第三章 殺人装置(萌)(その2)

 そのカフェは道に面した部分がガラス張りだったので、外からでも様子がよく窺えた。制服とエプロン姿に身を包んだ鍵姫かぎひめは、生真面目に、具体的に言えば客に向ける笑顔すらも「営業スマイルですが何か?」と伝わるような生真面目さでバイトに励んでいる。


 道路を挟んだ向かいで缶ジュースを傾けながら、僕たちは目立たないように彼女の様子を観察していた。

 缶一本ぶんの無言を挟み、律儀にゴミ箱に空き缶を入れにいき、そして戻ってきた殺子が唐突に言う。


「そう言えば、あれ、委員長って話だったわよね。大罪人だわ」

「何でだよ。昔のことだぞ。高校生時代」


 殺子は猛禽類のように目を細め、


「聞いたときはスルーしてたけど、組み合わせを考えればそれは絶望的な悪。眼鏡っ娘で委員長なんてお兄ちゃんの好みズバリよ。より可能性が高まったわ」

「委員長なんていっぱいいるだろ」

「条件を狭めていけばいくほど限定的になるに決まっているでしょう。この市内において『委員長属性』かつ『眼鏡が似合う』存在のうち、一番見目がいい人間は彼女だと思わない?」

「まあ、そう言われれば……そうかもしれないけど」


 長い付き合いだし、そういう目で見たことはなかったが、客観的には鍵姫は美人の部類に入るだろう。クールビューティというか、大人びた系の。

 だからと言って、それだけで誰かが――すなわち暫定的には僕の身体を動かしている彼女の兄が、殺す相手として選ぶと確信を持てるのだろうか? そもそもこの市内の中で彼女の存在に気付くのだろうか? そんな当然の疑問に対する殺子の答えは「あの店主だって発見してたのよ。あれ以上の萌えセンサーを持つお兄ちゃんが気付かないなんてありえないわ」だったので、僕はそれ以上の反論を諦めた。

 結局のところ、最も大事な彼女の兄の行動原理について把握しているのは殺子だけだから、最終的には言うがままになるしかない。

 にしても、そんな相手が僕の知り合いなんて、どういう偶然の――


 ザザッ、とまた頭に不快なノイズのようなものが走った。身体の内側から思考を止めるような。考えるなと意識がストップをかけているような。


 きっと僕は疲れている。

 無意味に目頭を押さえて揉んでいたそのとき、不意に殺子が僕の袖を引っ張った。


「あ。来たわよ」


 揉んでいた目頭が爆裂したように目が覚める。


「僕か!?」

「ううん。あなたの叔母、だったかしら?」


 求めていたものとは違ったが、それも見過ごせない客ではある。近くに停まった車から下りてきたのは、確かに叔母さんだ。ああ、この距離から見てわかるほどに、ひどい。

 憔悴しょうすいしている。

 目元にはクマ、髪は乱れ、化粧もおろそか。クライアントに作品を渡す期日間近の修羅場にはそうなっていることもあったが、今はさらにそこに病的な疲労感を加えた感じだ。


 カフェに入って、目当ては元々鍵姫だったのだろう、カウンターにいた彼女に何かを話しかける。それに驚き困惑した表情を浮かべた鍵姫が首を横に振り、叔母さんはやつれたような愛想笑いで小さく頷く。それから何か紙のようなものを渡したように見えた。スマホを軽く見せながらだったから、きっと自分の住所や連絡先だ。

 それからも二言三言何かを話し、最初に頼んでいたらしいテイクアウトのコーヒーを受け取り、店を出て、車に戻って――

 ダッシュボードに突っ伏して、しばらく彼女は動かなかった。

 肩が震えているようにも思えた。


 しばらく経ち、ティッシュかハンカチで顔を拭うような動作が見えて、それから車はゆっくりと走り去る。

 多分、目的は僕たちと同じ。

 行方の知れない誰かの姿を、追い求めているのだろう。


「……」


 ひどく申し訳ない気持ちになった。彼女にあんな顔をさせていること。心配をかけていること。それこそが大罪人であるような、そんな鬱々とした気分。許されるなら、今から車を追いかけて一から十まで説明したかった。


「お兄ちゃんが姿を見せていないか、接触していないか聞きにいって……今後の協力も求めた、みたいな感じかしらね」

「多分ね。見舞いのときに世間話でもして、ここでバイトしてるって聞いてたんだと思う。わらにもすがる、って感じなのかな」

「お兄ちゃんの身体で暗い声を出さないでくれる?」

「……出してないつもりだけど」

「つもりじゃ駄目よ。きちんと調整しなさい。無理なら手伝ってあげてもいいわ」

「どうせ妹エキスを摂取させて元気にする系のムーブだろ。遠慮しておくよ……おほん、ほら、元気だよ僕は。引き続き元気に見張りを続けよう」


 あら、というように殺子は目を丸くしていた。


「よくわかったわね? その返事があと一秒遅れていたら、特別サービスで舌を入れていたところよ。その特効薬を使えばお兄ちゃんは確実に元気になってたから」


         †


 鍵姫がバイトを終えたのは、日が落ちてしばらく経った頃だった。

 話し合うまでもない。眼鏡っ娘を狙う何者かが接触するなら(その事態が起こるそもそもの確率は知らないが)ここだ。夜道こそがあらゆる犯罪の温床。


 故に尾行する。


 素人のやることではあるものの、相手だって尾行されているとは夢にも思うまい。鍵姫はスマホを弄ることもなく、すたすたと自宅に向かって歩を進めていた。

 一ブロック程度の距離を維持してついていく僕たちであったが、殺子が脈絡なく言った。


「だんだん苛ついてきたわね」

「なんでだよ……!」


 危ない。思わず鍵姫にまで届く声量で突っ込んでしまうところだった。


「見なさい。あの迷いのない足取り。背筋の伸び具合。信号無視もしない」

「それは当たり前だ」

「買い食いはしない、煙草の自販機も使わない、寄り道は本屋。まさに品行方正な委員長のオーラだわ。眼鏡っ娘に加えてそんなの……やりすぎでしょう」

「それを求めて君のお兄ちゃんが来るかもってのが狙いだろ。苛ついてどうする」

「そうだけど。お兄ちゃんの一番の萌え対象としては、健全な対抗心が湧いてくるのも当然という話よ」

「当然かなあ」


 そもそも彼女は見た目も雰囲気も委員長らしさは確かにあるが、それが全てではない。とっつきにくい性格でもないし、四角四面で頭が固すぎるということもない。

 表面上の印象だけで『それっぽい』と規定し、あまつさえそれが理由で殺すだの殺されるだのと考えるのは、僕にとってはお笑い草なことではあった。


「あっ。さらにおばあちゃんまで助ける気よ。どこまで眼鏡委員長ポイントを積み重ねれば気が済むのかしら!」


 見れば確かに、歩道橋を上ろうとしていたお年寄りに声をかけ、荷物を持って一緒に上ってあげている。


 けれど僕は知っている。

 あれは彼女の委員長らしさの発露なんかではない。他の人間たちと同じ『彼女だから』という理由でしかない。善性も打算も全て引っくるめて、合理的に、そうしてもいいと思えたからそうする、というだけ。

 同じ歩道橋をどうせ上るのであれば、そこにあるのは見過ごした場合の気分の悪さと、余計な荷物を持ち上げることによるカロリー消費の比較のみ。


 委員長であったときだって、委員長として正しいのはどちらかではなく、教師へ報告するのが間違いだと思えば嘘もついていたし、ルールに正当性がないと思っていれば率先して破っていたし、その上で合理的に守るべきルールについては誰に煙たがられようともクラスメイトたちに指摘することを恐れなかった――

 それが彼女だ。くびき鍵姫かぎひめはそういう人間だ。萌えとか眼鏡とか関係ない。


 僕はその彼女らしさに、どこか懐かしさと救いのようなものを覚えていた。

 昼間、憔悴しょうすいしきった叔母さんを見た反動だろうか。

 変わり果ててしまって、元に戻るあてもなく、妄想のような殺人鬼の論理にすがって足掻いている現状からの逃避だろうか。

 どちらにせよ、僕はそれをひどく尊いものに感じて、その光景を眺めて――もはや尾行とは言えない距離感でその歩道橋にずいずい歩いていく殺子の姿を見咎めた。


「おい待て、何する気だ」

「ムカつきが限度を超えたのでぶち壊してくるわ」

「ぶち壊すな。そもそも僕たちがあいつの前に出るのは――」


 一瞬だけ足を止めて、振り返る殺子。


「そう。そこを勘違いしていたのだけれど、私たちが別に彼女の前に出たところで不利益はないんじゃない? むしろお兄ちゃんが見ていたら私の存在に気付いてくれるかもしれないし」

「……逆に彼が出てこなくなる可能性は?」

「そんなのあるかしら」

「君に電話や連絡が今もまだ来てないってことは、いろいろ可能性は考えられるだろ。記憶喪失……とか」

「ふむ。だったら余計に私の姿をアピールしておくべきだと思うわ。ついでに言えばあなたの姿を見せて記憶に刺激を与えたほうがいいとも思うわ」


 そう……だろうか? 前提が可能性の話なので意味があるかどうかもわからないが、たとえば僕が身体を入れ替わったあとで記憶喪失になっていたとしたら……?


 そんなことを考えている間に説得に失敗していた。


 殺子は小走りに歩道橋を駆け上がり、僕は牛丼屋のことなどを思い出してぞっとして、しかし彼女は目玉を抉り出すのではなくおばあちゃんの荷物を強引に掴んだ。

 ひったくりと間違われる要素しかなかったが、真顔で一言二言何かを話して、それで意図は一応伝わったらしい……鍵姫と二人で重量を分け合うように、歩道橋を歩いていく。


 僕は中途半端な距離感で、それを追うしかなかった。


 おばあちゃんが歩道橋を渡り終え、親切な女性二人に何度も頭を下げて礼を言う。鍵姫はそちらに会釈しつつ、謎のセーラー服助っ人のことを気にしているようだった。当然である。

 殺子は言い訳できない敵意ある目で彼女を睨んでいた。


「ふん。栄養素を薄めてやったわ。これでこのイベントは『お年寄りに優しい妹に萌える』という意味が半分よ。お兄ちゃんの萌えを独り占めになんてさせるものですか」

「……?」


 それ以上下手なことを言う前に。あるいは物理的な殺人鬼らしさを発揮する前に。

 追いついた僕は二人の間に身体を割り込ませるようにする。


「あ、ちょっと」

「お手伝いできてよかったね。さあ行こう」


 不満げな殺子の言葉を、僕ではない声で遮る。

 当然、鍵姫も僕を見やってきていた。

 高校の教室で数え切れないほど話した彼女の、胡乱な他人を見る目。

 ――僕はどんな表情を浮かべていたのだろう?


「あの。それじゃあ……私は、これで」


 困惑はしていたようだったが、もう一度頭を下げ、鍵姫は歩き出した。自宅はすぐそこだったようで、見える位置のマンションに入っていく。

 かなり新しめの、オートロックや防犯カメラなども完備しているマンションだった。ここからさらに出歩くとも思えないし、彼女が何かの被害に遭う可能性は低そうだ。


「……弁明とかない?」

「別に。ただお兄ちゃんがあれを殺したいほど萌えているとか想像すると、嫉妬の炎がメラメラと燃えてきただけよ」


 視線を逸らし、殺子が歩き出す。不機嫌さを隠そうともしていない。

 一ブロック先の角を曲がったところで、不意に彼女は振り向き、僕の襟首を掴んで横のコンクリート壁に押しつけてきた。

 じっとこちらの顔を見てくる。じっと、じっと。


 不機嫌そうなのは変わらない。その上で何かを見通そうとするかのような目。

 イカれた女とは思えないほどに黒く深く澄んだ瞳。

 至近距離での見つめ合いは、心臓に悪い。


 無論のこと、それは他人の目にもそう見えたのだろう。ここにいるのは仲睦まじき、心臓が跳ねる興奮を楽しもうとしている二人なのだと。


「オーイッ? コラ道端でコラ、若いモンがコラァ……っ」


 不運な中年の酔っ払いであった。

 通りすがりにセーラー服の女と男が暗がりで乳繰り合っているのを見て、きっと大事な娘とかと重ね合わせてその破廉恥さに我慢できなくなり、義憤に駆られて社会道徳のために酒臭い息で注意してしまい、そして気付いたときには背後に回られた殺子にワイヤーで首を絞められるという不運さを持った犯罪犠牲者。


「邪魔しないで」


 男は失禁の臭いを漂わせながら崩れ落ちる。

 街灯と月明かりの薄い隙間で、殺子はそれを冷たい目で見下ろしていた。

 夜に溶け込むような黒髪。セーラー服の白さは舞い落ちた月の肌。誰に何を恥じることもないのだというような、凜然と背筋を伸ばした立ち姿。


 何の脈絡もなく。

 そんな場合でもないのに。


 ――綺麗だと、思ってしまった。


「まったく。苛々してるところに来ないでほしいわね」

「こ……殺してないよな」

「さあ?」


 興味もないしどうでもいいし自分にとってどちらでも違いはない、ということか。

 恐る恐る確かめてみたが、息はしている……と、思う。多分。

 僕は溜め息をつきながら、


「誰かが委員長らしすぎるからって、八つ当たりで人を殺しかけるほど苛々しないでほしいな」

「それ以外も、よ」


 殺子は明後日のほうに視線を逸らして言った。

 軽く口を尖らせたその横顔もまた、夜闇に浮かび上がる絵画のよう。


「お兄ちゃんに哀しい顔をさせるなんて我慢できないの。でも、それがどうにもできないとなったら……苛々だってするでしょう」


 それは、ひょっとして。

 鍵姫に見られたときの、僕の顔のことか。

 さっきマジマジ見てきたのも、それを確認しようと?


「わかってると思うけど。ここにいるのは、僕だよ」

「……だって。お兄ちゃんの顔なんだからしょうがないじゃない」


 さらにぷいっと言って、殺子は歩き始めた。意識不明の酔っ払い被害者は悪いが置いていくしかない。人通りがまったくないという道でもないし、そのうち誰かが見つけて助けてくれるだろう。


 小走りに追いついて、僕は殺子の頭を横目で見下ろす。

 思うことがあった。


 こいつ……だんだん慣れてきて、僕のことを兄貴と同一視するようになってはいないか?


 無論、全てではない。そうする部分もある、という程度のことだ。今のように、思わずそうしてしまうときもある、とも言えるか。

 それは――何かに利用できる要素であるような。

 同時に、さっきの殺子の姿を見たときの、僕自身の不可思議な胸中を思い出して。


 とても危険なことでもあるような、そんな気がした。


 無言に耐えかねて、僕が会話の口火を切る。


「眼鏡っ娘委員長の委員長っぷりが、いくら君のお兄さんが気に入りそうなものでもさ。殺されたいと思ったのは妹だったんだろ」


 何の気なしに言うと、殺子は瞬きをしてから相好を崩した。


「そうね。それはそう。忘れてはいけない当然のことよ。一番の特別は妹。うんうん」


 それで一気に機嫌が直る。

 殺人鬼の喜怒哀楽を操って行動を制御することほど難しいものはないな。

 これはそういうゲームか? ゴールもクリア方法も見えないけど。


「とにかく……出てこなかったね、君の兄さん」

「残念だわ。もし私が気になって目で追っていたのなら、あの後の正義のアクションを見て魂を震わせて、たとえ記憶喪失だったとしても全回復したはずだけど」


 おいまさかその後付け丸わかりな理由でさっきの殺人未遂の正当性を主張しようとしてる? 凄いな。面倒だからその賞賛は口には出さないけど。


「他の萌え候補生を今から探すのはさすがに難しそうだし、今日はあの眼鏡委員長を襲ったりもなさそうだし……ひとまず家に帰って休みましょうか。ひょっとしたらお兄ちゃんが家に戻ってきているかも」

「心からそういう平和的な解決を願うよ」


         †


 そうして殺子のマンションに戻ったが、当然ながら、彼女の兄の姿は影も形もなかった。

 途中で適当に買ってきたコンビニ弁当を食べながら、いつもの萌え部屋で作戦会議をする。僕としてはそろそろ風呂に入りたいところなのだが……彼女も兄の身体が臭いのは嫌だろうし、あとで提案してみよう。


「君にお兄さんが狙いそうな……萌え相手? を今後もマークする、で方針はいいのかな。鍵姫かそれ以外かはともかくとして」

「そうね。でも他にも有効な手はあるでしょう。もちろん、あなたの体質よ。私はまたあなたが死亡寸前の身体の中に入って、いろいろ情報を持って帰ってくることを期待しているわ」


 確かにヒントは得られるかもしれない。だがそれはさらなる殺人、連続殺人を期待するのと同じことだ。僕的には不謹慎だと思わざるをえない。

 そこで殺子が何かを思い出したように箸を止めた。


「そう言えば、お兄ちゃんは当然だけどあなたの体質のことを知らないのよね」

「というか状況をどこまで理解しているのかってこと自体がわからない」

「だったら、次にあなたの体質が起こったなら、お兄ちゃんに届く一言を言ってみてほしいわ。そうすれば私との繋がりがわかって、記憶喪失だったとしても何かの引き金になって、事態が進むかもしれない」

「普通に説明するんじゃ駄目なのかな」

「殺されながら説明できる余裕があれば私は全然構わないけれど」


 それはそうだ。あの極限状態にまともに何かを考えられるような心理的余裕があるはずもなく、僕にできることはせいぜいが末期の一呼吸。昨日のように指先を動かせるかどうかの猶予だってあるほうが稀なのだ。馬鹿なことを言った。


「で、何て?」

「そうね……ここはやっぱり『山田殺介ころすけ』がいいかも」


 頃介かもしれないが僕にはこう思えた。聞かざるをえない。


「お兄さんの名前?」

「……さて、どうかしら。とにかくこれを言えば何か反応はあるはずよ」

「だといいけど」


 そのうちに弁当を食べ終えた。彼女が選んだ濃い味の焼き肉弁当だったので、それなりの満足感はあった。


「さあ、それじゃあ寝てもらうわ。唯一のヒントのために」

「その前に、そろそろ風呂とか入らせてもらってもいいかな」

「駄目よ。あなたの体質は寝ているときにしか起こらないんでしょう。寝ていれば寝ているほどそうなる可能性が高くなるなら、睡眠時間はたっぷりと取ってもらわなくちゃ。余計なことをさせる余裕なんてないわ」


 奇妙なことに、その言葉を聞いているうちに――頭の奥底がじんわりと重くなってきた。身体がくらりと平衡感覚を失っていく気配。部屋が傾いていく。


「君、まふぁ、薬を……」


 呂律ろれつも回らない。

 頬で床の味を感じる僕の耳に、殺子の言葉だけが届く。


「いい? お兄ちゃんはね、真の三次元萌えっ子を探すのをライフワークにしていたわ。殺人装置に問答が書いてあるなら、それはきっとお兄ちゃんが満足する答えに繋がっているはず。それを正しく示せたなら、お兄ちゃんは殺すのを止めて出てくるかもしれない。だから、きちんと萌えに向き合いなさい――」


 知るか。萌えなんて古くて自分とは関係ない概念、考えたこともない。こんなことにならなければ一生口に出さずに終わっていたかもしれない単語だ。

 そもそもあの状況で何をすべきなのか。死にたくないし殺されたくないし生存のチャンスがあれば掴むべきだろうが生き残って他人の身体に残りたくもない。正解の行動がわからない。


 わかっているのは、ここでどう考えたところで、実際のところは極限状態の身体が勝手に動くだけだろうということだ。殺子が教えてくれた名前だって言えるかどうか怪しいものだ。

 まあ……何にしても。

 殺子の目論見には一つ大きな問題がある。


 そんなに毎日毎日、都合良く、

 あんな映画のような仕掛けでの殺人が起こってたまるか――


         †


 死んだ。


 瞬時に確信した。慣れた僕だからこそ、明確に断言できる感覚がある。

 全身の冷や汗が大気に浮かび上がり、それが暗い幕となって世界と自分を決定的に隔てる刹那。そこに僕はいる。何をどうするという段階ではない。足掻くも足掻かないもない。何をしても死ぬ。

 言葉なんて発せられるわけがない。死と死の間際と死後が重なり合った瞬間、それが今だ。脳のシナプスに遺された最後のお情けこそが僕だ。

 だが、だからこそ五感が鋭敏になっているということはあった。

 引き延ばされた時間と、細分化された感覚。世界の解像度が壊れる寸前のオーバークロックを見せてくれる。


 その感覚のほとんどを、今は後頭部が占めていた。

 まずは音。うぃんうぃんと、頭の内側に何かが突き進んできている。頭蓋を割っているのではなく、その下の首の付け根あたりに――おそらく固く鋭い棒状の何かが突き入れられているのだ。電動工具の先につけるようなドリル状の鉄芯をフランクフルト大にしたものだと予想する。


 それが、ああ、それが! ゴリゴリゴリと! 自分の中に! 今も!


 何かの仕掛けで、徐々に徐々に、侵攻してきているのだった。


 のたうち回るような痛みはなく、ヒューズが飛んだような明暗の刺激。

 とにかく全部が終わっている。その鉄芯は既に自分の致命的な部分を損壊している。勝手に瞼が痙攣して舌が飛び出る。その他の部分はぴくりとも動かない。

 脳神経と身体制御の話だけではなく、物理的にもやはり拘束されていた。何かに座らされているような形で、前回よりも遥かに強固だ。手も足も金具で留められているように動かない。

 おそらくだが、構造的に動かせるのは頭付近だけだった。今は後頭部を突き進むドリル的なものでそれどころではないが、それが頭の中に進行してくるまでは頭を揺らす程度のことはできたのではないかと思う。


 ならば後頭部に進み来る鉄芯を避けるために、この被害者はできるだけ頭を前に倒すのが道理だ。しかしそうなってはいなかった。


 答えは簡単、頭の前にも死臭のする異様な仕掛けが存在していたからである。


 それは本当に額の数センチ先にあった。眼科の検査器具じみた位置に据えつけられた、赤熱した鉄のプレートのようなもの。その熱気がじりじりと僅かな空間ごと眉を焼く。そのプレートも、後頭部の何かと同様に、時間経過で徐々にこちらの身体に近付いてきているようだった。一ミリ一ミリ。あるいはそれ以下の単位で。

 生物の本能が、頭を反らして焦熱から逃れたがる。それこそが死因なのかもしれなかった。後頭部から突き入れられる死の裏側。


 前方には焼けた鉄が迫り来る。後方からは脳髄を抉る鉄杭が迫り来る。

 機械的殺意の挟撃。


 それはなんと悪辣で無慈悲な機構なのか。

 眼前のものに気付いた僕の、本能でそれを避けて下がろうとしてしまった僕の、僅かな体重移動、僅かな筋肉稼働、僅かな重心変化が、おそらくここにいる僕の死因にさらにとどめを刺した。

 後頭部の鉄芯が、一毫いちごう、より僕の内側に進むことになって。


 それで本当の本当に終わり。


 全ての力が抜けて、あらゆる抵抗が失われて、噛み合ってはいけない頭の中の器官の何かが鋼と噛み合って、ねじられるように首が斜めに傾く。


 顔の角度が変わったために、今まで見えていなかったものが見えた。

 大きくは二つだ。

 座らされている椅子型装置の上方、吊り看板のように文字がある。


『眼鏡っ娘として一番重要なことは?』


 記憶が繋がる。

 眼前から迫っていた、赤熱する鉄のプレートは、横になった8の字に近い形状をしていた。どうしてそんな形をしていたかの謎が解けた。


 ああ、そして、もう一つ。


 角度が変わったために、機械のアームのような部分、よく磨かれて鏡面のようになったそこに、映るものがある。


 それは死体となった僕の顔で。

 つまりは軛鍵姫の顔だった。

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