――なぜそうしたことが分かったんですか?
「被害届を出したという事実までは確認できても、その内容の真偽は、こうした事件にでもならない限り、確かめられません。つまり、個人情報を漏らせないので、警察がわざわざ『夫本人に確認したら被害の事実はなかった。だから、この被害届は無効です』とは公表・伝達しないのです。そうした”ズレ”に気がつかないまま、施設側は、愛実ちゃんが亡くなった後も、『お父さんは危険人物』だと信じ込み、対応していたのです。
また、裁判を聞くまでは、施設の職員が逮捕されたことが彼女の精神を不安定にさせてしまい、それが殺害に影響を与えたんじゃないか、と思っていましたが、そうではありませんでした。むしろ、その逆だった、と言った方がよいかもしれません」
――えっ! それはどういうことですか?
「裁判で、お母さんがつけていた日記が読み上げられたんです。その中に次のような言葉がありました。『自殺をしてしまったら、愛実はどうなるんだろう。あのDV夫に連れて行かれるのは嫌。だったら愛実も一緒にあの世に連れていくしかない』と」
――彼女が思い込みを強くした結果、愛実ちゃんを殺してしまった、ということがこの一文からうかがえます。
「この一文は、うちの施設職員が事件を起こす前に書かれていたものです。そして、うちの職員が事件を起こしたとき、お母さんは『ようやく(愛実と死ねる)チャンスが来た』と書いていたそうです。これらの文章から警察は『計画的犯行』と断じました。裁判で有罪判決が下されたのも、そのためです」
――事件後、父親が施設を訪れたことはあるのですか?
「事件後、当施設のことを知ったお父さんが電話をかけてきたことがありました。『できれば娘の写真だけでもいいので、遺品を何かもらえないでしょうか』と話されていました。しかし施設側はそのとき、『できるような状況になったらば、こちらから連絡いたします』と言って断ったんです。というのも、そのときはまだ、父親が愛実ちゃんに会うには、親権者であった母親の許可が必要だったからです」
――子供が亡くなった後もまだ親権者の方を見ていないといけないんですね。つらいです。それで、施設を父親が訪れたのはいつでしょうか?
「事件発生から約1年後です。裁判で有罪判決が出た後に、『遺品の引き取りができる状態になりましたが、いかがされますか?』とこちらからお電話いたしました。するとお父さんは『伺います』と即答され、後日、お父さんはジュースの段ボール箱を二箱持参して、施設に現れました。『これまで娘がお世話になりました。子供たちや職員のみなさん、飲んでください』と言って、くださいました。
そのときのお父さんの顔を見て、印象がまるきり違うと思いました。お母さんが口にしていた”DV夫でストーカー”という言葉からはほど遠い、穏やかで優しそうな人でした。しかも目や顔つきが愛実ちゃんにそっくり。
お父さんには施設での愛実ちゃんの暮らしぶりなどをお話しし、ランドセルとアルバムと絵や賞状、そして母子手帳などをまとめてお渡ししました。彼は涙を浮かべていました」
人生これからというときに、一番身近な人の手で人生の幕を下ろさざるを得なかった愛実ちゃんが、私には不憫に思えて仕方なかった。
また、7年ぶりに会えた娘の死を受け入れるしかなかった愛実ちゃ
痛はいかばかりのものだろうか。私は同じ父親として同情はできて
き何を思ったのかについては、想像することが難しかった。
母親は社会から孤立していたのか
話を伺った後、私は母親の住んでいた秋田市内のアパートに行き、周囲で聞き込みをした。しかし、彼女のことを知っている人は誰もいなかった。近所付き合いは皆無だったようだ。
秋田県が同年9月にまとめた本事件の『死亡事例検証報告書』には、「生活保護を受けていた母親は、祖父宅には帰りづらい状況があり、祖母やその他の親族とは交流すらなかった」ことが記されていた。
母親は親戚の誰にも頼っていなかった。家族だけではなく、周り近
ニケーションすら絶っていた。そうして自ら、孤独を選び、追い込
のだ。
一方、父親は離婚が成立して以来、愛実ちゃんに一度しか会っていなかった。娘が施設にいることも知らされず、蚊帳の外に置かれ続けた。