第四章 愛(その1)

 予想とあまりに違う電気信号を唐突に、しかも強烈に流されると、それは脳だってバグりたくなるというものだ。

 だから僕は瞬間的に可笑おかしくなっていた。


 はは。あははは。


 叔母さんが捕らえられて人質にされているとか?

 脅迫されているとか?

 そんなんじゃなかった。全然なかった。

 凄い。わけがわからなさすぎて凄い。


 一仕事終えた叔母は、いつもそうしているように、愛煙する銘柄の煙草をポケットから取り出して火を点けた。美味そうに一服してから、僕に目を向けて言ってくる。


「あんた、山田殺介じゃない……よね。そっか、そういうことか。わかるよ」


 穏やかな、全てを理解しているような優しい目だった。

 くすりと微笑も浮かべて、


「遥だろ? おかえり」

「――あ――なん、で……」


 僕は僕ではないのに。

 声も顔も身体も、絶対に、自分のものではないというのに。

 どうしてわかる?


「わからないの?」


 言ったのは殺子だった。

 無表情に僕の横で佇み、じっと叔母さんのほうを見ている。


「おかしいわね、あなたはもう体験しているはずなのに。こうして対峙して確信したけれど、きっと私と同じよ。身体とか精神とか声とか、そういうものではないの。感覚でわかるの。つまりね、あの女があなたを判別できている理由は」


 理由は?


「愛よ」


 もう一度、笑い出したくなった。

 止めてくれ。感情が壊れる。もう壊れているのかもしれない。

 けれど。

 叔母さんはさらに笑みを深めて、ぺちぺちと冗談めかした拍手を見せた。


「そう。当たり。もう隠しとく必要もないだろ。そのとおり、愛なんだ。あたしは遥を愛してる。ずっと昔から。あたしの家に来たそのときから……違うな、ひょっとしたら、兄さんの子供として生まれたときからかも」

「あなたも、あなたのお兄ちゃんを愛していたのね」

「そうかもね」

「そこに関しては賞状をあげてもいいわ。子供まで愛せるかどうかはそのときになってみないとわからないけど。ただし自分の子供ならもう極楽ラブラブ溺愛コースなのは確実よ」

「あたしも兄さんの子供産みたかったけど、やっぱりそう言うわけにもいかなかったからさ。まあでも、他人の腹から生まれた子供でも一目見たらビビッて来ちゃった。育つたびに兄さんに似ていくし、気持ちを隠すのは大変だったよ」


 ああ。

 多分、目の前にいるこの人も、壊れていたのだ。

 僕が気付いていなかっただけで。

 ずっと昔から。


「そちらのプライベートに興味はないわ。その代わり、聞きたいことは色々あるのだけれど……さっきお兄ちゃんの名前を言ったわよね、あなた。知り合いだったの?」

「あたしの昔からのパトロンの一人だよ。最初はネットで知り合った。オーダーを受けて、欲しいけれど売ってないものを作って、代金をもらう」

「ふぅん。お兄ちゃんの玩具は、あなたが作ったのもあったのね」

だよ。受け手と送り手がそう言えば、どんなものだってそうなるのさ。用途は気付かないふりをしてたけど、まあ気付いたところで滅茶苦茶金払いがよかったからね。口止め量込みの話だってわかってたさ」


 そうだ。殺子はあのマンションの玩具部屋で、兄が「部品を組み立てていた」と言っていた。それは全てをゼロから作り上げたわけではないことを意味する。その部品を作っていた人間が……パイプを繋げたり刃物を組み込んだりした人間が他にいても、不思議ではなかった。


 そして、殺子たちの金銭事情。二人の異常性を隠し通せるほどの権力と金がその血筋にはあった。きっと二人にも好きにできる財産がそれなりにあった。趣味に払える代金があった――その代金で生計を立てている人間も、いた。


 独り身の芸術家が、立派な保護者となるには。

 愛した人間を受け入れて育てるには、金が必要だったのだろう。


 僕はずっと思っていたはずだ。叔母の生活、家計について。芸術品を買ってくれて、それでこちらの生活が成り立つなんて、世界には思ったより物好きがいるものだなと。

 あの家の、そして僕の生活費は――取引先が殺子の兄だけではなかったにしても、大部分はこの殺人装置を作る代金でまかなわれていたのかもしれない。


 足下が崩れていく感覚がある。無思考に甘受していた地面の確かさは、覗けば怖気がするような隧道トンネルの上にあるものだった。誰かの意志と意図で作られた、足下らしきものを成形するために必要な虚ろ。僕は穴の開いた砂山の上に揺れるお子様ランチの旗で、倒れる可能性の上に成り立つものでしかなかった。


「いいわ。あなたとお兄ちゃんの関係はわかった。こっちには唯一無二の妹としての余裕があるから、お兄ちゃんと話をした女をお兄ちゃんと話をした女というだけで殺すことなんて片手の指で数えられるくらいしかないわ。で……は、どうしてそうなっているの?」


 殺子はついと前方を指さしながら言った。

 それ。叔母さんの後ろの寝台にあるもの。かつて人間だったもの。蝋人形などの作り物ではない、新鮮な血肉の臭気を首の切断面からこの空間に広げている――


 僕。


 叔母さんは紫煙を吐き出しつつ、苦笑いで軽く肩を竦めるようにした。


「どうしてだったかなー。最初から順序立てて説明しないとちょっと難しいかもだ。すれ違いとか勘違いもあって恥ずかしいんだけど……知りたい?」

「――知りたい。今までにあったこと、全部」


 そう答えていたのは僕だった。眼前に見えている虚ろな目で口を半開きにした僕ではなく、それを見ている僕だった。

 本当にそうか? 定かではない。あちらの僕かもしれない。平衡感覚が揺らいで、僕は僕を見失っている。リモコンでどこかの誰かを動かしているような、この空間を俯瞰ふかんで見ているような、奇妙な感覚で生きていた。だから口が勝手に動いたのだ。

 叔母さんはにこりと笑みを深めた。


「遥が言うならいいよ。そうだね、遙が起きないのに気付いて、病院に行って、調べてもらっても原因不明で目覚めなくて……あたしはもうパニック。んで、さらに医者に言われたんだ。いや、あれは警察だったかな? 覚えてないけど不審そうな目は覚えてる。『関係があるかどうかわかりませんが、あの患者さんには、。何かご存じですか?』ってね」


 叔母が僕を病院に連れて行く、おそらく直前のタイミングにあったことを思い出す。

 そうだ。僕と殺子は家に忍び込んだ。そしてベッドで寝こけている僕を見かけて、目覚めさせようとして――殺子がワイヤーで僕の首を絞めたのだ。

 他人事のような顔で聞いている彼女犯人の視線の先、叔母さんはまた息を吐いた。


「そりゃあさあ。遥が誰かに狙われてる、って思うだろ? その誰かのせいで遥は目覚めなくなったんだ、って。二度とあたしに兄さんと同じような顔で笑ってくれなくなったんだ、って。そんなのあっていいことじゃない。許されることじゃない。駄目。駄目なの。――駄目だってば!」


 唐突に彼女は語調を荒げ、握った拳を自分の腰の横、自分がもたれかかっていた背後の台に叩きつけた。がしゃんと耳障りな音。そこに寝ていた誰かの生首が抗議するように揺動。

 叔母さんはそちらには目を向けないまま、今の行動で切れて血を流し始めた片手を開き、自分を落ち着かせるように顔を覆った。


「大好きな愛してる世界に一人しかいない遥。失ったら駄目。兄さん。生きていけない。目的だから。いい、話して笑って見ていられればそれでいい、セックスなんてできなくてもいい。たまに冗談で抱きついたりするだけで幸せ。だから、だからさ、あたしは、絶対に守ろうって決めたんだ。どんなことをしても。遥を狙う奴の手から、遥を守るって」


 肩で大きく息をして、ロボットのようなぎこちなさで顔に持っていく手を切り替えて、煙草を一吸い。天井を見上げて煙を吐く。


「だから、遥を病院から運んでここに隠したんだ。危なかったな……」

「あなたが運んでいたのね。探し回ってたというのは演技かしら?」

「そのときは混乱しててよく覚えてない部分もあるけど、まあ、先手必勝だと思って犯人を探し回りはしたよ。とりあえず病院に行ったかな」


 半狂乱になって人を探していた叔母さんの姿が病院で見られた、というのはそういうわけか。僕の身体ではなく、そもそもの原因を求めての半狂乱。


「でもすぐに気付いた。家にいた遥の首を絞めたんだから、多分知ってる奴だろうって。それでお見舞いに来た女二人が怪しいと思ったから捕まえて尋問することにした。てまりちゃんはお隣だったから楽だったけど、もう一人はバイト先に行って話して、夜中に連絡入れて呼び出したりしたね。あの二人……知ってた、絶対に何か知ってるって思った。様子おかしかったし、まともに喋れなかった!」


 そりゃあ、友達の親戚と思ってた人がいきなりわけのわからないことを言い出したらそうなるだろう。話が通じるわけがない。


「――だから、殺しちゃった」


 それは罪の告白なんかではなく、微笑みと共にある愛の言葉だった。


 今までの生活で、今日のごはんは○○だよとか、洗濯しといたよと言っていたのと同じ。愛する人間との関わりにおいて発生した出来事をただ報告しているだけ。自分が果たしたことを愛する人間に知ってもらって、認識してもらって。褒められる可能性もあって、感謝される可能性もあって、何もなくても関わっているというだけで嬉しい。

 そんな当然のことをやっただけだよという目で、叔母さんは僕を見ていた。


「可哀想な遥は今もまだ目が覚めないのに、遥と仲良くしてて合法的に付き合える可能性も持ってるこの女たちが生きてるなんて不公平だよねって。あたしは誰かを殺したことなんてなくて難しそうだったけど、ここには作ったはいいけど急に連絡が来なくなって納品できなくなった新しい作品があったから、試運転がてらそれを使ってみたんだよ」

「……お兄ちゃんはいろいろ忙しくなってたのよ。というかクライアントに無断でオーダーしたものを使うのはどうかしら。勝手に中古品を売ろうとするとか、常識を疑うわ。報連相、ちゃんとしなさい」

「芸術には新品とか中古とかいう概念はないの。あと、こっちからの連絡はしないってルールだったし。安全のためもあるけど、家族に勘違いされるのも嫌だって言ってたかな」

「さすがお兄ちゃんね。知らない女からお兄ちゃんに電話がかかってきたりしたら、可愛い妹は速攻で逆探知して成敗するコースに入るもの。電波に変換するとはいえ、声でお兄ちゃんの鼓膜を至近距離から愛撫するなんて、それってラップ越しにキスするのと距離感的には同じじゃない? 許せないわ」

「彼は、君にはあたしのことを言ってなかったんだね」

「お兄ちゃんの携帯とかを調べたらわかってたのかもしれないけど、できる妹はプライバシーを大事にするものよ。運がよかったわね」

「あたしは兄さんあての手紙とか全部読んでたけど。時代の違いかな」


 一息入れて、叔母は部屋の装置のほうに目を向けた。


「……成敗ね、いい言葉だ。二人を成敗したあと、実は病院もグルなんじゃないかって思った。元々あったっていう報告は嘘で、病院に来てから首を絞められた可能性もあったし。だから遥の一番近くにいた担当の看護師も尋問して殺した。……けど、最後に変なことがあって」


 わかっている。看護師である彼女の断末魔を勝手に使ってそれをやったのは、僕だ。


「クライアントの名前を言った」


 叔母は意味深な目で僕を見やり、頷く。


「そう。装置が彼のものだってわかったのかとか、知り合いだったのかとか、あたしとの繋がりも知ってたのかとか、いろいろ考えたんだけど――同時にそれどころじゃないことがまた起こったのさ。それで全部どうでもよくなったというか全部わかったというか」


 灰皿で煙草を揉み消す。


「その名前が聞こえたからか、たまたまそうなる時間だったのかは知らないけどさ。ちょっと経って、起きたんだよ」

「――え?」


 叔母さんは、僕たちがここに来て初めて、首をひねって背後の台の上を見た。

 そして、どこか投げやりな手つきで腕を伸ばして。


「起きたの。がさ」


 僕の生首を両手で抱えて、その虚ろな目を僕たちに向ける。


 どうしてか、僕には。

 叔母さんも同じ目をしているように見えた。


「で、第一声は何だったと思う? ――『おはよう、久しぶり。ところで妹はどこだい?』だってさ」


         †


 人形劇のように、僕の頭を軽く揺らしながら言っていた彼女は。

 そこで唐突に激昂した。


「ああ、あああああ! 思い出しただけでムカついてきた! あんな顔、あんな言い方! 大好きな遥の顔で、遥じゃない顔しやがって、ふざけんなっ! なに勝手に遥の中に入ってんだよぉっ!」


 僕の頭をボールのように足下に叩きつける。でもそれはボールではないので跳ね返らない。鈍い音を立ててゴロリと床を転がり、ペットボトルのキャップみたいに近くの機械の下に入っていきそうになった。慌てて叔母さんはそれを追って拾い上げ、


「ああいけない、でも遥の顔だ、兄さんの顔だ。大事にしないとね」


 ぽんぽんと髪を撫でて埃を落とす。


「それで、まあ――気付いたら包丁を喉にぶっ刺してたってわけ。少なくともそれで遥じゃない奴が遥の顔で喋ることはなくなったから、気持ち悪くはなくなったね。よかったよかった」


 叔母さんは、元から壊れていたのか。

 たとえそうだとしても、少なくとも日常生活では、僕はまったく気付かなかった。隠し通せていた。だから、壊れる寸前で踏み留まっていた、と言えるのかもしれない。

 でも、度重なる異常がとどめを刺した。

 ぎりぎりで踏みとどまっていた彼女を、完全なる非日常の側に誘ってしまった。

 その最後の一押しが、それだったに違いない。


 僕が僕ではなくなったという異常。


 そう――僕の死体側の事情は、それでわかった気がする。

 看護師のあとに僕は目覚めてしまったから、ちょうどダブルヘッダーを回避してしまったのだろう。僕は一番大事なシーンを体験できなかった。僕の身体の死を体験したのは、最後までそこに入っていた精神だった。相性か何かか、僕とは違って刺激があるまで眠り続けていた、僕と入れ替わりにその身体に紐付けられていた人格だった。


 つまり本当に、僕の身体には殺子の兄の精神が入っていて。

 その状態で、叔母はその生命体を殺した。


 ならば罪状はどうなるのだろう。彼女は誰を殺したのだろう。

 僕か? それとも――


 視界の端で影が稲妻となった。そうとしか表現できないような速度で、黒髪が、セーラー服が、はしった。


 言葉も表情も感情もなく、

 ただそういう法則の具現として、山田殺子は一つの死となる。


 道すがら装置の上に転がっていたきりを掴み取り、彼女はまったく勢いを殺さないまま叔母に飛びかかった。半ば背を向けていた叔母であったが、咄嗟にこちらも手近なところにあった鉄パイプを掴んで盾とする。ただ殺子の突進の勢いには抗しきれず、二人でもつれ合うように倒れた。


 殺子が馬乗りになっているような状態。

 鋭い錐が少しずつ叔母の眼球か脳か心臓かに接近していく。

 それは殺子の腕力が見かけによらないためでもあったが、叔母が鉄パイプを片手で持っているからでもあった。

 もう片方の手は、自分のポケットを探っていた。


「あんたのことは聞いているんだよ、妹ちゃん。彼がよく自慢していたからね」

「――――」

「それと、昨日電話があった。っていう忠告の電話。遥のことと関係があるのかはわからなかったけど、その声には心当たりがあったから……とりあえず信用はしたんだよ。少なくとも、その声の関係者に対する準備はしておいたほうがいいかなって。何があるかわからないからね」


 そうして彼女がポケットから取り出したのは。

 小さなガラス瓶に入った、蜘蛛だった。


「はい、プレゼント」


 殺子の反応は劇的。

 あのマンションの廊下であったことと同じだ。


「ひっ――い……いやぁぁぁぁああっ!?」


 それは嗜好などではなく、幼少期の原体験より染みついた呪いに等しいものだろう。

 彼女を彼女として構成する神経細胞が、既にそういうものとして規定されてしまっている。絶対に無視することのできないもの。たとえ無意識下でも、感情を全て失うような激昂状態でも――身体が勝手にそうなってしまうような。火を近付けられた身体が反射で跳ねるのと同じような。彼女という生物の内側に刻み込まれた、忌避すべき炎熱。


 だから彼女は錐を取り落とし、顔面を蒼白にして身体をよろめかせた。

 完全にマウント状態から逃れたわけではないにしろ、ある程度の自由を得た叔母は鉄パイプを握り直し、それを下から強引に殺子の頭目掛けて――


 気付けば、僕は殺子に体当たりしていた。


 なぜそうしたのかは自分でもわからない。身体が勝手に動いたとしか言えない。とにかく僕は鉄パイプを身体のどこかで受けながら、殺子を叔母の上から押し退けていた。スカートを広げて転がった殺子は背中を別の装置にぶつけて止まり、床を尻で擦るように離れようとして離れられず、怯えたような目で震えている。


 そのとき僕は足首に違和感を覚える。見ると、刑事ドラマで見るような手錠でいつのまにか左右の足首同士が結ばれていた。無論、それをやったのは身体の下にいる叔母さんだ。


「なんっ……」

「遥の身体じゃないけど、遥? 大丈夫、安心しなさい。あたしはね、あんたを助けてあげたいの。だから逃げないで」


 優しい顔で叔母が言う。背筋がぞくりとし、僕も転がるようにその上から離れた。殺子のほうへ。不自由な下半身でも、なんとか立ち上がるくらいならできたが――歩いたり走ったりは至難のわざだろう。

 鉄パイプを手に、叔母もゆっくりと立ち上がっていた。焦る様子は微塵みじんもない。


「僕を助けるって、どうやって?」

「大丈夫、わかってる。本当にわかってるから。ね? 任せて、遥。そのための装置を作らなくちゃいけないとは思うけど、集中してやればすぐ完成するから。締め切り間際の集中力、知ってるでしょ?」


 駄目だ。僕は理解していた。

 叔母さんは、もう、駄目だ。


 このままでは二人とも殺される。

 その未来が見えた。理由と理屈はどうあれ……いや、全てが彼女の中だけにある理由と理屈で、破綻した迷いのない理路整然さで、僕たちはその結論に導かれるだろう。それがわかってしまった。


 きっと僕は逃げられない。殺子は逃げられるような状態じゃない。

 でも、だったら、せめて。


 僕は横手にあった窓を開けた。身体を硬直させて震えているだけだった殺子を力任せに引っ張り上げ、その窓の向こうに押し出す。こんなときだけ年相応の少女らしい重みしか感じないなんて、どうなっているんだか。


 その重みは最後まで、僕の腕にすがりつくようにして残っていた。


 彼女の目が至近距離から僕を見ている。何かを訴えるように。あるいは疑問を問いかけるように。蜘蛛から離れればきっと彼女は元に戻るだろう。どれだけ立ち直るのに時間がかかるかはわからないが、きっとなんとかするだろう。

 その『なんとか』が、具体的に何を意味するのかはわからないが。

 だから僕は笑って言う。


「すぐにはどうにかならないかもしれない。だからまあ、適当に……もしよければ、あとで助けに来てくれると嬉しいな」


 反応はおかしい。

 奇妙で、ヘンテコで、意味がわからない。

 でも不快ではなかった。

 彼女は両手で掴んだ僕の腕を引き寄せるようにして顔を持ち上げ、僕に唇を合わせたのだ。

 落ち着くための定番の手法だな。大丈夫、僕は落ち着いているぞ。


 片手で殺子の身体を引き剥がし、強引に僕の腕を振りほどかせた。そして押す。

 窓の外の暗い空間に彼女の身体が落ちていく。

 刹那の裏拍、人一人ぶんを飲み込んだ水音が聞こえた。


「あーあ。邪魔しそうだから殺しておきたかったのに」

「残念だったね。ここに川が流れてるって覚えといてよかったよ」

「ま、別にいいよ。どうせあの子の弱点はわかってるんだし。いきなり克服できるようなトラウマでもない。これは適当に捕まえたやつだけど、ペットショップに行ったらもっと大きな奴とか仕入れられるでしょ。お守りがてら買っといてもいいかな」


 そうか。よく考えればそうだな。殺子だけ逃げたところであまり事態は好転しないのかも。でもまあ、仕方ないか。二人死ぬよりは。


 肩の後ろから叔母さんの手が伸びてきて、ゆっくりと窓を閉めて、鍵をかけた。

 そのあとも、手は引っ込められない。肩を抱くように巻いて、僕の胸をぽんぽんと叩いた。


「本当に遥だけど、遥の身体じゃないね。……でも大丈夫。復活させてあげる」

「……なんだって?」

「言ったでしょ。本当にわかってるんだってば。今こうなってるのは、遥……あんたの体質のせい。寝ているときに、殺される誰かの身体に精神が入っちゃうってやつ。だろ?」

「――! なん、で……?」

「十一年前の九月十日。一回だけ、あんた、あたしにそれを説明したことがあるんだよ。多分、それが最初に始まった時期だと思うけど」


 愕然とする。

 言った、だろうか? 記憶にない。だが言ったかもしれない。小学生のころのことだ。夢なのかそれ以外かもあやふやだったとき。冗談めかして、叔母さんに説明してみたことがあったかもしれない。そして成長するにつれ、こんな非現実的なことが信じられるわけがないと、説明することはなくなり、自分一人の中に隠すようになって――


「そんな。僕ですら忘れてたのに、ずっと……?」

「なんで覚えてないって思うのさ。忘れるわけないじゃん……っていうのは言いすぎか。覚えてたは覚えてたけど、遥が起きない状況と結びつけて考えられたのは、あいつが遥の口で勝手に喋り始めたときだから」


 叔母さんの吐息が耳にかかる。


「でも、あの子が言ってたのは正しいかもね。あんたの言葉、あんたの全部、私は忘れない。全部が大事なものだから、ずっと心に仕舞っておけて、いつだって取り出せる。そう、恥ずかしいけど、これはやっぱり――愛、なんだよ」

「……」

「ふふっ……あーあ、言っちゃったなあ。あたし、駄目な叔母さんだなあ。墓まで秘密にして持っていくつもりだったのに。こんなことになって、どさくさ紛れに。でもまー、しょうがないよね。だって愛してるんだもん」


 叔母さんの重みがさらに肩に加わる。それは僕の手にも追加で手錠を嵌めるためだった。


「遥。大丈夫、あたしが元の遥に戻してやる。意識が入れ替わったのなら、本当の遥はまだここにいるってことだもんね。ここでもう少し待ってて、大事な遥……ところで、さっきあの子がやったこと。ムカついたから、やり返していい? 問題ないよね? だってあんたは遥だけど遥じゃないし、ずっと、ずっと、ずっとずっと――あたしだって、やりたかったんだから」


 叔母さんの手が僕の顎を持って、横に向かせられて。

 僕は世界で一番身近にいた女性の舌の感触を知ることになった。

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