第四章 愛(その2)

 叔母さんは鼻歌など歌いながら、そこらの装置芸術品をスパナで分解したり、その部品をまた別の分解した装置にくっつけたりして作業している。


 手錠で椅子に拘束されている僕は、溜め息をつきながらそれを見ているしかなかった。


 数十分は経過したと思うが、川に流した殺子が帰ってくる様子は今のところない。蜘蛛ショックから立ち直る時間を要しているのかもしれなかったし、叔母さんの蜘蛛バリアに勝つための策を練っているところなのかもしれなかったし、あのまま岸に這い上がれず溺死した可能性も、まあないとは言えない。

 ただ、僕を助ける気などなく、全てを忘れることにしたという可能性は――


 ない、と思う。


 彼女の兄に対する妄執は本物だ。少なくともその身体である僕を放置はしないだろう。

 懸念は、僕の身体の死を彼女がどう解釈しているかだけだ。

 もし兄の魂が、僕本来の身体と共に永劫失われてしまったと考えているなら……先程のように何が何でも叔母さんに報いを与えようとするか、全てが失われてしまったことを実感して茫然自失になっているか、のどちらかだろう。

 前者なら僕にはまだチャンスがあり、後者なら諦めモードだ。


 チャンス? 何の?

 さあね。


 生首とは新鮮な首という意味だ。

 けれど今は血も流しつくし、丸っこいオブジェとして適当に台の上に置かれているだけ。それが僕。ああ駄目だ直視すると精神がおかしくなる。鏡に毎日語りかけるのとはレベルが違う。自我と自己の客観的破綻。僕は僕で僕なのだが僕はあそこで僕として死。僕が僕で僕として何をすべきかなんて発狂しないだけで手一杯だから止めてほしい。わかっていたらそもそもこんなふうに拘束されたりしていない。殺子を逃がすために勝手に身体が動いたのがそもそも奇跡的だ。

 まるで僕ではないみたいに。

 ああ、身体は僕のものではないんだから、それも当たり前――駄目だ、駄目だ、本当に壊れる。考えるな。僕は僕だ。今は、まだ。

 僕として会話をすることで、僕は僕を維持しようとする。


「あのさ。トイレってどうしたらいい?」

「したいの?」

「……今はいいけど、将来的な話」

「大丈夫。さっき率先してコレ作った」


 ドヤ顔で叔母さんはそこらに置いていた花瓶のようなものを掲げてみせた。

 取っ手がついており、前衛的な色合いで着色されており、外側には非対称の祭具じみた飾りがついており、けれど状況的にそれが溲瓶しびんであることは確実だった。世界一芸術的な溲瓶かもしれない。

 僕はまた肩を落とし、


「ちょっと恥ずかしいな」

「恥ずかしがることなんてないんじゃない。あんたがひどい風邪にかかって寝込んだときはゲロの処理だってしたんだし。下の世話だって同じでしょ」

「今までとは状況が違うよ」


 それを聞いて叔母はふと動きを止めた。


「……そうだねえ。考えてみれば、確かに状況は違うかも。遥は遥でも別の男の身体なんだし。家族的な世話とは別の意味になる? んー、じゃあ……」


 作業の手を止め、僕のほうに歩いてくる彼女。そしてタイトスカートの足を大きく開いて、椅子に座っている僕の腰によいしょと載ってきた。

 いたずらっぽく、笑っている。


「逆に、いっそのこと、キス以上のこともしちゃうか。父親の妹相手でも、血が繋がった身体じゃないなら何の問題もないでしょ。あまり経験はないけど、プロポーションには気をつけてるつもりだから見た目はまだいけると思うんだ。そんな歳が離れてるわけでもないし」


 叔母の腰が僕の腰の上で誘うように揺れる。前後に、左右に。間にある邪魔な布を摩擦熱で焼却せんとばかりに、身体の中心部に中心部を押しつけてくる。全身で抱きついてきたのでその豊満な胸も僕の顔を挟む形になった。


 客観的に見て、叔母は変人ではあるが美人だと思っていた。

 若く見えるし、自分で言う通りにスタイルもいいし、肌には張りがあり、唇は艶めかしく、いつもいい匂いがする。趣味嗜好はあれど、普通の人間なら性的対象としてはかなりの高位置においてしかるべき女性だろう。


 だが幸い、僕の(僕の?)ペニスは勃起の方法を知らなかった。助かった。


 最後に手でそこを一撫でして確認してから、ちぇー、とわざとらしい台詞を言って叔母さんは僕の腰から下りる。


「まあいいや。もう告白しちゃったんだから、遥が元の身体に戻ってからやっても同じだしね。感触は違うだろうけど、未来のお楽しみにしとこう」


 僕は大きく息を吐いた。安堵などできないが、とりあえずの平穏は得られたようだ。

 元の僕の干涸らびていくアレから意識を反らし続けたいのは同じだったので、彼女の発言の詳細、すなわちこの先に何が待っているのか聞いてみる。


「本当に、僕は元の身体に戻れるの? どういう理屈で?」

「ふふふ。聞きたい? あたしは遥に意地悪なんてしないよ、教えよう。まず、大前提として――『人は魂が本体』だってわかった。遥がそこにいることから明らかだね」

「そう……かもね」


 否定はしないスタイルでいく。

 どうせ彼女は、もう。


「魂はね、なんていうか、身体のどこかに固まってあるってわけじゃないと思うんだ。ぶっといラインを通ってるっていうか、詰まってるっていうか。うん、それは確実。だからあたしは別のヤツの魂が入ってるってわかったとき、首を切ったんだよ。そこに魂の通ってるラインがあるのは確実だって思ったからね。そしたら動かなくなったから、やっぱりあたしは正しかったってわけ」

「へえ」

「だったら、あとは繋ぎ直して、魂を遥の身体のほうに戻せばいいだけでしょ。任せといて、本体が魂なんだから、今心臓が止まってることなんてたいした問題じゃないさ。そんなのどうにでもなる」

「だといいね」


 いくら現実逃避のための会話とはいえ、実のなさに目眩めまいがしてきた。

 いや、せめて一つくらいは現実的な未来を確定させよう。彼女の素敵な理論から実際の結果を導き出そう。

 僕は彼女が取りかかっている僕復活装置の概形についてさらに聞いてみた。普段そういうことがなかったからか、彼女は妙に嬉しそうに手を動かしながら解説してくれた。


 強化ガラスなどを組み合わせて二つの瓶のような密閉空間を作り、それぞれ身体を入れる。姿勢はちゃんと固定したほうがいいので中は磔台のようにします、かっこいい。中を真空に近付けられるような仕組みも必要。ポンプをフル稼働させる予定。二つの身体があるそれぞれの空間同士は繋ぎ合わせておく。つまり魂だけが移動できるようにする。移動させる具体的な方法は、その装置内空間の状態を崩さないように今現在魂があるほうの人間の首を切断し、同時に元々の身体の首を繋げるというもの。タイミングが大事。そうすると逃げ場のない魂はそちらに自然と移動するはず――


「だいたいこんな感じ。わかった?」

「なるほど、わかった」


 うん。つまり、僕は死ぬんだろうね。


 僕を誰よりも愛してくれた、そしてそのせいで壊れてしまった叔母さんの手で。

 この会話で初めて建設的な情報が得られたぞ。よかったよかった。


「完成まで、どれくらい?」

「そうだねえ。わりと大がかりだし、今から徹夜でやっても、丸一日……明日の夜中くらいまでかかっちゃうかも」


 ああ。つまり、このままだと僕の余命はあと一日、ということか。

 今の僕が生きているかどうかも定かではないけど。僕が僕として、いや――


 咄嗟に目を閉じて、何も考えないようにした。思考だけでも溢れ出し始めるとか、これはよくない兆候だ。最近わかったけれど、うちは壊れやすい家系かもしれないのだから。

 そうしている僕を見たのか、叔母さんが優しい声で言うのが聞こえた。


「眠くなっちゃった? 寝てていいよ。できるだけ静かに作業するから」


 ではお言葉に甘えて。

 目を開ければ僕の死体、目を閉じても安心などできない。であれば、あとは夢の世界だけが救いだ。僕が唯一落ち着ける場所。

 今や運命の全ては他人に委ねられている。何事もなければ叔母さんの手で明日には終わるだろう。逆に殺子が何かをしてくれれば助かるかもしれない。

 ただし、殺子が何かをした結果として終わる可能性もなくはなかった。


 絶対に仇を取りたい相手がいる。でも絶対に勝てない蜘蛛を持っていて守られている。

 ではどうする?


 たとえば僕なら……建物の外から火をかけて全部丸焼きにする、という手があるな。

 焼死は勘弁してほしいなあと思いながら、僕は意識を夢の世界に飛ばした。

 あれは苦しいんだ。昔に一回体験したことがあるからよくわかってる。



 ……次に意識が浮上したとき、僕が感じたのは温度と息苦しさだった。

 嫌な予想が当たってしまったかと思ったが、違った。

 温度は身体の上に載っている誰かの人肌で、息苦しさはその人物が首にもたらしている圧力のため。


 そう、これは――〝隣死体験〟だ。


 目の前には。

 馬乗りになって誰かの首を絞めている、セーラー服の美少女殺人鬼の姿があった。


         †


 表情は真剣だった。

 自分が殺している相手の顔を、真剣に、瞬きもせず、覗き込んでいる。


「聞こえているものと思って話をするわ」


 彼女はおかしな体質の誰かが入っているかもしれないその被害者に向けて、静かにそんな言葉を発していた。


「ちなみにこれが今夜の三人目。でも手当たり次第の殺人鬼だとは思わないでほしいわね。理由があって保留していたもの、負債みたいなものをちょうどいいから回収しているだけ……と説明するのも三回目よ。こいつは、気付いていたかもしれないけれど、私の着替えを前からずっと勝手に盗撮していたから。お兄ちゃんの指示、少しNTRな楽しみのために泳がせていたけどもういいでしょうってことで」


 彼女のバックにある背景は……天井と、壁にあるのは、ああ、アダルトな映像作品のポスターだ。見覚えがある。ここはあのビデオショップだ。とすると、もしや彼女が殺しているのはあの店長か?

 意味深なやりとり。盗撮。試着室での溜め息。なるほど。


「――本題よ。わかっていると思うけれど、その身体はお兄ちゃんの身体。だからその身体は助け出すわ。何としても」


 それは嬉しいね。物理的なボディ中心の物言いな気がするのが不安ではあるが。


「そう……助けてあげる。だから」


 声の調子が変わった。

 至近距離にある彼女の目。そこに映っているのは、何だったろうか。

 喉の圧迫感が強まり、死につつある僕の目が霞んでいく。

 彼女にはきっと加減がわからない。お兄ちゃん関係以外は節穴だ。僕がそこにいるのかいないのか、判断はできないのだろう。ジャストタイミングで殺害を止めて僕の意識を抜き取ることなど不可能。だから彼女はこのまま僕を殺す。

 聞こえるのは、引きれたような、その声だけだ。


「あなたは――私を、助けて。これは取引よ」


 殺人行為が完了に近付いていくにつれ、声を泣きそうに震わせていくなんて、彼女以外の誰ができるというのだろう。そんな殺人鬼が他のどこにいるのだろう。


「お兄ちゃんの全てを失うわけにはいかない。絶対に、何があっても。どんなことをしてでも。それだけが今の私の目的。でも私は、あれを見ただけで、動けなくなるから。だからもう、頼れるのはあなたしかいないの。お願い。約束よ。お兄ちゃんを、どうか……」


 ――――。

 取引。それと約束ね。


 ああ。助けてくれるというなら、いいさ。

 僕だってこのまま終わりたくはない。

 生きてるのか死んでるのか僕が誰なのかもわからないけど、今まで何度も体験したような、今も体験しているような、こんな薄ら寂しい死の世界に行くのは可能な限り後回しにしたい。

 やれることがあるなら、やろうじゃないか。

 でも、何をどうすればいい?


「準備は、しておくから。だから――そのまま寝ていなさい。ずっと、でいいわ」


 わからないけど、了解。

 首の奥で本当に致命的な何かが砕けた。終わりだ。

 最後に聞こえたのは、吐息混じりのこんな声。


「……ふぅ。四人目も行っておこうかしら」


 待て待て、大丈夫だ。ちゃんと伝わったから。聞いてるから。無駄に犠牲者を増やすな。

 そんなことを伝える手段は当然のようになく。


 僕はそのまま彼女に殺されきった。


 意外にも、彼女に最後の一瞬まで与えられるのは初めてのことで、つまりはそこで覚えた感覚も初めてのものだった。どうかしていると、変態的だと自分でも思うが。


 不思議と、心地良かった。


 ……あーあ。僕も壊れてしまっているのかな。


         †


 目覚めた。


 かちかちと、積み木遊びでもしているかのような音。

 叔母の背中が鼻歌交じりに揺れている。これが家のソファーで、あそこがキッチンだったとしたら、それはとても幸福な光景だったのだろう。

 だがここは相変わらず雑然としたアトリエの中で、鼻孔を満たすのはシチューの匂いではなく血と死体と狂気の香りでしかなかった。


 状況に変化はないようだったので、僕は。

 叔母さんに、眠れないので睡眠薬が欲しい、と頼んだ。

 彼女は精神的二親等の口移しでにこやかに飲ませてくれた。

 それがあるいは致命的な意識の放棄で、終わりまで一直線に続くルートに入る行為なのかもしれないとはわかっていたが。


 結局のところ。

 頭のおかしな殺人鬼である山田殺子を、僕は最後まで信じることにしたのだ。


 


         †


 死が近い。苦しい、息ができない、あああ。死、死、死ぬ!


 悪夢のフィルターをかませた覚醒は、全感覚を無慈悲な巨人に握り潰されるような強制力の中。逆らえない分岐点は既に通り過ぎた。だから凝縮された死の匂いだけが僕の内側に充満している。外側は神のように無慈悲な液体に覆われている。


 現実か夢か判然としなかった。こんなときはいつもそうだが、いつも以上に。


 霞んだ視界は曖昧の限り。かろうじて、自分が椅子型の殺人装置に座らされていることと――周囲にも似たような装置が立ち並んでいる気配がわかる。

 不可避の運命が迫り来る中、断片的な理解。

 叔母の装置だ。間に合わなかった、眠りすぎた? あるいは叔母の新しい獲物に誰かが?


 どうあれ死だ。僕の中にも前にもシンプルな死だけがある。

 しようとしている。


 身体を完全に椅子に拘束された状態で、穴の開いた水槽に下から頭を突っ込まされているような形だ。無論そこには水が満ちている。首元に隙間はなく、漏れ出ている様子はない。つまり地球の重力が反転するか水の全てを飲み干さない限り二度と呼吸はできない。

 その透明な恵みの液体が僕を殺すことは確定している。あるいはこの身体の持ち主に対する殺人者であることは。泡。外界と隔絶された音。苦苦息が苦。溺死体の最後の一思考だけを引き受ける僕が苦しい。助けて。何でも! するから!


 そのとき、水とガラスの透過性、死にゆく僕の視覚が奇跡的な均衡を一時的に結び、何かを眼球に映した。


 右手の状況だ。肘掛けにあたる部分の先端部、右手の真下あたりにはまた透明のガラスかアクリルで作られた箱があった。その上面には一直線の細い切れ目のようなものがある。


 箱の中に見えるものは二つだ。正確には一種類の無数と一つだ。


 そこでは無数の黒い何かがひしめきうごめいていた。大小様々のものが。生き物らしきものが。動いていないものも多かったが、全体としては不気味に動いていた。

 その黒い蠢動の中に見え隠れしているものこそが重要だった。クイズ番組で見るような大きな赤いボタン。その中心部には『CLEAR』とある。ああ、これが解法か。押せば助かるのか。この苦しみがこの苦しみから逃れて息が。欲する。誰よりも身体が欲する。最初のニーソックス装置のときと同じだ。最後のシナプスの一動作だからこそ身体が勝手に動く。


 動いて、しまった。

 希望通りに。

 計算通りに。


 右腕は金具で拘束されていて、上には上がらないようになっていた。それでもこの身体の持ち主は必死に上げようとしたのだろう、肌と肉に自ら金具を押しつけた痛みがあった。持ち主はどうしても腕を上に持ち上げたかった。その箱から距離を離したかった。それが救いのボタンであっても。下方向にだけは右手が動かせるようになっていたとしても。その箱の上部は力を込めて押し込めば簡単に壊せて箱の中に手を突っ込めるもので、そうしようと思うだけでボタンを押せて装置から脱出できたのだとしても。


 ――が被害者だったから、その誰かの死は確定した。

 ――つまり。被害者は、もしかして――


 死にかけの脳が、その致命的な答えに至る一瞬前。

 僕は天板を押し壊しながらその箱に手を突っ込み、中で蠢いていた多量の蜘蛛の何匹かが潰れるのもいとわず、装置解除のボタンを押し込んでいた。


 生きるために。


         †


 水が滴る音がする。

 この身体を伝って、僕を殺しかけた水が床に落ちる音だ。


 僕は震えている。

 ボタンを押した瞬間に喉元、水槽の下部が解放され、水は全て流れ出た。

 同時に椅子の拘束も全て解けた。だから椅子から転がり落ちて床に手をつき、喘ぐように喉で空気を取り込みながら、その白くて綺麗な、どこか見覚えのある気がする手を愕然と見ている。


 永遠には見ていられなかった。

 力の入らない脚で立ち上がった。

 頼りなげに軽すぎる身体。濡れて貼りつくセーラー服とスカート。


 多量の殺人装置が立ち並ぶ部屋だった。倉庫の中ではなく、マンションの一室だった。


 僕は部屋を出て、記憶にある通りの廊下を歩き、記憶にある通りの洗面所に入る。

 鏡を見た。


 山田殺子が、僕だった。

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