第三章 殺人装置(萌)(その3)
激しい動悸と共に目覚めた。
今、僕は何を見た? 見てしまったんだ?
理解していながら、その理解を拒否するように身体を暴れさせる。
つまりそれはだだっ子と原理的にはまったく同じだった。欲しいものが得られないことへの抗議。好ましくない結果が強要されることへの拒絶。
僕はまたベッドに縛りつけられていたが、たまたま殺子の拘束が甘かったのか、それとも皮膚が裂けるほどの暴れっぷりが奏功したか、腕の一本が自由になった。それを使ってなんとか全身を解放する。
その間にも、動悸は治まらない。
どういうことだ、本当に、まさか本当に?
心のどこかで、そんなわけがない、と思っていた。いくら殺子が言うことでも、どれだけ眼鏡の似合う委員長でも、誰かがそういう人間を殺したがっているのだとしても、この広い街の中、本当に鍵姫が狙われることなんてないだろうと。
それに、僕たちは見たではないか。僕たちは彼女の夜道を守った形になった。確かにセキュリティ万全なマンションに帰ったのを見た。夜歩きするような人間ではないのを僕は知っている。なのに外出したのか? あのマンションに押し入られたのか? 理解できない。筋が通らない。だから嘘なのかもしれない。見間違いの可能性? あるな。でも動悸が。
ベッドから下りて気付いたが、この萌え部屋に殺子の姿はなかった。珍しい。そして好都合なことに、机の上には彼女のスマホが置いてある。
手に取った。ロックは――かかっていない。
昔からの付き合いだ。友人の番号は覚えている。指が勝手に画面を押していた。
呼び出し音。出ない。
どれだけ待っても、繋がることは、ない。
軛鍵姫は、電話を取れる状態には、ない。
「…………」
より一層、動悸が激しくなった。
理解を拒んでいた、思い至らないようにしていた可能性も――心臓の強い拍動に押し流されるように、僕の内側から滑り出てしまった。だから指がまた勝手に動いて、別の番号を押した。
……そちらも、出ない。
最後に見たときニーソックスを穿いていた
いや。いやいや。二人とも、見知らぬ番号からいきなりの通話だ。出ないことも充分にある。そうだろ。何も不思議ではない。そうと決まったわけじゃない。
鍵姫の実家などはさすがにわからなかったが、てまりのほうは幼馴染であり、隣人だ。家の固定電話の番号だって覚えている。かけてみた。
数コールあって、彼女の母親が受話器を取った。
僕が僕ではないことを口を開く寸前に思い出し、
「あの……突然すみません。てまりさんの、大学の友達で……講義のことで緊急の連絡があるんですが、携帯のほうに繋がらなくて。家にいらっしゃいますか?」
それが、とてまりの母親――ひびきさんという――は少し口ごもるような様子を見せて。
「あの子、一昨日から帰ってきていないのよ。連絡がないから少し心配で。逆に聞きたいのだけど、あの子が行ってそうな場所とか、ご存じない?」
すみませんが心当たりはないです、と僕はきちんと発声できていたのかどうか。
気付けば通話が切れていた。
そう、なのか?
ニーソックス萌えなんて馬鹿げた考えに関係する機構で、一昨日殺されたのは。
最後に僕が中に入り、脚を切り落とされ、首をニーソックスで破壊されて、死んでしまったのは――
あれも、僕の顔見知り。
幼馴染の、彼女だったというのか?
止めてくれ。知らしめないでくれ。状況証拠を積み上げないでくれ。
僕はただ、ニーソックスという単語で病院の見舞いでの姿を想起して、腕の似たような位置に黒子があったなと思って、似たような肉付きだなと感じて、そのどれもを偶然の一致だろうと結論付けていただけなのに。
こんな大勢の人間がいる世界なのだから。
顔見知りが殺される瞬間を体験することなんかありえないと、そう思っていたのに。
どうして? なぜそんなことが起こる?
動悸が激しすぎて吐き気まで起こってきた。心臓の荒いリズムが内臓を身体の芯から責め立てている。見て見ぬふりをしていた僕を、覆い隠せない内側から殴打するように。
ニーソックスは確かに穿いていた。でも彼女が特別だったわけではあるまい。さすがに彼女がこの街で最も似合っていたと断言はできまい。鍵姫だって言ってしまえば同じだ。
ならば、他に理由があったのかもしれなくて。
それは――
二人で見舞いに来ていたときのことを思い出した。あのとき不機嫌だった人間がいたのを思い出した。鍵姫のバイト帰りを尾行したときも。不機嫌そうに見えた殺人鬼がいた。
ぐるぐる頭が回る。
僕の周囲の人間が二人。だったら――僕の周囲に、理由がある。
それは合理的な答えだ。
気付けば僕は立ち上がり、部屋を出ている。耳を澄ますまでもなく、廊下に面したドアの一つから物音がした。迷うことなく開ける。
初めて入る部屋の中を見た瞬間、
洗面所に行ったとき、微かに届いた臭いは。きっと血の臭いか、血とか肉を処理する薬品の臭いか、それらが入り混じったものだ。
同じ臭いが、その部屋の中にも篭もっていた。
窓のない、全面が音楽室のような防音壁で覆われた八畳ほどの部屋。
そこには、僕がここ数日身をもって体験したのと同じ雰囲気の、楽しげな一人用のマシーンがひしめくように立ち並んでいて。
それを、セーラー服の殺人鬼が鼻歌を奏でながら拭き掃除していたのだった。
†
気付けば僕は殺子の身体を壁に押しつけていた。
先手必勝なんて考えたわけじゃない。技術はどうあれ体格なら勝るからなんて理屈もない。
ただ身体が勝手に動いただけだ。
相手の喉の下に腕が入って気道を圧迫。体重で脱出の動きを許さない。
「おい、ここは何なんだ! お前か、いや、お前らなのか!?」
「落ち着き……なさい……」
落ち着けるか。
至近距離にある黒い瞳。殺人鬼のくせに、
「本当は連絡を取り合ってたのか? それで、それで――僕の回りにいる人間を、狙った。そうじゃなきゃ説明できない。僕を何かに利用する気か? 何が狙いだ、なあ!」
「落ち着かせる、必要が……。仕方ない、わね……」
殺子の腕が動く。
体重と体勢の関係で、きっと僕を押し
何故か?
ただでさえ近かった二人の顔をさらに近付けて。
自分の唇を、眼前にいる兄だか他人だかわからない奴の唇と合わせるためだ。
「っ……!」
彼女の温度。舌。粘膜。
まったく予想していなかった僕の頭から、一瞬、全てが吹き飛ぶ。
そして再起動後、最初に浮かび上がってきた感覚は、自分でも信じられないものだった。
愛だ。
彼女のその舌から感じる優しさは、慈しみは、献身は、許容は――
最も簡単な言葉にするのであれば、ただ、愛でしかありえなかった。
そこには絶対的な愛がある。肉体的には同じ遺伝子を持っているかもしれないのに。精神的にはどこの誰かもわからない数日の付き合いの相手かもしれないのに。
すなわち……彼女には、
それを脳髄の奥で直接的に理解してしまって。
そっと両手で腕を押し退けられるまで、力が抜けていたことに気付かなかった。
「言った通り、特効薬よ。やっぱり効くわね。……とにかく落ち着いて。周りを見て。あなたの見た装置は、ここにはないでしょう」
促されるように、呆けた心持ちで視線を巡らせた。サイクルマシンのようなもの。ゲーセンの大型筐体のようなもの。箱のようなもの。それらと組み合わされ、計算をもって配置された、棘、刃、突起、薬品、ガラス、鋼、コイル――
殺人装置の数々が所狭しと置かれた部屋だ。僕が〝隣死体験〟で見たのとまったく同じ雰囲気を持った部屋だ。
でもそれは、雰囲気がそっくりだというだけで。
あの場所では……ないのか。
ここにニーソックス絞殺器はない。後頭部ドリル式灼熱眼鏡押し当て器はない。どれだけ綺麗に掃除したところで、僕が体験した二つの新鮮な事件の残り香はあるはずだ。それがない。特に眼鏡はつい先程の話だ、片付けたり移動したりできるはずがない。
「ここじゃない……のか」
「落ち着いたわね。別に隠していたつもりはないし、最初から見せればよかったわ。私はお兄ちゃんの趣味を知っていたから当たり前だと思ってたけど、あなたはそうじゃないものね」
軽く喉をさすりながら、殺子が再び顔を近付けてきた。
粘膜の温もり、感触、匂い、生々しい生命力が、条件反射のように口腔内に湧き上がってくる。が、
「むしろあなたが勘違いするほど雰囲気が似ていたということは、そうね、あなたの見たものとここにあるものが同じである証明……つまり、同じ人間がやっている、という説明が強固になったということでしょう。喜ばしいことだわ。それはそれとしておしおきよ」
次にされたのは関節技だった。
殺子が身体ごと身を捻り、関節を決められた僕はなすすべなく床に倒れる。肘を折り曲げられ、背中に乗られた。腕が折れそうだ。持ったままだったスマホも取り返される。
頭の上から、体温など微塵も感じさせない冷たい声音が届く。
あれは口の中だけに生まれた幻覚なのだというように。そこでしか生存を許されない嫌気性感覚であるかのように。
全てが僕の錯覚でしかなかった可能性は、勿論、ある。
「また体験をしたのね? 何を見たのか教えなさい」
身動きが取れない体勢のまま、僕は先程の〝臨死体験〟の内容について彼女に伝えた。拘束されていた器具。殺された方法。そして最後に見えた、被害者の顔――
「眼鏡っ娘として一番重要なこと。簡単ね。『何があろうとも眼鏡を外してはならない』とお兄ちゃんはよく言っていたわ。外して綺麗になる展開なんてもってのほか。可能なら寝るときもお風呂のときも外すべきではない、と。だったら、そうね……きっと前から迫ってきていたという熱い眼鏡型プレート、そちらに逆に顔を押しつけて、ぐいっと押し込んだりすると停止スイッチが働いたんじゃないかと思うわ。顔は骨まで焼けるかもしれないけれど後ろの杭か何かで死ぬよりはマシでしょう」
……そんな答えなんか、どうでもいい。
どうあれ救えなかった。彼女を。
「相手が、
「最初から狙われる可能性が高いという話だったでしょう」
「だからって、本気でそうなるなんて思うわけない……! まともな人間のまともな論理ならそうはならない。それに、あいつだけじゃなくて。ニーソックスも、多分、あれは……ああ、くそ、てまりだ。隣の家の幼馴染。二人だ、二人もだ、僕の友達が! 二人!」
何を興奮しているのだろう、とでも言いたげに、僕の背中で首を傾げる気配。
お互い実力行使に出た後だ、もはや気を遣う必要はあるまい。
「ただの女子大生の二人を結びつけてるのは、僕っていう存在だけだ。だから偶然とは考えられない。あの二人が直近で一緒にいたのは、きっと僕の病室だ。つまり君も見た。不機嫌そうになってた。だから……君と兄貴が協力して二人を殺した可能性だってあると思った。連絡がないなんて嘘で、もう隠れて接触していて、僕を何かに利用してる、みたいな」
「利用って、たとえばどんな?」
「自分じゃない身体で殺しをすることで、捜査から逃れられる……とか」
「くだらないわね。そんな小さなことにこだわるようなお兄ちゃんじゃないわ」
心底呆れたような溜め息をついて、殺子は続けた。
「いい? 何度も言うけれど、お兄ちゃんからの連絡はないわ。それがない理由は私にもわからない。一番欲しがってるのは私よ。でも今回のことで、あなたが見ている殺人をやってるのがお兄ちゃんだっていうのは確実になったわね。嬉しいわ」
「別の場所にもこんな装置があるのか」
「私はよくは知らないけれど、あるでしょうね。別の保管場所があったとしても驚かない。……不思議? 私だって、お兄ちゃんの行動を四六時中監視して束縛とかはしていなかったわ。そういうのってウザいし、ウザがられたら嫌だし、会えない時間が愛を育むっていうでしょう?」
だから僕が見た二つの器具についても心当たりはないという。
いつ作られたのか、どこに置かれているのか。
二つが同じ場所にあるか、それぞれ違う場所にあるかも。
「私はこういうのに興味はなかったから、いつの間にか増えてるな、ってこの部屋に来て初めて気付いたりするぐらいよ。褒められたいから今みたいにお手入れしたり、たまにお兄ちゃんが部品を組み立てたりするのを横で見てたときは真剣で楽しそうなお兄ちゃんの顔に興奮したりはしてたけど」
「つまり……本当に、僕が見た装置のある場所は知らないんだな」
「知ってればとっくに会いに行ってる」
くそ。信じていいのか、こいつを。
僕は何をすべきなんだ。自分の身体もなく、友人二人の死を誰よりも間近で見ることしかできなかった、無力な僕は。
確定しているのは、あの殺人装置がどこかにあり、それで人を殺している殺人鬼がいるということだけ。一番のヒントはやはり『場所』だ。あの装置があり、人を殺しても周囲に騒がれず、安全に処理できるような『場所』。知りたい。それがわかれば打てる手も増える。
そうだ――僕こそが、そこに辿り着ける手段を持っている。
殺された誰かの末期の一瞬、その感覚を間借りする僕ならば。
場所の手がかりを得られるかもしれない。
次こそはその機会を逃さない。本気だ。死に怯えるだけでなく、苦痛に悶えるだけでなく、本気で、本気で――
でもそれは次の殺人を期待するということに他ならない。次は誰だ?
そこではっと気付いた。
ああ。少なくとも僕の考えでは、あの二人は『僕の周りの人間』であることが何かのキーとなっている。萌えという趣味も理由なのかもしれないが、それだけであの二人が選ばれたとは考えにくい。無数の選択肢があった中、わざわざあの二人を選んだのには僕に近かったという理由があったと考える。ならば……次に狙われる可能性があるのは……?
僕は身を
「頼みがあるんだけど。電話を貸してほしい」
「嫌よ。というか勝手に使ったでしょう? 信じられないわ。きっと中の写真データも見たのね、いやらしい。私とお兄ちゃんの愛の記録――」
「そんなの見てない。いいから使わせてくれ……いや、君が持ったままでもいい。番号を教えるから、それを押して僕の横にスマホを置いてくれ。それだけでいい」
「どこにかける気?」
「……叔母さんだよ」
誰よりも僕に近い間柄の人間。誰よりも僕の身体に近かった人間。
病室にいたあの二人が襲われたのならば、同じ病室にいた叔母さんだって狙われないという保証はない。
「特にお兄ちゃんが萌えるような人間には見えなかったから大丈夫だと思うけど」
僕は意識的に深呼吸して、様々な感情を飲み込む。
「万が一ってことがあるだろ。いや、狙われないんなら、逆に忠告してもお兄ちゃんの邪魔にはならないよな。頼む、家を出ないように忠告するだけだ」
少しの間があって、
「まあいいわ。でも下手なことは喋らないで」
殺人鬼の気紛れか、これ以上暴れられても面倒だという計算か、あるいは僕には思いもよらない計略の一部か。とにかく殺子は僕が言う通りの数字をタップし、スマホを僕の顔の横に立てた。僕は彼女に腕を極められて床を舐めるような体勢のまま、祈るような心持ちで呼び出し音を聞く。
そして。
『……もしもし?』
いた。確かに叔母さんの声だ。少し
安堵が溢れる――生きている。いや、当然だ、当然なのだが。この人にまで何かあってたまるか。
僕は僕の声ではない。事情を説明するわけにもいかない。少し考えて、
「あなたは狙われている可能性があります。外を出歩かないで、誰かと一緒に行動するようにしてください」
『どういうことですか? あなたは誰?』
殺子の指が動いて通話を切った。思わず文句を言ってしまう。
「早くないか?」
「あら。指が勝手に動いたわ。暫定お兄ちゃんが私じゃない他の女を心配していると思ったら、つい」
まあいい。最低限の忠告はできたと思うしかない。
あとはこちらの話だ。頭のイカれた殺人鬼のお兄ちゃんを見つけて、僕の身体を取り返す。同じく頭のイカれた殺人鬼の妹の動向に注意して、あるいはそれを出し抜いて。
難しいミッションだが、やるしか――
「さて。お願いを聞いてあげたことだし、これからまたきちんと働いてもらわないとね。あなたにはあなたの役目、やるべきことがあるのだから」
「……それは?」
「寝て」
首筋にちくりとした痛みが走ったのは、その言葉と同時だった。
ああ、僕の現在地は殺人装置ひしめく部屋の床だ。彼女の現在地はその背中の上だ。彼女の手の届く範囲に、お遊び用の注射器の一本ぐらいあってもおかしくはなかったのだろう。
その役割からすれば当然に、何かの薬剤が体内に注入されたらしい。
一気に気分が悪くなってきた。世界の明度が失われていく。吐き気。不快感。
「あなたの叔母が狙われるとは私は思わないけれど、別の萌えっ子が狙われるとは思うわ。だからヒントを見逃さないで帰ってきなさい。例の合言葉を言うのも忘れずに。何時間か経ったら起こして、成果を聞いて、駄目だったらまた寝かせるわ」
おい。それは、基本的には一日中寝かせておくつもりということではないのか。結果を聞くとき以外はずっと。リアルタイムでしか発動しない〝臨死体験〟を見逃すことは少なくなるのかもしれないが、その代わり、
「一日中、薬で……やめろ、死ぬ……」
しかし殺子の返答は平然としたものだった。
「大丈夫よ。殺人鬼ならその程度のスキルは持ってて当然。こういう装置にセットするときだって薬は必要だったりするもの。ああ、他の世話も気にしないで。おむつもカテーテルもあるし、お兄ちゃんのものの扱いなら手慣れているから」
大丈夫じゃない要素しかない。
考え直すよう必死に言おうとしたが、
僕の顔を上から覗き込んだ殺子は、にっこりと笑って。
もう一本、追加の注射を首に打ち込んできた。
乱暴で危険な、頭のネジの外れた殺人鬼でもなければ取らない手段。
だけどそれが、結局のところ、唯一の道筋であるのは確かで。
その次の〝臨死体験〟で、僕は答えを見つけたのだ。
それは考えうる限り最悪の答えだった。
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