第四章 愛(その3)

「……馬鹿かよ」


 僕は彼女の顔で、彼女の声で、鏡の中にいる彼女に向けて呟くしかなかった。

 彼女が見せることはなかった不細工な表情をしている。

 それでも根本は彼女で、人形じみた美貌で、つまり、殺子だった。

 お兄ちゃんだけを愛していて、そのためならどんなことだってできる女だった。


 だから彼女は言葉通りに、のだ。


 急な欲求。僕は身を屈めて洗面台に嘔吐した。君の口をゲロ臭くしてごめんと謝るべきか?

 適当に口をゆすいで、それ以上鏡は見ないようにして、ふらつく脚で洗面所から出る。こんな華奢きゃしゃな身体でよく歩いたり走ったりできるものだ。


 物音がした気がするので例の萌え部屋のほうに行くと、部屋の前の廊下に、アイマスクとヘッドホンをつけられて手足を縛られた一人の若い男が芋虫のようになっていた。縛られた手の間に、手製の簡易的なリモコンらしきものを握っている。


「いる、か? なあ、言われた通りにやったよ? 15分数えてからボタンを押したって! 仕事はやったろ、解いてくれよ、なあ!」


 見覚えがある気がする。いつだかこのマンションの下で殺子に睨みつけられていた、隣人か下の階の奴か……とにかくそんな間柄のどうでもいい青年だった。

 そして少し離れていたところにはおかしなものがある。

 札束が二つ……正確には一つと、束ねられていない重なりが少々。それを文鎮にするように、何かが書かれた紙が敷かれていた。札束をどけて拾い上げる。


『この男はどうでもいいから気にしないで。引き金は他人の手でやらないと駄目なのかもと思って適当に用立てただけよ。自殺にはあなたの体質は反応しないって言ってたから』


 そうだな。よく覚えてたな。


『あなたがこれを読んでいる時点で役割は終えたから、処分してもいいわ。今さら一人増えても同じだから。ちなみに今夜の六人目よ』


 おい想定より増えてるぞ。この殺人鬼め。

 以降はどうでもいい補足説明が続いた。

 使った装置は元々家にあった『濡れ透け萌え』用のものを改造して簡易化したということ。箱に詰まっていたアレは脅したその男に加えて三人目の店主にも騙して集めさせていたこと。ずっと覆いをかけた箱に入れてて水を出す最終ボタンに連動して外れるようにしたので何匹いるかは知らないが手段は問わずできるだけたくさん集めるように指示したこと。ペットショップにも売ってるなんて世の中終わってる――


『ところで、お金が気になってるわね? これは私とお兄ちゃんの全財産よ。親戚が私たちの面倒を見るのに愛想がつきて、手切れ金みたいに渡してきたものよ。準備でいろいろ使ってしまったけど、どうせ使い切れないと思っていたからあげるわ』


 使い切れない。

 その言葉の真意は、全ての始まりを思い出せば理解できる。


 彼女は兄を殺し、その後に自分も死のうとした。視点を変えれば、兄は最後の妹萌えを、自分の命を捨ててまで味わおうとした。

 今まで自分たちを庇護ひごしていた親戚に見捨てられて、もう先がないと思ったから、か。


 兄妹は、僕が何度も思っていたのとはまた別の意味で終わっていたのだ。


 叔母さんのアトリエに発注した装置があそこに残っていたのも、未払いで引き取れなかったからと考えれば辻褄が合う。


『そろそろ本題。と言っても暫定お兄ちゃんだったあなたは、暫定お兄ちゃんの資格があった程度には頭の回転も悪くなかった気がするから、私がこうした理由をだいたいのところは理解しているでしょうね。だから私は、約束を果たしなさい、と言うだけよ』


 ああ。やっぱりそうだった。

 彼女にはただ一つの願いがあった。

 自らの兄を取り戻し、あるいは仇を討つという目的。


 一言で言えば、愛。


 彼女は最後まで、ただ彼女であっただけだ。

 その壊れきって歪みきった愛に、それでも全てを捧げて殉じただけだ。

 願いを叶えるためにどうしても必要な、唯一の取引約束をした相手に、自分の生命と身体すら与えてもいいのだと思うほどに。


「だからってさ。本当にやるかね、こんなこと……」


 自分では絶対に勝てない弱点がある。それを完備した敵がいる。

 ならば自分の『中身』をそれを無視できるものにすればいい――そうすれば敗北確定の孤独な残兵から、使えるかもしれない実働隊に早変わり、ということだ。その中身が助ける約束をした当人であるということを除けば理屈は通っている。


 理屈が通っているだけで実際にはとんでもないギャンブルだ。

 僕が〝隣死体験〟で都合よく身体に入ってくるかどうかわからない。寝ているかどうかわからないし、確実に〝隣死体験〟が起こるかわからない。自身が死ねるかどうかもわからない。かつて彼女の兄の身体に入った瞬間に殺子が絞殺の手を止めたように、僕が中に入った瞬間に死をキャンセルできるかわからない。生命の危機に救出ボタンを本当に押せないかどうかわからない。最後の生命反応として身体が動いて、僕がボタンを押せるかわからない。恐怖が精神ではなく殺子の身体に染みついたものなら手が止まる可能性だってあったのに。


 その他も考えれば考えるほど。

 これは分の悪い、頭のおかしな、不合理で不条理な作戦に思える。


 だが彼女はやった。

 それしか兄を、兄の無念を救う手段がなかったために。


 他の誰がやったとしても信じられはしなかっただろう。

 それでも彼女なら、そういう馬鹿げたこともあるかもな、と思ってしまう。


 殺人鬼なんて。

 頭がおかしくて、不合理で、不条理なものに決まっているのだから。


「おい……いるんだろ、誰か? なあ……」


 目隠しとヘッドホンの音で外界からは遮断されているのだろう、不安げに身を捩らせるだけの男は無視して、僕は洗面所に戻った。

 湿り気を帯びた山田殺子の顔が映っている。

 僕が浮かべるべき表情は決まっていた。


「仕方ないな。やるよ」


 彼女がそこにいるのだから、彼女と約束をした僕は、肩をすくめて僕らしく笑うしかない。

 不思議なことに鏡の中の彼女も同じ笑みを浮かべていたが、まあ、どうでもいいことだった。


 タオルを借りて髪や身体はなんとかしたが、ずぶ濡れの服はさすがに着替えるしかない。殺子の部屋を探して入る気にはなれなかったので、なんとなく例の萌え部屋に戻り、おそらくプレイ用のタンスを開けてみる。

 多種多様のコスプレ衣装が入っていた。

 その中でも普通の服と呼べるものは……やはり学生服系か。これでいいか、と手近なところにあったブレザーを引っ張り出したところで、二つのものが目に留まった。一つはブレザーの下にあった、今着ているのとまったく同じデザインのセーラー服。

 もう一つはタンスの上、カレンダーが示している今日の日付。

 殺子が言っていたことを思い出した。


「偶数日はセーラー服の日、か」


 夜になってはいるが、日付はまだ変わっていない。ならば仕方ないだろう。

 僕は苦笑いでブレザーを脇に置き、ルールにのっとった戦闘服をタンスから引っ張り出した。

 一応下着と言えなくもないものもあったので、少し悩んだがそちらも着替えることにする。彼女だって濡れたままは嫌だと言うだろう。


 ちなみに僕は僕なので、殺子の裸を見ても特に興奮はしなかった。


         †


 結局のところ、クライマックスはあっさりしたものだ。


 たとえば警察などを呼んだ場合、追い詰められた叔母は殺子の兄の身体、さらには僕の身体も害するかもしれないが、この山田殺子の身体で行けば『明確な弱点を知っている』がゆえに叔母には油断が生じるだろう。

 逆説的に、絶対に勝てない殺子が動くのがもっとも安全な救出方法なのかもしれなかった。

 やはり、頭がイカれているという一点を除けばこの策は正しい。


 以前と同じルートの窓から普通に倉庫に侵入した。

 装置は大部分が完成しているようだった。日焼けマシンや酸素カプセルのような円筒形のガラスで覆われた台が二つ、蛇腹じみたパイプの機構で繋げられている。

 台の上にあるのは人間の身体が二体。首がついているか離れているかという差異はあるが、どちらも身動き一つしないのは同じだ。その身体の周囲、円筒の縁側に見えるのは回転ノコギリか何かの刃と、その他描写するのも飽き飽きな、尖っていたり鋭かったりする人類の叡智。それをどう使うのか、そもそも必要なのかは僕には窺い知れない。


 仕上げの作業を進めていた叔母さんが、気配に気付いて振り返る。

 こちらの姿形を認めるやいなや、手の届くところに置いていた蜘蛛の瓶をすっと持ち上げた。ちょっと明かりが暗いからな、仕方がないな。

 僕は肩を竦めながら言った。


「僕だよ」


 叔母さんは目をぱちくりとさせたあと、


「ああ、ううん、ええ? 遥……だね。わかるよ。わかるけど、なんで? 勝手にどこか行ったら駄目じゃん。しかもその子の身体に」


 理解が早い。さすが愛。もしくはそれ以外の何か。


「ごめんごめん。だから戻ってきたんだ。別に逃げたりしないよ。……ただいま」

「――おかえり」


 叔母は陽だまりに溶けるようにふわりと笑った。実際は薄暗い倉庫の、殺人装置を照らし出す頼りない光源の中だったけれど、そういうふうに見えた。


「もうすぐ完成するよ。中に入って待ってて」

「そうだね。その前に、ぎゅってしていいかな」

「もー、なんだよ遥。大学合格したときのお祝い以来だね? もちろんいいけど」


 僕はごく普通に近寄って、叔母さんもごく普通に近寄って、他人同士で抱き合った。


 そうだ。

 勝つために、殺子が分の悪い賭けに全財産をベットしたのだから。

 勝たなければ嘘だ。

 それくらいの、裏切れない心意気は感じている。

 だから、すべきことは決まっていた。


 叔母さん。

 残念だけど、叔母さんは罪を犯しすぎたよ。

 誰かに裁かれないといけないんだろうね。でもごめん、僕は司法他人の手にそれを委ねられるほど人間ができていないし、それを待っていられる状況でもなさそうだし。

 あと、この身体も、同じ殺人鬼だから。

 ごめんね。やっちゃうよ。


 行為前、最後の吐息。

 ――すべきことは、決まっていた。


 想定外と言えるのは、前から少しだけ疑問に感じていたどうでもいい謎の一つがここで解けたことだ。そう言えば方法はどうしようかなと思いながら身じろぎしたときに唐突に理解して、なるほどやっぱり正解はセーラー服だったなと選択に運命を感じた。


 いつ見ても形が崩れていなかった、彼女の綺麗なセーラー服の襟には、引っ張れば取り出せるような形で鋼線ワイヤーが仕込まれていた。

 だからいつも虚空から取り出したように見えてたんだな。

 あれは萌え殺人鬼キャラであるが故のご都合主義なんかではなかったのだ。

 納得。


 そうして僕は叔母の首にそれを回した。

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