛れもなく死んでいるハリーを見るはずだ
「ああぁぁぁぁ!」
「ハリィィーー!」
マクゴナガル教授と、シリウスのこの世のものとは思えない悲痛な叫び声を聞いた
ハリーは、マクゴナガル教授がそんな声を出すとは、夢にも思わなかった
それだけにその叫び声はいっそう悲痛だった
別の女性が、ハリーの近くで声を上げて笑うのが聞こえた
マクゴナガルの絶望の悲鳴で、ゴイルの母親が得意になっているのだ
そして、シリウスが何度もハリーの名前を叫ぶ声も聞いた
シリウスの叫び声に、ドロホフやヤックスリーなど男の死喰い人の笑い声が聞こえた
ハリーは、ほんの一瞬薄目を開けた
開かれた扉から人々が溢れ出るのが見えた
戦いに生き残った人々が、玄関前の石段に出て、征服者に対峙し、自らの目でハリーの死の真実を確かめようとしていた
ハリーはさっと彼女の姿を探したが、ハリーの薄目に見る限り、いなかった
ヴォルデモートがハリーのすぐ前に立ち、蝋のような指一本で、イリアスの頭を撫でているのが見えた
イリアスはもう、魔法の檻から解き放たれていた
ハリーはまた目を閉じた
「そんな!」
「ハリー!ハリー!」
「そんな!」
「ハリー!」
ロン、ハーマイオニー、ジニー、シリウス、騎士団の多くの人間の声が、叫んだ
特に、ロン、ハーマイオニー、ジニーの声は、マクゴナガルの声より悲痛だった
シリウスの声は、怒りすら込められていた
ハリーは、どんなに声を返したかったことか
しかし、ハリーは、なおも黙ってだらんとしたままでいた
三人と騎士団の者の叫び声が引き金となり、生存者達が義に奮い立ち、口々に死喰い人を罵倒する叫びを上げた
しかしーー
「黙れ!」
ヴォルデモートが叫び、バーンという音と眩しい閃光とともに、全員を沈黙させた
「終わったのだ!ハグリッド、そいつを俺様の足元に下ろせ。そこが、そいつに相応しい場所だ!」
「やめろ!」
シリウスが冒涜するなとばかりに叫んだ
だが、ヴォルデモートは無視した
ハリーは、硬い石の地面に下ろされるのを感じた
「わかったか?」
ヴォルデモートが言った
ハリーが横たわっている場所のすぐ脇を、ヴォルデモートが大股で往ったり来たりするのを感じた
「ハリー・ポッターは、死んだ!惑わされた者どもよ、今こそわかっただろう?ハリー・ポッターは、最初から何者でもなかった。他の者達の犠牲に頼った小僧にすぎなかったのだ!」
「違う!ハリーはそんな男じゃない!」
シリウスが叫んだ
それで呪文が破れた
ハリーは嬉しかった
「そうだ!ハリーはお前を破った!」
続けてロンが大声で言った
それを皮切りに、ホグワーツを守る戦士達が再び叫び出した
しかしまた、さらに強力な爆発音が再び全員の声を消し去った
「こやつは、城の校庭からこっそり抜け出そうとするところを殺された」
ヴォルデモートが言った
自分の嘘を楽しむ響きがあった
「自分だけが助かろうとして殺されたーー」
しかし、ヴォルデモートの声はそこで途切れた
小走りに駆け出す音、叫び声、そしてまたバーンという音が聞こえ、閃光が走って痛みに呻く声がした
ハリーはごく僅かに目を開けた
誰かが仲間の群れから飛び出し、ヴォルデモートを攻撃したのだ
その誰かが「武装解除」され、地面に打ち付けられるのが見えた
ヴォルデモートは、奪った挑戦者の杖を投げ捨てて、笑っていた
「一体誰だ?」
ヴォルデモートが、蛇のようにシューシューと息を吐きながら言った
「負け戦を続けようという者が、どんな目に遭うか、進んで見本を示そうというのは誰だ?」
ゴイルの母親が嬉しそうな声を上げた
「わが君!ネビル・ロングボトムです!カロー兄妹を散々手こずらせた小僧です!例の闇祓い夫婦の息子ですが、憶えておいででしょうか?」
「おう、なるほど、憶えている」
ヴォルデモートは、やっと立ち上がったネビルを見下ろした
敵味方の境の戦線に、武器も隠れる場所もなく、ネビルはただ一人立っていた
「しかし、お前は純血だ。勇敢な少年よ、そうだな?」
ヴォルデモートは、空っぽの両手の拳を握りしめて、自分と向かい合って立っているネビルに問いかけた
「だったらどうした?」
ネビルが大声で言った
「お前は、気概と勇気のあるところを見せた。それに、お前は高貴な血統の者だ。貴重な死喰い人になれる。ネビル・ロングボトム、我々にはお前のような血筋の者が必要だ」
「地獄の釜の火が凍ったら、仲間になってやる」
ネビルが言った
「ダンブルドア軍団!」
ネビルの叫びに応えて、城から仲間の歓声が湧き起こった
ヴォルデモートの「黙らせ呪文」でも抑えられない声だった
「いいだろう」
ヴォルデモートが言った
滑らかなその声に、ハリーは、最も強力な呪いよりも危険なものを感じた
「それがお前の選択なら、ロングボトムよ、我々はもともとの計画に戻ろう。どういう結果になろうとーーー」
ヴォルデモートが静かに言かけた
その時、ヴォルデモートの声が途切れた
ハリーはまた、薄ら目を開けた
ヴォルデモートとよく似た漆黒の服、漆黒のローブを身に纏い、白んできた空の下、玄関ホールを吹き抜けるそよ風に長い黒髪を揺らしながら、玄関扉に列をなして集まる者達の数歩前に出て立っていた
「ナギニ」
「メルリィっ…何をしてるんだ。こっちに戻ってっ」
彼女の後ろで父親が焦ったように小声で言っている
「ハリー・ポッターは死んだ」
ヴォルデモートは、まるで子どもが自慢して見せびらかすように、彼女に向かって腕を広げて言った
「あなたが、殺したのね」
彼女が静かに言った
「おう」
ヴォルデモートが笑った
「ここに来い。お前の目で、確認しろ」
ヴォルデモートは、ネビルの少し後ろにいる彼女に向かって、彼女しか映っていないかのように声をかけた
彼女は、前と後ろから刺さるような視線の中、歩き出そうとした
しかしーー
「だめだ!メルリィ!行ってはダメだ!」
ルーディンが叫んだ
だが、ヴォルデモートは無言で「黙れ」と言い、今度はルーディンのみに、「黙らせ呪文」を行使した
彼女は、父親を軽く振り返り、必死に首を振る様子を心配そうに見て、ヴォルデモートの元へと歩き出した
ネビルの横を通った時、彼女はネビルを見た
「ユラ…」
ネビルは、彼女に声を掛けた
だが、彼女は緩く首を降り、ヴォルデモートの足元に横たわっているハリーの前にがっくりと膝をついた
ハリーはもう目を閉じていた
「…ハリー…」
ハリーは、悲しみの声で名を呼ぶ彼女に胸が締め付けられた
彼女の身に、これから起こるだろうことに…
「…ハリー…」
彼女の手がハリーの頬に触れようとしたその時、細い手首をヴォルデモートが掴んだ
彼女は、蝋のように白い手に掴まれた先を見た
瞳孔の開けた紅い目が、期待するような、爛々とした輝きをこめて、彼女を見ていた
だが…
「こんなことを続けても、私はあなたの求めるものをあげられない。もう、わかっているでしょう」
その瞬間、ヴォルデモートの顔から笑みが消えた
「ほう。俺様が、なにを求めていると?」
「あなたが捨ててきたものよ。すべて…あなたがここにしまってしまったもの」
彼女は掴まれた手首を支えに立ち上がり、ヴォルデモートの胸に手を伸ばし、そっと掌を置いた
「戯言を言うな」
「私は待った。ずっと…ずっと待ち続けた。だけどあなたはっ……………戻ってきてくれなかった」
「ナギニーー」
ヴォルデモートが、胸に手を当てられたままで、至近距離まできて擦り寄り、一筋涙を流して、いつになく強い眼差しで見上げた彼女
ヴォルデモートは、それに少し戸惑ったように、反射的に手首を離し、後退った
その時
「もう待てない」
その途端、一時に色々なことが起こった
遠い校庭の境界から、どよめきが聞こえた
そこからは見えない遠くの塀を乗り越えて、何百人と思われる人々が押し寄せ、雄叫びを上げて城に突進してきた
同時にグロウプが「ハガー!」と叫びながら、城の側面からドスンドスンと現れた
その叫びに応えて、ヴォルデモート側の巨人達が吠え、大地を揺るがしながらグロウプ目掛けて雄像のように突っ込んだ
さらに、蹄の音が聞こえ、弓弦が鳴り、死喰い人の上に突然矢が降ってきた
不意を衝かれた死喰い人は、叫び声を上げて隊列を乱した
ハリーは、今だと判断し、ローブから「透明マント」を取り出し、パッと被って飛び起きた
同時に、彼女がヴォルデモートの胸を押して離れて、横にいたネビルの手を掴んで勢いよく城の内部に向かって走った
漆黒のローブを揺らし、ヴォルデモートに背を向けて走り出したのが前に見えた
ヴォルデモートは怒りに燃える叫び声を上げ、彼女を追おうとしている
城になだれ込むように避難する味方達に向けてヴォルデモートが呪いを放った
だが、察知した彼女がいち早く振り向いて、杖を高く振った
すると、水でできたような大きな鳥が玄関扉の全体を防衛するように現れ、大きな翼をはためかせ、攻撃を防いだ
ハリーはまるで、かつての神秘部でのダンブルドアとヴォルデモートの戦いを見ているようだった
「ナギニーーー!!」
ヴォルデモートが怒りの叫びを上げる中、彼女の姿は城の中に消えた
押し寄せる大軍の叫びと、巨人達のぶつかり合う音、ケンタウルスの蹄の音が響いた
「ハリー!」
ハグリッドが叫んだ
「ハリー!ハリーはどこだ?」
何もかもが混沌としていた
突撃するケンタウルスが死喰い人を蹴散らし、誰もが巨人達に踏み潰さまいと逃げ惑っていった
そして、どこからともなく援軍の轟きがますます近づいてきた
巨大な翼を持つ生き物達の、ヴォルデモート側の巨人の頭上を襲って飛び回る姿がハリーの目に入った
セストラルたちとヒッポグリフが巨人達の目玉を引っ掻く一方、グロウプは相手をめちゃくちゃに殴りつけていた
そして今や、ホグワーツの防衛隊とヴォルデモートの死喰い人軍団の区別なく、魔法使い達は城の中に退却せざるを得ない状態となった
ハリーは死喰い人を見つけるたびに呪いを撃ち、撃たれた方は誰に打ち込まれたのかもわからずに倒れて、退却する人々に踏みつけられていた
「透明マント」に隠れたまま人波に押されて玄関ホールに入ったハリーは、彼女を追っているだろうヴォルデモートを探した
ホールの反対側で呪いを放ちながら、大広間に後退していくその姿を見た
彼女は大広間にはいないようで、ハリーは雪崩込まれる前に辺りを見回した
その時、階段の上の方に彼女の漆黒のローブが揺らめき、駆け上がっているのが見えた
ハリーには、彼女がどこに向かっているのか直感的にわかった
すべてはこの瞬間のために、彼女はーー
ハリーは、父親に言われたように彼女に全て任せて、自分はヴォルデモートに集中することにした
今、ヴォルデモートに彼女を追わせてはいけない
そう直感してた
四方八方に呪いを飛ばしながら、ヴォルデモートは甲高い声で部下に指令を出し続けていた
ハリーは、ヴォルデモートの犠牲になりかかっていたシェーマス・フィネガン、ハンナ・アボットに「盾の呪文」をかけた
二人はヴォルデモートの脇をすり抜けて大広間に飛び込み、戦いの真っ只中に加わった
玄関前の石段には味方が続々と押し寄せていた
チャーリー・ウィーズリーがエメラルド色のパジャマを着たままのホラス・スラグホーンを追い越して入ってくるのが見えた
二人は、ホグワーツに残っていた生徒の家族や友人達と、ホグズミードに店や家を構える魔法使い達を率いて戻ってきたのだ
ケンタウルスのベイン、ロナン、マゴリアンが蹄の音も高く大広間に飛び込んできたまさにその時、ハリーの背後の、厨房に続く扉の蝶番が吹き飛んだ
ホグワーツの屋敷しもべ妖精達が、厨房の大ナイフや肉切り包丁を振りかざし、叫び声を上げて、玄関ホールに溢れ出てきた
その先頭に立ち、その首にオフューカスから贈られたグレーのマフラーを巻いたクリーチャーと、ドビーが、この喧騒の中でもはっきり聞こえる声で食用ガエルのような声を張り上げていた
「戦うのであります!ハリー・ポッターのために!私たちしもべ妖精の英雄のために!闇の帝王と戦うのです!」
「戦え!戦え!我がご主人様、しもべ妖精の擁護者のために!闇の帝王と戦え!全てのしもべ妖精を友とされたオフューカス様の名の下に戦え!戦え!」
しもべ妖精達は、敵意を漲らせた小さな顔を生き生きと輝かせ、死喰い人の足首をめった切りにし、脛を突き刺した
ハリーの目の届く限りどこもかしこも、死喰い人は圧倒的な数に押されて総崩れだった
呪文に撃たれたり、突き刺さった矢を傷口から抜いたり、しもべ妖精に足を刺される者もいれば、何とか逃げようとして押し寄せる大軍に飲み込まれる者もいた
しかし、まだ終わったわけではなかった
ハリーは一騎討ちする人々の中を駆け抜け、逃れようともがく捕虜達の前を通り過ぎて、大広間に入った
ハリーはヤックスリーが、シリウスとルシウスに床に打ちのめされるのを見た
た
ワルデン・マクネアは、ハグリッドに取って投げられ、部屋の反対側の石壁にぶつかって気絶し、ズルズルと壁を滑って落ちて床に伸びた
ロンとドラコ、それにセオドールは、ドロホフを三人一緒に呪いを直撃させ、ドロホフを倒した
アーサーとフレッドは、シックネスを床に打ち倒していた
ゴイルの父親は戦おうともせずに、息子の名前を叫びながらろ、戦闘の中を走り回っていた
ヴォルデモートは今、マクゴナガル、スラグホーン、マッドアイ、キングスリーの四人を一度に相手取り、冷たい憎しみと怒りの表情で対峙していた
だがハリーには、その表情の裏に焦りがあるのがわかった
今すぐに彼女を探しに行きたいのだろう
四人は、呪文を右へ左へと交わしたり、掻い潜ったりしながら、包囲していたが、ヴォルデモートを仕留めることはできないでいたーー
ゴイルの母親が、ヴォルデモートから四、五メートル離れたところで、しぶとく戦っていた
主君と同じように、三人を一度に相手取っている
ハーマイオニー、ジニー、ルーナは力の限り戦っていたが、マダム・ゴイルは一歩も引かなかった
「死の呪文」がジニーをかすめ、危うくジニーの命がーー
ハリーは、ヴォルデモートから気を逸らしてしまった
ハリーは目標を変え、ヴォルデモートにではなく、マダム・ゴイルに向かって走り出していた
あの館の時から思っていた
ハリーには、マダム・ゴイルの息子への愛情が欠けらも感じられなかった
それを思い出した途端、ハリーに怒りの火がついた
しかし、ほんの数歩もしないうちに、横様に突き飛ばされた
「私の娘に何をする!このビッチめ!」
ウィーズリー夫人は駆け寄りながらマントをかなぐり捨てて、両腕を自由にした
マダム・ゴイルはくるりと振り返り、新しい挑戦者を見て大声を上げて笑った
「お退き!」
ウィーズリー夫人が三人の女の子を怒鳴りつけ、シュッと杖をしごいて決闘に臨んだ
モリー・ウィーズリーの杖が空を切り裂き、素早く弧を描くのを、ハリーは恐怖と高揚感の入り交じった気持ちで見守った
マダム・ゴイルの顔から笑いが消え、歯を剥き出して唸りはじめた
双方の杖から閃光が噴き出し、二人の魔女の足元の床は熱せられて亀裂が走った
二人とも平気で相手を殺すつもりの戦いだ
「おやめ!」
応援しようと駆け寄った数人の生徒に、ウィーズリー夫人が叫んだ
「下がっていなさい!下がって!この女は私がやる!」
何百人という人々が今や壁際に並び、二組の戦いを見守った
ヴォルデモート対四人の相手
マダム・ゴイル対モリーだ
ハリーは、マントに隠れたまま立ちすくみ、二組の間で心が引き裂かれていた
攻撃したい
しかし守ってあげたい
それに、罪もない者を撃ってしまわないとも限らない
「私がお前を殺してしまったら、ガキ達はどうなるんだろうね?」
モリーの呪いが右に左に飛んでくる中を跳ね回りながら、マダム・ゴイルは主君同様、狂気の様相でモリーをからからった
「お前みたいなビッチをーーー私のーー子どもたちにーーー手をーー触れさせてーーなるものか!」
ウィーズリー夫人が叫んだ
マダム・ゴイルは声を上げて笑った
ハリーを捕まえた時の、あのヒステリックな耳障りな興奮した笑いと同じだった
突然ハリーは、次に何が起こるかを予想した
モリーの呪いが、マダム・ゴイルの伸ばした片腕の下を掻い潜って躍り上がり、胸を直撃した
心臓の真上だ
マダム・ゴイルの悦に入った笑いが凍りつき、両眼が飛び出したように見えた
ほんの一瞬だけ、マダム・ゴイルは何が起こったのかを認識し、次の瞬間、ばったり倒れた
周囲から「ウォーッ!」という声が上がり、ヴォルデモートの怒りの叫び声が響いた
ハリーは、大広間の隅でネビルがあの輝く白銀の剣を持って、床に尻餅をついて倒れているのを見た
最後の分霊箱を…
ついに破壊した
だが、その瞬間、目に入ったのは、マクゴナガル、キングスリー、スラグホーン、マッドアイの四人が仰向けに吹き飛ばされ、手足をばたつかせながら宙を飛んでいる姿だった
何か、ネビル達のいたところから悲鳴や叫び声が聞こえるが、ハリーはヴォルデモートの方から目を逸らすことはできなかった
最後の分霊箱が破壊され、ヴォルデモートの怒りが炸裂したのだ
ヴォルデモートが杖を上げ、ネビルを狙った
「『
ハリーが大声で唱えた
すると、「盾の呪文」が大広間の隅を完全に護るように広がった
ヴォルデモートは呪文の出所を目を凝らして探した
その時、ハリーが「透明マント」を脱いだ
衝撃の叫びや歓声と、あちこちから湧き起こる「ハリー!」「ハリーは生きている!」の叫び声は、しかし、たちまち止んだ
ヴォルデモートとハリーが睨み合い、同時にお互い距離を保ったまま円を描いて動き出したのを見て、見守る人々は恐れ、周囲は静まり返った
「誰も手を出さないでくれ」
ハリーが大声で言った
水を打ったような静けさの中で、その声はトランペットのように鳴り響いた
「こうでなければならない。僕でなければならないんだ」
ヴォルデモートはシューシューと息を吐きながら言った
「ポッターは本気ではない」
ヴォルデモートは、紅い目を見開いた
「ポッターのやり方はそうではあるまい?今日は誰を盾にするつもりだ、ポッター?」
「誰でもない」
ハリーは一言で答えた
「分霊箱はもうない。残っているのは、お前と僕と、そしてアルウェンだけだ。『一方が生きる限り、他方は生きられぬーー望むべくして終わりを告げる』。アルウェンは望んだ。終わりを。あとは、どちらかが、永遠に去ることになる」
ハリーの言葉に、ヴォルデモートが僅かに動揺を示した
「どちらか、だと?望んだと?」
ヴォルデモートが嘲った
全身を緊張させ、真っ紅な両眼を見開き、今にも襲い掛かろうとする蛇のようだ
「勝つのは自分だと考えているのだろうな?そうだろう?偶然、生き残った男の子。ダンブルドアに操られて生き残った男の子」
「偶然?母が僕を救うために死んだ時のことが、偶然だと言うのか?」
ハリーが問い返した
二人はお互いに距離感を保ち、完全な円を描いて横へ横へと回り込んでいた
ハリーには、ヴォルデモートの顔しか見えなかった
「偶然か?教えてやる。アルウェンがあの墓場で僕の命を助けた時から、今夜、身を守ろうとしなかった僕がまだこうして生きていて、再び戦うために戻ったことが偶然だというのか?」
「偶然だ!」
ヴォルデモートが甲高く叫んだ
しかし、まだ攻撃してこなかった
見守る群衆は、石のように動かない
何百人もいる大広間の中で、二人以外は誰も息していないかのようだった
「偶然だ。たまたまに過ぎぬ。お前は、自分より偉大な者達の陰に、めそめそと蹲っていたというのが事実だ。そして俺様に、お前の身代わりにそいつらを殺させたのだ。ナギニがお前を助けたのも、
「いいや、思い違いじゃない。今夜のお前は、ほかの誰も殺せない」
ぐるぐる回り込みながら互いの目を見据え、緑の目が紅い眼を見つめて、ハリーが言った
「お前は気づいていなかっただろう。アルウェンはお前が復活するより前から、僕を守っていた。お前がこれ以上、道を踏み外すのを阻止していた。自分の身を投げ打って。お前の思考を先回りし、救える限りの命を救ってきたんだ」
「そんなこと、もはや取るに足らぬことだ」
ヴォルデモートは瑣末なことだとばかりに鼻で笑い、吐き捨てた
「お前はもう決して、誰も殺すことはできない。わからないのか?僕は、お前がこの人々を傷つけるのを阻止するために、死ぬ覚悟だったーー」
「しかし死ななかったな!」
忌々しいとばかりにヴォルデモートは、憎たらしげに叫んだ
「ーーー死ぬつもりだった。アルウェンと同じように。だからこそ、こうなったんだ。僕のしたことは、母の場合と同じだ。この人達を、お前から守ったのだ。お前がこの人達にかけた呪文は、どれひとつとして完全には効かなかった。気がつかなかったのか?お前は、この人達を苦しめることはできない。指一本触れることもできないんだ。リドル、お前は過ちから学ぶことを知らないのか?」
「よくもーーー」
「ああ、言ってやる」
ハリーが言った
「トム・リドル、僕はお前の知らないことを知っている。お前はそれを知る機会が何度も、’’何度も’’あったはずだ。お前にはわからない。お前は気づかなかった。大切なことだ。お前がまた大きな過ちを犯す前に、いくつかでも聞きたいか?」
ヴォルデモートは答えず、獲物を狙うように回り込んでいた
ハリーは、一時的にせよヴォルデモートの注意を引きつけ、その動きを封じることができたと、そしてこれから話すことでできると確信した
ヴォルデモートの唯一の冷静な思考を奪う者の話をーー
届かなかった彼女の想いをーー
ハリーが本当に究極の秘密を知っているのではないかという微かな可能性に、ヴォルデモートはたじろいる…
「また愛か?」
ヴォルデモートが言った
蛇のような顔で嘲っている
「そうだ」
「ダンブルドアお気に入りの解決法、’’愛’’。それが、いつでも死に克つと奴は言った。だが、’’愛’’は、奴が塔から落下して、古い蝋細工のように壊れるのを阻止しなかったではないか? ’’愛’’、お前の『穢れた血』の母親が、ゴキブリのように俺様に踏み潰されるのを防ぎはしなかったぞ、ポッター…ーーそれに、今度こそ、お前の前に走り出て、俺様の呪いを受け止めるほど、お前を愛している者はいないようだな。さあ、俺様が攻撃すれば、今度は何がお前の死を防ぐと言うのだ?」
「リドル、お前はそうやって’’愛’’を否定するが、お前自身が一番求めたものが’’愛’’だったんだろう?聞こう。リドル、なぜ、母を殺そうとした時、アルウェンの姿を重ねた?」
ハリーの言葉に、ヴォルデモートの紅い眼はさらに見開かれた
二人はまだ互いに回り込み、相手にだけに集中した
ハリーは、ほとんど
ハリーはついに口にした
「お前は、アルウェンに愛されたかったんだ。自分だけを見てほしかった。そうだろう。アルウェンだけはそばに置き続けた理由はなぜだ?お前は、アルウェンを殺さなかったんじゃない。’’殺せなかったんだ’’」
ヴォルデモートは、何か言おうとしていたが、言葉が出てこないようだった
そして、その表情は、ハリーが確信した通り、隠そうとしているが、動揺を全面に出していた
「教えてやるリドル。アルウェンは待ち続けたんだ。お前が変わると信じた。お前みたいなやつを。お前と罪を背負う覚悟があったんだ。アルウェンには、お前しか家族がいなかった。なのに、お前は、裏切ったんだ。アルウェンがお前を裏切ったんじゃない。’’お前が’’アルウェンを裏切った」
ヴォルデモートは、唇のない口を震わせて、
「アルウェンが死を選んだ時、どんな想いだったと思う?お前は想像すらしなかっただろうな。子どもには罪はないと、幸せを願った。お前は変わると、信じて願い続けた」
「黙れ」
ヴォルデモートが、甲高い声を低めて唸った
「そんな彼女を、お前は死に追いやった。リドル、’’お前が’’殺した」
「煩い」
今度は子どものように、苛立たしげに言った
「お前は、愚かにも子どもに嫉妬したんだ。自分の子どもに。子どもに彼女を取られると恐れた。奪われると思ったんだろ」
「黙れ!」
ヴォルデモートが、ついに声を荒げて、憤怒の形相で吠えた
「だが、お前は間違った。アルウェンは、最期までーー最後の瞬間に言ったーーー『共にいるのは、私だけで十分』だと」
ヴォルデモートの顔に衝撃が走った
紅い眼を見開き、息を詰まらせたように口を閉じた
「なのにお前は、その死すらも冒涜した。死ぬことを許さなかった。短い人生を繰り返し、彼女の心がどうなっていったか、お前は知らないだろう。ずっと、ずっと罪の意識苛まれて生きてきたんだ。自分の子どもと命を絶たざるを得なかった彼女の気持ちを、お前は一度だって理解しようとしなかった!」
「だからどうした?ナギニが自ら選んだことだ。俺様はあやつを守り続け、庇護してやった。二度と何者にも害されぬようにな!不相応にも、ナギニの力に手を伸ばした忌々しいダンブルドアからもだ!だというのにあやつはダンブルドアを選んだ!」
「リドル、お前は大きな勘違いしている。彼女は、一度断ったんだ」
ハリーの言葉に、ヴォルデモートの顔にあからさまに驚愕と困惑の色が浮かんだ
「アルウェンは、いつもお前を優先してきた。どんな時でも、お前をいちばんに考えた。リドル、ここまで言っても、まだわからないのか?アルウェンは’’お前のため’’に離れようとした」
「それで?お前が言っていることは、所詮過去の話だ。お前はナギニが終わることを望んだと言っているが、今、ナギニが’’仮に’’お前を選んだとして、俺様の呪いからお前を護ってくれるとでも言うつもりか?ナギニに何ができる?俺様の力を有するあやつを『盾』にでもするか?確かに妙案と言えよう。それはそれで実物だ。ポッター。ナギニの’’愛’’とやらが、俺様を打ち負かせるとでも思ったのか?そうでなくばーー俺様にはできない魔法か、さもなくば俺様の武器より強力な武器を、お前が持っていると信じ込んでいるのか?」
「両方とも持っている。そしてリドル、お前は何もわかっていない」
蛇のような顔に衝撃が走ったが、それはたちまち消えた
すると、ヴォルデモートは歪に口角を上げ、声を上げて笑いはじめた
悲鳴よりも、もっと恐ろしい声だった
おかしさのかけらもない狂気じみた声が、静まり返った大広間に響き渡った
「俺様を凌ぐ魔法を、お前が知っているというのか?」
ヴォルデモートが言った
「この俺様を、ヴォルデモート卿を凌ぐと?ダンブルドアさえ夢想だにしなかった魔法を行った。最も偉大なる魔法を成し遂げ、成功させたこの俺様をか?」
「いいや、ダンブルドアは夢見た」
ハリーが言った
「しかしダンブルドアは、お前より多くのことを知っていた。知っていたから、お前のやったようなことはしなかった」
「つまり、弱かったということだ!」
ヴォルデモートが甲高く叫んだ
見守る群衆が、初めて身動きした
壁際の何百人が一斉に息を呑んだ
「ダンブルドアは死んだ!」
ヴォルデモートは、ハリーに向かってその言葉を投げつけた
その言葉が、ハリーに耐え難い苦痛を与えるとでもいうように
「ポッター!あいつは戻ってこぬ!」
「そうだ。あの夜たしかに’’死んだ’’」
ハリーは、いっそヴォルデモートが哀れむように、落ち着いて言った
「しかし、お前の命令で殺されたのではない。何ヶ月も前から、決まっていた。選んでいた。お前が自分の
「何たる子ども騙しの夢だ?」
そう言いながらも、ヴォルデモートはまだ攻撃しようとせず、紅い眼はハリーの目を捉えたまま離さなかった
「セブルス・スネイプは、お前のものではなかった」
ハリーが言った
「スネイプはダンブルドアのものだった。お前が僕の母を追い始めた時から、ダンブルドアのものだった。お前は、一度もそれに気づかなかった。それは、お前が理解できないもののせいだ。リドル、お前は、スネイプが守護霊を呼び出すのを見たことがなかっただろう?」
ヴォルデモートは答えなかった
二人は、今にも互いを引き裂こうとするニ頭の狼のように回り続けた
「スネイプの守護霊は牝鹿だ」
ハリーが言った
「僕の母と同じだ。スネイプは子供の頃からほとんど全生涯をかけて、僕の母を愛したからだ。それに気づくべきだったな」
ヴォルデモートの鼻の穴がふくらむのを見ながら、ハリーが言った
「スネイプは、僕の母の命乞いをしただろう?」
「スネイプは、あの女が欲しかった。それだけだ」
ヴォルデモートがせせら笑った
「しかし、あの女が死んでからは、女は他にもいるし、より純血の、より自分に相応しい女がいると認めたーー」
「もちろん、スネイプはお前にそう言った」
ハリーが言った
「しかし、スネイプは、お前が母を脅かしたその瞬間から、ダンブルドアのスパイになった。そして、それ以来ずっと、お前に背いて仕事をしてきたんだ!」
「どうでもよいことだ!」
一言一句を魅入られたように聞いていたヴォルデモートは、甲高く叫んで狂ったように高笑いした
「スネイプが俺様のものかダンブルドアのものかなど、どうでもよいことだ。俺様の行く手に、二人がどんなつまらぬ邪魔物を置こうとしたかも問題ではない!俺様はそのすべてを破壊した!スネイプが偉大なる愛を捧げたとかいう、お前の母親を破壊したと同様にだ!ああ、しかし、これですべてが腑に落ちる。ポッター、お前には理解できぬ形でな!」
「ダンブルドアは、ニワトコの杖を俺様から遠ざけようとした!あいつは、スネイプが真の持ち主になるように図った!あやつにもナギニには殺せぬと分かっていたのだ!しかし、小僧、俺様のほうが一足早かったーーお前が杖に手を触れる前に俺様が杖に辿り着いたし、お前が真実に追いつく前に俺様が真実を理解したのだ。俺様は三時間前に、ナギニを尋問し、あの夜の真実を聞き出した!ナギニはセブルス・スネイプを庇っていた!だから、俺様は殺してやった!そして、ニワトコの杖、死の杖、宿命の杖は、真に俺様のものになった!ダンブルドアの最後の
「それは違う。その杖は、お前のものじゃない。お前が最も自分に逆らわないと決めつけ、侮っていた
「何を戯けたことを?」
「お前は、まさかアルウェンがお前に逆らい、破滅させようだなんて思ってもみなかっただろう。積極的にダンブルドアに協力してきたなんて、想像すらしなかったはずだ」
「可笑しなことを言う。ナギニに俺様を害する度胸などない。弱く、卑怯で臆病なやつなのだ。俺様の陰に隠れて生きてきた。それがあやつだ」
ヴォルデモートが、邪悪な笑みで囁くように言った
「それこそがお前の犯した間違いだ。今、お前がそんな状況に陥っているのも、分霊箱をすべて破壊されたのも、全ては彼女がダンブルドアに渡した情報のおかげだ」
「ナギニは何も知らぬ!俺様は何も教えていない!」
ヴォルデモートは、いい加減埒のあかない会話に、苛々したように叫んだ
「だとしたら見誤ったな。お前は、アルウェンを、自分にとって都合のいい部分しか見ようとしなかった。それがお前を終わらせる」
「いいか、リドル。その杖はまだ、お前にとって本来の機能を果たしていない。なぜなら、お前が殺’’そうとした’’相手を間違ったからだ。セブルス・スネイプがニワトコの杖の真の所有者だったことはない。スネイプが、打ち負かしたのではないーー」
「スネイプが殺したーー」
「聞いていないのか?スネイプはダンブルドアを打ち負かしてはいない!そして、アルウェンはダンブルドアのことを’’殺してはいない’’!ーー言ったはずだ。お前が杖を求めるよりずっと前から計画されていたと!」
ヴォルデモートは、無言だった
唇のない口を噛むように、ハリーの言葉の意味を探りかねて睨んでいる
ハリーは、ついに、自分があの夢のような現実の中で出会った男の示唆したことから辿り着いた真実を口にした
「ニワトコの杖の真の所有者はーーー’’最初からなにひとつ変わっていない’’」
その時、大広間の壁際に並んでいた何百人という視線が開け放たれた扉に向けられ、円を描いて睨み合っていた二人は、その気配に、一瞬睨み合うのをやめて、顔を横に向けて、扉の方を見た
そこには…
「左様。アルウェンにわしは殺せぬ。トム。すべてを償う刻がようやっときたようじゃのう」
銀色のローブをはためかせた、最後に見た時と何ら変わりない姿のアルバス・ダンブルドアが、アルウェンの手をしっかりと握り立っていた
その瞬間、大広間にいた全員が驚愕と歓喜に湧いた
だが、それは一瞬で収まった
ダンブルドアに手を引かれてすぐ後ろ隣にいたアルウェンが、大広間の隅に丁寧に置かれたあるものを目に映したからだった
アルウェンはダンブルドアの手を離し、よろよろと、ふらふらと動き出して、それに寄った
ダンブルドアは、チラと視線をやり、その薄いブルーの目を見開いた
「ぁぁ……そんな……うそ……イリアス………ぁ…うそ…」
よろよろそれに寄った彼女が、まるで気を失うかのようにがっくりと膝をつき、冷たい石の床に座り込んだ
震える手を伸ばしながら臍の緒がついた、新生児の形をしたそれに手を伸ばし、胸に仕舞い込むように抱きしめて、嗚咽を漏らして泣いた
「なんというーーー」
ダンブルドアは、アルウェンがお腹の中にいたはずの死んだ我が子を抱いて、言葉すらでずに泣き続ける様子に、ヴォルデモートに振り向いて、薄いブルーの目に燃えるような怒りを宿し、侮蔑の眼を向けた
「これほど、筆舌に尽くし難い悪行があろうか。トム・リドル!」
ダンブルドアが、声を荒げて怒りに叫んだ
ダンブルドアの登場にまだ少し騒ついていた大広間の空気が、その魔力の震えに同調するように凍った
誰もが初めてダンブルドアの怒りを見ただろう
ハリーも、思わず恐怖が走った
彼女の、この世のものとは思えない、耳を塞ぎなくなるほどの泣き声だけが響く
「なぜ生きている?」
ヴォルデモートの紅い眼に、明確な恐れが宿った
今や、ハリーとヴォルデモートではなく、ダンブルドアとヴォルデモートが向かい合っている
「なぜ、貴様がーーーそんなーーまさかーーーーお前は死んだーーー」
ヴォルデモートは、まるで幽霊でも見たかのように、あからさまに狼狽した
「わしはアルウェンに生かされたのじゃ。トム」
「嘘だ!信じぬぞ!お前は別人だ!ナギニの最後の呪文はたしかにーーー」
「左様。ナギニはたしかに「死の呪文」を使い、わしに化けた別人を撃った。トム、今こそ、すべてを明らかにしようぞ」
「アルウェンは、お前が、自分にわしを殺させるであろうことを予期した。お前が復活するより前から、あの子は、わしの友を説得にはるばる’’オーストリア’’まで足繁く向かった」
「まさかーーーヌルメンガードか!」
「左様。あやつは説得に応じた。そして、’’自ら望んで’’お前を破滅させる計画に協力し、死を歓迎した」
「『ゲラート・グリンデルバルド』じゃ」
衝撃が走った
「よくもーーー」
「アルウェンを己がものだと信じて疑わず、侮り、操り、罰し、徹底してあの子の自由を封じてきたお前のその愚かな思い込みこそが、お前を破滅させるに至ったというわけじゃ」
ダンブルドアはこれ以上にないほどの軽蔑した眼差しを向け、ヴォルデモートを睨みつけた
ヴォルデモートは、もはや衝撃で言葉もない様子だった
ダンブルドアから目を離せず…いいや、ダンブルドアが目を離すことを許さないように見ていた
彼女の泣き声が、枯れることなく響いてくる
「…っ…ぁ……イリアスっ…イリアスっ…」
座り込んで、ただひたすら我が子の名を呼び、己のローブに包んで抱きしめ続ける彼女に、近くにいた生徒達は、顔を真っ青にさせて立ち尽くしている
ネビルなどは、真っ青を通り越して真っ白だった
今にも気絶しそうな顔だった
「裏切ったのかーーーこの俺様をーーーあいつがーー…嘘だ…認めぬ…このようなことは認めぬっ」
ヴォルデモートは事実を飲み込めないように、ぶつぶつと繰り返している
「貴様が生きているなど!」
「お前を油断させるには、わしは死なねばなぬ。事実、お前はその通りに、アルウェンにわしを殺すよう命じた。あの子を苦しめたつもりじゃったろう。あの子を罰したつもりじゃったろう?」
次の瞬間、空気が震えた
「思い上がりも甚だしい!」
ダンブルドアが、聞いたこともないほどの怒りの声を上げた
ハリーは思わずびくりとした
「お前を決して見捨てなかったあの子の想いをこれ以上にないほど踏み躙り、あまつさえ無垢な魂を邪悪な魂に結びつけ、死ぬことも許さぬ苦痛の中に置き続けた。赦されぬことじゃ。決して赦さぬ」
ヴォルデモートは、初めて気圧されたような姿を晒した
「リドル、最後のチャンスだ」
今度はハリーが、ヴォルデモートに静かに言った
「自分がこれまでにしてきたことを、考えてみたらどうだ……考えるんだ。リドル。そして、悔い改めろ」
「戯けたことを!」
「僕にはわかる。お前は彼女を愛していたはずだ。なのに、愛し方を間違えた。彼女がお前を愛していたことにも気づかなかった。一緒に育ったお前だけを想い、心配し、心を痛め、どんな仕打ちを受けようと側に居続けた」
「お前は、彼女が命を絶った時、彼女の
「黙れ」
「『僕がいいというまで側にいる』、リドル、彼女はもう十分側にいた。お前が気づく機会は十分にあった。なのに、お前はなにひとつ気づかなかった。お前自身の本心に」
「黙れ!!」
ヴォルデモートが凄まじい怒りを込めて叫んだ
「ナギニは俺様を裏切った!これほどの裏切りがあるか!俺様は寛大にも許してきたというのに!貴様を、貴様ら選んだ!貴様は俺様からナギニを引き離そうとした!」
ヴォルデモートは、ついに怒りが爆発したように、凄まじい魔力を発しながら甲高く叫んだ
ハリーには、それがまるで子どもが気に入っていたおもちゃを取られて怒っているかのように見えた
「ああ、もはやそれは否定するまい。わしはあの子をお前から引き離そうとした」
「その上、貴様はナギニの力に手を伸ばそうとした!」
「ああ、お前がずっとあの子に隠させてきたのう。じゃが、隠しきれなんだ。トム、問おうぞ。お前の真に求める神秘を持ったあの子に、お前は一度たりとも手を伸ばそうとしなかった。なぜじゃ?お前のもっとも求めるものをもっていたであろうに、お前はあの子の意志を完全に奪うようなことは一度たりともせなんだ。その理由を、考えてもみるのじゃ」
「リドル、彼女は僕を選んだように見えて、本当に選んだのはお前だ。彼女はお前と一緒に終わる覚悟を、最初から決めていたんだ。お前が隠し通してきた秘密を、彼女は知らなかったかもしれない。だけど、わかっていたんだ。自分が死なない限り、お前も死ぬことはないと」
「はっ!たとえあやつが死に、この場で俺様を退けることができようと、俺様はまた復活しよう。さすればーー今度こそ確実になーー」
「トム、お前は確かに成功させたのかも知れぬ。だがお前はあの神話の本当の意味に愚かにも気づかなかった。お前の危惧した呪いは、アルウェンがお前を恨み、憎むことによる『呪い』だと思ったのじゃろう?」
「事実その通りだ。あやつが俺様を恨むことなどあるわけがない」
「ああ、残念なことにそうじゃのう。じゃがーー『呪い』はそれではない」
「リドル、『呪い』は現れた。お前が自ら生み出したんだ。お前は、イリアスを蛇にした時、母親から離れたくないという子どもの叫びを聞かなかっただろう」
「なんとーー?」
「僕の母がしたことと同じだ。彼女が毎日、毎日、お前がいない寂しさを埋めるようにお腹の子に愛情を注ぎ続けた。その結果、子どもは愛という呪いを受けた。子どもを否定するお前の呪詛は、子どもを望む彼女の愛に負けたんだ。お前がイリアスを取り出した時、『呪い』は生まれた。お前の全てを否定する存在が生まれたんだ。母を守ろうとする、離れたくないと願った『子どもの呪い』が生まれた。お前自身が、お前を破滅させる存在を生み出したんだ」
「アルウェンはお前を恨まなかったじゃろう。憎まなかったじゃろう。そこまではお前の予想通りと言えような。だが、お前はアルウェンを愛するが故に愚かな嫉妬に走り、取り返しのつかぬ間違いを犯した。アルウェンに死を選ばせた時点で、お前に未来はなかったのじゃ」
「リドル、お前はたった一人、お前を理解していた
ハリーがとどめとばかりに言った
ヴォルデモートは、ずっと目を見開いたまま、明かされる己が知らなかった、気づきすらしなかった、認めたくない真実に、唇のない口をわなわな震わせて、怒りで鼻をふくらませた
その時…
「…トム…」
か細い声が、沈黙の流れる大広間の中に響いた
己のローブを包んだ子を胸に抱き上げながら、アルウェンが、距離の空いたハリーとダンブルドアの間に立っていた
泣き腫らし、未だに静かに涙を流し続ける彼女は、愛した男をひと筋に見ていた
「ナギ…二…」
「トム」
「お前…」
「私、私も…………私も自分の気持ちに気づいていなかったの………あなたにちゃんと伝えていれば……私たち、言葉が足りなかった……トム…私、たしかにイリアスを愛そうとしていた。だけど、あなたの方が、ずっと、ずっと大事だったんだよ………トム…もう守ってくれなくて’’いいよ’’」
彼女は、腕にイリアスを抱きながら、リドルに向かって悲しげに微笑んだ
「っ!お前はっ、破るのか?約束をっーーまたっ!」
「トム」
「認めない!認めるものか!俺様がいいというまでお前は俺様のそばにおらねばならんのだ!俺様のものだ!」
ハリーにはそれが、まるで、駄々を捏ねる子どものような叫びに見えた
「トム、トムーー私のすべてはもうとっくの昔にあなたのものだった。あなただけのーー私、あなたが守ってくれたおかげで怖い思いをせずに済んだ。トムが隣にいてくれたから孤独にならずにすんだ。寂しい思いもしなかった。あなたがどうあっても私を一人にしなかったおかげで、私は、孤独になる恐怖を感じずにすんだ。二度目の人生で、あなたがいない日々を過ごして、私はあなたのいない孤独がどれほど辛いものか思い知った。そんなっ…そんな孤独にあなたを置いて逝った責任を、感じない日はなかった。あなたのことを考えない日は、一度としてなかった」
「っーーふざけるな!今更、悔悟でもしたというのか?お前は子を選んだ!ダンブルドアの手を取り、その上俺様から逃げようとした!俺様を裏切ったのだ!約束を反故にし、お前を庇護してやっていた俺様の温情を踏み躙ったのだ!」
「違うーー違う。トム。聞いて。決してあたなたを蔑ろにしたわけじゃない。あなたはなかなか家に帰ってきてくれなかった。私にはイリアスしかいなかった。あなたを唯一感じられるこの子しか。あなたの子よ。トムの子だったから私は愛したの。悪阻が苦しくてあなたに当たったことは悪かったと思っている。でもーーでも、あなたは文句を言わなかった。決して。家にいる間だけはあなたは労ってくれた。全部、全部覚えているわ。用意してくれた食事を残してもあなたは怒らなかった。お腹の子のために力をつけろと勇気づけてくれた。なのにーーなのに、あなたはある日突然、イリアスを憎みはじめた。私は戸惑ったわ。あなたは喜んでいた。なのに突然ーー」
「お前が取るに足らぬものにばかりかまけたからだ!」
まるで、子どもが嫌々を言うように叫んだ
「トムの子よ!大事に決まっているでしょう!愛さずにはいられないわ!私は母よ!」
彼女が、泣きそうな悲鳴じみた声を上げて叫んだ
「そんなに母親というものが偉大か?子供などいくらでも作れる!だがお前は違う!」
ヴォルデモートも同じほど、昂った様子で叫んだ
「そんなこと言わないで。お願いだからーーイリアスをそんな風に言わないで。あなたの息子をそんな風に言わないで。私はあなたを愛していた。あなたの授けてくれた子だからイリアスを愛した。どうしてわかってくれないの……トム……あなたを愛していなければ産もうなんて思わない。大切じゃなかったなら、心配じゃなかったなら、道を踏み外したあなたについて行ったりしない」
「お前ははっきりと、その口で、死にたくないと、側にいたいと、一人にするなと、言った!俺様は叶えてやった!何が不満だった?何が足りなかったのだ?」
「トム。私はあなたさえいればよかったの。なのにあなたはーー諦めなかった。私は永遠に生きることなんて望んでいなかった。限りある命をただあなたと過ごしたかった。だけどーーー」
「やめろーー」
「あなたは、野望を捨てなかった」
「もうやめろ!お前はーーお前は俺様を破滅させようとする計画に加担した。お前が、俺様を殺そうとしたのだ!」
「何よりも、誰よりも愛する人とーー愛した人と決別することが、どれほど苦しいことか!どれほど身を裂かれるほどに辛かったか!何も感じないとでも?私だってこんなこと望んでいなかった!生まれ変わってから、今まで命を奪った人たちの顔を!声を!叫びを忘れた日は、一日としてなかった!毎夜毎夜夢に出てきたっ…あなたを止めなかった私を責めるように!あなたの言うように、私は、弱くてっ…臆病で、どうしようもなく卑怯な人間よ。あなたが罪もない人を殺す側で、ただ見ていただけだった。私に殺させようとするあなたを拒否できなかった。わかってるっ…わかっているっ……自分の命を懸けてでもあなたを止める勇気があの時の私にはなかった」
「ああ、そうだ。そのはずだ。お前はどうしようもなく卑怯で薄情な奴だ。俺様は知っているとも。お前を誰よりも理解している。お前は自分可愛さに見て見ぬふりをしてきたのだ」
「ええ、その通りよ」
「ならばーー」
ヴォルデモートの顔に僅かな期待が浮かんだ
だが
「だけど、それはもう過去の話」
「なんだとーー」
「正直、あなたの元に戻った時、あなたの怒りを受け止めていて……誘惑に負けそうになった……こんなに辛いなら、苦しいなら、もう耐えられないと……あなたを裏切ることを隠し続けなければならないことに耐えられなくなりそうだった。あなたとこのまま堕ちていけたら…今の苦しみから解放されるかもしれないとーー何度も、何度も…心が挫けかけた。だけど、私にはあの頃と違って、守るべき人達がいた。大切な人ができたの。家族が。友人がーーー私が巻き込んだ人達の命を、私は背負っていたの。だから私は引き返すわけにはいかなかった。あなたを騙してでも、大切な人たちを守らなければならなかった」
「よくもーーよくもそんなことをーーっお前はっ「聞きなさい、トム!」」
彼女が、叱りつけるように叫んだ
すると、ヴォルデモートはまるで母親か姉に叱られた子供のように押し黙った
「私たちは、あそこにいた時からお互いだけだった。お互いだけが大事で、何よりも大切で、守りあって、助け合って生きてきたわ。だから、友人も何も、他に大切な人を作ろうとしなかった」
「お前以外は必要ないからだ!全員無能共だ!価値のないものだ!」
「トムーーそれは違う。それは違うのよ。価値のないものなんかじゃない。私の親友達はーーこんな私を、友達だと、逃げようと、言ってくれた。命を懸けて助けようとしてくれた。今だってきっとそうーーその手をどれだけ取りたかったことか…どれほど嬉しかったかっ。彼らは、私のために命を懸けて戦ってくれた。そんなっ…そんな人達の想いが私の背中を支えてくれたから、私は誘惑に勝てたの。あなたに背を向ける決意を、保つことができた。私は…ずっと…ずっと欲しかった…憧れていた家族を、友人をーーー」
彼女は、一瞬、リドルから視線を逸らして、大広間の壁際で、唖然と立ち尽くしている父親と、ドラコ、セオドール達を見た
眉を下げた、弱々しい微笑みだった
だが、すぐ視線を戻した
「お前の全ては偽りだ。ナギニ、お前が手に入れたというものは、すべて偽りだ。お前は最初から何も持たぬ。誰にも愛されぬ。誰からも求められぬ。お前がどれだけ願おうが、迎えに来る者など、どこにもいない。あの場所と同じだ。お前には、蹲り、膝を抱えて泣いているのがお似合いだ。教えてやろうナギニ、お前の生みの親は、産まれたばかりのお前を、冷たい雪の上に捨てていった。わかるだろう?お前を望む者など、どこにも、誰もいない。だがナギニ、嘆くことはない。俺様がお前を望んでやろう。お前だけをな」
ヴォルデモートは、邪悪な笑顔で誘いかけるように囁いた
「私は、顔も知らない両親に望まれていたかどうかは、知らないし、これからも知らない方がいいと決めた……もう随分前に。なぜなら、私にとっては、あなたが家族だったから。以前の私なら、あなたの言葉を否定もせずに、受け入れていた。だけど、今は違う。私にはもう家族がいる。私を愛してくれる、深く、強く…望んでくれた人がいると、私は知っているから。教えられたからーーーもうあなたの言葉を否定できる」
彼女の迷いのない言葉に、ヴォルデモートは一瞬で笑みを消し、たじろいだ
「トム。本当に、何も後悔していないというの?何も、何も…自分がどれだけ悪いことをしたのか、どれだけの人を傷つけてきたのか、一度も振り返ることはなかったというの?私があなたを残して死んだ時、あなたは本当に泣いてくれたの?泣いてくれていたのならーー」
「そのようなこと、あったことはない。俺様は、お前が俺様を産んだ女と同じように’’恥ずべき死’’を選んだお前に、失望したのだ」
ヴォルデモートのその言葉に、空気が、すべてが止まり、凍った
彼女は、もう目を見開くこともせずに、黙って目を閉じた
きつく…
きつく…
そして、ゆっくり黒いまつ毛に縁取られた瞼を上げ、奇妙に深緑と海の青が溶かしたように輝く眼を、強くリドルへと注いで、強く決意したような背筋を伸ばした出立ちで、言った
ハリーも、ヴォルデモートも、ダンブルドアも、きっと全員がその姿に、魅入った
その神秘的に輝く眼からは、もういく筋もの涙はなく、ただひと筋だけ、決別の涙が伝った
「なら、もうーー」
「っナギニ」
ヴォルデモートが、途端に焦りを抑えるように、彼女の名を呟いた
だが
「あなたを愛することはできないわ。もう、終わりにしましょう。すべてをーー」
ハリーが、今まで聞いたこともないほど、強く厳かな彼女の決意の声だった
そして、気圧されていたヴォルデモートが認識するより早く、事は起こった
咄嗟に腕を伸ばして「何をする?やめろ!」と叫ぶヴォルデモート…
その甲高い声に、先程の吐き捨てたような冷たい色はなかった
彼女の抱いていたイリアスの姿は消え、ひとつのレターナイフを手に持って胸に向けて構えていた
ハリーがいつか見たナイフ
忘れもしない
そして、リドルにとっても、忘れたくとも忘れられない
すべてがスローモーションだった
「やめろ!!よせぇぇ!!」
リドルがはじめて、この世の終わりのように、甲高い声で叫んだ
同時だった
一瞬の出来事だった
彼女が自分の胸にナイフを突き立てた瞬間、リドルは『ひとつの剣』で貫かれたように胸を抑えようとした
現実に起こったことなのか…
それすらもわかっていないかのように、ただ口を開けて……唖然とした
だが、リドルは杖腕を上げていた
リドルは彼女の意識が完全に終わる前に、自分の手で殺してしまおうと思ったのか、スローモーションのように倒れゆく彼女に向けて…
ハリーは迷わず腕が動き、天に向かって全ての想いを込めて叫んだ
「『アバタ ケダブラ!』」
「『エクスペリアームス!』」
ドーン!という大砲のような音と共に、二人が回り込んでいた円の真ん中に、黄金の炎が噴き出し、二つの呪文が衝突した点を印した
ハリーはヴォルデモートの緑の閃光が自分の呪文にぶつかるのを見た
ニワトコの杖は高く舞い上がり、朝日を背に黒々と、くるくると回りながら、魔法の天井を横切ってご主人様の元へと向かった
最初から変わりはしなかった持ち主に向かって、自分が殺しはしない真の所有者に向けて飛んでいった
ダンブルドアは、胸を刺してぐったりとする彼女を片腕で抱き寄せながら、片手を高く上げて杖を捕らえた
その時、ヴォルデモートが膝をつき、彼女が刺したのと同じ位置の胸を抑えた
呼吸も、音も、 空気もなく
全てが無音の世界かのようだった
リドルは、崩れ落ちるように膝をついて、一身にハリーの背の向こう側にいるであろう愛する
アルウェンを、真っ紅な眼に映した
そして、その眼から…ひと筋の光るものが流れるのを、ハリーは確かに、目にした…
唇のない口が、最期にその名を音にすることはできず、ヴォルデモートはまるで、天に吸い込まれてゆくように、顔の皮膚が、燃え尽きた灰のように捲れ上がり、舞った
やがて、全てが灰になった
トム・リドルは、最期を迎えた
身震いするような一瞬の沈黙が流れ、次の瞬間、ハリーの周囲がどっと湧いた
悲鳴、歓声、叫び声が空気を
人々がワッとハリーに駆け寄る中…
ハリーは小さく、ダンブルドアの嗚咽を堪える声を耳にした
ハリーは周囲に湧く人に目もくれず、今度は震えず、ゆっくり振り返った
ハリーは、迷いない足取りで、ゆっくり近づいた
不思議と安らかな、幸せそうな表情で眠るように死んでいる彼女
胸には、突き立てられたナイフはなく、漆黒のローブに包まれた赤子が、背中を丸めるようにして、小さな…小さな手を握りこみ、己の母の胸の上で安らかに眠っていた
もう二度と、母から離れないかのように
彼女の顔に、ダンブルドアの涙が落ちた
その涙が、彼女の頬を伝った
まるで、彼女が泣いているかのようだった
「安らかな顔だ」
ハリーは、それしか言葉が出てこなかった
「…そうじゃのう……よく…よく頑張ったのう……アルウェン…ほんに、ほんにっ…よくやった…」
ダンブルドアは、声を詰まらせて、眠る彼女の頭を撫でながら、涙を流しながら言った
周囲から、悲鳴や、鼻を啜る音、声にならない悲しみの声が聞こえてきた
ハーマイオニーは、悲しみと辛さのあまり、直視することすらできずにロンの胸を借りて大泣きしている
セオドールは茫然自失のように立ちつくし、ドラコは口を歪めて涙を堪えようとしているが、堪えきれずにぼたぼたと涙を流している
あのマッドアイですら、涙をひとつ拭った
そして、それはアバーフォースもだった
「親不孝者めがっ…」と呟いている
マクゴナガルは涙と声を抑えきれずに、顔を背けたり、向き合おうと、彼女を見ようとしている
そんな中、小さな影が人々の足元から出てきた
曲がった背中に、耳を垂れ下げて、大きな目に涙をいっぱいに溜めて、溢れ落とし、とぼとぼと歩いて空いている方の彼女の側に膝を折って、投げ出されたその手を押し抱くように恭しく握った
「…オフューカス様っ……クリーチャーめはいつでも…いつまでもお嬢様のお側にっ…おります。決してっ…決して離れません。貴方様は、クリーチャーの…っ…全てのしもべ妖精の、永遠の’’
クリーチャーの、絞り出すような厳粛な、しもべ妖精の最大級の尊敬の言葉を皮切りに、ぞろぞろと人々の足元からホグワーツのしもべ妖精が現れた
ハリーとダンブルドア、彼女を囲む人々の前に囲むように立って、しもべ妖精全員が手を高く天に上げた
すると、天から眩いばかりの光の雨が降った
きらきらと光りながら舞い落ちるそれに、この場にいる全員が魅入った
しもべ妖精達は、声を揃えて口々に言った
「我らがしもべ妖精を生涯友とされた偉大なる魔女、オフューカス様に安らかな眠りを」
ダンブルドアもハリーも唖然とそれを目にするしかできなかった
ここは…どこ?
私…死んだんだよね…
今度こそ…
痛みを感じなかった……
それどころか…どうしようもなく温かくて…
イリアスが…私が苦しまずに…逝かせてくれたのかな…
胸に手を当てて、先ほどまで感じていたはずのナイフの温かさが懐かしい…
そこではじめて、自分の手が、記憶よりも遥かに小さいことに気づいた
顔を触っても、足を見てみても、どこもかしこも小さかった
私…子どもに戻ってる?
一瞬、また生まれ変わったのかと血の気が引いた
だけど、辺りを見回して、よく見ると真っ白のな空間のここが、孤児院の部屋に似ているのに気づいた
暗く、独房のような簡素な部屋だったそこは、真っ白なパイプベッドに、机、椅子、洋箪笥があった…
誰もいない…
それもそうか…
私、死んだんだ…
なんだか、変な感じ…
これからずっとここにいるのかな…
あんなこと…言いたくなかった…
今更、やっぱり後悔が押し寄せてくる…
彼に側にいて欲しいと願ったのは私なのに、彼があんなに深く受け止めていたなんて…
無責任な言葉をかけて、彼を狂わせたのは私だった
紛れもない事実…
私は、自分が何をしようと、どこか自分には関係ないと思っていた
私なんかが、影響を与えるわけがないと
紛れもない現実を、物語を見ている気分で見ていた
傍観していた
…自分でもわからなかった…
トムに魅かれる自分を認めたくなかった
物語の中の彼に…彼は現実ではないと、私は長い夢を見ているだけなのだと
だけど、寒さに凍える体も、痛みを感じる体も、罵倒されて傷つく心も…
全て…全て本物だった
彼は寄り添ってくれた
ずっと…ずっと側にいてくれた
私がそう言ったから
そう願ったから
トムは、私にだけは優しくしてくれた
トムにとっては、精一杯だったはず
親のいない私たちは、優しさも、愛情も、その示し方も、よくわからなかった
言い訳だと分かっていても、彼が大好きだと認めたくない…認めてはいけない心と、この物語に干渉してはいけないという思い込みが、彼に気持ちを伝える邪魔をした
自分を騙し、嘘をつき続けた
トムは、トムなりに私を大事にしてくれたというのにっ
私は見て見ぬ振りをした
あの医者から助けてくれて、いつもあの小さな…頼もしい背中に庇ってくれた
相手が誰であっても…
私たちが子どもでも、大人相手に臆することなく…
涙が止まらない時も、泣き止むまで抱きしめてくれた…
頭を撫でてくれた…
涙を拭ってくれた…
背中を叩いてあやしてくれた…
知らなかったわけじゃない
確かに自分の気持ちを示していた
なのに…
私はっ…
トムっ…トム…あなたに謝りたい…
どうしようもなくあなたに会いたいっ
ずっとずっと……側にいたかった
物語なんか関係ない
トムが好き…大好き…
「会いたいよ…ふっ…うぅ……謝りたいっ……好きっ…大好きなの…ずっと側にいたい…いてほしいっ…ひとりにしないでっ…」
「ナギニ」
え
聞きたくて堪らなかった声が頭上に舞い降りた
動いていないはずの心臓が、締め付けられた
涙が止まらない…
いつも、メソメソするなって言われてたのに…
止めようとしても…
止まらない…
触れれるかわからない
都合のいい夢かもしれない
だというのに、考えるより先に飛びついていた
子どもの彼に…
あのさらさらとした黒髪と、賢そうな紅い眼の子ども…
「トムっ…トム…トム…トム!」
「ナギニ」
「ごめんなさいっ…ごめんねっ…私っ……」
「なんだ?」
優しい声…
大好きな声…
高くて、甘くて…
「トムが好きっ…大好きなの!」
それしか出てこなかった
ただ
ただ
こんなにも
こんなにも
「愛してるの!」
「ああ。僕もーー殺したいくらい愛してる」
ぎゅうと抱きしめられながら、トムが大好きな声で囁くように言ってくれた
耳元に感じるトムの声に…
確かに私の胸が満たされた
どうしようもなく…身体が幸せに打ち震えて、喜んだ
「私も………トムが他に殺されるくらいなら……殺したいくらい……愛してる」
「僕を生かせるのも、殺せるのも、お前だけだ」
これは…きっと夢かもしれない…
彼なら私を許してくれるだろうと…
彼が言うはずのない言葉を…聞いている
こんな優しい声で…甘い声で…
地獄へに堕ちるまでの誘惑なら、これ以上に幸せなものはないかもしれない…
「だが、お前はもう、僕だけじゃないんだろう」
え…
「お前はもうひとりじゃない。僕は必要ないんじゃないか?」
一気に地獄に突き落とされた気分だった
抱きついていた体を離されて、距離を取られた
宙を掴む手が、虚しく伸びた
「な…何言って…」
「お前には、お前を待っている奴らがいる。そうだろう?手に入れたんだろう?お前の憧れていたものをーーーついにーー」
「それはーー」
「僕は、お前が望んだとおり、お前を求めた。守った。ずっと……ずっと……僕のできることは全てやり尽くした」
「そんなっ…待って!」
「お前に僕は、もう必要ない」
「違う!違う!待ってよ!いや!いやだ!」
「お前はーー僕がいなくても笑っている。笑っていた。お前を愛する両親がいて、お前を大切に想う友人がいるんだろう?」
「そんなのーーそんなのトムがいなきゃーー」
「’’僕’’は死んだんだ。お前の手で終わった」
「っ!!そんなっ…だめっ…行かないでっ」
「悪くない最後だった。お前以外の手で終わっていたなら、また戻ってやるところだった。お前以外の人間は嫌いだ。僕にとっては価値なんかないからな」
「トムっ…トムっ」
「人を傷つける’’僕’’が、また戻ってきてもいいのか?ーーそうなれば、今度こそお前が折角守った者達を皆殺しにするだろうな」
「………トム…」
「’’僕’’はもう終わりだ。終わったんだ」
いかないで、見捨てないで、ひとりにしないで、戻ってきてと言いたい
言いたいのに…
「’’ナギニ’’としてのお前も終わった」
「どういうーー」
「僕は、同情されるのは嫌いだ。吐き気がするほど嫌悪してる。憐れまれるのも許せない。お前は、一度も僕をそういった目で見なかった」
「それはーー」
それは、私は本来いないからーー
「だから、僕はお前を選んだ。お前がどんなものよりも重要で、代わりなど必要なかった。お前がいて、名声と栄光があればよかった」
「……トム…」
「だが、お前は名声と栄光を求めた僕を否定した。僕は、お前の言葉に耳を傾けなかった」
「そんなことないーーー」
「もう、僕のために嘘をつかなくてもいい。お前は、あの時、僕をはじめて否定した。それでもお前は自分の心に’’正直に’’、僕のそばにいてくれた」
「違うーー違う…正直なんかじゃないもんっ………あなたの言う通り、自分可愛さにーー弱かっただけだもんっ」
握り込んだ自分の小さな手が、真っ白の床に向けられて、ぽたぽたと涙が落ちるのが見える
「いいや。お前はいつでも正直だったさ。知らなかったのか?」
「なにを?」
「お前は僕に嘘がつけない。すぐに顔に出る。こうーーー目が揺れるんだ」
トムが、自分の眼を指して、悪戯っぽいあの意地悪な顔で言った
私は、目からさらにぶわっと涙が溢れた
私の大好きな彼の顔…
悪戯っぽい意地悪な…
「そして泣き虫の弱虫だ。僕がいないと何もできなくて、自己主張すらままならない」
「っ〜〜っ…」
「こうやって虐めてやれば、すぐに唇を震わせて、泣きそうな目でこう言うんだ」
「「トムのせいだもん」」
「ってな」
「!」
憎たらしく、くすりとそれでも上品に笑いながらトムが言った
一気に顔が熱くなった
まるで、恥ずかしいところを見られた気分だ
「すぐむきになる。だが、お前は僕に虐められることに本気で怒りはしなかった。文句を言いながらも嬉しそうにしていた。お前がどうしようもなく僕が好きで、僕に弱いと気づかないはずがないだろ?」
「…な…なっ…」
口がぱくぱくしてしまう
なんで私がこんな…
気づかれていたなんてっ…
必死に隠してたのに、ばれていないと…完璧だったのに…
だけど、途端にトムの顔が暗くなった
「だが、いつからかお前は、何も言わなくなった。泣いて、怯えて、心配そうな顔しか見せてくれなくなった。お前のそんな顔が殊更好きだった僕は、その変化に気づかなかった。僕の好きだったお前の顔が、あの頃のような顔でなかったことに」
「トム…」
「お前の泣き顔にどうしようもなく安心した。お前を泣かせられるのは、泣かせていいのは僕だけだと」
ほんと…
不器用な人…
どうしてそんなにひん曲がっているの…
「最低…」
「知っている。僕はこんな愛し方しかしらない。欲しいと思ったものは必ず手に入れる。それが他人のものなら奪えばいい。そこにある意思など関係ない」
子どもの顔で言っているのに、どうしてか違和感がない…
多分きっと、それは彼だから…
だけど…
「そんなの間違ってる…」
「今やっと気づいたさ。あんな顔をさせたかったわけじゃない」
「…私もーー私もね、あなたの意地悪な笑顔が好きだった。むかつくのに……憎たらしいのに…大好きだったよ……でもーー」
「’’僕’’は変わった」
「ええ……昔のあなたは…少しやり過ぎなところもあったけど……それでも、あそこまでじゃなかった」
やられたら倍にしてやり返すし、その手法は残酷だった
普通に酷いことをしていた
でも、何の感情もない顔で、命を奪うようなことはしなかった
うさぎの件は例外として…
「そうだ。僕は’’僕’’を侮る奴が、僕の力を認めない奴が、許せなかった」
「トム…」
「だから殺した。認めさせた。僕が偉大になることで、侮った奴らに目に物を見せてやった……僕は多くの恐れを、畏怖を、尊敬を集めた」
「だが、その代償に、お前を失った」
トムの声が、どうしようもなく弱々しくなった
私の死が、彼を狂わせてしまった
もうわかる…
彼の中に、最後に残っていた人間らしい心を、私が引き裂いてしまった
「お前をこの腕に抱いた時、僕は、どんな不可能なことでも成し遂げられると信じて疑わなかった。お前が側にいる限り、可能だと」
「……っそう思い込んでいただけだよ」
私たちは、その時の満足感や充足感を伝え合うこともなく、私は幸福を感じたけど…
トムは違っていた…
「そうだな。ただお前の身も心も支配することができたことに、喜び、
「そうだね」
否定できなかった
支配者であろうとするあなたの隣に立つ勇気は、私にはなかった
私は自分が悪い人ではないと信じたかった
人に後ろ指を指されることが、怖かった
トムは黙ったままだった…
すると、突然、幼い顔を私に見られないように背けて、小さな背中を見せた
私は知ってる…
彼がこんな仕草をする時は…自分では処理しきれない感情に振り回されている時だった…
言葉が出てこなくて、何を言えばいいかわからない…
彼らしくない姿…
「トム」
小さな肩がぴくりと動いた
まるで、悪いことをして隠そうとする子どもみたいに…
「……お前を……死なせるつもりは……なかったんだ…」
聞いたこともないほど…
小さくて、弱い声だった
「トム…」
「…許してくれっ……」
トムは私の方を見ずに言った
声が震えてる
「お前を失うつもりなんてなかったっ……あの日っ……血だらけでっ倒れたっお前を目にした時っ…」
トム…
「ナギニっ…許してくれっ…お前が取られるんじゃないかって…僕のものなのにっ…僕のナギニなのにっ…お前がイリアスにあんな顔を向けているのが許せなかったっ……お前が心底幸せそうにあいつの名前を呼ぶのが許せなかった!僕には向けてくれないのにっ…」
「…トム…」
それは違う…
誤解してる…
イリアスは愛する我が子
トムは愛する人なの…
大好きで大好きで……全然違う…
「許せない許せない許せない!あいつに取られるだなんて!許せない!許さない!」
「トム!」
こっちを向かずに、気が狂ったように叫ぶトムに、私は悲しくなった
手を伸ばして、地団駄を踏むように歯を食いしばって叫ぶトムを抱きしめた
小さな頭を包むには足りないけど、私は小さな手でトムの頭を落ち着かせるように撫でていた
私はやっと気づいた
トムがどうしてここまで怒ったのか、取り乱すのか…
私は…私はトムを産んで置いて逝ってしまった母親と同じことをしてしまったのだ
トムの心を傷つけてしまった…
「大丈夫。トム、トム。大丈夫だよ」
「お前は僕を見なかった。あいつにばっかり夢中になってっ。僕が帰っても口を開けばあいつの話ばかり。あいつのいる場所は、僕の場所だったんだ!」
知らなかった…
トムがーートムがこんなことを思っていたなんて…
こんな思いをさせていたなんて…
「トム、トム…ごめんなさい。ごめんなさい。そんなつもりじゃなかった。私、トムが喜んでくれると思ってっ……そんな思いをさせてたなんて思わなくてっ…」
トムを力一杯抱きしめた
だけど、トムの震えはまだ収まらない
回された小さな手は、まるで縋り付くみたいに、離さないといわんばかりに私の背中に痛いほど食い込んだ
「トム……トム……ごめんね。ごめんね。私はあなたに一緒に喜んでほしかった。それだけだったの。トムが大好きなのには変わりないから…」
私も大概だ…
イリアスのことは複雑な気持ちなんだ…
我が子を愛してる
産まれてくる前に殺してしまったことも…重く心にのしかかって、決して忘れることも、軽くなることもない
だけど、それ以上に…
トムにこんな顔をさせたくない…
「二度と僕を無視するなっ。僕は無視されるのが嫌いだ。許せないっ」
「しない。絶対しないから」
「僕が目の前にいたのにっ…お前は僕に集中しなかったっ…大嫌いだっ…お前なんかっ…殺してやりたいっ」
「うんーーうん、トムにならいいよ。あなたは結局、一度も…最後まで私を手にかけることなんてできなかった」
「そうだ」
やっと落ち着いてきたトムのいつもの静かな声が聞こえた
「私達、どっちも臆病だから、傷つけたくないから、手にかけることなんてできなかったね」
「ああ…」
「ちゃんと言葉にすればよかったね」
「……ああっ…」
「約束破って、ごめんね」
「許さない」
「言うと思った。許さなくていい。許さないで。好きだよ。大好きだよ。この世で一番、トムが大好き。愛してる」
「……そう…か…」
「うん。やっと言えた……ふふ。二人とも死んじゃったけど、行き先が地獄でもどこでも、今度こそ離れないからね」
私、幸せだ
やっと、トムを抱きしめられた
こうして側にいる…
「ナギニ。もう、’’いい’’」
「トム?」
突然トムが私を引き離して、幼い紅い眼でじっと見てきた
「トム?」
「もう、『側にいなくて’’いい’’』」
「え……な…」
何を言ってるの?
「’’僕’’は、ここで終わりだ。お前と一緒に行けない」
「…何、言ってるの?」
喉が痛い…
言葉が詰まって出てこない…
「お前は、’’僕’’とは違うんだ」
「同じだよ?トムと一緒になったーー」
「一緒’’だった’’。ーーお前の肉体は、僕と違ってまだ消滅していない」
「……めて…」
「お前は、結局最後まで甘い奴だったな。僕もそうか…」
「やめてよ…そんな意地悪聞きたくないっ」
「確かに僕は、お前を虐めるのが大好きだ。だが、最後くらい優しくしてやりたい」
「いやだ!聞きたくない!いつもみたいに嘘だって言ってよ!騙されやすいなって!馬鹿だって!」
「お前には、待っている奴らがいるだろう。僕と違って。お前は望まれている」
「望んでる!私が!私がトムを望んでる!トムがいないと生きる意味なんてない!耐えられない!あんな想いっもうしたくない!」
「声を荒げるな。僕は煩いのが嫌いだって言っただろう」
「…お願いっ…やだ…やだよっ…いやだ…置いていかないでっ…こんなのってないっ……やっと…やっとっ…」
「泣くな。虐めたくなるだろ」
また意地悪な顔で笑った
大好き……
大好きなの…
「いいからっ…それでもいいからっ……お願いっトムっ…お願いだからっ…置いていかないでよっ…寂しいよっ……トムがっ…トムがいないと私っ…どうしていいかっ」
「僕は、これまでお前の足りない頭に多くのことを教えてやっただろ?まあ、僕には到底及ばないが、お前なら問題ないだろ」
「やだやだやだ!やだよ!」
「我儘を言うなーーーーーー帰したくなくなる」
膝をついた手にポタポタ涙が落ちて、目の前いるトムがどんどんぼやけていく
トムの声が聞こえにくい…
「泣くなナギニ。僕を見ろ」
小さい手に頬を挟まれてトムの大好きな眼と目があった
大泣きして、情けなく眼を真っ赤にしてる幼い自分が映った
「全くお前はーーいくら説教しても、僕以外に涙を見せる。お前の泣いてる顔を僕以外に見せるな。不細工すぎて見れたものじゃないんだからな」
「いいもんっ。どうせもうトムしか見ないもんっ」
「頑固者な奴め。ーーナギニ」
「なにーーーよ…?」
呆れ返ったように呼ばれて、ムッとして返事をすると、次の瞬間視界一杯にトムの顔が映った
唇にトムの小さい薄い唇の感触がする
触れるだけのキス…
呆気に取られて放心してると、トムの顔が離れた
「僕は寛容だからなーーお望み通り、こっちに来たらお前が嫌って言っても離さない」
「トム…」
「愛してる。ナギニ」
「まっーーー」
待って…という言葉が届く前に、世界が真っ白になった
真っ白に……
逝ってしまった
もう…
もう二度と……
あなたに会うことは…
ーーー…アルウェン…ーーー
いや
ーーー…アルウェン…ーーー
聞こえない…
ーーー……アルウェン…ーーー
違う…
違う…
私が欲しいのはその声じゃない…
私はそんな名前じゃない…
ーーー…愛するアルウェン…ーーー
違うっ
これじゃないっ
ーーー…私の愛おしい子……ーーーー
トム!!!!
「………て……な……ぃ…で……と…………む」
城の中にある、空き教授室の一角で、深い…深い眠りに落ちながら……涙をとめどなく流し、愛する人の名前をひたすら呼び続ける声が……
悲しく響く…
白いシーツに深く沈み込み死んだように眠るその姿は、まるで御伽噺に出てくる姫のようで…
傷んだ長い髪は、さらさらとした艶のある髪になり銀糸のような輝きを放ち、真っ青な肌は、深雪のような白さで、小さな唇は、震えて愛する男の名を呼び続け、止まることなく流れ伝う涙に濡れている
今は閉ざされた眼は、どんな色に輝いているのか、まだ、誰も知らない…
その胸には、剣の形をした白銀の首飾りが、まるでその眠りを守護するように、一層眩いほどの輝きを放って、持ち主を護るように主張している
今は、彼女が命を絶ったあの時から
戦いの名残りが冷めやらぬ、五日後だった
多大なる犠牲と、死者、負傷者を出し、ホグワーツ城はめちゃくちゃで、瓦礫の山となっていた
その修繕もそこそこに、彼女の体は、辛うじて無事だった離れにある昔の空き教授部屋に移動させられ、埃と蜘蛛の巣だらけだったその部屋は、いつ目覚めてもよいくらいに清掃され、まるで人が住んでいるかのように整えられていた
彼女は、死ななかった
あの時ーーーしもべ妖精達が追悼をしたすぐその時、突然、キンキンする声を上げたひとりの生徒が飛び出してきて、彼女はまだ死んでない!と叫び散らして、呆気に取られて止める大人を突き飛ばしながら怒濤の如く、親友のそばまで来た
彼女は胸にいた赤子が目に入らなかったのか、突然、下げていたバッグから五つの木の欠片らしきものを、その遺体の周りに置いた
すると、突然その木が浮遊して、木片は、白銀に光りながら遺体の周りを回り、そしてそれらはやがて白銀の光の球となり、ひとつになった
それは、彼女の胸へとまっすぐ落ちていったのだ
まるで魔法のような…
何度も…何千回も…何万回も…魔法の奇跡を見てきた者たち全員が…
その光景に息を呑んだ
美しいという言葉しか出てこない…
神秘的な光景だった
胸に光が入った途端、彼女の姿はみるみる変わっていった
銀糸のような輝く髪に、白い肌…
血のついた漆黒の服が、白銀に染められ、まるで何者にも穢されない高潔さを顕すかのごとく、真っ白に染め上げた…
そうして今、彼女は、彼女が救った者達が見守り、集まる部屋の隅のそこにあった古いベッドで、深い眠りにつき、目を覚まさずにいる
彼女の脇には清潔な布に包まれた赤子が、母親に寄り添うようにぴったりとくっついて置かれ、彼女の細い腕が赤子を片腕で抱くように寄せられていた
移動させた時に、ハリーがそうしてあげたのだ
心臓は弱々しくはあるが、動き、息をしているが、彼女はまだ目を覚さない
時折、聞こえるか聞こえない声が僅かに聞こてくる以外は、彼女はもうずっと目を覚まさない…
そして彼女の首元には、セオドール・ノットの袖から出てきた小さな蛇が、小さな仮首を心配そうに擦り寄せてずっとそばについていた
ああ、これが彼女のペットだったのか…と何故か気づき、セオドールが蛇を「センリ」と呼んでいたことに、彼女が、親友を守るために、大切なペットを預けていったのかと理解した
同時に、彼女がパーセルマウスだったことが自然とわかった
随分昔、マルフォイとの決闘で、自分が聞いた声は、あの蛇の声だったということも
ハリーははじめて邪悪でない蛇を見た
「アルウェンはーー」
その中心にいた銀色のローブを引きずるダンブルドアが、重い口を開いた…
多くの人間がーーーじっと耳を澄ました
全てを知らなければならない
真実を
この場にいる全員が同じ想いだっただろう
だが、一人だけダンブルドアに振り向かず、ただ愛する…この世でただ一人の愛する娘が眼を覚ますのを、手を握って待つ男がいた
ダンブルドアは、その姿に眉を下げて、心底悔いるような視線を向けてから、口を開いた
「ヴォルデモート卿。かつての名をトム・リドルという」
ダンブルドアは、かつてハリーに打ち明けた時のような口調で話を始めた…
悲しい愛の………
終わりのなき悲劇の物語を…
「これは、二人の孤独な子達の残酷な愛の物語じゃ」
部屋のいる全員が息を呑んだ音が響いた
ーーー……アルウェン……ーーー
だれ……?
「…トム?」
やっぱり揶揄っただけ?
意地悪しただけ?
「トム?」
「アルウェン」
だ……れ?
トムの姿が消えて、真っ白なあの孤児院の部屋も消えて……
目の前に、知らない人がいる…
いや…違う…
私はこの
私に……
そっくりな人……
「アルウェン」
「あなたって子は……本当に仕方のない子ね」
「お母さんと同じ思いを、してほしくなかったのに。ほんとうに、誰に似たのかしらね」
「……お…かあ……さん?」
「ごめんね。お母さんはあなたに謝らないといけないわ」
どういうこと?
周りを見回してみても、トムはどこにいもいない
真っ白で……真っ白な空間…
…空間というより…
森みたいな感じ……森の中みたいなのに……
真っ白…
「産まれたばかりのあなたを置いて、逝ってしまったことを謝らせて。アルウェン」
「アルウェン。あなたは私の自慢の娘よ。そして、あなたもお母さんと同じように、不器用な人を好きになってしまっただけなのよね」
っ
「お母さんもね、あの人を好きになったの。あの人が去った時でも、信じて待ち続けたのよ。アルウェンと同じ」
「……私……違う……私がトムを待ってたんじゃない……トムが私を待っててくれたんだもん…」
「そうね。お母さんと違って、あなたは愛する人の最期に会えたものね」
「っ…トムはっ…トムは本当はっ…本当は不器用なだけでっ……私っ…私もっそうなのにっ……みんなっ…みんな悪者だって…」
「そうね。私も、あの人のことを知った時、信じたくなかったわ。ほんとうに……男の人って、いくつになってもどうしようもないわね」
私の顔で、肩を竦めて微笑んだ母親に、私はもう会えないトムの顔が浮かんだ…
……トム……
「おいで、アルウェン。戻る前に、お母さん、たくさんあなたの話を聞かせてほしいな」
腕を伸ばして差し出してくる、’’お母さん’’に、私は子どもになった小さな足を踏み出して、駆け寄っていた
足が勝手に動く…
あの人の腕の中に戻りたい…
一杯抱きしめてほしい…
褒めてほしい…
いっぱい……
いっぱい聞いてほしいことがある…
「ーーーートム・リドルは、あの子を愛していたのじゃろうが、間違えたのじゃ。それをーー愛情を受けられずに育った故と言ってよいのか…ーーー多くの複雑な要因が重なり合った結果、二人の深い絆は形作られた」
ダンブルドアは、ゆっくりとした、疲れたような口調で、部屋の椅子の背に皺だらけの手を置きながら、片方の手を後ろに回して悠然と佇んでいた
彼女の生い立ち、数奇な運命を背負い、生まれ変わり、三つの人生を生きてきたこと、そして最後に、愛する人と決別するために立ち上がったことを、部屋にいる全員に、話して聞かせた
ハリーがヴォルデモートを追い詰めるあの瞬間まで、彼女がヴォルデモートと向かいあったあの瞬間までーーー
彼女は、嘘と秘密を守り通した
入学した時から、ハリーを見守り、兄の冤罪を証明し、はじめてできた親友の親を守るためルシウス・マルフォイと亡きノット・シニアを寝返らせ、ダンブルドアの憶測では、かつてのリドルの負の遺産である『秘密の部屋』の中の怪物を鎮めたのも彼女で、トーナメントでマッドアイを救い、奪われかけるところだったセドリック・ディゴリーに毒を盛り、命を救い、墓場で復活したヴォルデモートの魔の手からハリーの命を救い、そうして戻ってきた彼女はダンブルドアとスネイプ、マッドアイに自らの罪を告白し、ヴォルデモートを倒すために命をかけることを誓い、最後の希望であるハリーを、自分がいなくなった後のことも全て見通して守り抜いた
できる限りのことをしようとした
分霊箱を探しにゆき、ダンブルドアを殺してしまうことを阻止するためオーストリアまで向かい、ヌルメンガードにいる危険な闇の魔法使いゲラート・グリンデルバルドをーーかつてのダンブルドアの友だった男を連れてきて、ダンブルドアの身代わりとした
ハリーは初めて知った
最初の分霊箱を探しに行った時、ダンブルドアだと思っていた人が、ダンブルドアに変身したグリンデルバルドだったことに
ハリーは、グリンデルバルドに命を救われていたのだ
亡者達に引き摺り込まれそうになったあの時、青々と燃え盛る炎でグリンデルバルドはハリーを助けたのだ
まったく気がつかなかった
それほどに、グリンデルバルドは’’完璧に’’ダンブルドアに成りきっていたのだ
ダンブルドアが言うには、かつて、ダンブルドアは彼女に自らの過去をすべて話したことがあったと言う
アバーフォースはその言葉を聞いた時、信じられない様子で兄を見た
その話から、彼女はグリンデルバルドにしか、最後までハリーを騙し通すためにはダンブルドアの役は務まらないと考えたのだろう、と
その考えは、正しかった
現に、ハリーは最後まで気づかなかったし、死喰い人も、スネイプでさえもだ
あの夢のような出来事の中で、グリンデルバルド本人から、ハリー自身も、最後の伝言を頼まれていなければ気づかなかっただろう
ハリーは、ダンブルドアを殺したのは彼女だと憎む
優しいハリーを傷つけないように、憎まれようとした彼女の企ては、全て、うまくいき’’かけた’’
だが、全てが彼女の思い通りというわけにはいかなかった
彼女の計画に失敗が起こったとするなら、それは、彼女がいかに自分が多くの人に大切に思われているか、いたかを知らずにいたことだ
そしてハリー自身が、ダンブルドアを殺したこととは別に、彼女を見たからだ
あの記憶がなければ、きっとそうは思わなかっただろう
他にもある
彼女がハーマイオニーの手に渡るようにした本も…
あれでどれだけ自分達が助かったことか
旅の助けになった
ハーマイオニーがあの本を熱心に読み込んでいなければ、ロンの腕の治りは遅かったし、ハリーのことも、他の人たちの怪我も治せなかった
捕まったルーナも、彼女があちら側にいなければ、今頃……
父親を攻撃したのも、守るためだ
もしあの場で、ルーディンが彼女の父親だと知れれば、当然その情報はヴォルデモートの知られるところになる
そうなれば父親の命は……
彼女がヴォルデモートのそばで、秘密裏に騎士団の者たちへの注意をそらしていたからこそ、ほとんど全員が無事でいられた
それは、きっと彼女にしかできなかったことだった
ヴォルデモートの唯一の弱味である彼女が、言葉巧みに誘導したからこそ、ハリー達は追手を回避することもできたし、隠れて動く騎士団のメンバーも居場所を突き止められるまでに時間がかかった
そして、この戦いにおいて、もうひとつ重要な役割を果たした者の存在ーー
彼女を慕い続けた屋敷しもべ妖精、クリーチャーの存在だ
クリーチャーが忠実に彼女の命令を守ったおかげで、フレッドとジョージは彼女からの魔法防衛具を受け取ることができたし、巧妙に隠された一時の避難先を手に入れることができた
そこにルーディンがいたことは彼女の誤算だったが、結果的に良い方へ傾いた
また、アバーフォースがある者から押しつけられたと言うシリウスの『両面鏡』は、元はオフューカスが所有していたもので、シリウスが形見として持っていたのだ
それを彼女は、クリーチャーに命令し、それをアバーフォースに届けさせた
そのおかげで、アバーフォースはハリーの元へとドビーを送ることができた
ドビーはマルフォイの屋敷しもべだった
もし、もしマルフォイがあちら側のままだったら、ドビーは魔法契約に縛られて、自由に動けず、逆にハリーを見つけるように命令されていたかもしれない
そして、もうひとつ、彼女の予想しなかった方へと傾いた事態があった
だがこれは、誰もが予想しなかったことだろう
ドラコ・マルフォイとセオドール・ノットは、屋敷しもべを使い、彼女を助けようとした
そして彼女を見つけたが、彼女はヴォルデモートに監禁されていた
そうして、何を思ったのか、ドラコとセオドールは学校に戻り、混乱していたスリザリンをまとめ上げた
主にセオドール・ノットがまとめ上げたのだが、それを支えたのがレギュラス・ブラックだった
レギュラスは、彼女が捕まる前から、学校を、親友達を、スリザリンの生徒たちを守るようにお願いされていたのだ
また、ダンブルドアからも、学校が死喰い人の手に落ちた時、レギュラスだけは学校に必要となると言われていた
レギュラスは、ダンブルドアの言うことなどに耳を貸す気はなかったが、彼女が最後までダンブルドアを、ハリーを信じろといったから、その通りにした
一度失ったからこそ、今度こそ彼女を信じたのだ
その思いが途中で失われてしまっていたなら、結果はまた違っただろう
死喰い人に罰せられる生徒達や、無礼な振る舞いをされる教員達を庇えたのは、名の知れた純血一族であるブラック家の、レギュラスだからこそできたのだ
連中が純血一族を重視していたからこそできた話だ
すべてが一歩間違えていたら…
何か一つでも違っていたなら…
誰か一人でも志を捨てていたなら…
全員がそれを認識した時、身震いするほどの衝撃に襲われた
予想もしなかった想いが、彼女を生かし、彼女の最後の本音を引き出した
ずっと奥底に隠し、知らぬふりをして、気づかぬふりをしてきた鈍感な彼女自身の想いを…
リドルしかいなかったあの頃と違い、家族に与えられる愛情や友人からの親愛を知った、彼女は確かに変わったのだ
幸せを知ったのだ
彼女は最後に、父親に泣いて抱きついていた
娘を失うくらいなら自分の命などいくらでも差し出すと、この世のなによりも大切な宝なのだと言われ、彼女は子どものようにしゃくり上げて泣いた
たぶん、死にたくないと、まだ家族と一緒にいたいと、願ったのだろう
言いたかったのだろう
だが、彼女はただ父親を呼び、謝っただけだった
彼女は、ハリーと同じ選択をした
だが、ハリーとは違った
彼女には、ヴォルデモートへと……リドルへの紛れもない愛があった
今のハリーには、どう頑張っても想像できないし、理解してあげられない
だが、モリー・ウィーズリーやトンクス、子を産んだ母親は、そうではなかったようだった
ダンブルドアの話を黙って聞きながら、口を覆っていた
たとえ、罪を犯した男の子どもでも、愛する我が子には変わりない
自分のお腹に宿り、しんどくて、辛い思いをしながらも、懸命に育ててきたのだ
それをーー
最後には手にかけざるを得なかった
ダンブルドアの知る真実と、ハリーの知った真実、それぞれの真実が、今、全て繋がり、彼女の本当の顔が見えてきた
皆が皆、涙を抑えきれず、特に女性は全員が苦悶の表情を露わに、ある人は膝から崩れ落ち、ある人は耐えられずに耳を塞ぎ、それぞれの愛する人の胸に飛び込んで慰められた
彼女に命を救われていたスネイプは、終始辛そうに顔を歪めて無言だった
セドリックは、自分が知らず内に彼女に命を救われていたことに、驚愕していた
そばにいたチョウが、セドリックに寄り添った
ハリーは、崩れ落ちるシリウスに黙って寄り添った
レギュラスなどは、ずっと目を見開いたままで同じく動揺しているアンバーソンに支えられていた
ダンブルドアは、椅子に手をついたまま、ゆっくり腰掛け、肘をついて米神を軽く押し、眉間に皺を寄せて続けた
「もし、どちらか一方でも両親の愛情を受けられていたならば、もし、孤児院で育たなければーーーどれかひとつでも違っていたならば、また違った未来があったのじゃろう。じゃが、今更それを、いくら述べたところで過去には戻ることはできぬ」
「あの者の行いは、筆舌に尽くし難く、もはや
「不運という言葉で済まさんでおくれ。少なくとも、わしはこの子がーートムを愛していたと言った事実は、否定しとうないのじゃ。当時のこの子にとって、たった一人の家族じゃったろう。孤独な日々で、トムだけがこの子の味方であり、いつもその背に庇われて守られたのは紛れもない事実なのじゃ。でなければ、最後にトムにあのように訴えはせなんだろう。今まで決して言葉にせなんだことを、あの子は最後に伝えたのじゃ」
ダンブルドアのその言葉に、ハーマイオニーは最後に彼女がハーマイオニーにだけ打ち明けた本音を思い出した
ーーーーーー何度も…何度、後悔したかしれないわ………だけど、どれだけ後悔しても、願っても、時間は決して戻ってはくれなかったーーーー
ーーーー小さな男の子がいた。私の隣で並べられて、一緒に育った。はじめて、名前を呼ばれた。舌足らずに、呼んでくれたのーーー
赤子の頃から共に育てられた二人
少ない食事を分け合い、寒いベットで、小さな体を丸めて、抱き合って眠っていた
そんなの…
そんなの…
情が湧かないわけがない
ーーー私は…そして彼も、私たちはお互い、一言も愛を囁いたことはなかったーーー
お互い不器用だった
愛を知らなかった
示し方を間違えた
周りに信用できる人も、大人も、誰もおらず、無力な子どもは、身を守る術がなかった
お互いしかいなかっただけだ…
利用されないように…
傷つかないように…
傷つけられないように…
リドルが彼女の心身を守った
彼女はリドルの心を守った
見せられた記憶が思い出される…
栄養不足の体の小さな彼女に、リドルがぶっきらぼうに「寝ている時に腹でも鳴らされたら迷惑だからな」と言いながら、自分のパンを半分分けていた光景
あんなところでも、彼女はたしかに幸せだったのだ
苦しくても、貧しくても…
リドルに幸せそうに微笑んで、首を振って「男の子のトムの方が食べないといけないよ。トムまで倒れたら私、生きていけないもん」と言った
言葉も…なにもかも無意味になった…
ーーー’’すべては’’あなた達の味方よーーー
あの言葉の真の意味が、ここまでのことだったとは…
ハーマイオニーは、本当に、わけもわからず自らを深く恥じた
ヴォルデモートを悪と断じるのは簡単だった
彼女がいなければ…
不幸な生い立ちを知らなければ…
だからといって、ヴォルデモートのしたことが許されるとは思わないし、許されてはいけない
倒したことは正しいことだ
だが…
それだけでは、納得できないことがある…
済ましてはいけないことがある…
ハーマイオニーは、はじめて、正しく
『残酷』
という言葉の意味を、長い戦いの末に、心から実感した
「……ぃ………で…と………む……」
彼女の愛する人を呼ぶ声がだけが、石造りの部屋に悲しく木霊した
彼女はまだ
目覚めない
——————————
非常に長い間、ここまでお付き合い下さった読者の皆様、ありがとうございます。
おかげさまで、ここまでくることができました
コメントやスタンプをくださることが、執筆の励みになっていました
次回で終了の予定ですが、どんな最後でも、楽しんでいただけたらと思います
また、番外編として少し質問コーナーを入れたいなと思います
『ヴォル様とトム、アルウェンへの質問コーナー』の予定です
もし、読者の皆様の中で、どんなところが好き?とかそういう質問があれば、できる限り入れたいなと思うので、是非是非、メッセでもコメントでも言ってきてください
愛した男の僅かな躊躇いと決して表に出ることのなった愛が、彼女に未来を与えた…
本人すら想像しなかった躊躇い…
簡単なことだった
嘘を重ね、秘密を作り続けた小さな男の子と女の子
すべてはそこから始まった
残酷な愛の物語