伊織怪異探偵事務所 — ようこそ、百鬼夜行の豊富市へ —

雅彩ラヰカ

第1話 いざ、事務所へ

 叔父貴の事務所というと、さながら裏社会のそれを想像されるが決してそうではない。お天道様の下を堂々と歩ける——というと、実は微妙に語弊があるのだが——、一応、カタギの仕事である。

 それはさておきそこは妖怪の巣窟で、伊織頼人は驚きの連続を味わうこととなった。


「叔父貴、蜘蛛いるんだけど」

「女郎蜘蛛だ。害はない。ほっとけ」


 昔の家には蜘蛛なんて当たり前にいたし、なんなら益虫としてありがたく思われていたほどである。しかし時あたかも平成二十七年現在を生きる身としては、いくら妖怪というものが世界にいるとはいえ、こういった古臭い考えはなかなかに理解できないものがあった。


「いぃー、気持ち悪い」

「悪口言うな馬鹿。食われるぞ」

「害あるじゃねえか! スプレーとっ——」


 壁に張り付いた女郎蜘蛛にそう言った途端、蜘蛛の前足がぐんと伸びてきた。槍のように鋭いそれが頼人のジャケットのフードを貫いて反対の壁に縫い付け、六十三キログラムの肉体を宙ぶらりんにする。

 蜘蛛はぐぐっと巨大化。八つの単眼を煌めかせ、牙をギチッと鳴らした。


「嫌だわあ。こんなのを守らないといけないの?」

「でかっ、喋った!」

「当たり前でしょう。女郎蜘蛛なんだから。妖怪だって喋るわよ」


 巨大な蜘蛛が、ファンタジー小説のような美女のアラクネになるわけではなく虫原型のままの顔を近づけてきた。


「あら、意外と可愛い顔」

「そっ、そういう特殊性癖はないです……」

「目覚めさせてあげようか?」

「助けて叔父貴! 死にたくない!」


 泣き顔一歩手前で助けを求めた甥に、叔父の伊織和彦はため息をついて、手を「しっしっ」と払う。


「やめろ蜘蛛。いらんことをするな」

「本名で呼んでくれなきゃやめないわ」

「ラック、やめろ。アトラック・ナチャ」


 ラック。アトラック・ナチャ。その名を知る者にとっては恐るべき存在であるとわかるが、むろんあの神話群の生物とは別者で、あくまでこの女郎蜘蛛の個体が自称しているだけに過ぎない。決して巣作りが終わった時に世界が終わることはないのだ。

 ただ、決してビッグマウスというわけではないことを和彦は知っている。だからラックに事務所の守りを託しているのだ。それに、彼女は本当に益虫で、可愛い甥っ子を引き取れたという幸運グッドラックをもたらした。


「仕方ないわね。でも君、ほんと可愛い。恋煩いがあったらお姉さんに相談なさい。アドバイスくらいならあげるわ」

「はあ……ありがとうございます」


 いい蜘蛛……なのだろうか。

 しかし、まさか蜘蛛に人生相談ができるようになる人間など滅多にいないだろうな、とちょっと驚いた。


「本当だったんだな、叔父貴が妖怪の事務所で働いてたって」


×


「それを俺に話してどうしろってんだ!」


 ガシャァンと音を立て、ガラスコップが砕け散った。


 今年で十六歳になる多感な少年にとって、両親が離婚するという話が如何にストレスか——いっそ幼い頃に己の預かり知らぬところで勝手に別れてくれた方が、まだマシだった。

 しかも頼人は自分の親権の押し付け合いという、輪をかけて残酷な夫婦喧嘩の場を、何度か見ていた。


 そのせいで彼は中学に上がってからひどく荒れた生活をし、とっかえひっかえ作っては別れていた彼女の家を転々とし、滅多に家に帰らなくなるほどである。


「戻りなさい頼人!」

「母さんの言う通りに——」

「うるせえっ! 喚くなよ! くそっ」


 壁を蹴り付けると、薄いそれはボコっと陥没した。母がヒステリックな怒鳴り声をあげる。


「荒れてんな、兄貴」


 そこにどこか達観したような声がした。堂々と安アパートのリビングに上がり込んできたのは背の高い、父の弟とは思えぬほどに筋肉のついた男。


「お、叔父貴……」

「二年ぶりか。久々に来てみりゃあなんだこれは。犬も食わねえようなことしやがって」


 叔父の伊織和彦は肩をすくめ、それから惨状を見まわし、すぐに察したように頷いた。


「頼人、荷物まとめろ。お前は俺が面倒見てやる」

「ほ、ほんとか?」

「ああ。俺の事務所で働け。ずっと探偵やりてえつってたろ。クソ兄貴、それでいいな」


 和彦と、父の和義の折り合いが悪いことは知っていた。和義は苦虫を噛み潰したような顔だが、厄介払いができるとばかりに「そうだな。そうしろ」と短く言う。


「どうせお前、ろくに荷物ねえんだろ。二十分くらい待ってやる。着替えとか詰めて降りてこい。あと、ラップトップもあった方がいいな」

「ああ!」


 一方、頼人は和彦には父や母以上に懐いていた。

 彼は昔からオカルト専門の雑誌記者で、そこからオカルト専門の探偵事務所を開業したほどだ。

 人間社会と融和が進んだとはいえ、一般にはまだ人里離れたところで暮らしている妖怪と働いている、だなんてことも昔話してくれた。

 未だ妖怪を見た事がない頼人は、本物の妖怪に会えるだけでもワクワクしていた。


「叔父貴!」


 本当に二十分程度で荷物をまとめた頼人は一階まで降りて、叔父のミニバンに乗り込んだ。これは仕事にも使っている、と聞いていた事がある。


「おう。大変だったろ。まあ俺といるのも大概だが……精神的には楽だ」

「ふうん……で、どこいくんだ?」

「お前はまだ知らんか。愛知だ。豊富とよとみ市。横浜ここよか静かで落ち着くとこだ。サービスエリアで適当に飯食うから、それまで寝てろ」


 和彦は昔から多くを語らないが、聞いたことにはしっかり答えてくれる。そういう無骨ながら律儀なところが好きだった。

 頼人はその後、興奮気味に話していたが、やがて疲れて眠ってしまった。

 明るく振る舞っていた一方、相当参っていたということは和彦も十分わかっていたが、眠りについてしばらくして泣き始めた時には——実兄夫婦に、静かな怒りを抱いた。


×


「お前の部屋だ。好きにしていい。女連れてきても、ツレと遊んでもいい。でも壁に穴あけんな。修理費が高い」

「わかった。ありがとう!」

「今日はさっさと寝ろ。おやすみ」


 それだけ言うと、和彦はドアを閉ざして出て行った。


 頼人はボストンバッグとリュックサックをソファに下ろし、安そうなパイプベッドに腰掛ける。

 その部屋は八畳ほどだが、少年の部屋にしては十分に広いものだった。少なくとも今まで五畳ほどの小さな部屋で過ごしていたので、なおさらそう感じる。

 一国一城の主人じゃないか、とホクホク顔でベッドに横たわる。じめっとしていて暑いのは、六月も後半となれば当然だ。

 エアコンは取り付けがまだ先で、しばらくは窓を開けて扇風機で凌げと言われている。

 窓はすでに空いており、頼人は扇風機を中でつけ、風を浴びた。


 両親といることの環境の悪さを和彦が嘆き出したのは頼人が十歳の頃だ。

 長距離トラックの運転手で家を空けがちで各地でギャンブルをする父と、その間に男漁りをする母という環境、お互いにそれを知りつつ黙認し、しかし頼人が小学校高学年になる頃はしょっちゅう大喧嘩——そりゃあ、叔父じゃなくても心配になる。


 かねてより叔父は「俺と怪異探偵をやらないか。助手が欲しい」と言っていた。

 最初は冗談だと思っていたが、あれはどうも本気だったらしい。


 甥っ子が心配なのと、あとは本気で人手が欲しいと、そう思っていたのだろう。

 和彦はもとより不器用で人付き合いを苦手とし、なかなか人手を集められないから妖怪を雇ったと言うほどである。

 人間で、そのうえ身内でもある頼人がいてくれれば色々と助かるのだろう。


 そんなことを考えているうちに、途中のチェーン店で食べた牛丼が消化される感覚と同時に眠気がやってきて、頼人はそのまま目を閉ざして眠りにつくのだった。

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