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※捏造過多
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「レギュ兄」
「ん?どうしたんだいオフィー?」
「……私じゃない方がいいと思うわ」
言われるがまま、少し小綺麗な服に着替えて鏡台の前に座ったまま俯いて言ったオフューカス
「………」
その言葉に、沈黙したレギュラス
「スラグホーン先生は、レギュ兄を評価してる。だから、こんなことでムキにならないで。今からでも他の同伴を探して…「やっぱりオフィーは大人っぽいから真珠がよく似合うね。あ、今度はエメラルドのサークレットなんてどうだい?」……レギュラス…」
まるで聞こえないとばかりに、遮るように言ったレギュラスに、彼女は眉を下げて名前を呼んだ
「そんなに自分を卑下しないでくれオフィー。君は素晴らしい女性だし、優秀なんだ。僕の誇りだ。たったひとりの片割れなんだ。オフィーの価値を理解’’しようともしていない’’人間の言うことなんて、気にしなくていいんだ」
慰めるように言ってくるレギュラスに、彼女は落胆にも似た思いを抱いた
「違う、そうじゃない」「私が言いたいのはそういうことじゃない」…と心の中で否定した
「レギュ兄…私は別に卑下しているわけじゃないわ。ただ将来のことを考えて言っているの。それに、先生がそう言ったわけでもないんだから思い込みで断じるのはよくないわ。スラグホーン先生はとても賢いし、人脈のある先生よ。だから仲良くしていて損はないわ。ねえ、私もレギュ兄を誇りに思ってる。だから…「どうしてそんな酷いことを言うんだい?」…ぇ…」
俯いていた顔をゆらりと上げたレギュラスに、一瞬びくりとしたオフューカスは、恐る恐るレギュラスの顔を覗き込もうとした
その時、いきなり肩をぎゅと、強く掴まれた
「オフィーはっ…オフィーは素晴らしいんだっ。どの教科も優秀な成績だし。なのに、あの先生だけはっ…君をいない者のように扱うっ…君が平凡だとっ…凡庸だと思ってっ…君は将来必ず偉大な魔法使いになるっ!なるんだ!優しくて、聡明で、思慮深く、なにより美しい!」
正気なのか…と思った
喉につっかえて声が出ないほど驚愕し、困惑したオフューカスは冷や汗が流れるのを感じながら、下手に刺激しない方がいいことはわかったので、ただ双子の兄を見上げるだけで黙った
「…(……この人は本当に私の知っているレギュラス兄様なの…?)」
自分が見たこともない片割れの一面を見た気がして…軽くショックを受け、恐怖した
おそらく見てはいけない一面だった…
「オフィーは賢いからわかるよね?だろう?先生は後悔するはずさ。こんなに優秀で聡明な生徒をーー見る目がなかったんだ。さあ、行こう?」
まるで言い含めるように、無意識だろうが、肩を掴んだ手を食い込ませて言ってきたレギュラスに、彼女は勝手に口が開いた
「……う…うん………」
肯定した途端、肩を掴んでいた手が離され、先程の様子とは打って変わって、ぱぁ!と花が咲いたように輝いた笑顔になったレギュラスはオフューカスの手を優しくとってエスコートした
「良い子だオフィー。僕のオフィー。君は僕の自慢の片割れだ。君は胸を張れることをしてきたんだ。俯く必要なんかないんだよ」
優しく言って聞かせる片割れに、彼女は隣を歩きながら困惑した
「…う…うん…(怖い…レギュ兄が…私の知ってるレギュ兄じゃないみたい…今のは何?…目がいつもと違った…)」
ハグリッドのところに行くのが正しいと感じたのは何故なのか、ハリーには全くわからなかった
薬は、一度に数歩先までしか照らしてくれないようだった
最終目的地までは見えなかったし、スラグホーンがどこで登場するのかわからなかったが、しかしこれが記憶を獲得する正しい道だということはわかっていた
玄関ホールに着くと、フィルチが正面の扉に鍵をかけ忘れていることがわかった
ハリーはにっこり笑って勢いよく扉を開き、暫くの間、新鮮な空気と草の匂いを吸い込んで、それから黄昏の中へと歩き出した
階段を降りきったところで、ハリーは急に、ハグリッドの古屋まで、野菜畑を通っていくとどんな人心地よいだろうと思いついた
厳密には寄り道になるのだが、ハリーにとっては、この気まぐれを行動に移さなければならないことがはっきりしていた
そこですぐさま野菜畑に足を向けた
嬉しいことに、そして別に不思議と思わなかったが、そこでスラグホーン先生がスプラウト先生と話しているのに出くわした
ハリーは、ゆったりした安らぎを感じながら、低い石垣の陰に隠れて、二人の会話を聞いた
「……ポモーナ、お手間を取らせてすまなかった」
スラグホーンが礼儀正しく挨拶していた
「権威者のほとんどが夕暮時に摘むのがいちばん効果があるという意見ですのでね」
「ええ、そのとおりです」
スプラウト先生が暖かく言った
「それで十分ですか?」
「十分、十分」
ハリーが見ると、スラグホーンはたっぷりの葉の茂った植物を腕一杯に抱えていた
「三年生の全員に数枚ずつ行き渡るでしょうし、煮込みすぎた子のために少し余分もある…さあ、それではおやすみなさい。本当にありがとう!」
スプラウト先生はだんだん暗くなる道を、温室の方に向かい、スラグホーンは透明なハリーの立っている場所に近づいてきた
ハリーは突然姿を現したくなり、「マント」を派手に打ち振って脱ぎ捨てた
「先生、こんばんは」
「ひゃあ、こりゃあびっくり、ハリー、腰を抜かすところだっあぞ」
スラグホーンはばったり立ち止まり、警戒するような顔で言った
「どうやって城を抜け出したんだね?」
「フィルチが扉に鍵をかけ忘れたに違いありません」
ハリーは朗らかに答え、スラグホーンが顰めっ面をするのを見て嬉しくなった
「このことは報告しておかねば。まったく、あいつは、適切な保安対策より、ゴミのことを気にしている……ところでハリー、どうしてこんなところにいるんだね?」
「ええ、先生、ハグリッドのことなんです」
ハリーには、今が本当のことを言うべき時だと分かっていた
「ハグリッドはとても動揺しています……でも先生、誰にも言わないでくださいますか?ハグリッドが困ったことになるのはいやですから…」
スラグホーンは明らかに好奇心を刺激されたようだった
「さあ、約束はできかねる」
スラグホーンはぶっきらぼうに言った
「しかし、ダンブルドアがハグリッドを徹底的に信用していることは知っている。だから、ハグリッドがそれほど恐ろしいことをしでかすはずはないと思うが……」
「ええ、巨大蜘蛛のことなんです。ハグリッドが何年も飼っていたらしいんです……禁じられた森に棲んでいて……話ができたりする蜘蛛でしたーー」
「森には、毒蜘蛛のアクロマンチュラがいるという噂は、聞いたことがある」
黒々と茂る木々の彼方に目をやりながら、スラグホーンがひっそりと言った
「それでは、本当だったのかね?」
「はい」
ハリーが答えた
「でも、この蜘蛛はアラゴグといって、ハグリッドがはじめて飼った蜘蛛らしいです。昨夜死にました。ハグリッドは打ちのめされています。アラゴグを埋葬するときに誰か側にいてほしいと言うので、僕が行くって言いました」
「優しいことだ。優しいことだ」
遠くに見えるハグリッドの小屋の灯りを、大きな垂れ目で見つめながら、スラグホーンが上の空で言った
「しかし、アクロマンチュラの毒は非常に貴重だ……その獣が死んだばかりなら、まだ乾ききってはおるまい……勿論、ハグリッドが動揺しているなら、心ないことは何もしたくない……しかし、多少なりと手に入れる方法があれば……つまり、アクロマンチュラが生きているうちに毒を取るのが、ほとんどが不可能だ……」
スラグホーンは、ハリーにというより、今や自分に向かって話しているようだった
「……採取しないのはいかにももったいない……半リットルで百ガリオンにかるかもしれない……正直言って、私の給料は高くない…」
ハリーはもう、何をすべきかがはっきりわかった
「えーと」
ハリーはいかにも躊躇しているように言った
「えーと、もし先生がいらっしゃりたいのでしたら、ハグリッドは多分、とても喜ぶと思います……アラゴグのために、ほら、よりよい野辺送りできますから……」
「いや、勿論だ」
スラグホーンの目が、いまや情熱的に輝いていた
「いいかねハリー、あっちで君と落ち合おう。私は飲み物を一、二本持って……哀れな獣に乾杯するとしようーーーまあーー獣の健康を祝してというわけにはいかんがーーとにかく、埋葬が済んだら、格式ある葬儀をしてやろう。それに、ネクタイを変えてこなくては。このネクタイは葬式には少し派手だ…」
スラグホーンはバタバタと城に戻り、ハリーは大満悦でハグリッドの小屋へと急いだ
「来てくれたんか」
戸を開け、ハリーが「透明マント」から姿を現したのを見て、ハグリッドは嗄れ声で言った
「うんーーロンとハーマイオニーは来られなかったけど」
ハリーが言った
「とっても申し訳ないって言ってた」
「そんなーーそんなことはええ……そんでも、ハリー、おまえさんが来てくれて、あいつは感激してるだろうよ……」
ハグリッドは大きく泣きじゃくった
靴墨に浸したボロ布で作ったような喪章をつけ、目を真っ赤に泣き腫らしている
ハリーは慰めるようにハグリッドの肘をポンポンと叩いた
ハリーが楽に届くのはせいぜいその高さ止まりだった
「どこに埋めるの?禁じられた森?」
「とんでもねぇ」
ハグリッドはシャツの裾で流れ落ちる涙を拭った
「アラゴグが死んじまったんで、他の蜘蛛やつらは、俺を巣の側に一歩も近づかせねえ。連中が俺を食わんかったんは、どうやらアラゴグが命令してたからかららしい!ハリー、信じられっか?」
正直な答えは、「信じられる」だった
ハリーとロンが、アクロマンチュラと顔をつき合わせた場面を、ハリーは痛いほどよく憶えている
アラゴグがいるからハグリッドを食わなかったのだと、連中がハッキリ言った
「森ン中で、俺が行けねえところなんか、今まではなかった!」
ハグリッドは頭を振り言った
「アラゴグの骸をここまで持ってくるんは、並たいてぇじゃあなかったぞ。まったくーー連中は死んだもんを食っちまうからな……だけんど、俺は、こいつにいい埋葬をしてやりたかった……ちゃんとした葬式をな…」
ハグリッドはまた激しくすすり上げはじめた
ハリーはハグリッドの肘を、またポンポン叩いて慰めた
薬がそうするのが正しいと知らせているような気がした
そして、こう言った
「ハグリッド、ここに来る途中で、スラグホーン先生に会ったんだ」
「問題になったんか?」
ハグリッドは驚いて顔を上げた
「夜は城を出ちゃなんねぇ。分かってるんだ。行方不明んなっとるユラんこともある。生徒達が危ねぇんはわかっちょる。俺が悪いーー」
「違うよ。ハグリッドは何も悪くない。僕がしようとしていることを、先生に話したら、先生もアラゴグに最後の敬意を表しに行きたいって言うんだ」
ハリーが言った
「もっと相応しい服に着替えるのに、城に戻ったんだ、と思うよ……それに、飲み物を何本か持ってくるって。アラゴグの想い出に乾杯するために……」
「そう言ったんか?」
ハグリッドは驚いたような、感激したような顔をした
「そりゃーーそりゃ親切だ。そりゃあ。それに、おまえさんを突き出さんかったこともな。俺はこれまであんまりホラス・スラグホーンと付き合いがあったわけじゃねぇが……だけんど、アラゴグのやつを見送りに来てくれるっちゅうのか?え?ふむ……きっと気に入るだろうよ…アラゴグのやつが」
ハリーは内心、スラグホーンに食える肉がたっぷりあるところが、一番アラゴグが気に入っただろうと思ったが、黙ってハグリッドの小屋の裏側の窓に近寄った
そこから、かなり恐ろしい光景が見えた
巨大な蜘蛛の死体が引っくり返って、もつれて丸まった脚をさらしていた
「ハグリッド、ここに埋めるの?庭に?」
「かぼちゃ畑の、ちょっと向こうがええと思ってな」
ハグリッドが声を詰まらせた
「もう掘ってあるんだーーほれーーー墓穴をな。何かええことを言ってやりてえと思ってなあーーほれ、楽しかった思い出とかーー」
ハグリッドの声がわなわなと震えて涙声になった
戸を叩く音がして、ハグリッドは、でっかい水玉模様のハンカチで鼻をチンとかみながら、戸を開けにいった
スラグホーンが急いで敷居をまたいで入ってきた
腕に瓶を何本か抱え、厳粛な黒いネクタイを締めている
「ハグリッド」
スラグホーンが深い沈んだ声で言った
「まことにご愁傷様で」
「ご丁寧なこって」
ハグリッドが言った
「感謝します。それに、ハリーに罰則を科さなかったことも、ありがてえ……」
「そんなことは考えもしなかったよ。ーー悲しい夜だ……哀れな仏は、どこにいるのかね?」
「こっちだ」
ハグリッドは声を震わせた
「そんじゃーーそんじゃ、始めるかね?」
三人は裏庭に出た
木の間から垣間見える月が、淡い光を放ち、ハグリッドの小屋かは漏れる灯りと交じり合って、アラゴグの亡骸を照らした
掘ったばかりの土が三メートルもの高さに盛り上げられ、その脇の巨大な穴の縁に、骸が横たわっている
「壮大なものだ」
スラグホーンが蜘蛛の頭部に近づいた
乳白色の目が八個、虚に空を見上げ、二本の巨大な曲がった鋏が、動きもせず、月明かりに輝いていた
スラグホーンが巨大な毛むくじゃらの頭部を調べるような様子で鋏の上に屈み込んだとき、ハリーは瓶が触れ合う音を聞いた気がした
「こいつらがどんなに美しいか、誰でもわかるっちゅうわけじゃねえ」
目尻の皺かは涙を溢れさせながら、ハグリッドがスラグホーンの背中に向かって言った
「ホラス、あんたがアラゴグみてえな生き物に興味があるとは、知らんかった」
「興味がある?ハグリッドや、私は連中を崇めているのだよ」
スラグホーンは死体から離れた
ハリーは、瓶がキラリと光ってスラグホーンのマントの下に消えるのを見た
しかし、また目を拭っていたハグリッドは、何も気付いていない
「さて……埋葬を始めるとするかね?」
ハグリッドは頷いて進み出た
それから三人は、アラゴグを埋葬し、スラグホーンの葬いと餞の言葉を聞いて、小屋に戻った
小屋に戻ってからは、スラグホーンがズビズビと泣いて、打ちのめされているハグリッドに持ってきた酒を勧めた
スラグホーンとハグリッドは深酒をしたが、ハリーはフェリックス・フェリシスのおかげで行き先が照らし出されていたので、自分は飲んではいけないことがわかっていた
飲む真似だけで、テーブルにマグを戻した
「俺はなあ、あいつを卵から孵したんだ」
ハグリッドが酒で赤くなった顔で、ムッツリと言った
「孵ったときにゃあ、ちっちゃな、かわいいやつだった。ベキニーズの犬くれえの」
「かわいいな」
スラグホーンもほんのり赤くなった顔で答えた
「学校の納戸に隠しておいたもんだ。あるときまではな……あー…」
ハグリッドの顔が曇った
ハリーは、わけを知っていた
当時は知らなかったが、今学期に入ってから全てがわかった
トム・リドルが「秘密の部屋」を開いた罪をハグリッドに着せ、退学になるように仕組んだのだ
今までは、「秘密の部屋」の怪物はバジリスクで、開いたのは誰かは知らなかった
二年生の頃わかっていたことは、強力な闇の魔術が施された物が、なんらかの形でジニーの手に渡り、操られてジニーが「秘密の部屋」を開いたということだった
それを、ダンブルドアは今学期に入って、それがトム・リドルの仕業だったと明かした
不可解な点が多い、納得できないところが多々あったが、ダンブルドアが言うことなので、ハリーは納得することにした
だが、スラグホーンは聞いていないようだった
天井を見上げていた
そこには真鍮の鍋がいくつもぶら下がっていたが、同時に絹糸のような輝く白い長い毛が、糸束になって下がっていた
「ハグリッド、あれはまさか、ユニコーンの毛じゃなかろうね?」
「ああ、そうだ」
ハグリッドが無頓着に言った
「尻尾の毛がそれ、枝なんぞに引っかかって抜けたもんだ…」
「しかし、君、あれがどんなに高価な物か知っているかね?」
「俺は怪我した動物に、包帯を縛ったりするのに使っちょる」
ハグリッドは肩を竦めて言った
「うんと役に立つぞ……なにせ頑丈だ」
スラグホーンはもう一杯グイッと飲んだ
その目が、今度は注意深く小屋を見回していた
他のお宝を探しているのだと、ハリーにはわかった
樫の樽で熟成された蜂蜜酒だとか、砂糖漬けパイナップル、ゆったりしたベルベットの上着などが、たんまり手に入る宝だ
スラグホーンはハグリッドのマグに注ぎ足し、自分のにも注いで、最近森に住む動物についてや、ハグリッドがどんなふうに面倒を看ているかなどを質問した
酒とスラグホーンのおだて用の興味に乗せられたせいで、ハグリッドは気が大きくなり、もう涙を拭うのをやめて、嬉しそうに、ボウトラックル飼育を長々と説明し始めた
フェリックス・フェリシスが、ここでハリーを小突いた
ハリーは、スラグホーンが持ってきた酒が急激に少なくなっているのに気づいた
ハリーはまだ、沈黙したまま「補充呪文」をかけることができなかったが、しかし今夜は、できるかもしれないなどと考えること自体が笑止千万だった
ハリーはひとりでほくそ笑みながら、ハグリッドにもスラグホーンにも気付かれず、テーブルの下から空になりかけた瓶に杖を向けた
たちまち酒が補充されはじめた
一時間ほど経つと、ハグリッドとスラグホーンは、乾杯の大盤振る舞いをはじめた
ホグワーツに乾杯、ダンブルドアに乾杯、しもべ妖精醸造のワインに乾杯ーー
「ハリー・ポッターに乾杯!」
バケツ大のマグで、十四杯目のワインを飲み干し、飲みこぼしを顎から滴らせながら、ハグリッドが破鐘のような声で言った
「そーだ」
スラグホーンは少し呂律が回らなくなっていた
「パリー・ポッター、『選ばれし生き残った男の者』ーーいやーーとか何とかにーー」
ブツブツ言いながらスラグホーンもマグを飲み干した
それから間もなく、ハグリッドはまた涙脆くなり、ユニコーンの尻尾を全部ごっそりスラグホーンに押し付けた
スラグホーンはそれをポケットに入れながら叫んだ
「友情に乾杯!気前の良さに乾杯!一本十ガリオンに乾杯!」
それからは、ハグリッドとスラグホーンは並んで腰掛け、互いの体に腕を回して、オドと呼ばれた魔法使いの死を語る、ゆったりとした悲しい曲を歌っていた
「あぁぁぁぁーー、いいやつぁ早死にする」
ハグリッドはテーブルの上にだらりと首うなだれながら、酔眼で呟いた
一方スラグホーンは、声を震わせて歌のリフレインを繰り返していた
「俺の親父はまぁーだ逝く歳じゃなかったし……おまえさんの父さん母さんもだぁ、ハリー……」
大粒の涙が、またしてもハグリッドの目尻の皺から滲み出した
ハグリッドは、ハリーの腕を握って振りながら言った
「あの年頃の魔女と魔法使いン中じゃあ、俺の知っちょるかぎりいっち番だ……おまけに母さんの友人も死んじまって……何したっちゅうんだ…ぐすっ…ひどいもんだ…ひどいもんだ…ハリー…おまえさんの母さんは悲しんどった…そりゃあもう目も当てられんくらい………に…から…ろ…いいよ…たぁ…」
ハリーは今の言葉にピンときた
ハグリッドはもう船をこおでいる
母の友人…死んだ…母が悲しんでいた
‘’幸運’’にいる中、ハリーが頭に浮かんだのは、騎士団本部のブラック家、亡くなったオフューカスの部屋にあった写真
母がオフューカスの肩に両手を置いて、幸せそうに微笑んでいた姿
母はひとつ下の彼女が大好きだったのだろう…
そう容易に察せる笑顔だった
自分が持っている写真の、父に向ける愛情のある表情ではなく、彼女に向ける表情は親愛の情だ
レギュラス先生は母がオフューカスのことが大好きだった、と言っていた
‘’幸運’’な心地のハリーは、なんとなく思った
彼女から母の話を聞きたい…と
全てが終われば、彼女に聞こう
きっと応えてくれる
ハリーは’’確信した’’
スラグホーンは悲しげに歌った…
「…ひどいもんだ…」
ハグリッドが低く呻き、ぼうぼうの頭が、とうとうころりと横に傾いで両腕にもたれた途端、大いびきをかいて眠り込んだ
「すまん」
スラグホーンはしゃっくりをしながら言った
「どうしても調子っぱずれになる」
「ハグリッドは先生の歌のことを言ったのじゃありません」
ハリーが静かに言った
「僕の両親が死んだことを言っていたんです」
ハリーはフェリックスのおかげでわかっていた
ここでは、彼女のことは話題にしないほうがいいと
その通りにした
「ああ」
スラグホーンが、大きなゲップを押さえ込みながら言った
「ああ、なんと。いや、あれはーーあれは本当に酷いことだった。酷い……酷い…」
スラグホーンは言葉に窮した様子で、口元と目元を、怯えているようにもとれる、赤くなった顔で呟いた
その場凌ぎに二人のマグに酒を注いだ
「多分ーー多分君は、覚えていないのだろう?ハリー?」
スラグホーンは気まずそうに聞いた
「はいーーだって、僕はまだ一歳でしたから」
ハリーは、ハグリッドの鼾で揺らめいている、蝋燭の炎を見つめながら言った
「でも、何が起こったのか、後になって随分詳しく分かりました。父が先に死んだんです。ご存知でしたか?」
「いーーいや、それは」
スラグホーンは消え入るような声で言った
「そうなんです……ヴォルデモートが父を殺し、その亡骸を跨いで母に迫ったんです」
ハリーは言った
スラグホーンは大きく身震いしたが、目を逸らせることができない様子で、怯えた目でハリーを見つめ続けた
「あいつは、母に退けと言いました」
ハリーは容赦なく話し続けた
「ヴォルデモートは僕に、母は殺す必要がなかったと言いました。あいつは僕だけが目当てだった。母は逃げることができたんです」
「おお、なんと」
スラグホーンがひっそりと言った
「逃げられたのに……死ぬ必要は……なんと酷い…」
「そうでしょう?」
ハリーはほとんど囁くように言った
「でも母は動かなかった。父はもう死んでしまったけれど、母は僕までも死なせたくなかった。母はヴォルデモートに哀願しました……でも、あいつはただ高笑いを……「もういい!」」
突然スラグホーンが、震える手で遮った
「もう十分だ。ハリー、もう……私は老人だ……聞く必要はない……聞きたくない……」
悲痛な表情で呟くスラグホーンに、ハリーは続けた
「忘れていた」
フェリックス・フェリシスが示すままに、でまかせを言った
「先生は、母が好きだったのですね?」
「好きだった?」
スラグホーンの目に、再び涙が溢れた
「あの子に会った者は、誰だって好きにならずにはいられない……あれほど勇敢で……あれほどユーモアがあって……そう…あのような生徒が友人だと言うことが疑問だった…関わるべきではなかった…ああ、心優しく温かいリリー…なぜあのような生徒を気にかけていたのか……何という恐ろしいことだ…」
恐ろしげに、身震いするかのように呟かれた言葉に、ハリーはピクリと眉が動いた
だが、フェリックス・フェリシスは彼女のことを深掘りしてはならない、と示していた
だから、聞かなかったことにして続けた
「それなのに、先生は、その息子を助けようとしない。ーー母は僕に命をくれました。それなのに、先生は記憶をくれようとしない」
ハグリッドの轟々たる鼾が小屋を満たした
ハリーは涙を溜めたスラグホーンの目をしっかり見つめた
魔法薬の教授は、目を逸らすことができないようだった
「そんなことを言わんでくれ」
スラグホーンが微かな声で言った
「君にやるかやらないかの問題ではない……君を助けるためなら、勿論……しかし、何の役にも立たない…」
「役に立ちます」
ハリーははっきりと言った
「ダンブルドアには情報が必要です。僕には情報が必要です」
何を言っで安全だと、ハリーにはわかっていた
朝になれば、スラグホーンは何も覚えていないと、フェリックスが教えてくれていた
スラグホーンの目を真っ直ぐに見つめながら、ハリーは少し身を乗り出した
「僕は『選ばれし者』だ。奴を殺さなければならない。あの記憶が必要なんだ」
スラグホーンは不憫なほど青褪めた
テカテカした額に、汗が光っていた
「君は’’やはり’’『選ばれし者』なのか?」
「もちろんそうです」
ハリーは静かに言った
「しかし、そうすると……君は……君は大変なことを頼んでいる……私に頼んでいるのは、実は、君が『あの人』を破滅させるのを援助しろとーー」
「リリー・エバンズを殺した魔法使いを、退治したくないんですか?」
「ハリー、ハリー、勿論そうしたい。しかしーー」
「恐いんですね?僕を助けたとあいつに知られてしまうことが」
スラグホーンは無言だった
恐れ慄いているようだった
「先生、僕の母のように、勇気を出して…」
スラグホーンはむっちりした片手を上げ、指を震わせながら口を覆った
一瞬、育ちすぎた赤ん坊のように見えた
「自慢できることではない……」
指の間から、スラグホーンが囁いた
「恥ずかしいーーあの記憶の顕すことがーーあの日に、私はとんでもない惨事を引き起こしてしまったのではないかと思う……」
「僕にその記憶を渡せば、先生のやったことは全て帳消しになります」
ハリーは続けた
「そうするのは、とても勇敢で気高いことです」
ハグリッドは眠ったままピクリと動いたが、また鼾をかき続けた
スラグホーンのハリーは、蝋燭のなびく炎を挟んで見つめ合った
長い…長い沈黙が流れた
フェリックス・フェリシスが、ハリーにそのまま黙って待てと教えていた
やがてスラグホーンは、ゆっくりとポケットに手を入れ、杖を取り出した
もう一方の手をマントに突っ込み、小さな空き瓶を取り出した
ハリーの目を見つめたまま、スラグホーンは杖の先で米神に触れ、杖を引いた
記憶の長い銀色の糸が杖先について出てきた
記憶は長々と伸び、最後に切れて、銀色に輝きながら杖の先で揺れた
スラグホーンがそれを瓶に入れると、糸は螺旋状に巻き、やがて広がってガスのように渦巻いた
震える手でコルクの栓を閉め、スラグホーンはテーブル越しに瓶をハリーに渡した
「ありがとう、先生」
「君はいい子だ」
スラグホーンの膨れた頬を涙が伝い、セイウチ髭に落ちた
「それに、君の目は母親の目だ……それを見ても、私のことを悪く思わんでくれ…」
そして、両腕に頭をもたれさせて深い溜息をつき、スラグホーンもまた眠り込んだ
「先生、メリィソート先生が退職なさるというのは本当ですか?」
高い艶やかな声でリドルが聞いた
「トム、トム、たとえ知っていても、君には教えられないね」
スラグホーンは砂糖だらけの指をリドルに向けて、叱るように振ったが、ウィンクしたことでその効果は多少薄れていた
「まったく、君って子は、どこで情報を仕入れてくるのか、知りたいものだ。教師の半数より情報通だね、君は」
リドルは微笑した
他の少年たちは笑って、リドルを賞賛の眼差しで見た
「知るべきでないことを知るという、君の謎のような能力、大事な人間を嬉しがらせる心遣いーーところで、パイナップルをありがとう。君の考えどおり、これは私の好物でーー」
何人かの男の子がクスクス笑った
「ーー君は、これから二十年のうちに魔法大臣になれると、私は確信しているよ。引き続き、パイナップルを送ってくれたら十五年だ。魔法省には’’素晴らしい’’コネがある」
他の男の子は笑ったが、トム・リドルは微笑んだだけだった
リドルがそのグループで最年長ではないのに、全員がリドルをリーダーとみなしていることに、ハリーは気がついた
「先生、僕に政治が向いているかどうかわかりません」
笑い声が収まったところでリドルが言った
「一つには、僕の生い立ちがふさわしいものではありません」
リドルの周りにいた男の子が二人、顔を見合わせてにやりと笑った
仲間だけに通じる冗談を楽しんでいるのだと、ハリーにはわかった
自分たちの大将が、有名な先祖の子孫だと知っているか、またはそうだろうと考えているに違いない
「ばかな」
スラグホーンがきびきびと言った
「君ほどの能力だ。由緒正しい魔法使いの家系であることは火を見るよりも明らかだ。いや、トム、君は出世する。生徒に関して、私が間違ったためしはない」
スラグホーンの背後で、机の上の小さな金色の置き時計が、十一時を打った
スラグホーンが振り返った
「なんとまあ、もうこんな時間か?」
スラグホーンが言った
「みんな、もう戻った方がいい。そうしないと困ったことになるからね。レストレンジ、明日までにレポートを書いてこないと、罰則だぞ。エイブリー、君もだ」
男の子たちがぞろぞろ出て行く間、スラグホーンは肘掛椅子から重い腰を上げ、空になったグラスを机の方に持っていった
背後の気配でスラグホーンが振り返ると、リドルがまだそこに立っていた
「トム、早くせんか。時間外にベットを抜け出しているところを捕まりたくはないだろう。君は監督生なのだし…」
「先生、お伺いしたいことがあるのです」
「それじゃ、遠慮なく聞きなさい、トム、遠慮なく」
「先生、ご存知でしょうか?ホークラックスのことですが?」
スラグホーンはリドルをじっと見つめた
ずんぐりした指が、ワイングラスの足を無意識に撫でている
「『闇の魔術に対する防衛術』の課題かね?」
学校の課題ではないことを、スラグホーンは百も承知だと、ハリーは思った
「いいえ、先生。そういうことでは」
リドルが答えた
「本を読んでいて見つけた言葉ですが、完全にはわかりませんでした」
「ふむ……まあ……トム、ホグワーツでホークラックスの詳細を書いた本を見つけるのは骨だろう。闇も闇、真っ暗闇の術だ」
スラグホーンが言った
「でも先生は、全てご存知なのでしょう?つまり、先生ほどの魔法使いならーーすみません。つまり、先生が教えてくださらないなら。当然ーー誰かが教えてくれるとしたなら、先生しかいないと思ったのですーーーですから、とにかく伺ってみようとーー」
うまい、とハリーは思った
遠慮がちに、何気ない調子で慎重におだて上げる
どれひとつとしてやり過ぎていない
気が進まない相手をうまく乗せて情報を引き出すことにかけては、ハリー自身が嫌というほど経験していたので、名人芸だと認めることができた
いや、それ以上だ…
忌々しいし、ひどく複雑な心境だが、ヴォルデモートが人を懐柔し、人心掌握において才能があったことを認めざるを得なかった
そして、また、リドルがその情報が欲しくてたまらないのだともわかった
「さてと」
スラグホーンはリドルの顔を見ずに、砂糖漬けパイナップルの箱の上のリボンをいじりながら言った
「まあ、勿論、ざっとしたことを君に話しても別に構わないだろう。その言葉を理解するためだけになら、ホークラックスとは、人がその魂の一部を隠すために用いる物を指す言葉で、分霊箱のことを言う」
「でも先生、どうやってやるのか、僕にはよくわかりません」
リドルが言った
慎重に声を抑えていたが、ハリーにはリドルが興奮しているのを感じることができた
「それはだね。魂を分断するわけだ」
スラグホーンが言った
「そしてその部分を体の外にある物に隠す。すると、体が攻撃されたり破滅したりしても、死ぬことはない。なぜなら、魂の一部は滅びずに地上に残るからだ。しかし、勿論、そういう形での存在は……」
スラグホーンは厳しく顔を顰めた
「……トム、それを望む者は滅多におるまい。滅多に。死の方が望ましいだろう」
しかし、リドルはいまや欲望をむき出しにしていた
渇望を隠し切れず、貪欲な表情になっていた
「どうやって魂を分断するのですか?」
「それはーー」
スラグホーンが当惑しながら行った
「魂は完全な一体であるはずだということを理解しなければならない。分断するのは暴力行為であり、自然に逆らう」
「でも、どうやるのですか?」
「邪悪な行為ーー悪の極みの行為による。殺人を犯すことによってだ。殺人は魂を引き裂く。分霊箱を作ろうと意図する魔法使いは、破滅を自らのために利用する。引き裂かれた部分を物に閉じ込めるーー」
「閉じ込める?でも、どうやってーー?」
「呪文がある。聞かないでくれ。私は知らない!」
スラグホーンは年老いた像がうるさい蚊を追い払うように頭を振った
「私がやったことがあるように見えるかね?ーー私が殺人者に見えるかね?」
「いいえ、先生、もちろん、違います。すみません…お気を悪くさせるつもりは……」
「いや、いや、気を悪くはしていない」
スラグホーンがぶっきらぼうに言った
「こういうことにちょっと興味を持つのは自然なことだ……ある程度の才能を持った魔法使いは、常にその類の魔法に惹かれてきた」
「そうですね。先生」
ひと呼吸置いて、リドルは続けた
「でも、今の先生のご説明でひとつ疑問に思ったことなのですが…あくまでも僕の仮説ですがーー」
リドルは遠慮がちに、学問的興味を匂わせるような言葉を使い、慎重に言った
スラグホーンはリドルに向き直り、嫌悪すべき闇の魔術に関することだが、教師として…いや、研究者として少し好奇心があったのか、リドルの意見を聞こうという態度になった
「言ってみなさい」
「はい。あのーーどうしてその…分霊箱は物でならないと決められているのでしょうか?」
「トムーー、トム。それはだね。仮に生きているものを分霊箱にしても、それは分霊の役割を果たさないからだ。気づいているだろうが、寿命があるものを分霊箱とするのは、意味がないことだからね…」
「はい。それはそうなのですがーー私が言いたいのは、その、
互いが互いの分霊箱とすることは可能なのかどうか…なのです。つまりーー」
「とんでもないトム!意図して分霊箱を作り、生きたもの同士が互いに魂を引き裂き合うなど……言葉にするのも恐ろしいことだ」
「はい、とても恐ろしいことです。ですが、先生。先生ほどの方なら、お分かりかと思うのですがーー僕の仮説が間違っていなければ、理論上可能なのでは?」
「…なんということだ……あ…ああ、まあ、確かに’’理論上’’可能ではあるだろう…だがそれは…それは互いに強い繋がりを必要とするものだ…それに…そうなると、もはやホークラックスの域を超えてしまう…口にするのも恐ろしい…自然の理から逸脱した『トリニータス』だ………」
リドルは獲物を狙った蛇のような貪欲な瞳になっていた
紅い目が興奮の色に染まっていた
「『トリニータス』?…ホークラックスとは違うのですか?」
何がなんでも聞き出そうと、慎重に尋ねるリドルに、スラグホーンはどもりながら口を開いた
「…『トリニータス』……ほとんど神話のようなものだ…」
「ほとんど?では、実在したのでしょうか?」
純粋な疑問とばかりに、リドルが聞いた
「……大昔の…それはもう昔の話だ。かつてそれを試みた魔法使いがいたが……」
ホークラックスの時より、明らかに言い淀んでいる様子のスラグホーン
「それ…とは、『トリニータス』と呼ばれる魔法でしょうか?それはどのような魔法なのでしょうか?」
リドルは純朴な、賢さを滲ませる声色で質問した
スラグホーンは、リドルの目をじっと見つめて、数秒経ってから、唾をひとつ呑んで口を開いた
「……『トリニータス』とは、ーー『一体』呼ばれる。今、君が仮説を立てたように、これはひとりの魔法使いだけで成立させられるものではない」
「つまりーー相手が必要ということですね?」
絶妙な間で言葉を返すリドル
ハリーはその、絶妙な間の取り方に空恐ろしい気分になった
うますぎる…
「そうだ…だが…限りなく不可能に近い。『トリニータス』は、この言葉の前にまず『アニマ』という言葉がつく」
「『アニマ-トリニータス』…魂の一体」
顎に手を当てて、考えるようにぽつりと答えたリドル
「そうだ……言葉の通り。ーーこれは相手と自分の魂を一体とさせるものだ…」
「でも、どうやって一体とするのですか?失礼ですがーー魂を一体とするなどーーそう…」
リドルは反論しようとした
だがハリーにはわかった
情報を引き出す為に、わざと反論するような言い方をしている…と
「…そう……それは君の予想している通り、自分自身だけでなく、魂の対となる相手にもそれ相応の代償を払わせることになる…途轍もない代償だ……」
「その代償とは…もしかしてーーホークラックスと同じ殺人…でしょうか?」
「それだけではない。どれ程の時が過ぎようと、死ぬことができない苦しみだ。神話によれば、この魔術で結ばれた魂は、ある種の『換魂状態』となる…」
「『換魂状態』?…それはつまり…その、片方が死んだとしても、片方が生きている限り死ぬことはないと?」
リドルが食い気味になってきていることが、ハリーにはわかった
「そうだ……だが、それはホークラックスも同じだ。『アニマートリニータス』とは、その言葉が持つ意味の裏に、もうひとつの意味がある」
手振りを少し加えて、あくまで冷静に解説するスラグホーンに、リドルは真剣に耳を傾けた
「先生、それはなんなのでしょう?」
今度は間を置かず、すぐに質問したリドル
スラグホーンは、急かされるようにぎこちない表情で答えた
「……魂の不変だーー……あくまで神話上だが…ホークラックスが肉体の限界があるとすれば、『トリニータス』は肉体の終わりは来ない。正確に言えば、新たな肉体を持ち生まれ変わるのだ……ただし、生まれ変わりとなるのはどちらか一方だけ。生まれ変わる方の肉体を犠牲とすることで、もう片方は同じ肉体のまま、生き続けられる…」
「……ですが先生、それだけの魔法をかけたなら…かなりのリスクを伴うのでは?」
あえて尤もな質問を口にしたリドルに、ハリーは、リドルがそのことを知りたくて仕方がない、ということは察せた
「勿論だ…神話では、この魔術が成功したものとして記されている」
「成功…」
「だが…それは失敗に近い成功だった。この神話には続きがある。ーー片方の命を長らえさせる為に、犠牲となり生まれ変わり続けた方は、その内、永遠と解放されない生と、結びつけられた魂に、心を病み、自らを呪った」
「呪った?」
「ああ…この言葉が適切かどうかは…神学者の間で今だに意見の分かれるところだが…ーー魂が一体となった状態では、どのような方法であろうと、死ぬことはできない。どちらともだ。一方に肉体の終わりが来ようともだ。決して死ぬことはかなわない。真に終わりを迎えるためには、条件が揃わなければ…」
「条件?」
「ああ…神話では心を病んだ片方は、ひとつの剣で対となる片方を刺した。と記されている。その剣により刺された片方の魂は消滅した。そして当然、刺した本人も終わりを迎える……当然普通の剣ではないだろう。最も有力な説では、そのひとつの剣は死を切望した片方の呪いがかけられたものではないかと云われている」
「いかにも、曖昧な、神学的な仮説ですねーーですが、話だけ聞けば、信じ難い…ただの神話ですが…なぜそれほどまでに恐れられる魔術になったのでしょうか?何か理由があるのでは?」
「………いかにも、ある時、といっても大昔だが…ある魔法使いが…この魔法を実行したのだ……その結果、罪もない多くの命が失われたと伝え記されてる。この魔術は…それほど多くの命を代償とさせる…元来肉体に命はひとつだけだ…その肉体に、生まれ変わるほどの数の命を吹き込む……村…いや、町ひとつ分程の生きとし生けるものを代償とする…」
「…その魔法使いは、どうなったのですか?」
「……神話と同様…成功するはずもない………この神話は一種の教訓話のようなものだ。魔法使いとは、元来、そういった境界線が曖昧になる。そのための戒めのようなものだ……聡い君なら理解しているだろうが…人間である限り、人は精神が永遠の命には耐えられない。長く生き続けるということは、一種の罰だ。神の罰なのだ…そのうち自らが終わりを望む…ということを人の戒めとして伝えているものだ…」
解説してしまった後で、不安な気持ちが出てきたのか、スラグホーンはフォローを入れようと付け加えた
それに対し、リドル、暖炉に振り向き、しばし黙った
「………」
何も答えないリドルに、スラグホーンは心配になったのか…
「これは、全て学問的な仮定の話だ。我々が話したことは、神学的なディスカッションだ。そうだね?」
少し前のめりになりながら、確認するように聞いた
すると、リドルは暖炉に背を向けてゆっくり振り向き、ひとつ頷き、僅かに微笑んで答えた
「ええ。ーーもちろんです。先生」
スラグホーンは少しホッとしたような表情になり、あからさまにゆったりと姿勢を伸ばした
「しかし、いずれにしても、トム……黙っていてくれ。私が話したことはーーつまり、我々が話したことは、という意味だが。我々が…特に、『分霊箱』のことを気軽に話したことが知れると、世間体が悪い。も、勿論『トリニータス』の神話に関する論争を、学生である君と交わしたこともだ。君が聡明なのはよく知っているが…これはあまりにも世間体が悪すぎる……ホグワーツでは、つまり、この話題は禁じられている……ダンブルドアは特にこのことについて厳しい……さらに言えば、特に『トリニータス』に関しては、神話にも関わらず、学生達の学問教材として使われていないことから考えてみるとわかるね?」
「はい。教育的配慮でしょう。妥当な判断だと思います。このことは、一言も言いません。先生」
いやに落ち着いた口調で、リドルが言うと、スラグホーンは心底ホッとした様子でため息を吐いた
そして、リドルは挨拶をして出て行った
しかし、その一瞬…ハリーは見てしまった
自分が魔法使いだと、はじめて知った時に見せた以上の…剥き出しの欲望と幸福に満ちた表情…
幸福感が端正な面立ちを引き立たせるのではなく…何故か非人間的な顔にしていた
これからしようとしていることに対して、期待と欲望に塗れた色が…
瞳孔が縦に裂けているわけでもないのに、紅い瞳が鋭く蛇のように、目の前に獲物を見つけたように揺らめいていた
「ハリー、ありがとう」
今まで黙っていたダンブルドアが、静かに言った
「戻ろうぞ……」
ハリーが校長室の床に着地したとき、ダンブルドアはすでに机の向こうの石段に、項垂れるように座っていた
ハリーは近くに寄り、ダンブルドアの言葉を待った
だが、言葉を待つまでもなく、ダンブルドアがショックを受けているだろうというのは、わかってしまった
初めて見た
ダンブルドアが打ちのめされたようにショックを受けている姿…
ハリーの中で、言いようのない熱い想いが広がった
暫くしてから、ダンブルドアはきつく目を瞑り震えるように口を開いた
「………これ程までに残酷なことがあるか…いいや…ないじゃろうっ…」
絞り出すように呟かれた言葉に、ハリーは眉を下げて、どんな言葉をかければいいかわからなかった
自分も混乱している…というより、今の自分の頭では理解できないことしかない
正直、全く意味がわからなかったのだ
ホークラックスのところまではなんとなくわかった
だが、そのあとは…今のハリーの頭では理解できる範疇を超えていた
「……先生…」
かける言葉がない中、口が勝手に呟いた
「っ…わしは随分長い間、この証拠を求めておった…あの子から打ち明けられたことも含め…恐ろしいことが隠されていると予想しておったが……まさかここまでとは……」
ハリーは突然、壁の歴代校長の肖像画がすべて目を覚まして、二人の会話に聞き入っていることに気がついた
でっぷり太った赤鼻の魔法使いは、古いラッパ形補聴器まで取り出していた
「ハリー…君は今しがた我々が耳にしたことの重大さに気づいておることじゃろう。今の君とほんの数ヶ月と違わぬ年で、トム・リドルは、自らを不滅にする方策を探し出した。それもーーひとりの幼馴染を巻き込んで」
いやに静まり返った校長室で、響くダンブルドアの言葉に、ハリーは「ひとりの幼馴染」が、即座に誰かわかり、息を呑んだ
「…先生は…成功したと…?」
嘘だ…違う…と否定したい言葉を抑えて、震える声でハリーは聞いた
「あいつは分霊箱を作ったのですか?『トリニータス』を成功させたと…?僕を襲ったときに死ななかったのは…それらのせいなのですか?どこかに分霊箱を隠したのですか?魂は…」
「いかにも」
はっきりと断言したダンブルドアに、ハリーは目を見張った
「!」
「今のを見て確信した。あやつは当初、ホラスからホークラックスの詳細を聞くことが目的だった。だが、それを聞く過程でもっと良いことを聞いたのじゃ」
「『トリニータス』…」
「左様。わしは、あやつが不死に強く拘っていると思っておった。じゃが、拘っていたのは不死だけではない。あの子を’’完全に’’己に縛りつける方法を探しておったのだ」
「…そんな…でも、それが本当なら…あいつが成功させていたなら…」
「あの子は、死なねばならぬ」
「っ!」
「…ハリー…わしは…わしはあの子に幸せになって欲しかっただけなのじゃ……こんな悲劇に…あやつはあの子をどこまでも苦しめておる…今も…終わることのない生の中で苦しんでおる」
「ひどい!」
「それだけではない。これであの記憶の説明がつく。あやつはあの子にも、おそらく分霊箱を作らせた。殺人を犯させたのはそれが理由じゃ。君はショックかもしれぬが、あの猫だけではない…もっと多くの人間を殺させておる」
「…………」
ハリーは絶句した
ダンブルドアがさっき言ったことと、同じことを思った
ーー「こんなに残酷なことがあるのか…」ーー
と
「あれを成功させたとなれば…我々に打てる手は’’なかった’’ところじゃ」
ダンブルドアが厳しい表情でつぶやいた言葉に、ハリーは「は?」となった
「え?…あの、今、成功したって…」
「左様。成功はした。じゃがそれは、あやつの中での話じゃ。ホラスの言葉を借りれば、’’失敗に近い成功’’じゃ」
「っ!まさかっ!まさか先生は神話通りっ」
「いかにも。あの子は、短命を繰り返し、長く苦しい生の果てに心を病んでおる。当然じゃ……よいかハリー。どのような魔法にも完璧というものはない。その魔法が強大であればあるほど、その魔法を解術する術も必ず存在する。言いたいことがわかるの?」
少し早口になったダンブルドアが、石段から立ち上がり、ハリーの肩を掴んで言った
ハリーは若干気圧されて、混乱する頭で考えながら、答えた
「『トリニータス』を解術できる方法が…ある…」
「そうじゃ。その答えは既にホラスが記憶の中で明かした」
「…’’呪われた…ひとつの…剣’’」
「そうじゃ。それは必ず存在する。ハリー、これは神話ではない。現実なのじゃ」
「!!でも先生っ!神話どおりならっ…彼女はっ」
「左様。あの子は死なねばならぬ……ヴォルデモートは、もしものことも考えた上であの子と一体となったのじゃ。わしを苦しめる方法としては実に賢い」
「なっ…そのことって…まさか…最初から殺される前提で…」
「前提だったわけではあるまい。じゃが…ーー敢えて言うならばそうじゃの、…あやつは何重にも警戒しておった。わし自身の口から言うのは傲慢というものじゃが、知っての通りーーあやつが一番恐れておるのはわしだというのは間違ってはおらぬ。じゃが真の脅威となるのはもっと身近におるということをあやつは夢にも思わなんだろう。ーーそれこそが我々に希望を与えた。ーー例えそれが、あまりに残酷な真実だとしてもじゃ…」
ハリーは、きつく…きつく拳を握りしめた
目頭が熱くなってくる
どうしようもない怒りにも似た感情が体から溢れ出してくる
「っ…」
「ハリー、あの子を解放してやるのじゃ。ーーあの子が己にかけられた魔法を知っていたかどうかはわからぬ。じゃが、もう全てを終わりにしたいと思ったのは違いないじゃろう。ーー生と死を軽率に語ってはならぬし、決めることも通常ならば赦されぬ。じゃがハリー、考えてもみてほしい。あの子は最後に君の母君と同じ勇気を見せた。犠牲ではないハリー。あの子自身が望んだ必要なことなのじゃ」
目を伏せて、苦いものを呑み込むように静かに言ったダンブルドア
それにハリーは、ついに叫んだ
「いやだ!!僕にはできない!!そんなっ…そんなっ!彼女は何も悪くない!人を殺したのだってあいつにやらされたからだ!!」
こんな残酷なことがあるか…本当にその通りだ
彼女は何もしていない
勿論、何の罪もないとは思っていはいない
だが、死ぬべきだというのは間違っていることだけはわかっていた
叫んだハリーに、ダンブルドアは諭すように言った
「ハリー、これしか道はないのじゃ。それに、忘れておるようじゃの。あやつは分霊箱をも作り上げた。そしてその内のひとつは、あの子の記憶が教えてくれた」
ダンブルドアは真面目な様子で話し始めた
ハリーは返す言葉がなかった
「あの子があやつに贈った贈り物じゃ。そして、恐らく、わしの予想が正しければ、賭けても良いがーー隠されておる場所は、アルウェンが眠る場所じゃ」
「…でも…それは…その分霊箱は…彼女の分霊箱かも…」
ダンブルドアの予想に、ハリーは打ちのめされたように反論した
「かもしれぬ。じゃが、やるべきことはひとつじゃ。全て探し出して破壊し、’’ひとつの剣’’を見つけねばならぬ。それにーー分霊箱の個数には検討がついておる」
「え?ひとつじゃないんですか?」
てっきりひとつだと思っていたハリーは、思わず顔を上げてダンブルドアを見た
「いいや、用心深いあやつが魂をひとつだけに分けるとは思えぬ。ほとんど確信に近い予測じゃが…恐らく分霊箱は他にも存在する」
緩く首を横に振りながら、眉を寄せて言ったダンブルドアに、信じたくないが、ハリーは納得せざるを得なかった
ヴォルデモートがひとつだけで満足するとは思えなかったからだ
「ど、どんな形でもありえるのですか?古い缶詰とか、えーと…空の薬瓶とか…」
残酷な真実を思考から振り払って、ハリーは考えた
「君が考えているのはハリー、移動キーじゃ。それは当たり前のもので、簡単に見落とされそうなものでなければならない。しかし、あやつが、自分の大切な魂を護るのに、ブリキ缶や古い薬瓶を使うと思うかね?わしがこれまでに君に見せたことを忘れているようじゃ。ヴォルデモートはアルウェンに異常な執着を見せ、尚且つ、アルウェンを一種の崇高なものと考えておった。いや、正確には崇高なものへ昇華しようとした。徹底的に管理し、支配した。ヴォルデモートはアルウェンを己がものだと信じて疑ってはおらぬ。自死しようとも、裏切ろうと、己から逃れられぬと確信しておるからじゃ。それは何故か。アルウェンに真実を言っておらぬからじゃ。じゃが、アルウェンはあやつが思っておる以上に聡い子じゃ。己があやつと一体となったことには薄々気づいておるじゃろう。勿論、『トリニータス』の魔法がかけられたことは知らぬじゃろうーーーそれに加えて、あやつは自尊心、自分の優位性に対する信仰、魔法史に驚くべき一角を占めようとする決意があった。こうしたことから考えると、ヴォルデモートは分霊箱を、何よりも信用を置くアルウェンに縁のあるものとした可能性が高い」
ほとんどひと息に言われて、ハリーは頭の中が毛玉が絡まったように混乱した
「……先生は…どういう品か、ご存知なのですか?」
「推量するしかない」
ハリーは落胆した
「じゃがーーもうひとつは検討がついておる。実に冒涜的なことじゃが……おそらく’’アルウェン自身’’じゃろう。いや、正確には、もはや’’魂を持たぬ肉体’’と言うべきか」
遠回しにな言い方に、ハリーはすぐに分かった
「え…もしかして…遺体…ですか?」
信じられない、とばかりに考えられる答えを言うと…
「可能性は高い。あやつがアルウェンの埋葬に関してあからさまに話を逸らしたのは、以前に言うたように、見つかるのを恐れたからじゃ。ーーーー分霊箱だったのじゃ。あやつはアルウェンの亡骸を己の分霊箱とした」
ハリーはまたもや絶句した
「…冒涜だ…」
口から溢れ出た言葉は心の底から出た言葉だった
もしーー…もし、自分の両親の遺体がそんなふうに扱われていたなら…怒りどころではない…
「その通りじゃ。ーーそしてもうひとつは、アルウェンの贈り物じゃ」
「まさか、あの石ですか?でも石はどこにあるかわからないって…」
「左様。無論、石のありかは不明じゃ。ーーあの時、わしは、あの石がさほど重要ではないと思った故、そう答えた。じゃが、今は違う。あやつは贈られたものに、自分の大切な魂を入れるようなことはせぬだろうと高を括っておった。あまりにも想像に容易いからのう。じゃが、間違っておった。寧ろ、アルウェンに…正確には、あの子と、自分とを結びつける縁の深い物に特に拘った」
「ならっ、彼女に聞けば!」
「残念じゃが、それは叶わぬ」
「どうしてですかっ?」
「覚えておるかの?あやつは、あの子の記憶に手を加えた」
「!じゃ、じゃあ、どうやって探せば…」
「しかし、全ての記憶がそうではない。少なくとも、わしに預けた記憶は、あれ以外手を加えられておらぬし、手がかりがある。そしてそれを、ハリー、君ならば見つけ、探し出せる」
「は…?」
ハリーは思わず口をポカンと開けた
「分霊箱の存在を、あの子は知っておった。だが、その詳細は知らなんだ。だからこそ、あの子自身、去年まで必死に分霊箱を探しておった。わしはことが事だけに、あの子にあらゆる権限を許可した。じゃが、見つけられなかった。そこで、あの子はわしに記憶を預け、自分が捕まった時、代わりに探してほしいと頼んできたのじゃ」
ハリーは目を見開いた
思い出されるのは、痩せ細り、やつれてしまっていた彼女の姿…
ずっと…ずっと思っていた…
彼女は、自分は参加できない騎士団の会議にも参加できて、ダンブルドアからの信頼も厚く、重要なことを任されていた…
そう思っていた…
だが…だがそんな甘いことじゃなかった…
体を壊すほどなんて…
普通に考えれば…わかるじゃないか…
どれだけ危険なことをしていたのかっ…
ダンブルドアが彼女を心配していたのは…当然だっ…
あらゆる権限を許可したと言った…ハリーの知っている限り、それは「姿現し」のことだろう
ーーーお前のちっぽけな覚悟など、お前が手下と呼んでいる者の足元にも及ばんーーー
いつか、スネイプに言われた言葉が、今ほど後悔した時はなかった
ハリーは拳を握りしめて、自分への怒りで震えそうになりながら口を開いた
「……じゃ、じゃあ先生は…彼女に記憶を預けられた時から分霊箱の存在を知っていたんですか?もしかして、それを探すために旅に出ておられた…?」
「いかにも。わしは言ったのうーーホラスの記憶が必要だったのは確認するためでもあったと…ーーじゃが、幸か不幸かーー実に恐ろしいことじゃが、それ以上の真実がわかった」
「『トリニータス』…」
「そうじゃ。これはわしも、もちろん、あの子ですら想像もしておらんかったことじゃーーハリー、君のおかげじゃ」
「そんな…でも…でも…」
「君の気持ちはようわかる。優しい君は、例えヴォルデモートを葬るためだとしても、あの子が死ぬ理由がわからぬ、と思っておるのであろう?」
「…それは…その…はい…」
「ハリー、わしもショックを受けておる……この真実を知る前までは、あの子を助ける術があると、宛てもない希望を抱いておった。例えあの子があやつと共に終わる気でいたとしてもじゃ。ーーじゃが、時間は待ってはくれぬ。あやつが犯した大罪のいちばんの被害者とはいえ、あの子は既に後戻りできぬところまできてしまった。本人が望んだことではなかったとはいえ……もはや自然の理から外れた存在にされてしまったのじゃ」
「…はぃ…」
否定できなかった…
ハリーはまだ学生だし、研究者でもないので、その神話の魔法がどれ程の禁忌なのか及びもつかない…だが、ダンブルドアがここまで言うくらいだ
相当まずいことなのだろう、ということだけはわかった
「我々は、あの子のためにも、何としてもヴォルデモートを葬らねばならぬ。君のご両親のためにもじゃ…多くの命を守るためにも」
心の底からそう思った
なのに、これほど納得できないことがあるか…
ハリーは苦しくて胸が張り裂けそうだった
「っ…はいっ…」
「よろしい。先に言うたように、まずはアルウェンの遺体がほんに分霊箱かどうか確かめる必要がある。それも早急に、じゃ」
「でも、どこにあるか…」
「それならば、すでに検討をつけておる」
「もしかして…旅に出ていたのは…」
「左様。分霊箱を探しておった。そして、たぶんーーわしの考えでは……ほどなく、発見できるかもしれぬ。それらしい印がある」
「発見なさったら…」
ハリーは、少し躊躇いがちに…だが、次の瞬間、しっかり顔を上げて言った
「僕も一緒に行って、それを破壊する手伝いができませんか?」
ダンブルドアは一瞬、ハリーをじっと見つめた
ハリーの目には、哀しみも苦悩の色があった
だが、先程とは違い、それを抑え込むようにな決意の色もあった
それが、今ここまで言わなければ、またひとり何もできずに、取り残されることが嫌だと思う気持ちからだとしても…
やがて、ダンブルドアは口を開いた
「いいじゃろう」
「いいんですか?」
ハリーは、まさかの答えに衝撃を受けた
「いかにも」
ダンブルドアは僅かに微笑んでいた
「君はその権利を勝ち取ったと思う」
ハリーは胸が高鳴った
はじめて警告や庇護の言葉を聞かされなかったのがうれしかった
周囲の歴代校長達は、ダンブルドアの決断に、あまり感心しないようだった
ハリーには、何人かが首を横に振っているのが見えたし、フィニアス・ナイジェラスは、忌々しいとばかりにフンと鼻を鳴らした
そんな肖像画の反応を無視して、ハリーは聞いた
「先生、ヴォルデモートは分霊箱が壊された時、それがわかるのですか?感じられるのでしょうか?」
ハリーは、あえて彼女の分霊箱とは言わなかった
どうしても言えなかった…
「非常に興味のある質問じゃ。ハリー。答えは否じゃろう。そして君が心配しておる答えも否じゃろう。分霊箱を破壊することによって、あの子に苦痛が伴うことは’’ない’’。ヴォルデモートはいまや、どっぷり悪に染まっておるし、さらには自分自身の肝心な部分である分霊が、ずいぶん長いこと本体から切り離されておるので、我々が感じるようには感じない。たぶん、自分が死ぬ時点で、あの者は失ったものに気づくじゃろう」
ハリーの思いを知ってか、ダンブルドアも敢えて彼女が悪に染まっているとは言わなかった
事実、そう思っているのもあった
ハリーは、しばらく考え込み、やがて質問した
「では、分霊箱を全て破壊し…神話の通り…唯一滅ぼすことができるひとつの剣であいつを刺せば…」
「全てを終わらせることができる」
「あの、ひとつの剣だけでは意味がないのですか?」
「ああ。君も聞いたとおり、あの魔法はあくまでも神話に基づくものじゃ。おそらくあやつは、ひとつの剣の存在を軽んじておるじゃろう。あの子の精神さえ操れば問題ないと思っておる可能性が大いにある。ーー剣、というのは言い得て妙じゃが、わしの見解では、あれは例えのようなものじゃ」
「例え?比喩ということですか?なら、もしかして、剣というのも比喩ですか?実際は剣じゃないと?」
「いかにも。あやつは剣の存在よりも、呪いに目を向けたのじゃろう。あやつは、何故か、あの子が己を呪うことはないと確信しておる」
「え?」
ハリーはあり得ないと思った
「事実、あの子はあやつを恨んでおるわけでも、復讐したいと願っておるわけでもない。ただ’’終わりにしたい’’と願っておるのじゃ。それだけでなく、あやつとーー’’トム・リドルという者と共に罪を背負い、死にたい’’と願っておる。わかるかの、ハリー。この想いこそが’’呪い’’というわれる所以じゃ。ひたすら死を願う者の切なる願いが、時が来れば、なんらかの形で現れる」
「……ユラは…ユラはどうなるんですか…どうしてそこまでして……他に方法はないんですか…彼女の両親はっ…残された家族はどうなるんですかっ…?」
「残された者のことを思えば、確かに、無責任とも言える。じゃがーーわしはこれ以上、あの子を苦しめとうない……ハリー、ひとつの剣に関しては、時が来れば現れようというもの。故に、その前に我々がすべきことは分霊箱を破壊することじゃ。あの子の存在と、分霊箱がなければ、ヴォルデモートは切り刻まれて減損した魂を持つ、滅っすべき運命の存在じゃ。しかし、忘れるでない。あの者の魂は修復不可能なまでに損傷されておるかもしれぬが、頭脳と魔力は無傷じゃ。ヴォルデモートのような魔法使いを殺すには、たとえ『分霊箱』がなくなっても、非凡な技を必要とするじゃろう」
「でも、僕は非凡な技も力も持っていません。彼女と違って頭も良くない」
ハリーは思わず口走った
「いや、持っておる」
ダンブルドアがキッパリと言った
「君は、ヴォルデモートが持ったことがない力を持っておる。勿論、あの子にも持ち得なかったものもじゃ。君の力はーー「わかってます!」」
ハリーは苛々しながら言った
「僕は愛することができます!でもそれは彼女だってそうだ!」
その後にもうひと言、「それがどうした!自分でなくともいいじゃないか!」と言いたいのを、ハリーはやっとの思いで呑み込んだ
「そうじゃよ、ハリー。君は愛することができる。そして君は、ひとつ勘違いしておる」
「勘違いですか」
「ああ、あの子は優しさは持ち合わせておるが、’’君のように’’愛することができるわけではない」
「はっ?…え…」
ハリーは、言葉を忘れてように乾いた声が出た
「この意味はいずれ分かろう。ーーーハリー、これまで君の身に起こった様々な出来事を考えてみれば、それは偉大な素晴らしいものじゃ。ハリー、自分がどんなに非凡な人間であるかを理解するには、君はまだ若すぎる」
「それじゃ、予言で、僕が『闇の帝王の知らぬ力』を持つと言っていたのは、ただ単なるーー愛?」
ハリーは少し失望した
「そうじゃーー単なる愛じゃ」
ダンブルドアが言った
「しかし、ハリー、忘れるでないぞ。予言が予言として意味を持つのは、ヴォルデモートがそのようにしたからなのじゃということを。覚えておるだろうが、ヴォルデモートは、自分にとっていちばん危険になりうる人物として、君を選んだーーーそうすることで、あの者は君を、自分にとってもっとも危険な人物にしたのじゃ」
「でも、結局はおんなじことになるーー」
「いや、同じにはならぬ!」
今度はダンブルドアが苛立った口調になった
皺だらけの手で、ハリーを指差しながら言った
「君は予言に重きを置きすぎておる」
「でもっ」
ハリーは急き込んだ
「でも、先生は予言の意味をーー「ヴォルデモートがまったく予言を聞かなかったとしたら、予言は実現したじゃろうか?予言に意味があったじゃろうか?もちろん、ない!『予言の間』のすべて予言が現実のものになったと思うかね?」
「でも…」
ハリーは当惑した
「でも先生は前学年におっしゃいました。二人のうちどちらかがもう一人を殺さなければならないとーーそれにっ…あいつを殺すことはっ…彼女を殺すことも同じっ」
「ハリー、ハリー、それはヴォルデモートが重大な間違いを犯し、トレローニー先生の言葉に応じて行動したからじゃ!ヴォルデモートが君の父親を殺さなかったら、君の心に燃えるような復讐の願いを掻き立てたじゃろうか?もちろん否じゃ!ヴォルデモートが、君を守ろうとした母君を死に追いやらなかったら、あの者が侵入できぬほどの強い魔法の護りを、君に与えることになったじゃろうか?もちろん否じゃよ。ハリー!わからぬか?すべての暴君たる者がそうであるように、ヴォルデモート自身が、最大の敵を創り出したのじゃ。暴君たる者が、自ら虐げている民をどんなに恐れているか、わかるかね?暴君は、多くの虐げられた者の中から、ある日必ず誰かが立ち上がり、反撃することを認識しておるのじゃ。ヴォルデモートとて例外ではない!誰かが自分に歯向かうのを、常に警戒しておる。予言を聞いたヴォルデモートはすぐさま行動した。その結果、自分を破滅させる可能性の最も高い人物を自ら選んだばかりでなく、その者に無類の破壊的な武器まで手渡したのじゃ!今はあの子のことは今は忘れるのじゃ!ある程度の犠牲はつきものじゃ!あの子はどうあってもあやつから離れたりはせんじゃろう。それほど深く結ばれておるのじゃ!ハリー、ハリー、君の知っておるあの子は忘れるのじゃ。あの子は間違いなくアルウェンなのじゃ。ヴォルデモートが唯一心を傾け、魂を預けた相手なのじゃ!決してあの子の邪魔をしてはならぬ!あの子の苦労を、すべて無に帰すようなことをしてはならぬのじゃ!」
ハリーは息を呑んだ…
こんなに感情的なダンブルドアは見たことがない…
彼女をしきりに忘れろ、と…
そんな…そんなことできるわけがない…
だけど、しなければならないと頭ではわかっていた
でも…
「でもーー」
「君がこのことを理解するのが肝心なのじゃ!」
ダンブルドアは輝くローブを翻しながら、部屋の中を大股で歩き回っていた
こんなに激しく論じるダンブルドアを、ハリーは本当に見たことがなかった
しかも、彼女のことだけ強く言ってくる
忘れろと、それは…見捨てろと言っているのも同じだ
だが、ハリーには彼女を救う術なんて、どうあっても思いつかなかった
仮に、ハリーが思いついていたなら、ダンブルドアなどとうに気づいていたはずだ
そのダンブルドアが、彼女を救う術はない、と言ったのだ
彼女にとって救いは、全てを終わらせること…
苦しく、長い生から解放してあげること…
たしかに、そう考えれば、良心の呵責が和らぐ…
だが…ヴォルデモートと違い、罪のない…しかもいちばんの被害者を殺すことには変わりない…
たとえ、ヴォルデモートと魂が一体となっていても…
それでもっ…それでもここまで納得できないことがあるか?
いいやっ…ない!
ハリーはきつく拳を握りしめた
頭では分かっているんだ
嫌というほどっ
「君を殺そうとしたことで、ヴォルデモート自身が、非凡なる人物を選び出した。その人物はわしの目の前におる。そしてその人物に、任務のための道具まで与えた!君がヴォルデモートの考えや野心を覗き見ることができ、あの者が命令する際に使う蛇の言葉を理解することができるようにしたのは、ヴォルデモートの失敗じゃった。しかもハリー、ヴォルデモートの世界を洞察できるという、君の特権にも関わらずーーーついでながら、そのような才能を得るためなら、死喰い人は殺人も厭わぬじゃろうーー君は一度たりとも闇の魔術に誘惑されたことがない。決して、一瞬たりとも、ヴォルデモートの従者になりたいという願望を、露ほども見せたことがない!」
「当然です!」
ハリーは思わず憤った
「あいつは僕の父さんと母さんを殺した!」
「そうじゃ!つまり君は、愛する力によって護られておるのじゃ!」
ダンブルドアが声を張り上げた
「ヴォルデモートが持つ類の力の誘惑に抗する唯一の護りじゃ!あらゆる誘惑に耐えなければならなかったにも関わらず、あらゆる苦しみにも関わらず、君の心は純粋なままじゃ。十一歳の時、君の心の望みを映す鏡を見つめていたときと変わらぬ純粋さじゃ!じゃが、あの子にその純粋さはない!君がしきりに較べておるあの子にその純粋さはないのじゃ!たしかにあの子は、天才的な者が常に横にいるのにも関わらず、力を求めはしなかった!闇の魔術に、あやつに魅了はされておったが、臆病な気質ゆえ恐れた!恐れたのじゃ!それは多くの者と同様の反応じゃ!だが君は違う!ハリー、ハリー、あの鏡が示しておったのは、不滅の命でも富でもなく、ヴォルデモート卿を倒す方法のみじゃ。あの鏡に、君が見たと同じものを見る魔法使いがいかに少ないか、わかっておるか?ヴォルデモートはあの時に、自分が対峙しているものが何なのかを知るべきじゃった。しかし、あの者は気づかなんだ!」
「しかし、あの者は、今ではそれを知っておる。君は自ら損なうことなしに、ヴォルデモート卿の心に舞い込むことができた。一方、あの者は君に取り憑こうとすれば、死ぬほどの苦しみに耐えなければならないということに、魔法省で気づいたのじゃ。なぜそうなるのか、あの者には分かっておらぬと思う。あの者は自らの魂を分断し、あの子を縛りつけることを急ぐあまり、汚れのない、全き魂の比類なき力を理解する間がなかったのじゃ」
「でも、先生」
ハリーは、反論がましく聞こえないよう、健気に努力しながら言った
「結局は、すべて同じことなのではないですか?僕はあいつを殺さなければならない。さもないとーー」
「なければならない?」
ダンブルドアが言った
「もちろん、君はそうしなければならない!しかし、予言のせいではない!君が、君自身が、そうしなければ休まることがないからじゃ!わしも、君もそれを知っておる!頼む、しばしの間でよいから、あの予言と、あの子のことを聞かなかったと思ってほしい!さあ、ヴォルデモートについて、君はどう感じるかな?考えるのじゃ!」
ハリーは目の前を大股で往ったり来たりしているダンブルドアを見つめながら、考えた
母親のこと…父親のこと…そして、ヴォルデモートのせいで命を奪われた人達のこと…
ヴォルデモート卿の仕業であることがわかっている、あらゆる恐ろしい行為が思い出された…
そうすると、胸の中に、メラメラと炎が燃え上がり、喉元を焦すような気がした
「あいつを破滅させたい」
自然と口から出た言葉だった
「そして、僕が、そうしてやりたい」
静かに、たが強く、燃えるような感情で言ったハリーに…
「もちろん君が’’そうしたい’’のじゃ!」
ダンブルドアが叫んだ
「よいか。予言は君が何かを’’しなければならない’’という意味ではない!しかし、予言は、ヴォルデモート卿に、君に『自分に比肩する者として印す』ように仕向けた。あの子ではない!つまり、君がどういう道を選ぼうと自由じゃ。予言に背を向けるのも自由なのじゃ!しかし、ヴォルデモートは、今でも予言を重要視しておる。君を追い続けるじゃろう……よいか。ヴォルデモート卿からすれば、君は、君に肩入れするあの子の心を揺るがせる邪魔な存在なのじゃ。君を殺せば、あの子の心が揺れることはないと思っておる。あの子は全てを覚悟しておるのじゃ!もし、例えわしが死のうと、君が生きている限り、あやつを倒す希望は残っておる!……さすれば、確実に、まさに…」
「一方が、他方の手にかかって死ぬ」
ハリーが言った
「そうです」
ハリーはやっと、ダンブルドアが自分に言わんとしていたことがわかった
そして、彼女が自分に託した想いも…
自分がここで背を向ければ…彼女が勇気を出して動いてきた努力が全て無駄になる
死に直面する戦いの場に引きずり込まれるか、頭を高く上げてその場に歩み入るかの違いなのだ
頭の中に、彼女が弱々しい背を向けて暗闇の中に消えいる姿がちらついた
彼女はひとりだったんだ…
ずっと…ずっと…
どれほどの長い間ひとりだったのだろう…
僕なら耐えられないっ…いっそ殺して欲しいと願ってる…
僕には、いつだって、頼りになる友達が…護ってくれる人がいた…
常に誰かがそばにいてくれた
気づかなくとも、必ず誰かが見守ってくれていた
二つの道の間には、選択の余地はほとんどないという人も、多分いるだろう
しかし、ダンブルドアは知っている…
彼女も知っていた…
そして、僕も知っている
そう思うと、誇らしさが一気に込み上げてきた
僕の両親も知っていたことだ…
彼女に嫉妬しても、後悔しても…良心の呵責を感じても、現実はなにも変わってくれない
変えるしかない
この二つの間は、天と地ほどに違うのだということを…
「トム。あなたは最初から全て知っていたの?」
カウチに腰掛けながら彼女は聞いた
「知っていたわけじゃない。予測したんだ。ーー知っての通り、’’僕’’はお前の記憶に基づく未来しか知らなかった。だが、その未来は’’僕’’が知り得た時点で既に、起こりうる未来ではなくなる可能性があった。だから予想した。彼がこれから起こすであろうことを。そして’’僕’’は、お前を守るために変えようとした」
紅い瞳がまっすぐに彼女を見据え、答えた
「…じゃあ…彼が私を分霊箱にするだろうことも…」
震えながら言った彼女に、彼はゆるゆると首を振った
「当たりだが、それは外れだ。確かに、お前を分霊箱とする可能性は大いにあった。だが違う。彼が選ぶとすれば、別の魔法だと気づいた」
軽く横を向いて、どこか彼方を見るように彼は答えた
その様子に、嘘を言っている気配はない
「別の?」
口が紡いだ疑問は、静かに響く
彼は、ゆっくりと軽く目を伏せて、エメラルド色のカーペットに視線を向けて言った
「ホークラックスよりも強く、強力な繋がりを得られる魔法だ。そして、それは同時に、’’諸刃の剣’’でもある」
全てを見透かしているように断言した彼に、彼女は興味を失ったように諦めの含んだ声色で言った
「…わからないわ…私はあなたほど賢くないもの…」
「ナギニ。安心していい。’’僕’’の全てをかけた魔法は’’お前次第’’で、すれすらも凌駕するものだ」
彼だけしかわからないだろう内容に、彼女はもう考えることも億劫になった
「曖昧な言い方…ほんと昔から、肝心なことを言わない…」
腹立ちをぶつけるように呟いた発言に、彼は何故か嬉しそうに口角を上げた
「お前もそうだろう?違うか?」
そう返した彼の言葉の後に、彼女は数秒沈黙した
「…………今のは忘れて。…ーーハリーは…ダンブルドアは…うまくやってくれるかしら…」
話題を逸らすように、目をやる窓もなく、ただ天井を見上げてつぶやいた彼女
彼は先程までの嬉しそうな表情は消え去り、不本意とも取れる様子で吐き捨てるように、厳しく答えた
「ふん。やってもらわないと困る。でなければ全てが水の泡だ。甚だ不本意だが、ダンブルドアならばあの小僧を上手く誘導するだろう」
発言の節々から、苛立ちにも似た感情が滲み出る様子に、彼女は少し苦い表情になった
だが、否定はしなかった
そして、答えてもらえないことが分かっていても、聞いてしまう…
「……どうしてそこまでダンブルドアを嫌うの…」
静かに問うた彼女
数秒の沈黙の後、ちらりと彼女を見た彼は、ため息を吐いて視線を虚空に戻し、珍しく答えた
「どうあっても相容れない人間はいる。’’僕’’の場合はあの老ぼれだというだけだ。ーー(お前は気づいていないだろうな…ダンブルドアに関しては、’’僕’’は彼と同じ考えだ。いや、それよりも、避けられないとはいえあの男の方が厄介か…あの男は、いち早く理解していた。ナギニの願いを受け入れることで、自分の存在を濃く残せることを。ーー忌々しいっ…必要でなければ見捨てていたものをっ)」
「…そっか…」
彼女は返事をしただけだった
「ああ…(やつらがお前の亡骸を見つけた時、おそらくあの老ぼれは、あの神話の真の意味に気づくだろう…呪いは確かに現れた。ひとつの剣とは遂げることのできなかった想いそのものだ。皮肉にも、それが彼の脅威となった。あの時、神話は確かに実話だと証明された。お前は自分を責め続けるだろうが、お前の選択は間違いではなかったんだ。ナギニ…)」
「トム…?」
黙ったままの彼に、らしくないと思い、身体を起こして彼を見ながら名を呼んだ彼女
そんな彼女の心配そうな目に応えるように、振り向いて見つめ返した彼
「ナギニ…(ナギニ…あと少しで、お前の名はこの世から消え去り、長く苦しいその命は終わりを告げる。その時、お前の心の中に’’僕’’を強く求める気持ちを芽生えさせられれば…お前が生への望みを…’’僕’’への欲望を、ほんの少しでも向ければ…お前を全てから解放することができる…)」
不安と孤独に揺れるお前の瞳は、いつだって僕を迷わせた…
頬を指の背で撫でれば、僕に全てを委ねたいと、心の底では思っていたことはわかっていた
なのに、お前はいつだってそれを表に出さなかった
「ねぇトム……あなたは、両親を知っていたのよね…」
ああ…お前のことだから気づいているだろうとは思っていた…
お前の両親は…生みの親は…
「…やっぱり言わないで…聞きたくない」
お前は…お前を捨てた生みの親を僕が殺したと思っているんだろう
だが違う…
「ナギニ…お前には僕だけだ。僕がいる」
お前の生みの親は、お前を捨てた
それが事実だ
それでいい
「知ってる……でもあなたにとっては私はそうじゃなかった…あなたはただ依存していただけよ…」
お前は気づいていない…僕がどれだけお前を求めたか…
未来を見た時…お前を喪う恐ろしさを味わった…
その時、お前への想いが依存だけではないと…自覚した
ただの依存だけなら、お前は幸せだったろうに…可哀想なナギニ…
「そうかもしれない。だが、それはお前もだろう?」
お前はいつも僕と接する時一線を引いていた…
だが、ある時それが曖昧になった…
気づいているだろうか…いいや、お前は気づいていないだろうな…
「……何がいけないの……もう知っているようだから言うけれど……何も知らない…誰もいない…言葉も文化も…全く知らないのに……それでも頑張ってきた…あの孤児院で…私は孤独だったの…あなたにはわからないわ」
ああ…知っている
だがそれはお前だけじゃない
「ナギニ。僕もそうだ」
「馬鹿なこと言わないでよ。あなたは異質じゃなかったわっ。あなたは本来いるべき人なのよっ…私はっ…私はそうじゃないっ…」
お前が感じていただろう孤独は手にとるようにわかる
確かにお前は異質だった…どんなに足掻こうと、お前はこの世界でひとりぼっち…
だが、僕はそれを知った時、どうしようもなく嬉しかったし、都合が良かった
それはなぜか、お前には教えてやるものか
僕だけのものだ…
「いいや。僕がいる限り、お前はいて当然の存在だ」
僕だけのためにな
「傲慢よ………あなたの言葉に…いつも決めた心が揺らぎそうになってきた…あなたって人は、いつも私が決意を決めた側から揺らがせるようなことをする…今だって…折角覚悟したのに…幻のようにあなたは現れてっ…」
夢だと思えばいい
僕はお前が作り出した都合のいい夢だと…
「生への渇望が出てきたと?」
お前が臆病で気弱なのは知っている
本当は死を誰よりも恐れていることも…それほどまでにお前は弱い
強がっていても、僕にはわかる
もっと曝け出せ
「…そうよ……生きたいっ…死にたくないよっ…こんな形で終わるなんてっ……ふっ…う゛うっ…死ぬのは嫌よっ」
自分の肩を抱いて震えながら、泣いて訴える彼女の言葉は、虚空に消える
彼は否定も肯定もしない
痛々しい印が赤く主張する背中に近づき、ローブから腕を伸ばし後ろから抱き寄せた
僅かに抵抗した彼女を軽く押さえ込み、言った
「今度こそ、お前は死ぬ」
悲しく囁くように言った言葉に、彼女は手で顔を覆いぽたぽたと温かい涙を流した
嗚咽を抑えながら、ただ震える彼女に、彼は何も言わずに抱きしめ続けた
彼がやってくるその時まで…
あの授業の後、ハリーは嬉しさや誇らしさと同時に、ロンやハーマイオニーにどう話そうか悩んだ
いちばんは、彼女は死なねばならないということだった
ハリーは一瞬、ダンブルドアならばどうするだろう、聞いてみようか、とも考えた
だが、やめた
その決断をした理由は、極めて曖昧な理由からだった
フェリックス・フェリシスを飲んだ時のような、本能的な直感が告げていたからだ
二人を信用していないとかそういう問題ではない、勿論、罪悪感を背負わせたくない、とかそういうものでも…
ただ、今言うべきことではない
それだけはわかっていた
そして、ハリーは、『トリニータス』と彼女の死が避けられないものであること以外を全て二人に話した
その時、ハリーがいちばん冷や冷やしたのは、ハーマイオニーが勘づく可能性だった
なるべく筋が通るように話したが、優秀なハーマイオニーなら、どう頑張っても説明のつかない違和感に気づくかもしれない…と
そして案の定、感心するロンの横で、どこか訝しげな様子で顎に手を当てて考えるハーマイオニーに、気を逸らすように、ハリーは、ダンブルドアが、分霊箱のひとつのありかを発見したら、自分を連れて行くと約束した話をした
嬉しいことに、二人は感服して畏れ入った
「うわー」
やっとすべてを話し終わると、ロンが声を漏らした
ロンは自分が何をやっているのかまったく意識せず、なんとなく天井に向けて杖を振っていた
「うわー、君、本当にダンブルドアと一緒に行くんだ……そして破壊する……うわー」
「ロン、あなた雪を降らせてるわよ」
ハーマイオニーがロンの手首をつかみ、杖を天井から逸らしながら、優しく言った
大きな雪片が舞い落ち始めていた
「ああ、ほんとだ」
ロンは、驚いたような驚かないような顔で、自分の肩を見下ろした
「ごめん……みんなひどい頭垢症になったみたいだな…」
ロンは偽の雪をハーマイオニーの肩からちょっと払った
なんとなく、ハリーには、ハーマイオニーは、少し嬉しそうに見えた
そんな姿に、久々に穏やかな気分になっていると、ハーマイオニーは真面目な顔でハリーを見ていた
「ねぇハリー」
「なんだい?」
ハリーは少しドキッとした
「……ダンブルドアは……いいえ、やっぱり何でもないわ。それよりシリウスからの手紙のこと、ちゃんと覚えてる?」
痛いことを聞かれてハリーは微妙な顔になった
別に忘れていたわけではない
ただ、本当にどれだけ考えてもわからないのだ
お手上げだった
「解けてないのね」
「忘れていたわけじゃないよ。ただ、本当に心当たりがないんだ」
言い訳がましいのはわかっているが、思わず反論したハリー
「別に責めてるわけじゃないわ。ただ、もしーー…もし、何かあったら……ねぇ、もう一度レギュラス先生に相談してみたら?先生は優しいわ。きっとあなたの頼みなら引き受けてくれるはずよ」
ハーマイオニーの言葉に、ハリーは少し考えた
最後にレギュラス先生を見たのは、スラグホーンのパーティだった
実はと言うと、ブラック家のオフューカスの肖像画の前で見せたレギュラスの一面に、少し苦手意識に似た、恐ろしさを感じていた
ただ、その時以来、一切そんな姿を見ていないので、今の今まで忘れていた
それに、スラグホーンへの軽蔑にも似たドロリとした暗い眼差しもある
ハーマイオニーは、その一面を見ていないからわからない
だが、少なくとも、自分の頼みなら引き受けてくれるというはっきりとした自信が、ハリーにはなかった
ハリーの知る限り、幸運の液体なども使わず、唯一説得できたのはレギュラスだけだった
それも、真っ向からというわけではない
レギュラスが何よりも大切に想っているだろう彼女をだしに使わせてもらったのだ
だが、なんとなく、この手を使えるのは一度だけだと確信があった
きっと、レギュラス先生はもう手を貸してはくれないかもしれない…
そんな漠然とした考えがあった
「そうだね。今度会ったら聞いてみるよ」
口から出た言葉は、実行しようと思っていない返事だった
だが、ハーマイオニーは少しホッとしたような表情になった
「ええ、そうした方がいいわ」
「ーーー。やることはわかっておるな?」
「そう何度も言うな。口煩いな」
「ならば、そのように、あからさまに歓びを露わにせぬことじゃ」
「仕方あるまい。ーーそれに、ようやく彼女に会える」
「……」
「なに、そう気にすることはない。少々不服だが、まぁいい。些細なことだ。なぁアルバス。これを渡しておく。きっと役に立つだろう。最後に友と過ごせたことーーー私は喜ばしく思う」
「…ーーー……」
「さて、そろそろだな。心躍る時間のはじまりだ」
「(…こやつは変わらぬのう…じゃが…あの子には感謝してもしきれぬ……)」
ハリーは、毎度と同じ、生徒から手紙を受け取り、ダンブルドアの部屋の前に来ていた
部屋の扉を軽くノックすると、静かな声が聞こえた
「お入り」
許可の声が聞こえて、ハリーはゆっくり扉を開いて部屋に入った
部屋に入ると、不死鳥のフォークスが振り返った
フォークスの輝く黒い目が、窓の外に沈む夕日の金色を映して光っていた
ダンブルドアは、旅行用の黒いマントを両手に持ち、手を後ろ手で組んで窓から校庭を眺めて立っていた
「さて、ハリー、君を一緒に連れて行くと約束したのう」
「一緒に…先生と…?」
「もちろん。君がまだそうしたいと望むならば、じゃが」
「見つけたのですか?分霊箱を見つけたのですか?」
「ふむ、そうじゃろうと思う」
その言葉を聞いた途端、怒りと恨み、哀しみ…やりきれない想いが、衝撃と興奮の気持ちと戦った
しばらくの間、ハリーは口が聞けなかった
ダンブルドアは黙っていた
ハリーをじっと見定めているかのように…
だが、ハリーは自分の胸の中で、溢れ出る感情と戦うのに必死で、その様子は映っていなかった
すると…
「恐れておるのかね?」
ダンブルドアが聞いた
「怖くはありません!」
ハリーは即座に答えた
これは本当のことだった
恐怖という感情だけは、まったく感じていなかった
「どの分霊箱ですか?どこにあるんですか?もしかして、彼女の亡骸…」
「どの分霊箱かは定かではないーーここから何キロも離れた海岸の、その又先に、広大な湿地がある。そこは、かつて存在したと云われる種族の絶滅戦争が行われた地じゃ。ーー魔法史では教えぬじゃろうが、その地には、その戦争で死んだ者達…眠ることを知らぬ亡者がおると言われておる」
「眠ることを知らない亡者…あの、かつて…とは、どれくらい前なのですか?魔法省が言っていた、亡者とは何が違うのですか?」
「この世界がはじまる前の話じゃ。ーー何が違うか、そうじゃのう。それはわしにもわからぬ。こうではないかと思うことはあるが、まったく間違うておるかもしれぬ」
ダンブルドアは興味深げに言った後、少し鋭い目つきで続けた
「ハリー、わしは君に一緒に来てよいと言うた。そして、その約束は守る。しかし、君に警告しないのは大きな間違いじゃろう。今回は極めて危険じゃ」
「僕、行きます」
ハリーはダンブルドアの言葉が終わらないうちに答えていた
その時ハリーは、スネイプへの怒りが沸騰し、何か命がけの危険なことをしたいという願いが、この数分で十倍に膨れ上がっていた
かつてないほどの怒りだった
それがハリーの顔に、顕れたらしい
ダンブルドアは、眺めていた校庭から振り向き、銀色の眉根に微かに皺を寄せて、目を細めた
「ふむ、何が、あったのじゃ?」
「何もありません」
ハリーは即座に嘘をついた
「では、なぜ気が動転しておるのじゃ?」
「動転していません」
「わしに、嘘をつくのかの?」
ハリーは心臓を鷲掴まれたような心地になった
心なしか、冷たい声に聞こえた気がした
それは、自分に後ろめたい何があるからかもしれない
「わしに嘘をつく者を、一緒に連れては行けぬ」
静かに言ったダンブルドアに、ハリーは焦って思わず叫んだ
「スネイプ!!」
いきなり大きな声で叫んだことで、後ろにいたフォークスが小さくギャッと鳴いた
「何かありましたとも!スネイプです!あいつが、ヴォルデモートに予言を教えたんだ!あいつだったんだ!あいつだった!トレローニーが教えてくれた!」
「いつ、それを知ったのじゃ?」
ダンブルドアは表情を変えずに聞いた
「たった今です!」
ハリーは、叫びたいのを抑えるのがやっとだった
しかし、突然、もう我慢できなくなった
「それなのに、先生はあいつにここで教えさせた。そしてあいつは、ヴォルデモートに僕の父と母を追うように言った!」
まるで戦いの最中のように、ハリーは声を荒げていた
眉根ひとつ動かさず、表情も変えないダンブルドアに、ハリーは部屋を往ったり来たりしながら拳をさすり、あたりの物を殴り倒したい衝動を、必死で抑えた
ダンブルドアに向けて怒りをぶっつけ、怒鳴り散らしたかった
しかし同時に、ダンブルドアと一緒に分霊箱を破壊しに行きたかった
今なら、なんの罪悪感もなしに破壊できるような気分だった
ダンブルドアに向かって、スネイプを信用するなんて、バカな老人のすることだと言ってやりたかった
しかし、一方で焦ってもいた
自分が怒りを抑制しなければ、ダンブルドアが一緒に連れて行ってくれなくなることも恐れた
嘘をつく者を連れて行くわけには行かないと言われたばかりだ
だから、正直に言った
これでいい、これでいいんだ、とハリーは自分に言い聞かせた
「ハリー、わしの話を聞けるかの?」
「っ!」
言い聞かせるような言い方ではなく、あくまでハリーの意思を伺うような言い方に、ハリーは「はい」以外答える選択肢はなかった
動き回るのをやめるの、叫びたいのを堪えるのと同じくらい難しかった
唇を噛んで立ち止まり、無表情なダンブルドアの顔を見た
「スネイプ先生はひどい間違ーー「間違いを犯したなんて言わないでください。先生、あいたは扉のところで盗聴してたんだ!」わしの話を、聞けるかの?」」
ハリーは思わず息を呑んだ
やってしまった…と思った
黙り込んだハリーに、しばらくの間の後、ダンブルドアは口を開いた
「スネイプ先生はひどい間違いを犯した。トレローニー先生の予言の前半を聞いたあの夜、スネイプ先生はまだヴォルデモート卿の配下だった。当然、ご主人様に、自分が聞いたことを急いで伝えた。それが、ご主人様に深く関わる事柄だったからじゃ。しかし、スネイプ先生は知らなかったーー知る由もなかったのじゃーーヴォルデモートがその後、どこの男の子を獲物にするのかも知らず、ヴォルデモートの残忍な追求の末に殺される両親が、スネイプ先生の知っている人々だとは、知らなかったのじゃ。それが君の父君、母君だとはーー」
ハリーは虚ろな笑い声を上げた
「あいつは僕の父さんもシリウスも、同じように恨んでいた!」
「ヴォルデモート卿が予言をどう解釈したのかに気づいた時、スネイプ先生がどんなに深い自責の念に駆られたか、君には想像も付かぬじゃろう。人生最大の後悔だったじゃろうと、わしはそう信じておる。それ故に、スネイプ先生は戻ってきたーー」
「でも、先生、あいつこそ、とても優れた閉心術者じゃないんですか?」
平静に話そうと努力することで、ハリーの声は震えていた
「それに、ヴォルデモートは、いまでも、スネイプが自分の味方だと信じているのではないですか?先生……スネイプがこっちの味方だと、なぜ確信していらっしゃるのですか?」
「スネイプ先生は、あの子が信じた友人だからじゃ。そして、わしも信じておる。それにのうハリー、スネイプ先生はあの子に対して閉心術が通じぬ。無論わしにもじゃ。意味はわかるの?」
ダンブルドアの言葉に、ハリーは目を見開いた
まさか、まさか彼女にまで閉心術が通じないとは思っても見なかったからだ
ダンブルドアならまだわかる…
そして、それが意味するところはつまり、つまり…スネイプはダンブルドアと彼女に嘘はつけないということ
これは魔法に裏打ちされた事実だ
疑いようのない事実とは、まさにこのことだった
ハリーは何も言い返せず、拳を握りしめた
「さて、今夜、わしと一緒に行きたいか?」
「はい」
ハリーは、慌てるように即座に答えた
「よろしい。それでは、よく聞くのじゃ」
ダンブルドアは背筋を正し、威厳に満ちた姿で言った
「連れて行くには、ひとつ条件がある。わしが与える命令にはすべて従うことじゃ。しかも、質問することなしにじゃ」
「もちろんです」
「よく理解するのじゃ。わしは’’どんな命令にも’’従うように言うておる。例えば、『逃げよ』『隠れよ』『戻れ』などの命令もじゃ。約束できるか?」
「僕ーーはい、もちろんです」
「わしが隠れるよう言うたら、そうするか?」
「はい」
「わしが逃げよと言うたら、従うか?」
「はい」
「わしを置き去りにせよ、自らを助けよと言うたら、言われた通りにするか?」
「僕ーー」
ハリーはダンブルドアの薄いブルーの目を見た
不安そうな目で…
ダンブルドアは黙ったまま、ハリーの答えを待っている
「はい、先生」
「約束できるな?」
「はい、先生」
ハリーは痛いほど否定したい気持ちを胸の中に呑み込んで、ダンブルドアを真っ直ぐ見つけて答えた
「よろしい。では、腕を」
そう言って、腕を差し出したダンブルドアに、ハリーは恐る恐る手を添えた
その瞬間、ハリーは回転した
たちまち、太いゴム管の中に押し込められているような、嫌な感覚に襲われた
息ができない…
体中のありとあらゆる部分が我慢できないほどに圧縮され、そして、窒息すると思ったその瞬間、見えないバントがはち切れたようだった
そして、目を開けた時、足を踏みしめていた場所は…
肩ほどまでにかかる、黒く薄いベールが重さも感じられず、頭の上から被せられる
全身を黒で覆われた…背中が大きく空いたドレスを纏い、姿勢を伸ばしたまま、虚な表情で顔を上げ、漆黒のローブを肩にかけようとする目の前の人物を見ていた
瞳孔の開いた…かつての面影などなくなってしまった男…
ヴォルデモートを…
肩にかけられた体をすっぽりと覆うローブ
前のスリットから、手を取ったヴォルデモートはその手に杖を握らせた
「…私の…」
神秘部に行ったときに、落としてしまった杖は、ヴォルデモートが持っていた
その杖を、握らされた彼女は、思わずつぶやいた
「そうだ。ーーダンブルドアを殺せ」
頭の中で木霊する命令に、ベールの下で唇を引き結んだ彼女
「っ……怖いわ…」
「何も怖いことなどない。あの老ぼれが死ねば、お前はもう何にも怯えずに済む」
囁くように言ったヴォルデモートに、彼女は心の中で否定した
「…姿現しはできない……もしかして、ーーキャビネット棚ね……誰なの」
「そのようなことどうでもいい。いいか、お前が殺せ。理由は言わずともわかるな?命令だ」
「………はい…」
「さあ、行け」
目を開けて、まず飛び込んできたのは、どこまでも広がる湿地帯だった
膝ほどの草が生い茂り、ぬかるんだ沼が広がる
歩けるところが僅かしかない…
一歩足を踏み入れれば、確実に迷いそうなところ…
今来たばかりだが、ハリーはここに一秒もいたくなかった
臓腑にずしりとのしかかるような重く濃い空気に、吐き気すら出てきた
「ここは…どこなんです?」
吐き気をぐっと抑え、ハリーは横で前を見据えて立っているダンブルドアに聞いた
「ここは、マグルの社会から分離された魔法界…それからさらに分離された場所じゃ。ふむ、言い換えるならば魔法界での古代遺跡、というところじゃのう。しかし、古代遺跡とは言っても、魔法界でその存在を知る者は多くはない。ここを知っておる者はいても、訪れる者はほとんどおらぬ。それほどまで畏怖されるべき場所じゃ」
「遺跡?えっと、先程おっしゃっていた絶滅戦争があった場所?ここに、分霊箱が?」
「いかにも。この先にある石碑の中に、分霊箱があると踏んでおる。さて、ハリー、行く前にひとつ注意しておくが、我々はこれからこの湿地を歩いて行かねばならぬ。その際、決して、前以外見てはならぬ。わしが足を踏みしめるところ以外、決して通ってはならぬ。よいな?」
「はい」
「よろしい。では、行こうぞ」
それからハリーは、慎重に歩きだしたダンブルドアの踏んだ後を、踏み外さないようについて行った
地面は湿地帯というだけあって、少しぬかるんでおり、不安定だった
その中でも、比較的乾いた地面を歩いて行くダンブルドアの背中と、足元を見ながらついて行ったハリー
「先生、あの、質問してもいいですか?」
ハリーは恐る恐る、慎重に声をかけた
「なにかね?」
てっきり断られると思っていたハリーは、少し驚いた
足を踏み外さないように、気をつけながら、ゆっくり口を開いた
「先生は、どうやってここを見つけられたのですか?」
「興味深い質問じゃ。あえて言うならばーー当て嵌まる言葉がこれしかないが……『推測』じゃよ。そもそも、記憶の旅自体は、推測に基づくものばかりじゃった。推測し、見た記憶から憶測した。この場所は、ヴォルデモート自身というよりも、アルウェンに縁のある場所かもしれぬ。といえば、君はどう思うかの?」
「…え…っと…ここが、ですか?」
ハリーは困惑して、辺りを見回した
見渡す限り広くどんよりとした湿地が広がる、陰気な場所
少し先にある、森には……お世辞でも入りたいとは思わない雰囲気が漂っている
というより、一度入れば戻って来れないような…
「……その…住んではいないだろうな…と」
自分で答えておいて、これほど微妙な気持ちになったのは初めてだった
心の中で住んでいたわけがないだろう…と突っ込まざるをえなかった
「面白いことを言うのう。じゃが、なかなかに鋭いようじゃ」
「え、それはどういうーー「さて、見えてきたようじゃ」」
ダンブルドアに言葉に質問しようとしたが、遮るように言われた言葉に、ハリーは前を見た
50メートル程先には、鬱蒼とした森があった
「あの森に…入るんですか?」
「ああ、その先に石碑があるのじゃ。といってもその石碑はさして重要ではない。おそらくはーーわしの推測が正しければ、その石碑の中に隠されておるものじゃ」
その言葉に、ハリーは気を引き締めた
それから、森の中に入り、しばらく歩いた後、誰も足を踏み入れず、伸び放題に茂っている草と、黒々とした大木の間を進み、奥全く木の幹に隠されるように視界に現れたのは、遠目で見ても分かるほどの、木の蔓が絡みついた、黒い石碑だった
まるで、石切り場の巨石がそのまま運ばれてきて、放置されていたような…
「これが…」
「見かけはただの石碑に見えるじゃろう。実際、そうじゃ。じゃが、君はそうではない。ハリー、ここに君の血を一滴垂らすのじゃ」
ダンブルドアは、石碑を撫でるように触れながら、振り向いて言った
「え…?」
「この石碑はあらゆる魔法の類が効かぬ。この手の類のものに反応するのは、資格のある者だけが持つ血の力だけと決まっておる。わしでは反応せなんだ。ーーー怖いかの?」
「いいえ、やります」
ハリーは、自分ができることを証明したくて、少し躊躇ったが、覚悟を決めて、迷わずに指の先を噛んでぷくりと溢れてきた血を、ダンブルドアが指し示した、苔だらけの石碑の中心に垂らした
ポタポタ…と二滴ほど落ちた血は、数秒してから石碑の中に吸い込まれように消えた
ハリーは目を見張った
そして、石碑の真下の地面からゴゴゴ…と地鳴りのような音が鳴り、まるで浮遊魔法をかけられたように、石碑がひとりでに解体した
まるで最初から切り線を入れていたように、分解され、石碑の下から、土が盛り上がり、蔓や木の幹がブチブチと切れる音が響いた
そして、盛り上がった地面から現れたのは、地下へでも続きそうな真っ暗な階段のような道だった
ハリー一人でも通れるかわからないほどの狭さだ
四つん這いで這っていけば、通れないことはない
解体された石碑は、その入り口の側に静かに着地した
「先生、なぜ僕の血なら反応すると?」
「それは追々分かろうというものじゃ。しかしこれはーー…見事なものじゃ。ハリー、我々はこれからこの中に入るが、わしの姿を決して見失うでないぞ」
「はい」
ハリーはたくさん聞きたいことがあったが、来る前にダンブルドアと約束したことを思い出し、口をつぐんだ
そして、ダンブルドアは入り口の石碑を見回し、触りながら集中して見聞した後、入り口に目を向けてじっと見つめた後、背を屈めて中を覗き込んだ
そして、膝をついて中に入ったダンブルドア
ハリーはその後を追った
暗い筒の中のような狭い通路を、四つん這いで十分ほど進むと、目の前のダンブルドアが、壁に手をついて立ち上がった
やっとこの狭い通路から抜けたのだと分かり、ハリーも少し早めに抜け出して立ち上がった
そして、目の前に広がったのは、自然の洞窟の、この世のものとは思えないほど美しい空間だった
ダンブルドアが灯りの魔法で天井に光を行き渡らせてくれたおかげで、洞窟の全容が見えてきた
地下水が湧き出て、溜まり、透き通るような透明な水は、蒼白く光り、底まで見える
湖のように広がる地下水の真ん中辺りに、孤立した離島のように岩肌が浮かんでいた
ハリーは直感的にあそこに分霊箱があると思った
「どうやら、ヴォルデモートは余程、あの子を愛していたようじゃのう」
感心したように呟いたダンブルドアに、ハリーは瞠目した
確かに幻想的で美しい場所だが、それが彼女を愛していたという証明になるか、と聞かれれば答えは微妙だった
一瞬、本当にこんなところに分霊箱が隠されているのか、とも疑った
だって、それほどに穢れなどない美しい場所だった
「先生、あそこに分霊箱が…」
「ああ、おそらくそうじゃろう。じゃが、あそこまでどうやって行くかーーー」
そう言うと、ダンブルドアは地下湖の側まで寄ると、じっと泉を覗き込み、顎髭を撫でながら考え込んだ
何かを探すように湖に目を遣り、しばらくすると湖の上に手を翳して、空中で何かを探して掴むように動かした
「ふむ、見事なものじゃ」
数秒後、ダンブルドアが感心したように呟いた
ハリーには見えなかったが、空中で何かを掴んでいる
ダンブルドアは、水辺に近づいた
ダンブルドアの留め金付きの靴の先が、湖の縁ギリギリまで近づいたのを、ハリーはハラハラしながら見つめていた
空中でしっかり手を握りながら、ダンブルドアはもう片方の手で杖を上げ、握り拳を杖先で軽く叩いた
途端に、無色透明の水の塊のような物質が沸騰するようにボコボコと音を立てて、流れるように形を作り、どこからともなくガラス製のような鎖が現れた
鎖は、湖の底から伸びているようにも見るが、なにぶん透明で水面から消えているように見える
ダンブルドアが鎖を引っ張ると、途端に透き通った湖の底から、どこからともなく透明の、ガラスのような小舟が現れた
ハリーは息を呑んだ
小舟の舳先が水面を割って幽霊の如く現れ、まるで水が小舟を形造るように浮いて、漣ひとつ立てずに漂っている
どう見ても乗れるようには見えない
「あれは…先生が魔法で?…それとも、もとからにあったものですか?」
「いいや、わしが出した物ではない。これは、もとからあったものじゃ」
「あんな物がそこにあるって、どうしておわかりになったのですか?」
ハリーは驚愕して聞いた
「魔法は常に跡を残すものじゃ」
小舟は、ゆっくりとひとりでに動き、ダンブルドアとハリーのいる湖の縁にぶつかった
そして、ダンブルドアは言った
「時には非常に顕著な後をな。にしても、これは実に見事なものじゃ…まさかあの歳でこれ程までとは…」
また、感心するように呟いたダンブルドアに、ハリーは複雑な気持ちになった
自分には全く訳がわからない魔法だ
「この小舟は、崩れたり…壊れたりしないんでしょうか?」
「ああ、そのはずじゃ。ヴォルデモートは、自分自身、またはあの子が分霊箱に近づいたり、またはそれを取り除いたりする必要がある場合には、湖の中に、自ら仕掛けたものが反応せぬように、この湖を渡る必要があったのじゃ」
「それじゃ、ヴォルデモートの舟で渡れば、仕掛けた物は反応しないのですね?」
「どこかの時点で、我々がヴォルデモートでないことに気かなければの。そのことは覚悟せねばなるまい。しかしこれまでは首尾よくいった。連中は我々が小舟を浮上させるのは許した」
「連中?僕たち以外に何かいるんですか?」
「おう」
ハリーは心の中で、こんなに透き通った湖の中に、何がいるのか…と疑問を持った
「湖の中をよおく覗き込んでみるのじゃ。今の君ならば、それが見えるであろう」
ハリーは、ダンブルドアに続いて、透明な小舟に、恐る恐る足を着き、乗り込みながら湖の覗き込んだ
だが、何も見えない
瞬きして、何かは知らないが見ようとした
すると、途端に透き通って美しかったはずの湖に赤黒い煙のようなものが広がり、骸骨のような…いや、骨に皮をつけただけのおぞましい物が手を広げて迫ってきたところで、飛び退いた
小舟が波を立てて少し揺れ、尻餅をついたように肩で息をするハリー
背中を向けて、ひとりでに動く小舟に揺られながら、前を見据えるダンブルドア
「人の手が!人がいた!」
ハリーは叫んだ
そして、もう一度チラッと湖に目を向けると、そこにあったのは青白く輝く、透き通った湖ではなく…
腐った血のように赤黒い色が湖全体に広がり、決して水面に上がってはこないまま、敷き詰めるように浮かんでいる死体の山
その死体の上を、小舟は通っている
ハリーは鳥肌が立った
どうして…
さっきまでそこに綺麗な湖が…
死体の見開いた両眼は蜘蛛の巣で覆われたように曇り、とても大昔のものと思われる髪や衣服が身体の周りに煙のように渦巻いている
「っ!死体がある!」
ハリーは耐えきれずに叫んだ
声を抑えていてもよく響く広い洞窟の中…
「そうじゃ」
ダンブルドアの平静な声が響いた
「しかし、今はそのことを心配する必要はない」
「今は?」
やっとの思いで水面から目を逸らして、ダンブルドアを見つめながらハリーは聞き返した
「死体が下の方で、ただ静かに漂っているうちは大丈夫じゃ」
ダンブルドアが言った
「屍を恐れることはない。暗闇を恐る必要がないのと同じことじゃ。もちろん、その両方を密かに恐れておるヴォルデモート卿は、意見を異にするがのう。我々は、死や暗闇に対して恐れを抱くのは、それらを知らぬからじゃ。それ以外の何ものでもない」
ハリーは無言だった
反論したいとは思わなかったが、先程まで見えなかった死体が、周りにいて、それも敷き詰められるほど下に漂っていると思うとゾッとしたし、それよりもなによりも、死体が危険でないとは思えなかった
「でも、ひとつ手を伸ばしてきました。それに、なぜさっきまで見えなかったんでしょう…」
「『死』じゃよ。君は幼い頃『死』を目の当たりにした。『死』に、より近い体験をした者は、’’連中’’を見ることができる。あれらは人間であり、人間でない。かつては偉大な種族であった。ヴォルデモートは、ここをはじめて訪れた時、それを利用したのじゃろう。あやつの知識には畏れ入るものがある」
「人間じゃない?もとから死体…なのですか?」
「最初から屍である生き物など、おらぬよ」
「危険じゃないんですか?こんなに…」
「我々が分霊箱を手に入れた時には、そうではないじゃろうな。しかし、冷たくて暗いところに棲む生き物の多くがそうじゃが、死体は光と暖かさを恐る。じゃから、必要となれば、我々はそうしたものを味方にするのじゃ。その時は、そうじゃのう。火が必要じゃな」
ハリーは戸惑った
ダンブルドアの言葉を頭の中で反芻するように覚え、取り敢えず火が必要だということを考えた
「はい…」
慌て気味に返事をして、ハリーは小舟が否応なしに近づいていく先に目を向けた
緑がかった輝きが見える
怖くないふりは、もうできなかった
広大な赤黒い湖は死体で溢れている
ハリーは突然、ロンやハーマイオニーにちゃんと別れを告げておけばよかったと思った
それに、ジニーには……
「ついたようじゃ」
ダンブルドアは楽しげに言った
小舟が何かに軽くぶつかって止まった
はじめはよく見えなかったが、ハリーが杖を掲げて見ると、湖の中央にある、水晶のような石でできた小島に着いていた
「水に触れぬよう、気をつけるのじゃ」
ハリーが小舟から降りる時、ダンブルドアが注意した
降りて見ると、小島はせいぜいダンブルドアの校長室ほどの大きさで、その中心部に、平らな黒い石が長方形に伸びる水晶の台座があった
ハリーとダンブルドアは、近づいてそれを見た
平らな石は『憂いの篩』の水盆のような形だった
そして、灯りを少し強くしたダンブルドアに続いて、その中を覗き込むと、燐光を発するエメラルド色の液体で満たされていた
「何でしょう?」
ハリーは小声で尋ねた
「よくわからぬ」
ダンブルドアが言った
「ただし、血や死体よりも、もっと懸念すべきものじゃ」
そう言って、ダンブルドアは水盆の液体の表面に手を伸ばした
「先生、やめて!触らないでーー!」
「触れることはできぬようじゃ」
ダンブルドアは、ハリーの制止を気にしない様子で言った
「ご覧。これ以上近づくことはできぬ。やってみるがよい」
ハリーは目を見張り、水盆に手を入れて液体に触れようとしたが、液面から二、三センチのところで見えない障壁に阻まれた
どんなに強く押しても、指に触れるのは硬くてびくともしない空気のようなものだけだった
「ハリー、離れていなさい」
ダンブルドアが言った
ダンブルドアは杖をかざし、液体の上で複雑に動かしながら、無言で呪文を唱えた
何事も起こらない
ただ、液体が少し明るく光ったような気がしただけだった
ダンブルドアが術をかけている間、ハリーは黙っていたが、しばらくしてダンブルドアが杖を引いた時、もう話しかけても大丈夫だと思った
「先生、分霊箱はあるのでしょうか?」
「ああ、あるな」
ダンブルドアはさらに目を凝らして水盆を覗いた
ハリーには、エメラルド色の液体の表面に、ダンブルドアの顔が逆さまに映るのが見えた
「しかしどうやって手に入れるか?この液体では突き通せぬ。『消失呪文』も効かぬし、分けることも、すくうことも、吸い上げることもできぬ。さらに『変身呪文』やその他の呪文でも、いっさいこの液体の正体を変えることができぬ。ある程度予想はしておったが、あやつらしい徹底ぶりじゃ」
まただった
今夜のダンブルドアは、ヴォルデモートに対する感心した言葉が多い
ハリーは、複雑な気持ちで困惑しながらも、それほどの魔法がかけられているのだ、ということで納得した
そう考えていると、ダンブルドアは、再び杖を上げて空中でひとひねりし、どこからともなく現れたクリスタルのゴブレットを掴んだ
「結論は唯一つ。この液体は飲み干すようになっておる」
「ええっ?ダメです!」
ハリーはほぼ無意識に口走った
「飲み干すことによってのみ、水盆にある物を見ることができる」
「でも、もしーーもし劇薬だったら?」
「いや、そのような効果を持つ物ではなかろう」
ダンブルドアは気軽に言った
「ヴォルデモート卿は、この島に辿り着くほどの者を、殺すようなことはせん」
はっきりと断定したダンブルドアに、ハリーは信じられない思いだった
またしても誰に対しても善良さを認めようとする、ダンブルドアの異常な信念なのだろうか?とハリーは思った
「先生」
ハリーは理性的に聞こえるように努力した
「先生、相手はヴォルデモートなのですよーー」
「言葉が足りんかったようじゃ。こう言うべきかな?ヴォルデモートはこの島に辿り着くほどの者を’’すぐさま’’殺しはせぬ」
ダンブルドアが言い直した
「ヴォルデモートは、その者が、いかにしてここまで防衛線を突破しおおせたかがわかるまでは、生かしておきたいじゃろうし、最も重要なことじゃが、その者が何故、かくも熱心に水盆を空にしたがっているかを知りたいことじゃろう。忘れてはならぬのは、ヴォルデモート卿が分霊箱のことは自分しか知らぬと信じておることじゃ。まあ、これは高い確率でじゃが、あの子にだけは教えておる可能性もあるじゃろうな。そうなれば、二人だけじゃが」
ハリーはまた何か言おうとしたが、ダンブルドアは手で制した
「この薬は、わしが分霊箱を奪うのを阻止する働きをするに違いない。わしを麻痺させるか、何故ここにいるかを忘れさせるか、気を逸らさざるを得ないほどの苦しみを与えるか、もしくはその他のやり方で、わしの能力を奪うじゃろう。そうである以上、君の役目は、わしに飲み続けさせることじゃ。わしの口が抗い、君が無理に薬を流し込まなければならなくなってもじゃ。わかったかな?」
水盆を挟んで、二人は見つめ合った
ハリーは無言だった
一緒に連れてこられたのは、血と、このためだったのだろうかーーダンブルドアに耐え難い苦痛を与えるかもしれない薬を、無理やり飲ませるためだったのだろうか?
「憶えておるじゃろうな?君を一緒に連れてくる条件を」
ハリーはダンブルドアの目を見つめながら、躊躇した
「でも、もしーー?」
「誓ったはずじゃな?わしの命令には従うと」
「はい、でもーー」
「警告したはずじゃな?危険が伴うかもしれぬと」
「はい…でもーー」
「それなら、命令じゃ」
「僕が代わりに飲んではいけませんか?」
ハリーは絶望的な思いで聞いた
「心配せずとも、わしはここで死にはせぬ」
静かだが、厳かで強い意志が宿った言葉だと、ハリーは感じられた
薄いブルーの目が、いつも穏やかに和らげられる自分の知っているダンブルドアではないような気がして…
「今一度聞く。わしが飲み続けるよう、君が全力を尽くすと誓えるか?」
「どうしてもーー?」
「誓えるか?」
「でもーー」
「あの子ならば、誓うであろう」
ダンブルドアのその言葉に、ハリーは目を見開いて立ち尽くした
「誓いますっ」
ほとんど反射的に、口から出ていた
そして、ダンブルドアはクリスタルのゴブレットを下ろし、薬の中に入れた
一瞬、ハリーはゴブレットが薬に触れることができないようにと願った
しかし、ほかの物とは違って、ゴブレットは液体の中に染み込んだ
縁までなみなみと液体を満たし、ダンブルドアはそれを口元に近づけた
そして、ダンブルドアはゴブレットを飲み干した
ハリーは指先の感覚がなくなるほどギュッと水盆の縁を握りしめ、恐々見守った
「先生?」
ダンブルドアが空のゴブレットから口を離したとき、ハリーが呼びかけた
気が気ではなかった
「大丈夫ですか?」
ダンブルドアは目を閉じて首を振った
ハリーは苦しいのではないかだろうかと心配だった
ダンブルドアは目を閉じたまま水盆にゴブレットを突っ込みまた飲んだ
ダンブルドアは無言で、三度ゴブレットを満たして飲み干した
五杯目の途中で、ダンブルドアはよろめき、前屈みに倒れて水盆に寄りかかった
目は閉じたままで、息遣いが荒かった
「ダンブルドア先生?」
ハリーの声が緊張した
「僕の声が聞こえますか?」
ダンブルドアは答えなかった
深い眠りの中で、恐ろしい夢を見ているかのように、顔が痙攣していた
ゴブレットは握った手が緩みかけていた
それを、目を閉じたままきつく握って、水盆の縁に叩きつけるように置いてよろめく体を支えるダンブルドア
ついに、ハリーは体が勝手に動き、ダンブルドアの背中に手を添えた
「先生、聞こえますか?」
ハリーは大声で繰り返した
声が洞窟にこだました
すると、ダンブルドアは喘ぎ、ダンブルドアの声とは思えない声を発した
ダンブルドアが恐怖に駆られた声を出すのを、ハリーは今まで聞いたことがなかったのだ
「できんっ……そんなこと」
ダンブルドアの顔は蒼白だった
よく見知っていたはずのその顔と曲がった鼻、半月の眼鏡をハリーはじっと見つめたが、どうしてよいかわからなかった
「やめろ…やめるんだ…そんなことはできない……」
ダンブルドアが呻いた
「先生……やめることはできません、先生」
ハリーが言った
「飲み続けなければならないんです。そうでしょう?先生が僕に、飲み続けなければならないっておっしゃっていました。さあ……」
自分自身を憎み、自分のやっていることを嫌悪しながら、ハリーはゴブレットを無理矢理ダンブルドアの口元に戻し、傾け、中に残っている薬を飲み干させた
「もうよい…やめろ…」
ハリーは、ダンブルドアに代わってゴブレットを水盆に入れ、薬で満たしている時、ダンブルドアが呻くように言った
「そんなことを言うな……そんな目で見るな…やめろ……」
ダンブルドアとは思えないような言葉にだった
夢の中で誰を見ているのか…
だが、今のハリーには、そんなことを気にする余裕はなかった
「先生、大丈夫ですから」
ハリーの手が震えた
「大丈夫です。僕がついてますーー」
「やめろ………やめるんだ…」
ダンブルドアがまた呻いた
「ええ……さあ、これでやめます」
ハリーは嘘をついて、ゴブレットの液体をダンブルドアの開いている口に流し込んだ
ダンブルドアが叫んだ
その声は赤黒い湖面を渡り、茫洋とした洞窟に響き渡った
「……やめろ…やめるんだ…そんな目でみるなっ……」
「大丈夫です。先生、大丈夫ですから!」
もはやダンブルドアが何を言っているのか、頭で考える間も無く、ハリーは大声で言った
手が激しく震え、六杯目の薬をまともにすくうことができないほどだった
水盆は今や半分空になっていた
「何も起こっていません。先生は無事です。大丈夫です。夢を見ているんです先生。今見てるのは現実のことではありませんからーーさあ、これを飲んで。飲んで……」
それからハリーは、自分への激しい憎しみと酷い後悔、どうしようもない悲しみや怒りと闘いながら、悪夢を見て、呻き続けて叫ぶダンブルドアに薬を飲ませ続けた
そして、涙をのんで、最後の一杯を飲ませた後…
これは夢か……
目の前には、白い衣装を纏い、乞い願うような優しげな目で見つめる彼女の姿が見えた
その身と心は闇に堕ち、修復不可能なほどに傷つけられているにも関わらず、眩しいほどの柔らかな光を纏っている
あの日…あの時…突然現れて、涙を溢れさせて願ってきた彼女の姿…
長く柔らかい黒髪に、黒曜石のような、かつての友に良く似た垂れ目がちな目元…
ーーー「ーーーーート……あなたの助けが必要なの…どうか…どうかあなたの親友だった先生を助けて…私の手を取ってほしい…」ーーー
まるで赦しすら与えられているように響く、柔らかな声…
細い手を差し伸べられ、痩せこけた頬に触れる彼女の柔らかな指
ーーーー「ほどなくして後を追うわ……彼さえ生きていれば…きっと大丈夫………あなたの名誉はこれで全て元に戻る……」ーーーー
いいや、君が望めば未来は変わるだろう…
だが、私は君に死んで欲しい…心底な…
トムには勿体ない…
ーー起きて…ーーート…まだ、終わってはいないわーーー
ああ……そうだ…約束したのだったな……
この私に「死ね」と言うとは…
呆れ返って物も言えぬところだった…
君の思惑通りに動いてやる代わりに、私は名誉を回復することを要求した……だが、そんなこと、別にどうでもよかったのだ…
どうせあそこにいても、惨めに朽ち果てるのみ…
最後の時を友と過ごせるのならば…それでよかった…
私にしては、なんとも贅沢な最期ではないか…
感謝するぞ…
私は、友に何度目かの嘘をついた…
もっと早く、君と出会っていたなら…いいや、若さゆえにトムと同じことをしていただろうな…
君はどうあっても幸せにはなれない…
「水」
「水ーー?」
ひと言、呟いたダンブルドアに、ハリーは喘いだ
「ーーはいっーー」
頭で理解すると、ハリーは弾かれたように立ち上がり、水盆を水を満たそうとした
だが、鈍く輝きを放っているサークレットが目に映った
分霊箱だ…
すぐにわかった
繊細で細い金細工が蔓のように絡み合い、トップに散りばめられた紅い石とエメラルド色の宝石
この紅い石が、記憶の中で彼女がヴォルデモートに贈ったものだということもわかった
「先生、やりました!」
ハリーは、胸の中で激しい思いを抱きながら、サークレットをしっかりと握りしめた
「『アグアメンティ!(水よ!)』」
ハリーは杖で水盆を突きながら叫んだ
清らかな水が水盆を満たし、ゴブレットを突っ込んですくおうとした
だが、すくえなかった
いくらすくおうとしても水はゴブレットを掠りもしない
「どうして!!」
ハリーは焦ったように、荒い息を吐いて苦しむダンブルドアを見た、そして奥歯を噛み締めて側の湖を見た
手段を選んでいる暇はなかった
覚悟を決めて、ゴブレットを持ち、ゆっくりと湖に近づきゴブレットの口を湖につけた
その瞬間、ゴブレットを持っている腕にひんやりとした、ぬめぬめとした感触を感じた
それが何なのか理解した時には、湖に引きずり込まれかけていた
反射的に強く振り払い、ハリーは後ろに後退った
目から届く限り見渡すと、暗い水面から、白い頭や手が突き出している
男、女、子供、蜘蛛の巣のような白い目が岩場に向かって近づいている
赤黒い水から立ち上がった、死人の軍団だ
「『ペトリフィカス・トタルス!(石になれ!)』」
濡れてすべすべした小島の水晶の岩にしがみつこうともがきながら、腕を掴んでいる「亡者」に杖を向けて叫んだ
亡者の手が離れ、のけ反って、水飛沫を上げながら倒れた
ハリーは足をもつれさせながら、立ち上がった
しかし、亡者はうじゃうじゃと、つるつるした岩に骨張った手を引っ掛けて這い上がってきた
虚な濁った目をハリーに向けて、水浸しのボロを引きずりながら、不気味な薄笑いを浮かべている
「『ペトリフィカス・トタルス!(石になれ!)』」
後退りしながら杖を大きく振り下ろし、ハリーが再び叫んだ
七、八体の亡者がくずおれた
しかし、あとからあとから、ハリー目掛けてやってくる
「『インディメンタ!(妨害せよ!)インカーセラス!(縛れ!)』」
何体かが倒れた
一、二体が縄で縛られた
しかし、次々と岩場に登ってくる亡者は、倒れた死体を無造作に踏みつけ、乗り越えてやってくる
杖で空を切りながら、ハリーは叫び続けた
「『セクタムセンプラ!(切り裂け!)セクタムセンプラ!』」
初めて口ずさんだこの呪文は、水浸しのボロと、氷のような肌がざっくりと切り裂かれた
ハリーは一瞬目を見開いた
だが、亡者は切り裂かれたにも関わらず、流すべき血を持たなかった
何も感じない様子で、萎びた手をハリーに向けて伸ばしながら歩き続けた
さらに後退りした時、ハリーは背後にいくつもの腕に締め付けられるのを感じた
死のように冷たく、痩せこけた薄っぺらな腕が、ハリーを吊し上げ、ゆっくりと、そして確実に水辺に引き込んでいった
逃れる道はない、とハリーは覚悟した
自分は溺れ、引き裂かれたヴォルデモートの魂の一欠片を護衛する、死人の一人になるのか…
その時、暗闇の中から『青い炎』が燃え上がった
青白く燃え上がる炎の輪…ハリーにとって初めて見た炎だった
炎の輪が岩場を取り囲み、ハリーをあれほどがっしり掴んでいた亡者どもは、転び、怯んだ
青い炎をかいくぐって、湖に戻ることさえできなかった
亡者はハリーを放した
地べたに落ちたハリーは岩で滑って転び、両腕を擦りむいたが、なんとか立ち上がり、杖を構えてあたりに目を凝らした
見ると、ダンブルドアが立ち上がって頭上で杖を振り上げていた
顔色こそ包囲している亡者と同じく蒼白かったが、蒼白く燃え上がる炎に照らされる背の高いその姿は、威風堂々としており、偉大な魔法使いそのものだった
また、いつも見ているダンブルドアではないようにも見えた
杖先から噴出する炎が、意思を持って、波のように流れ、周囲の全てを熱く取り囲んでいた
亡者は炎の包囲から逃げようとぶつかり合い、闇雲に逃げ惑っていた
ダンブルドアは、無言でハリーに目配せした
ハリーは、手にしっかりサークレットを持っているのを確認し、すぐにダンブルドアの側に行った
小舟へと誘導する視線に応え、小舟に飛び乗った
身体中震えながらも、ハリーは一瞬、ダンブルドアが自力で小舟に乗れないのではないかと思った
乗り込もうとして、ダンブルドアは僅かによろめいた
持てる力の全てを、二人を囲む炎の輪の護りを維持するために注ぎ込んでいるように見えた
ハリーはダンブルドアを支え、小舟に乗るのを助けた
二人が再びしっかり乗り込むと、小舟は小島を離れ、炎の輪に囲まれたまま赤黒い湖を戻りはじめた
下の方にうようよしている亡者共は、どうやら二度と浮上でこないらしい
そして、ダンブルドアが叫んだ
「『パーティス・テンポラス!(道を開け!)』」
その途端、湖全体に広がるほどの青い炎の壁が、小舟が向かう岸に向かって聳え立った
ハリーはその光景に息を呑みながら、疲労困憊したダンブルドアを連れて、もと来た道をしっかりと足を踏みしめて歩いて行った
「姿現し」で着いた先は、正しくホグワーツの天文台の塔だった
ハリーはホッとして、近くに座らせたダンブルドアに言った
「すぐ医務室に運びますから。マダム・ポンフリーをっ」
「いや、セブルスじゃ。セブルスを呼ぶのじゃ。起こして、わけを言うのじゃ。他の者には言うな」
息も絶え絶えに言ったダンブルドア
その瞬間、扉が開く物音がした
その瞬間、立ち上がったダンブルドア
ハリーは気が気じゃなく、もう心配でたまらなかった
「君は下に隠れておれ。黙って、誰にも見つからぬように。何があろうと、そこにおるのじゃ。従えるな?」
ハリーは表情を歪ませて、黙った
「信じよ、’’わし’’を信じるのじゃ」
薄いブルーの目が、ハリーを見据えている
胸が締め付けられそうで、不安で不安でたまらなかった
ハリーは歯を食いしばって、螺旋階段の扉へと急いだ
しかし、扉の鉄の輪に手が触れた途端、扉の内側から誰かが走ってくる足音が聞こえた
振り返ると、ダンブルドアが退却せよと身振りで示していた
ハリーは杖を構えながら後退りした
扉が勢いよく開き、誰かが飛び出してきて叫んだ
「『エクスペリアームス!(武器よ去れ!』」
ハリーはたちまち体が硬直して動かなくなり、まるで不安定な銅像のように倒れて、塔の防壁に支えられるのを感じた
動くことも、口をきくこともできない
どうしてこんなことになったのか、ハリーにはわからなかった
その時、月明かりでダンブルドアの杖が弧を描いて防壁の端を越えて飛んでいくのが見え、事態が飲み込めた
ダンブルドアが無言でハリーを動けなくしたのだ
その術をかける一瞬のせいで、ダンブルドアは自分を護るチャンスを失ったのだ
血の気の失せた顔で、月明かりを背にして立ちながらも、ダンブルドアに恐怖や苦悩の影すらない
自分の武器を奪った相手に目をやり、ただひと言こう言った
「こんばんは、Mrグレゴリー」
ハリーは耳を疑った
グレゴリーは、すばやく辺りに目を配り、ダンブルドアと二人きりかどうか確かめた
「他に誰かいるのか?」
「わしの方こそ聞きたい。君、一人の行動かね?」
「違う。援軍がある。今夜この学校に『死喰い人』がいる」
「ほう」
ダンブルドアは、まるで頑張って仕上げた宿題を見るような言い方をした
「君が、連中を引き入れる方法を見つけたのかね?」
「そうだ。校長の目と鼻の先なのに、気が付かなかったろう!」
鼻で笑うように言い放ったグレゴリー・ゴイル
「まあ、よい思いつきじゃーーしかし、その連中はどこにいるのかね?君の援軍とやらは、いないようだが?」
「そっちの護衛に出くわしたんだ。下で戦っている。追っつけやってくるだろう…俺が先に来た。ーーあいつじゃなければっ俺がっ」
「君には人は殺せぬ。君は、ケイティ・ベルとロナルド・ウィーズリーを危うく殺すところじゃった。この一年、君はわしを殺そうとしておったのう。失礼じゃが、Mrグレゴリー、全部中途半端な試みじゃったのう…あまりにも生半可で、正直、君にはそのような度胸はないと思うた。覚悟もじゃ」
ハリーは冷や冷やした
何故、挑発するようなことを言うのか…
ダンブルドアらしくない
そして案の定…
「なんだとっーー「退きなさい」」
ゴイルが叫びかけた時、音もなく久しく聞いてなかった、聞き覚えのある声が響いた
「……久しいの」
まるで、心底会いたかったとばかりの声色で言うダンブルドアの言葉に、ハリーは心臓を鷲掴まれた
「……お久しぶりです…」
ハリーから見える彼女は、全身を漆黒のローブ身を突っ込み、頭には、まるで喪服のような、黒く薄い肩ほどまでかかるベールを被っている
最後に見た時よりはやつれても、痩せてもいないが…ただ、その様子はあの時とは違い、ひたすらに孤独に見えた
しかし、次の瞬間、階段を踏み鳴らして駆け上がってくる音がして、黒いローブの四人が現れた
身動きできず、瞬きできない目を見開いて、恐怖に駆られながら、ハリーは五人の侵入者を見つめた
階下の戦いは死喰い人が勝利したらしい
ずんぐりした男が、奇妙に引き攣った薄ら笑いを浮かべながら、グググッと笑った
「ダンブルドアを追い詰めたぞ!」
男は、妹かと思われるずんぐりした小柄な女の方を振り向きながら言った
女は勢い込んでニヤニヤ笑っていた
「ダンブルドアには杖がない!一人だ!よくやったゴイル!よくやった!」
「こんばんは、アミカス。それにアレクトもお連れくださったようだ。ようおいでくだされた」
ダンブルドアは、まるで茶会に客を迎えるかのように、落ち着いて言った
女は怒ったように、小さく忍び笑いをした
「死の床で冗談を言えば助かると思っているのか?」
女が嘲った
「冗談とな?いや、いや、礼儀というものじゃ」
ダンブルドアが答えた
「殺せ」
ハリーの一番近くに立っていた、もつれた灰色の髪の、大柄で手足の長い男が、ダンブルドアに向かい合うように、立っている彼女の耳元で囁くように言った
動物のような口髭が生えている
死喰い人の黒いローブがきつすぎて居心地が悪そうだった
ハリーが聞いたこともない種類の、神経を逆撫でするような吠え声だ
泥と汗、それに間違いなく血の臭いの混じった強烈な悪臭がハリーの鼻をついた
汚らしい両手に長い黄ばんだ爪が伸びている
彼女は何も言わずに、立ったままで、ダンブルドアを見つめている
ベールを越しの表情は無表情だった
「フェンリールじゃな?」
ダンブルドアが聞いた
「その通りだ」
男が嗄れ声で言った
「会えてうれしいか、ダンブルドア?」
「いや、そうは言えぬのう……」
フェンリール・グレイバックは、尖った歯を見せてニヤリと笑った
血をたらたらと顎に滴らせ、グレイバックはゆっくりといやらしく唇を舐めた
「しかしダンブルドア、俺が子供好きだということを知っているだろうな」
「今では満月を待たずに襲っているということかな?異常なことだ。毎月一度では満足せぬほど、人肉が好きになったのか?」
「その通りだ。驚いたかね、え?ダンブルドア?怖いかね?」
「多少嫌悪感を覚えるのを隠すことはできまいのう」
「それに、たしかに驚いたのう。Mrグレゴリーが友人の住むこの学校に、よりによって君のような者を招待するとは…」
「俺じゃない」
ゴイルが嫌そうな顔で言った
グレイバックから目を背け、ちらりとでも見たくないという様子だった
「ダンブルドア、俺はホグワーツへの旅行を逃すようなことはしない。食い破る喉がたくさん待っているというのに……うまいぞ…うまいぞ…」
グレイバックは、ダンブルドアに向かってニタニタ笑いながら、黄色い爪で前歯の間をほじった
「お前をデザートにいただこうか、ダンブルドア」
「だめだ」
死喰い人の一人が鋭く言った
厚ぼったい野蛮な顔をした男だ
「我々は命令を受けている。この女がやらねばならない。さあ、ナギニ、急げ」
苛立ちを隠しもせずに、忌々しそうに言う男に、ずっとダンブルドアを見つめていた彼女が、目を逸らさずに言った
「その名を気安く呼ばないで頂戴。弁えなさい」
本当に彼女が言ったのかと疑いたくなるほどの冷たい声だった
「ちっ」
「命令がなければダンブルドアより先にお前を食ってやるところだ」
斜め後ろにいるグレイバックが、毅然と佇む彼女をニタニタと見ながら、舌舐めずりして言った
ハリーは鳥肌が立ちそうだった
すると
「口を閉じなさい。グレイバック」
またしても冷たい声が響き、彼女が命令した
グレイバックは鼻で嗤った
「…顔を見せてはくれぬのか?」
ダンブルドアは、穏やかな声色で彼女に話しかけた
すると、彼女は少し迷った様子で、ひと息ついてゆっくり腕を上げてベールをあげた
月明かりに照らされる彼女の表情は不健康なまでに白く、悲哀に満ちていた
「…今なら、後戻りできるぞ。ナギニ」
「早く殺せ」
厚ぼったい野蛮な男が言った
「…少し黙っていなさい。ーー先生、私に選択肢などないのです。彼を裏切るなんて、私にはもうできない」
振り向きもせずに冷たい声で言い放った彼女は、打って変わって柔らかい声色でダンブルドアに言った
「あのお方を気安く呼ぶとは、なんと無礼な!」
ずんぐりした彼女より小柄な女が叫んだ
「黙りなさい、という言葉が聞こえなかったのかしら?」
冷たい、感情のない声がいやに静かに響き、彼女はベールをとった顔で、女の方を振り向いて言った
すると、彼女の首元からシューシューと蛇の鳴き声が響いた
「っ!」
「命令は遂行する。いいわね」
「はいっ…」
女は彼女に逆らえなかった
ユラはダンブルドアに向き直ると、二人はしばし見つめ合った
そして、ゆっくりと口を開いて言った
「最後に何か、願いはありますか?」
穏やかな声で聞いた彼女
「願い、かの?」
ダンブルドアは顎を引き、興味深げに聞き返した
「ええ、…それくらいの礼は尽くしたい」
少し俯き、顔を上げて見つめて言った彼女に、先程までの冷たさはない
むしろ、切望するような様子…
ダンブルドアは、それにひと息吐き、諭すように言った
「ナギニよ。わしを殺しても君は救われぬ。だが、折角の美しい月夜じゃ。一度くらい、祝福を望んでもよかろ?」
ハリーは訳が分からなかった
言葉の意味がまるでわからない
「…抵抗、する気ですか?」
彼女は警戒したように聞いた
「抵抗しようにも、わしは杖を持たぬ」
ダンブルドアの返した答えに、彼女は黙った
「……」
しばし見極めるように、じっと見る彼女
「早く殺せ!」
「俺がやる」
厚ぼったい男とグレイバックがもう我慢ならないといった様子で後ろで叫んだ
ゴイルは、少したじろいだ様子で見ている
後ろにいる彼らに、彼女は黙って腕を上げて制した
彼らはグッと押し黙ったように動かなくなり、彼女はゆっくり歩き出した
「…あなはには死んでもらいます」
「ナギニ、考え直してはくれぬか?」
「…その願いは聞き届けられません。ですが、祝福でよければ送りましょう」
彼女はゆっくりとダンブルドアに近づいて、腕を伸ばせば触れる距離まで近づいた
黒いローブのスリットから、漆黒のドレスが覗き、彼女の胸元から覗く白い肌が月明かりに照らされる
ハリーは息を呑んだ
何か、何か、嫌な予感がした
「早く殺るんだよ!なにを躊躇っている!」
女が甲高い声で言った
ちょうどその時、屋上への扉が再びパッと開き、スネイプが杖を引っ提げて現れた
暗い目が素早く当たりを見回し、彼女がダンブルドアと向かい合い、怒り狂った狼男を含む三人の死喰い人、そしてゴイルへと、スネイプの目が走った
「スネイプ、この女にさっさっと殺せと言え!」
ずんぐりしたアミカスが、目と杖でダンブルドアをしっかりと捕らえたまま言った
「この女にはできそうもない、口先だけだ」
苛立しげにグレイバックが言った
その時、誰か他の声が、彼女の名をひっそり呼んだ
「ナギニ…」
その声は、今夜のさまざまな出来事の中でも、いちばんハリーを怯えさせた
はじめて、ダンブルドアが懇願していた
「十分苦しんできた。もうよいじゃろう?」
彼女の気を変えようと、ダンブルドアが懇願するように言った
スネイプは、無言で進み出て、荒々しくゴイルを押しのけた
三人の死喰い人は、ひと言も言わずに後ろに下がった
狼男でさえ、怯えたように見えた
「っ…ごめんなさい………」
泣きそうな様子で謝った彼女は、少し背伸びをするとダンブルドアの額に祝福のキスを送った
ダンブルドアは少し安心した表情で、気を抜いた
ハリーも、彼女はやっぱり味方だと思った
だが…その時…
「さようなら…『アバダ・ケダブラっ』」
至近距離で緑の閃光が彼女の杖先から迸り、狙い違わず、ダンブルドアの胸に吸い込まれた
ハリーの恐怖の叫びは声にならなかった
ハリーはダンブルドアが空中に飛ばされるのを見ているほかなかった
仰向けにゆっくりと、大きな軟らかい人形のように、ダンブルドアは屋上の防壁の向こう側に落ちて、姿が見えなくなった
「これで…終りね………」
全てがスローモーションのように見えた
屋上から、ダンブルドアが落ちてゆく姿を見下ろしてひと筋涙を流した彼女
ハリーは自分も空を飛んでいるような気がした
本当のことじゃない…
本当のことであるはずがない…
「ここから出るのだ。早く!」
スネイプが言った
スネイプは、ゴイルの襟首をつかみ、真っ先に扉から押し出した
そして、立ったまま動かない彼女の肩を軽く押し、促した
「行くぞ」
ゴイルに言った時と違い、荒々しい言い方ではなかった
ずんぐりした女は、高笑いしながら屋上から闇の印を放った
グレイバックと厚ぼったい男は扉に向かい、女もあとに続いた
三人は興奮に息を弾ませていた
そして、目を逸らすように落ちた先に背を向けて、ローブが風に靡くなか、スタスタと歩き出した彼女に続いて、スネイプもいなくなった
全員いなくなった時、ハリーはもう体を動かせることに気づいた
麻痺したまま防壁に寄りかかっているのは、魔法のせいではなく、恐怖とショックのせいだった
彼女が…彼女が殺した…
ダンブルドアを…
ーーー「ハリー、’’信じる’’心を忘れてはならぬ」ーーー
今では、もう何の意味も持たない…
ただの文字列のような乾いた言葉だけが、ハリーの頭の中で鳴り響いた
ーーー彼女は…自分が助かることを選んだんだ…ーーー
そんな張り裂けそうな事実だけが、ハリーの身体を燃えるように支配した瞬間だった…
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次回、『死の秘宝』…
とても長くなりましたが、ここまでご拝読下さった読者の方に心から感謝します
あと少しですが、楽しんでいただけるとうれしいです☘️
救われないのなら、もういっそ全てを投げ出す
ひとりの偉大な魔法使いを失ったハリーは、復讐のために火をつける